パラリンピアンなど障害者スポーツの選手たちに小学校を訪ねてもらい、障害者スポーツへの関心を高め、共に生きる社会への理解を深めてもらおうと行っている「交流教室 パラリンピアンがやってきた!」。
東京2020大会が行われたあと、初めてとなる回を10月18日(月曜日)に東京都日野市立夢が丘小学校で開催しました。

今回は、東京2020大会の陸上走り高跳びで4位に入賞した鈴木 徹選手。障害者国体40歳以上のクラスで100m走の日本記録を持つ水谷 憲勝選手。そしておふたりの義足はもとより数多くの選手、それ以外にも様々な義足を開発してきた義肢装具士の臼井 二美男さんの3人が、6年生45人の元を訪ねました。


東京2020大会に出場した鈴木 徹選手は、1980年生まれの41歳。世界でただ一人の義足の現役2mジャンパーです。中学高校時代はハンドボールの選手として活躍していましたが、高校卒業直前に運転していた車で交通事故を起こし、右足膝下11cmを残して切断。そのリハビリがきっかけとなり走り高跳びを始めました。練習開始後わずか3ヶ月でシドニー2000パラリンピック大会参加基準の1m73cmをクリア。シドニーパラリンピック以降6大会連続でパラリンピックに出場してきました。これまでの経験を子どもたちに講演で話し、みんな熱心に耳を傾けていました。

鈴木選手が児童たちに講演で話したのは、2020大会のことだけではありません。
こどものころ、鈴木選手は2つの病気を抱えていたそうです。一つは、「徐脈性不整脈」という心臓病。通常よりも心拍数が少なく、やりたくてもやれないことの辛さをこのとき経験したといいます。
もう1つは「吃音」です。妹が川に落ちて溺れかけた時、母親の元へ助けを求めに駆けつけたものの、ショックのあまり言葉が出ず、それから吃音の症状が出るようになったといいます。小学校に入っても吃音の症状は続き、どもってしまうたびにからかわれました。それが嫌で、どんどん無口になったそうです。
おとなしかった鈴木選手が唯一、自分を表現できたのが体育の時間でした。もともとスポーツが得意で好きだった鈴木選手は、体育の授業で活躍することで、みんなに認めてもらえるようになっていきました。その時から今も、鈴木選手にとってのスポーツは「生きること」そのものだといいます。
鈴木選手は児童に、スポーツでなくてもよいのでなにか自分が夢中になれるものを見つけてほしいと語りかけました。

体育館でのデモンストレーションでは、児童二人と走り高跳びで競いあい、鈴木選手の余裕の跳躍に大きな拍手が上がっていました。

水谷 憲勝選手も2001年にバイクの事故で右足の膝から下を切断。自分にあう義足が見つからずに困っていたところ、義肢装具士の臼井さんと出会い、陸上競技を開始。その後臼井さんの誘いをうけ、義足の選手を中心とした陸上チーム「スタートラインTokyo」に設立から参加し、現在は選手会会長として250名以上のメンバーをまとめています。

義足体験のコーナーでは、子どもたち全員が臼井さんが作った体験用義足にチャレンジしました。実際に体験してみると、その難しさに最初はこわごわ。選手に手を握ってもらいながら立つのがやっと…という子どももいましたが、みんな少し歩くとなれて、走ってみることができた子もいました。

そして最後は、校庭でチーム対抗のリレー競争。鈴木選手、水谷選手も交じって子どもたちと勝負。みんなと汗を流す体験ができた一日となりました。

この日、鈴木選手が子どもたちに話していたことで印象に残ったことがあります。鈴木選手は東京2020パラリンピック大会前から小学校などで体験会を続けてこられましたが、「パラリンピックの前は、みんなも私たちのような人に出会う機会が少なかったので、私の足を見て怖いものや見てはいけないものを見るように接する人は少なくありませんでした。でも、パラリンピックの後は、私たちのことを怪我のことは関係なく、人として、選手として見てくれていると実感することが増えました。だからパラリンピックをやってとてもよかったと感じています。みんなもスポーツに限らずどんどん障害のある人と出会って、障害のある人もない人もふつうに接することができるようになっていってほしいと思います」と語っていました。選手たちのこうした思いを受け止め、私たちも交流教室をこれからも続けていきたいと考えています。

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