Q阪神・淡路大震災で被災された直後、神戸市民の合言葉となった「がんばろう!!神戸」を発案されたそうですが、どのようにして生まれた言葉だったのですか?
A阪神・淡路大震災の2日後、パーソナリティーをしていた神戸市須磨区にあるラジオ局に行ったんです。四つのうち一つだけ潰れずに残ったスタジオでは、安否情報やライフラインの情報を流していました。普段はリスナーからかかってくる5台のリクエスト電話の前に、「ホットライン」と書いた紙が貼られ、電話が鳴り続けています。市民から家族の安否確認などを受け付けて、それをマイクの前で次から次へと流したんです。
絶望と不安の声がたくさん届きました。「一人で怖い」「どうしたらいいんだろう?」、電話がつながった方は不安で電話を切ることができないんです。僕は電話口で、「大丈夫、一人じゃないよ、知らない方でもいいから声をかけてごらん、必ず話を聞いてくれるから、一緒にがんばっていこうね!」と言うと、「わかりました。がんばります」と言って電話が切れる。みなさんそうなんです。そばに落ちていた辞書で「がんばる」って引いてみたら、「忍耐して努力する」というワードが出てきました。「がんばる」じゃなくて「がんばろう」。「そうかぁ、被災された方々は、共に忍耐して努力しようという気持ちになっているんだ、だったらこれを合言葉にしよう」と、すぐマイクの前にいって「みなさん、これから神戸では“さようなら”という言葉はいらない、“がんばろう!!神戸”というのを皆の合言葉にしましょう!」と発信していったんです。
Q市民ボランティアネットワーク「がんばろう!!神戸」では、どのような活動をしていったのですか。
Aまずは、比較的被害の少なかった地区に建つビルの空き部屋をお借りして、NTTに仮設電話を引いてもらい、市民とのホットラインを作りました。それを通して、被災地からはニーズ(提供してほしいもの)が届き、それを片側の壁に付せん紙で張り出していく。そして非被災地からは「水を持っていくよ」「衣類があるよ」といったシーズ(提供できるもの)が届き、それを反対側の壁に張り出していく。それらを市民がつなげて行動する場としてのプラットホームを作ったんです。
この場での初めてのマッチングは、「赤ちゃんが1週間同じ紙オムツをしていてオムツかぶれがひどいんです。何とかしてほしい」という情報が入ったんです。それを見て子育ての経験のあるお母さんたちが、「これはひどい、何とかしてあげたいわ」と言いだした。それを聞いた男性たちが、「ここに、『下呂温泉からお湯を届けられる』ってあるよ、これで洗ってあげられないかな?」「でも外だと寒いね」「あっ、ここに幼稚園の教室が三つ空いているっていうから、ここ借りない?」「車が必要だろ?」「車だったら私出します」。ということで、神戸市中央区の幼稚園に赤ちゃんのお風呂屋さんが出来たんです。その情報を今度はラジオ・テレビで伝える。すると神戸市内の産院から、「新生児用のお湯がないのでわけてくれませんか?」「いいですよ」と、お湯を持って行ってあげる。その情報を聞いた大阪のつくだ煮屋さんから「うちは大なべがあるからお湯だったらいくらでも出せるよ!」と電話が入ってくる。『お湯ならまだあるよ』っていう情報をまたラジオやテレビで伝えていったんです。
Qすべては「オムツかぶれをなんとかしてほしい」というニーズから始まり、それぞれのできることをつないでいったわけですね。
Aボランティア活動はニーズに触れたときに何を感じるか、じゃないですか。それに、あまりにも壊滅的な街の様子を見て、長期的な支援が必要になると思いましたから。短期間なら誰かの指示で動くこともできるけど、長期になったら、好きなことじゃなくちゃ続かないでしょ。だからみんなが、『そんな事ならできる』というものをいっぱい集めたんです。そして、それをつないで活動していく仕組みをつくりました。『そんな事なら!』って、ボランティア活動を継続するには大切なキーワードですよね。イメージしたのは子どもの頃の広場。ランドセルを投げ捨てて、誰に言われることもなく空き地や公園に行き、「この指とまれ!」の指にとまって野球やオママゴトをやった。スーパーヒーローになって、風呂敷つけて塀から飛び降りる。けがをしても誰のせいでもない。全部自分の責任。自発的に・自己決定して・自己責任でやった、あの子供の頃とボランティア活動っていっしょだと思うんです。
Q当時の体験で、印象に残っていることはどんなことですか。
A被災された方々の他を思いやる気持ちでしたね。その年の5月、サハリンで地震が起きた時、まだ仮設住宅も決まらず避難所にいるお年寄りが、自分に支給された毛布、缶詰、カイロ、衣類を持って、「サハリンってのは寒い所なんだろ、俺たちは毎日お弁当も出るし雨露しのげているから、なんとかこれを届けてくれ」って僕たちのところに来たんです。その時思ったんです。「あっそうか、人は自分が絶望していても、新たに傷ついた方たちに手を差し出すエネルギーを持っているんだ。他を思いやる気持ちを持てるんだ」って。その優しさに感動しました。
Qその後、仮設住宅の自治会づくり、被災者の仕事づくり、仮設住宅から復興住宅への引っ越しプロジェクトなどを行って行きました。そうした活動にはどんな目的があったのですか。
A被災した方々の残された力に気づいた一方、避難所で毎日何をしたらいいのかわからない人たちも沢山いたんです。そこで僕は、仮設住宅が当選した方の避難所からの引っ越しの手伝いを、被災された方々に募りました。 「堀内さん、俺たちはまだ仮設住宅が当たらなくて避難所から出られないのに、俺たちに引っ越しの手伝いしろってどういうつもりなんだ?」って怒った。「なんで? 一人当たったんだから、良かったね!と言ってお手伝いしてあげたらいいんじゃない。そしてあなたが次に当たった時に誰かが手伝ってくれたら、その方がうれしくない?」って。こうして被災された方々の引っ越しボランティアが始まった。そうすると、毎日弁当は飽きたって文句を言っていた方が、「身体動かしてからの弁当はうまいな」って言いだしたんです。そうやって被災された方々の中からボランタリーな気持ちが生まれてきたんです。
被災された方々が抱えている絶望のベクトルをどう希望に転化させるのか、そこが大事ですよね。だから仮設住宅の自治会づくりも、被災された方々に「自分たちでできる事は自分たちでやろうよ。それでもできない時は行政に頼もう!」って声がけをして作っていったんです。
阪神大震災の後、被災地にはたくさんの「震災モニュメント」が出来ました。これは震災を語り継ごうという意思を表したもので、焼け残った電柱、焼け跡から掘り出された地蔵など、その形状はさまざまです。震災モニュメントは、2009年12月現在で288か所になり、さらに増え続けています。
堀内さんたちの作った「震災モニュメントマップ」
Q1999年1月には、モニュメントの所在地を掲載した「震災モニュメントマップ」を作成。それは家族を亡くされたご遺族、非被災地の人たちがモニュメントを巡り歩く「交流ウオーク」へと広がっていきました。亡くなられた方の死を見つめる活動を始めたのはなぜですか。
A震災によって生き残った方々に対しての、生きていくための緊急支援として仮設住宅の自治会づくりや仕事づくりなどをサポートしてきたけど、何か足りない……。「待てよ、今まで死をきちっとみつめていないんじゃないか、愛する家族を奪われた方の喪失の悲しみや絶望は、どうなっているんだろう」と思ったんです。そこでご遺族を訪ねていきました。
神戸市東遊園地にある「慰霊と復興のモニュメント」で
家族を亡くされた方々の時計は、阪神・淡路大震災が起きた1995年1月17日5時46分からずっと止まった状態だった。時が流れていない……。じゃあ何ができるのか。寄り添うしかないんです。ご家族にとって愛する家族の死は、阪神・淡路大震災で亡くなった6,434人分の1の死ではなく、1分の1の死なんですよ。でも“残りの6,433人の死がある”ということをきちっと見てほしい。そんな思いで、「震災モニュメントマップ」を作って、ご遺族たちに持って行ったんです。
神戸大学で開かれた慰霊祭でご遺族に渡しました。神戸大学では職員の方、留学生を含めて41人が亡くなっていました。「『こんなもの』と言われて、ひょっとしたら破り捨てられるかな……」と思っていました。マップを手渡した時、初老のご夫婦が「ありがとう」って頭を下げられたんです。亡くなられた白木健介君のご両親でした。「今まで、何度も何度も神戸大学の慰霊碑に来て健介の名前を撫でていたけど、他の方の名前は目に入りませんでした……いろんな所でいろんな方が亡くなっているんですね。」っておっしゃったんです。「今、この周りにいる健介以外の人たちの名前が見えました。よく見たらこの方は健介の友人だったんです」という話をしてくれました。
2009年10月で、49回目となった「震災モニュメント交流ウォーク」(写真は第45回のもの)
Q現在は、特定非営利活動法人阪神淡路大震災「1.17希望の灯り」として、震災で家族を亡くした人たちに限らず、事件や事故で家族を失った遺族のネットワークとしても活動されています。他の家族の死を知ることは、ご遺族にとってどのような意味があるとお考えですか。
A大阪教育大学附属池田小学校の児童殺傷事件、明石市の歩道橋事故などで家族を奪われた方々と話していく中で、「愛する家族を奪われた悲しみや絶望ってみんな一緒じゃないか」と思ったんです。事件・事故・自殺など、日本では年間100万人の方が亡くなっています。そこで事件や事故で家族を亡くされたご家族に声をかけて集まってもらい、それぞれの体験を話してもらったんです。すると、他の方の体験に涙を流して、それからどんどん心を開いていくんです。自らの家族のために流した涙は心を癒しきれないけど、他の方のために流した涙は心を癒せるんですね。人のために泣けた時、もらい泣きができた時、人は変われるんですよね。
Q阪神・淡路大震災をきっかけに、堀内さんにとっては何が一番変わりましたか。
A様々な出来事に対して想像できるようになりました。「うちの子どもだったら、妻だったら、父だったら」っていう想像。まさに震災によって覚醒させられました。でも15年という月日の中で、やっぱり鈍くなっていきます。「ちょっと違う、ちょっとどこかブレてるな」という時に、たえず立ち戻るところとして、“あの震災、あの日、あの時”というのが僕の中にあります。
ボランティアって、次なる自分に対しての想像力をどう持てるかだと思うんです。車いすに乗っている自分、障害を持っている自分。今、ニーズを持たれている方々を通して、自らの次なる姿としてどう想像できるか。想像できればやることは決まる。自分だったらこうして欲しいとか、ちょっと想像するだけで社会は変わると思います。
取材 大和田恭子