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NHK厚生文化事業団は、NHKの放送と一体となって、誰もが暮らしやすい社会をめざして活動する社会福祉法人です

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この人に聞きたい

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住田 功一(すみだ こういち)さん

NHKアナウンサー

昭和58年入局。出身地は神戸市。
アナウンサーになって印象に残っている仕事・瞬間:
阪神・淡路大震災。倒壊した阪神高速高架の前で立ちリポをしながら、「なんで故郷のこんな状況を放送しなければならないんだ!」と思ったとき。

震災から15年目となる平成22年1月17日は、
ラジオ特集「阪神淡路大震災15年〜あの日から……心つないで〜」を担当の予定。
午前5時15分〜午前8時55分/ラジオ第1 大阪局発 生放送(全国)

写真撮影=藤原靖史

自分の力や知識や得意技で世の中の役に立ちたい……。それがあの震災の日々に芽生えた、ボランティアの心意気だった。

いまでこそ「ボランティア元年」といわれていますが、当初は、ボランティアの受け入れを断った大学もあるなど、市民も自治体も戸惑いと手探りの状態でした。
不気味なほどの静けさで始まり、そこに覆いかぶさるようにして巻き起こった大混乱の中で、ボランティアの小さな若葉が数多く芽生えたように思います。

1995年1月17日

私は、「おはよう日本」の朝4時出勤というシフトを1週間だけはずれて、神戸市灘区の実家に帰省していたのでした。
前日は、大阪で後輩の結婚式があり、お酒も手伝って、ぐっすり眠っていました。
わずかな、キクキクッという軋みに気づいたのですが、そのあとの、激しい縦揺れに、ただただベッドの上で跳ねているしかありませんでした。
鉄板の上にいて、下からお寺の鐘つき棒でガンッとやられたような、そんな堅い揺れが「どーん、どーん」と幾度も続き、それが間遠になっていくと、今度は静寂と暗闇が訪れました。
六甲山の山肌を削って造成された団地の、3階で目覚めたものの、停電で真っ暗。全身に鳥肌が立ち、心臓はばくばくしています。
恐怖の中の中にも、反射的にカバンから携帯ラジオを取り出し、総合テレビの音声に切り替えると、同じチームの先輩・村上信夫アナウンサーのややうわずった声が、各地の震度を伝え始めていました。

2度の電話リポートを終え、腕章を腕に巻き、発災2時間半後には「倒れた」という阪神高速神戸線を目指して、家を出ます。
しかし、自家用車がない家でしたし、坂道の多い地域なので自転車もありません。ヒッチハイクで、街に出ることにしたのです。
実家の前は、比較的被害の少なかった六甲山の後背地と神戸の中心部を結ぶ「表六甲ドライブウエイ」が走っています。
手を挙げると、若いサラリーマンの運転する自家用車が止まってくれました。「いいですよ」と、彼は、私を乗せて坂を下り始めました。
やがて、地割れや、ガス漏れ、水道管からの水漏れという状況の中を、車は進みます。
国道43号に入り東灘・芦屋方向に進み始めると、上を走る阪神高速の高架の橋脚のいたるところで亀裂が入り、中の鉄筋が見えていたりするのです。
「次に大きな余震が来たら、私を乗せてくれたこのサラリーマンを巻き添えにするかもしれない」と思いました。

最初に出会ったボランティア

そんななか、車が数珠つなぎになり、ゆっくり進むポイントにさしかかりました。大きな地割れができているのです。自動車で乗り越えるのを躊躇するほどの、段差があるのです。
そこに、「こっちだ、こっちだ」と手で合図して、車列を誘導している年輩の男性がいました。どこから持ってきたのか、おそらく周辺の倒壊家屋の畳や、柱を積んで、段差に小さなスロープを作り、そこを通るように合図をしています。
その人のおかげで、大阪、神戸を結ぶ大動脈は、かろうじてつながっていたのです。
思えば、この男性が、私が震災の街で最初に出会ったボランティアの人でした。

その後、止まった鉄道線路には荷物を持って一緒に歩いてくれる高校生や大学生が、避難所の窓口案内には小中学生が……。地元で手を挙げた、全国からやってきたボランティアに、私の生まれ育った街は支えられたのです。

差し伸べられた暖かい手を忘れない

力で支える人たちばかりではありませんでした。
仮設住宅で、入り口の表札を作ってくれた人や、玄関の段差に置く木箱を作ってくれた人たち。そして、そうした細かいニーズを拾う人。ニーズを拾うボランティアのスケジュールを作る人。
多くの人が、自分のいる場所から手を差し伸べました。
JR三ノ宮駅前で出会った青年たちのことは、印象に残っています。
決して頑丈な骨格ではない彼らは、1枚のビラを配っていました。
「大阪に、きょう動いている鉄道を乗り継いでいけるマップ」を配っている、鉄道ファンのグループでした。
自分の力や知識や得意技で、世の中の役に立ちたい……。それが、あの震災の日々に芽生えた、ボランティアの心意気だったように思います。

いま、多くのボランティアは、システムとして迅速に立ち上がり、有機的に活動します。
でも、小さなニーズを探り当てるささやかなボランティアの、そんな集まりが、悲しみに心乾いた人たちを潤すこともあります。
私に限って言えば、何度も車の腹をこすりながら私を乗せて走ってくれたサラリーマンも、忘れられないボランティアの一人です。

震災15年の1月17日午前5時46分は、私はラジオのスタジオで迎えます。「あの日、差し伸べられた暖かい手を忘れない」。
被災地と呼ばれた街で、人と人の間で、どんな心の会話があったのか。

それを思い出し、伝えることが、次の世代のボランティアを育む土壌になるのではと考えています。



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