Q吉田さんのボランティア歴は35年。もともと手話通訳のボランティアをされていたそうですが、始めたきっかけは何だったのですか?
A俺は、家が石屋(石材業)なのですが、高校卒業してすぐに、愛知県にでっち奉公に出たんです。
そこで見つけた手話のサークルが面白そうだったから入ったんです。それ以来、障害を持った人たちとのお付き合いが始まったんです。福島へ帰ってからも、仕事をしながら、通訳の依頼が来くると「俺行くわ」ってボランティアに行っていました。だから親には「自分の息子はちっとも仕事しねえ」ってよく怒られていました。そういうのが20年くらい続いたときに阪神大震災が起きたんです。
Q阪神・淡路大震災の時は、福島から延べ千人近いボランティアを派遣したそうですが、なぜ遠い福島からボランティアを派遣しようということになったのですか?
A阪神大震災が起こった時、「聞こえない人たち大変だべな」「車いすの人たち、きっとちゃんとしてもらってねえよな」って思ったんです。最初は、すぐ飛んでいこうと思ったんです。でも行ったらきっと邪魔になる、関西地域のボランティアが一生懸命やっているんだから、その人たちにお金を送るとか、そういう活動をするのが俺たちの役目だと思った。だから、地震が起こった直後は行かなかったんです。でも行きたくてしかたがなかったんです。そこで俺は、自分に求められていることは何か、俺が行かなくてはならない理由を考えたんです。
たぶん「車いすの人が埋もれていたんだ」とか、「聴覚障害の人が情報や物をもらえなくて困っていたんだ」ってことに皆が気づくのは、半年先の皆が元気になった後のことだろう。でも障害のある人たちは今も悲鳴をあげているよな。だからあの人たちのための支援が必要だ。でもあの人達のためには、たぶん最低半年間は必要だよな。俺は半年も仕事を休めない。じゃあ組織を作ってみんなで交代で行こう。1人だと孤立しちゃうから、半年間、毎日2人ずつ入れるような組織が作れるんだったら行ってもいいぞ、と自分の中で思えた。
そこでボランティア仲間に、「行かねえか、行かねえか、行かねえか、」と声をかけた。そうしたら、あっという間に70人くらいが「すぐに行くぞ」って言ってくれた。結局、3人交代で1週間ずつ、一番安い高速バスを使って西宮に通い続けたんです。西宮では、市が新設する高齢者専門の避難所へ手伝いに来てほしいと言われたので、そこが閉鎖する6月頃まで入りました。その後、ヘルパーが常駐しているケア付きの仮設住宅で人手が足りないと聞いたので、そこに10月の初めまでボランティアを派遣しました。
Q吉田さん自身は、被災地へどのくらい行っていたのですか?
A行きたかったんだけど、ほとんど被災地へ入れませんでした。調整役として現場へ行って打ち合わせして、福島へ戻って金を集めて、次に行く人の段取りをつける、という活動に追われていました。だから結局、被災者と話をした機会がほとんどなかった。
Q阪神大震災の経験で、得たことは何でしたか。
A“人とのつながり”の大切さを実感したことです。何百人ものボランティアを派遣するわけでしょ。まさに“人とのつながり”が見えたんですよ。俺の住んでいる田舎では、地元のおばちゃんたちが募金をしてくれたの。「あんたががんばっているんだから、協力するよ」ってお金を集めてくれた。すると集まったお金のマルが一ケタ多いわけよ。あんなの見たらね……たまんないよ……。田舎のおばちゃんたちがそうやってがんばって俺を支えてくれた。まさに自分のライフラインが見えてくるのよ。
被災した時に、最後に残るライフラインは“人とのつながり”。被災すると、電気、ガス、水道、道路、みんな切れちゃうけど、“人とのつながり”は切れないでしょ。だからそれをいっぱい持っている人、いっぱい持っている団体、いっぱい持っている地域は、被災感が少なくてすむ。同じ災害に遭っても助けてくれる人がたくさんいる人は、「ああ、俺この町に住んでいてよかった」と思える。だからそういう人のつながりを地域の中に、そして外部の人とも作ることが大切なんだよね。そういうことは現場に行かなくたってわかることなんだよ。
Q1996年に「ハートネットふくしま」を立ち上げ、その後も、全国各地の災害現場で救援活動をされています。現在の活動の中で、やりがいを感じるのはどんな時ですか。
A1998年8月、福島県の白河で水害が起こりました。その時もボランティアセンターの運営をしていたので、俺は現場に入れなかったの。でも水害が収まった後に、家が泥に埋もれたという人から話を聞いたんです。
「俺はここで生まれ育って、隣の小川は子供の頃からの遊び場だった。でも危険なものでは全然なかったんだ。ところがあの大雨で、ものすごい量の水と土砂が流れてきて、あっと言う間に俺の家は埋まっちゃった。こんなおっかない所にずっと住んでいたのか、もう怖いから別のところに引っ越そうと思ったんだ。そうしたら若いボランティアの人がいっぱいやってきた。俺は、“もうここは住まねえから、こんな家はつぶすからいい”って言ったんだ。でも役場の人が、“せっかく若い人が来たんだから、仕事だけでもやらしてやれ”って。“じゃあ好きにしろ”って言ってやらした。そしたら若い女子学生が、床板をはがして床下の泥を全部かき出して、みるみるうちに泥が下がっていった。壁もきれいに洗って、最後に障子まで張って帰っていったんだ。それを見た時に、“俺、もう一回このうちに住んでみっかな”って思った。“このうちも捨てたもんじゃねえな”って」。
やっぱりその人にもライフラインが見えたんだと思う。田舎の男の人にとって、自分の生まれ育った家っていうのは、ものすごく大きな価値があって、それを捨てるということは、ものすごく大きな決断なんだよ。「もう一回そこに住んでみよう」と思えたって事がどれだけ大きかったか。俺には、その言葉がうれしかった。そういう思いを共有できたときは、本当にうれしいし、やりがいがある。そういうちゃんと返ってくるものがあるから続けているのかな。
「雪下ろし体験ボランティア」の活動
Q毎年2月には、全国からボランティアを募って「雪下ろし体験ボランティア」という活動をされていますね。3日間泊まり込みでお年寄りの家をまわり、雪下ろしするそうですが、ボランティアをコーディネートする時の役割は何ですか。
Aいかに達成感を感じてもらえるような仕組みを作るか。あなたのやっていることはこういう価値があるんだよって、ボランティアをやっている人たちに納得してもらうことです。
俺たちは、最初から日にちを決めて雪下ろしに行くんです。だから、本当は年末に降った大雪の方がはるかに大変だったとか、俺たちがやる雪下ろしよりも、今日降った雨の方がはるかに雪を少なくするのに役に立ったということもあるんです。
「雪下ろしよりも、遠くから応援に来てくれることの方がはるかにうれしい」
でもお年寄りにとっては、雪下ろしよりも、遠くから応援に来てくれることの方がはるかにうれしいことなんですよ。だからボランティアの人達に俺は言うんですよ。「できたら後で "元気ですか"ってハガキ一枚書いてやってくんねえべか」って。「そんな応援団になってもらいたくて君たちに来てもらったんだ」って。そうすっと本当にハガキ出してくれるし、違う季節にまた遊びに来てくれる人もいるんだよね。あんたたちのやった仕事は、単に重労働で大変だっただけじゃなくて、こういう大きなことなんだよって伝えるのが俺の役割だな。
人には誰でも役割があると思う。ボランティアをするのは、俺自身がまずやりたいからなんだけれども、やりたいという思いだけじゃなくて、それが“求められているか”っていうことを自分の中でいつも考えなくちゃいけないと思うの。“何が求められているか”考えた時に、“これなら求められていると言える”と思ったら、それは自分の役割と言えるんじゃないかと思うんです。
取材 大和田恭子