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この人に聞きたい

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渥美 公秀(あつみ ともひで)さん

大阪大学大学院人間科学研究科 准教授
特定非営利活動法人日本災害救援ボランティアネットワーク 理事長

大阪府池田市出身。48歳。ミシガン大学のグループ・ダイナミックス研究所での留学を終え、神戸大学文学部に赴任して1年数か月後に、阪神・淡路大震災で被災しました。避難所で風呂焚きのボランティアを始め、その後、「西宮ボランティアネットワーク」(現在は「特定非営利活動法人日本災害救援ボランティアネットワーク」)に参加しながら、研究を続けてきました。現在は、災害ボランティア、まちづくり、グループ・ダイナミックスが主な研究テーマです。主著『ボランティアの知』、『心理学者が見た阪神大震災』(共編著)『大震災5年目の歳月』(分担執筆)


 「ガラスの割れる音、家族の叫び声—。妻は生後9か月の次女に授乳中だったので、偶然身を起していて助かった。四歳の長女の上にタンスが倒れかかったが、なんとか押し戻すことができた。それから……何をどうしたのか、正確には覚えていない。揺れがおさまって、薄明かりの中で全員の無事を確認したとき、不思議と冷静に自分は生きていると感じた(中略)
 恩師から電話があった。無事を知らせる事ができたことに不思議な気持がした。研究者としてどうするかを語り合おうというお誘いを受け、京都に集まった。そこで私は研究よりもまず救援に向かうことを主張した。ボランティアという言葉には実感がなかった。」
渥美公秀『ボランティアの知』(大阪大学出版会)から

Q阪神・淡路大震災以前は、ボランティアに対する興味はありましたか?

A大学時代に、ボランティアに携わる人がいて、どうしてあれだけ熱心になれるのかな、と思っていました。自分がボランティアをするとは思いもしなかった。
 阪神大震災の直後、とにかく人が困っている、助けに行こうと、行ってみたら「ボランティアさんこっち来て下さい」とか言われるから、「ああ、ボランティアだったんだ」と思いました。

Q1か月間は、風呂焚きをしていたそうですね。印象に残っていることはありますか?

Aある日、避難所のおばあちゃんが、お椀とお箸をもって出てこられた。食べた後のお椀を洗っていないから臭くなっていたので「おばあちゃん、これ洗ろうた方がええんちゃうん」って言ったら、「いや、こんな水のない中で、自分だけ洗うわけにいかん」と言うので、「おばあちゃん、洗ろうたるわ」ってその辺にあった水で洗い流しました。おばあちゃんは涙ながらに喜んで、またご飯をもらいに行きました。

 家も無くなって、家族が亡くなっても、それぞれががんばっていた。被災者と一緒にお風呂を焚きながら、様々な体験を聞きました。一つ一つのエピソードに色々なことを感じさせてもらえたし、それがすごく新鮮にも思えました。大学に就職して、“象牙の塔”で自分のキャリアを築こうとしていたけど「これじゃないな」と思っていた時に、まさに外へ引っ張り出してくれた体験でした。

Qもともと大学では、どのような研究をされていたのですか。

A高齢過疎になっていく集落をどうやって救っていくかとか、在日朝鮮、韓国の方々への偏見の問題をどうしていくか、ということを研究していました。しかし実際の研究の場では、現場へ行くことよりも実験の仕方やデータをどう処理するか、そんなことをパソコン上でする事が多かったので、やりながらも「実際に偏見で苦しんでいる人は、こんなデータでどうこうなるものじゃないな」とうすうす感じていました。

Q1か月近くの風呂焚き後、「西宮ボランティアネットワーク」に参加して、ボランティア活動を続けながら研究をされたそうですね。研究者として、まずはどんなことをしようと思われたのですか?

A記録をきちんと取ろうということですね。何が起こっているのか、そこでどういう会話があったのか。例えば、「ボランティアは救援物資で配られたお弁当を食べてよいか」とか、「市役所の手伝いをするのはよいのか」とか、みんながけんけんごうごう議論するわけです。まずはそういうことを記録していきました。だんだん“社会にとって、ボランティアの存在はどういう意味があるのか”を考えてみたいと思うようになりました。

Q1996年には、「西宮ボランティアネットワーク」は、「日本災害救援ボランティアネットワーク」へと名称を改め、阪神大震災の時に得た経験をいかして、国内外へと災害救援活動を展開していきました。なぜボランティアとして災害救援に関わっていこうと思ったのですか。

A西宮だけでなく、世界各地を見ると本当にたくさんの方が被災されている。その国の制度もあるでしょうけど、制度ではカバーできないことが、ボランティアだと一杯できるわけですよね。そういう時に、阪神大震災で自分達がした体験、やってきた活動がいかせるんじゃないか、そういうことをこれから広めていった方がいいんじゃないかと思っていました。

 わりと当時は“サンダーバード”みたいでしたね。何かあったら自分たちの出番じゃないかと。日本海で重油事故があれば駆けつける。出来るだけ早く現地へ駆けつけることが大事だし、ボランティアの現場に慣れていない方が来られたら、それをコーディネートするんだ、と使命感に燃えていました。

「台湾集集大地震(1999年)では、私とスタッフが、震災当日から二度にわたって救援隊として現地に赴き、被災状況やボランティアの活動状況、被災地のニーズ調査などを行った。(中略)
 山間部の被災地を訪れると、山が四方から崩れ、谷底にあった家々が莫大な量の土砂に埋まっている地域があった。絶望的な救出作業が行われている傍らに佇む女性がいた。都会の大学に通っているが、両親の住む実家が埋まったと聞いて駆け付けたという。お会いしたとき、ちょうどご両親の衣服の一部が見つかったとの連絡が入った。一緒に作業を見守る自分に、どういった言葉がかけられたであろうか。ただただ涙をこらえて、傍にいるしかなかった。しばらくして、こちらの手を堅く握ってくれた。(中略)
 自分自身が被災地に向かうことで、なぜボランティアとして災害救援に向かうのかを改めて考える事になった。」
『ボランティアの知』から

Qそこでどんなことを考えたのですか。

Aその女性は、とにかく「親が亡くなってるかもしれない」とぼう然と立っているわけですよね。日本から行った我々が「何かしましょうか」と言っても、その人にとって、して欲しいことは何もないわけです。「神戸も大変だった」とか、そんなこと言っても意味がないし、お金渡して、「これで学校へ行ってほしい」と言ったって何の解決にもならない。ただ横におっただけ。
 
 「居ることに意味がある」。その時、確信できたわけです。意外と、そういう本来ボランティアとしてやれるはずやったことをすっ飛ばして、人様をコーディネートすることに一生懸命になっていたんじゃないかと反省しました。

 思い返してみると、風呂を焚いていた時もそうだったんですよね。単に風呂を焚くという場面やから皆集まって来ていたわけで、別に僕が焚かなくてもお風呂は焚けるでしょうし。ボランティアとして、ただ傍にいた。だから話を一杯してくれたわけですよね。被災者の傍にいるとか、寄り添いとか、そういうことが原点だと、そこから考えなおしてみようと思いましたね。

Q渥美さんにとって、ボランティアをすることにはどんな意味がありますか。

Aまずは、なんと言いましても、阪神大震災の時に全国の皆様に助けていただいたことへのお礼です。被災した時、とにかく生きていたからボランティア活動をやった。そこから希望が持てた。だから、そういう体験ができる所にはまた行きたい。“はまっている”ということでしょうね。そこで出会う人達からも刺激を受けますし、やっぱり自分が充実する、楽しいからでしょうね。

 普通に学者をやっている人生もきっといい人生だったと思うけど、ボランティア活動は、それ以外のことも一杯教えてくれた。だから「こんなことをやったらどうですか」と、他の学者にも言っていきたいし、被災された方々にも「こんな活動があるんです」って言っていきたい。自分だけの胸にしまっておいては、やっぱり無責任だなと思ったんですね。

 「被災地責任」という言葉が、最近よく言われます。阪神大震災の経験を次に活かそう、ということだと思うんですけど、「次に活かそう」ばっかり言っていても、なかなか伝わらないですよね。やっぱりそれをどう表現するかは工夫が必要だろうと思います。

Q「日本災害救援ボランティアネットワーク」では、“防災と言わない防災”というユニークな防災活動もされているそうですが……。

A全然違うことをやっているけれど、最終的に神戸の体験が伝わるという仕組み。子どもたちを遊ばせることから、防災を訴えていくということですよね。

 例えば、防災マップを子どもたちが作る場合は、子どもたちだけでは作れないので、親に呼びかけます。親は、先に防災倉庫のある所に行って挨拶をする。避難所の場所を調べて、子供たちにモデルコースとして提示してあげる。ということから子どもたちが動けるわけです。親にとっては、結局、防災訓練やったことと一緒ですよね。

 それから別の団体が考案された行事ですが、人形劇をやるんですね。おたまじゃくしとカエル。娘(おたまじゃくし)がしっかりもので、非常持ち出し袋に入れる物をお父ちゃん(カエル)に教えるっていうのをボケと突っ込みでやるんです。「水、入れときや」って言って、ゆず入れてたり、「懐中電灯、入れときや」って言って、怪獣のお弁当入れてたり。それを笑ってくれるのは、実は幼児です。そんなもの高校生が見たら「あほか」ですよ。でも幼児は一人では絶対来ない。後ろに母親がずらっと並んでいるんです。実はお母さんに言っているんです。これを「母親非常持ち出し袋教室」とかやっても来るわけないですよね。そういうイベントを盆踊りや運動会の隅でやって、お母さんに知ってもらおう、ということなんです。

Q阪神大震災をきっかけに、渥美さんの中では何が変わりましたか。

A「社会で生きている」という実感を得られました。そして、広がっていきました。以前は、大学におるんだから、社会心理学を担当しているから、そんな枠しかなかったけど、そういう殻には閉じこもらなくてもいい、と思うようになりました。大学の外にもリアリティーがありますから、外の人達と一緒にやることで、たくさんの友達が出来ましたよね。「これが大事だと思えばやればいいんや」と、なんのためらいもなく言えるようになったというのが、15年の成果かなと思います。

 多くの犠牲になられた方々を悼み、今も苦しんでおられる方々を思うことは片時も忘れてはならないことです。自分は偶然生き残り、こうして活動させていただいて、今はなんとかいい時間を過ごさせていただいています。

取材 大和田恭子



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