Q阪神・淡路大震災当時は、大学の事務職員で、1,500人近い学生と共に被災地に向かい、ボランティア活動に参加されたそうですが、元々ボランティアをしていたのですか。
A実家が、真宗大谷派のお寺だったので、その関係で夏休みに子どもたちをキャンプに連れていくなどはしていたのですが、いわゆる福祉のボランティアのような経験は全くありませんでした。
Q学生を連れて被災地に行くことになったのはなぜですか。
A1994年4月に同朋大学に着任して、初めて福祉学部の学生たちと出会ったのですが、そこの学生の「気遣いや優しさ」に衝撃を受けたんです。例えば、学園祭なんか、僕らの時代はむちゃくちゃやっていたけど、彼らは毎日テントを片づけたり、机や椅子も「夜露にかかるといけないから」ってしまうわけですよ。「ヘンな奴らだな」と思って。学生たちと同じ目線で接するために「福祉を学んでみよう」と思っていた頃に、阪神大震災が起こったんです。
被災地の映像を見て、自分も「何かしたい」と思ったけど、学生なんか、障害者が二重の苦しみを受けていることを聞いて、本当に震い立とうとしている。その姿を見て「行こう、やろう!」と決心するには、あまり時間がかからなかったです。行くとなったら、小さな大学ですから学長の決済も早くて予算もつけてくれました。大阪市の中央区にある真宗大谷派の難波別院に相談したら、「ぜひ来て下さい」と寝泊まりできる施設を貸してくれました。1月の後期定期試験を終えて、2月の5日から3月の末まで行きました。
Q被災地での体験で忘れられないことは。
A長田区の焼け野原を見た時、もう、足ががくがくするんですよね。異様な風景で、何とも言えない不安な気持ちですね。「俺、何しに来たんだろう、ボランティアなんか連れて。何も出来ないんじゃないか」って。学生と一緒に、現場を見て、何か出来る事があったら、お手伝いするというようなことを見つけに歩きました。西宮、尼崎、宝塚、淡路島、人が足りない、ここで活動があるっていう所にはほぼ行きました。障害者、高齢者に重点をおきながらも、とにかくやれることは何でもやろうと、いろんな活動をしていきました。
ある避難所では、被災者に学生が胸ぐらつかまれましてね。「ボランティアに来ました」と言ったら「もう帰ってくれ、間に合ってるから」って。「何かしてくれるというなら、金を持ってこい、家を建ててくれ」と。いらいらしていたんでしょうね。毎日、入れ替わり立ち替わりボランティアが入ってくるわけですから。
夜になると、そういう事にショックを受けた学生が帰ってくる。そうすると4年生の先輩がアドバイスするわけですよ。「簡単なことだよ。被災者と信頼関係をつくらないからだめなんだよ」ってポロっと言うわけです。「そこに何回か通って、存在を認められて初めて頼んでくれるものだから、粘り強くやりなさい」って。実際に、阪神大震災後、お母さんが働くために子どもたちの傍に居られなくなってしまった人はたくさんいた。重度障害のある子どもの場合、着替えやトイレ、生活全てに介助が必要なので、その介助に学生が入った事もありました。誰でも代わりが出来るわけじゃなく、本人、お母さんとの信頼関係が出来てなければならない。「この人なら」という安心感の中で助け合うという関係が生まれてくる、という話をこんこんと先輩がする。「なるほどなあ」と思いましたね。
1995年2月 学生の発案で実現した障害者用のお風呂(芦屋市内)
芦屋のある公園では、自衛隊がお風呂を作ってたんです。自衛隊のお風呂って、ゴムで出来ててちょっと深いんですね。着替える部屋も換気が悪くて、せっかくさっぱりしたのに、また汗だくになる。それを見た学生が、「あれは一般の人も大変なのに、障がい者や高齢者はもっと大変だ」と言って、色々なルートをたどって介護用のお風呂を用意して隣に建てたわけです。「すげえなぁ」と思いました。
“気付き”とか“相手の立場になって考える”そういう姿勢を、本当に学生から学びました。今でもその体験が僕自身を支えているんですよね。
Qその後も、大学に勤務しながら、引き続き被災地の支援、「震災から学ぶボランティアネットの会」の立ち上げをされました。災害救援をライフワークにしていこうと決めたきっかけは何だったのですか?
2000年9月 床上浸水した施設の支援
A95年の6月頃になると、“被災地との関わりをどうするか”という事が、大きな課題となってきました。阪神大震災から5カ月ほどたって、被災者の多くが仮設住宅に移っていましたから、外部から出来る支援は限られていました。そこで周りを見まわしたら、地元の他の団体も同じような悩みを抱えていたんですね。一緒に話し合いましょう、と「震災から学ぶボランティアネットの会」を結成したんです。大学の職員を超えて多くの市民が集まる、それが私にとって市民活動の第一歩でした。市民活動といっても、運動くさくない、行政とも連携していく新しい市民活動のスタイルを模索していきましたね。
この頃からボランティア関係の仕事がすごく増えていきました。本来の仕事に専念したいと思う時期もありましたが、自分で蒔いた責任をとらないといけないし、その間で困っていた時、2000年の東海豪雨があったんです。
Q東海豪雨水害の時には、愛知県庁内に設置された「愛知・名古屋水害ボランティア本部」の本部長を務めたそうですね。
A名古屋市と周辺の65,000世帯が浸水被害を受ける大水害でした。阪神大震災以降、防災の問題は、市民だけ行政だけでは解決しない、お互い手を組まなければ、という学びの5年間でもあったわけですが、東海豪雨では、なんとボランティアが県庁に乗り込んだ。ボランティア本部を行政と協働で作り上げていったわけです。本来、愛知県と名古屋市の行政区が違うと、別々な災害ボランティア本部が立ち上がるわけだけど、「何言っているんだ。市民にとって愛知県も名古屋市も同じじゃないか」と議論して、県政史上初めて、名古屋市の担当者が愛知県庁の会議室に入って、一緒に仕事をしたわけです。
地元の人達も本当にがんばりました。全国から20,000人のボランティアが駆けつけてくれましたが、名古屋青年会議所が900万円かけて掃除道具を調達してくれたり。民間の力がすごく発揮されて、かなりいいボランティアセンターになったと自画自賛していたわけです。
ところが障害者団体の代表から電話があった。「おまえは県庁に行っていい気になるな、俺のところに迎えに来てくれたか。車いすの人達をなぜ助けに来ないんだ」と。はっとしましたね。自分は本当に一人一人の事を見てきたのかと。被災者支援って何なのか。ボランティアセンターを作って、大量一斉で大きなものを動かすことより、一人一人の暮らしをきちっと見ていく。それが本来学生から教わったことで、本来の自分の姿じゃないのかと。非常にショックでした。もう一度やり直しや。そのためにはしっかり決意しなきゃいけない、と思い大学を辞めました。妻は「あなたしか出来ないでしょ」って言ってくれました。
2008年8月 豪雨に被災した世帯の支援
昨年(2008年)の8月末豪雨で、名古屋はおよそ1,200世帯が床上浸水だった。しかもザブンときてすぐ水が引きましたから、次の日どこが浸かったかわからない。僕は「とにかく現場に行きます」と、ボランティアさんと一緒に1件1件訪ね歩いたんです。やっぱりいるんですよ。50代の男性が多い。靴を履いたまま生活している。「自分でぼちぼちやらぁ」って言うけど、1人では出来ないですよ。地元の新聞の配達員にも「情報下さい」って販売店にチラシを張ってもらったり、生協さんには「もし困っていたらボランティアセンターに電話してください、隣も見てください」というチラシを配ってもらいました。障害者団体にもすぐ電話しました。情報収集したところ、車いすを使っている方で被災された人はいなかったそうです。
「今回は助かった」ということだったので、私も無罪放免です(笑)。
Q現在、栗田さんが一番大切だと思っていることは何ですか。
A “たくましく生き抜く力”を、我々は育んでいかないといけないと思っています。被災するなんて人生の一大事ですよ。最悪の場合、家が壊れたり肉親を失うわけですよ。そんな時に「助けて」って言ってもいいじゃないですか。そこに被災を逃れたまわりの人たちが手を差し伸べないといけないと思うんです。「一緒に頑張っていきましょう」と。それによって被災者が「ああ、明日からまたがんばって生きなきゃいけないな」と、その人の生き抜く力がまた蓄えられる。これはボランティアしか出来ないじゃないですか。自分自身の生き抜く力を深めていく、それが相手に伝わり、その人がまた生き抜く力を身につけていく。こうやってお互い助け合いながらこの時代を生き抜いていくことが大切なんじゃないかと思います。
取材 大和田恭子