震災、ボランティアそして・・・
毎年1月17日が近付いてくると(9月1日の「防災の日」の頃もそうですが)震災について何か書いたり話したりしてくれませんか、と頼まれることがあります。
余程のことがない限り引き受けています(安請け合いをして後で悔やむこともたまにはありますが……)。私はボランティアを実践している訳ではありませんし、災害専門の記者でもありません。1995年1月17日に神戸にいて阪神大震災に遭遇しただけです。でもその偶然を伝えてゆくという、ささやかな“使命”は持ち続けたいと思っているからです。
当時、私はNHK神戸放送局に勤務していてニュースデスクをしていました。
当日は神戸市東灘区の自宅で就寝中、あの揺れを経験しました。まるで洗濯機の中でかき回されているような感じでした。妻と3人の子どもにケガはなかったので職場に向かいます。神戸放送局までは通りがかりの車に乗せてもらいました。放送局に到着したのが午前7時頃。
その後避難所などで暮らした家族と再会するのは1ヶ月後となります。これは余計なことでした。
さてボランティアについてです。神戸放送局の建物自体も地震で大きな被害を受け使用できなくなりました。
震災から10日後、放送局近くにあった小学校の建設予定地に仮設の建物を建設して、神戸放送局はおよそ4か月間ここから放送を出し続けました。
放送局とはいっても、工事現場にプレハブが立っているだけ。周りを囲む塀もありません。警備上は問題があるのでしょうが、そんなこと言っていられません。ただそういう環境だったのでいろんな人たちが気軽に放送局を訪ねてくれたように思います。
その中で目立ったのが若いボランティアの人たちでした。
「どこに行けばボランティアの仕事はあるのでしょうか」。
数人の若者たちが最初はおそるおそるプレハブのサッシの扉を開けて入ってきました。
私はその日のデスク、ニュースの処理に追われてとても忙しかったのですが、無視することはできませんでした。その時の若者たちの上気した表情と目の輝きが強く印象に残ったからです。
初めて被災地にやってきた緊張感、不安感、そして何かしなければという使命感、そんなものがないまぜになったような感じでした。被災地の現状を説明しボランティア情報を取りまとめている団体を紹介して、送り出しました。
その時「がんばれよ」といって送り出したのですが、本当は
「俺も頑張るから、お前たちもがんばれよ」と言いたかったのかもしれません。
あまりにも大きな被害に圧倒され、一方で寝不足の毎日が続いて精神的にまいっていた時に、若者たちの生き生きとした表情にむしろ助けられたような思いを抱いたからです。
災害に関わるのは行政、警察、消防、報道といった既存の機関だけではなく一般の市民もボランティアという形で関わることができるということを、その時実感できた気がします。
震災の年を「ボランティア元年」といいますが、この言葉を聞くと私にはあの若者の表情がいつも思い出されるのです。
その後私は大阪、東京と転勤し「週刊こどもニュース」のお父さん役を務めた後この4月からは「追跡!A to Z」という番組を担当しています。
どこで、どんな担当をしていても震災にはこだわり続けたいと思ってきました。
2009年1月17日は神戸から「週刊こどもニュース」を放送しました。
2010年は「追跡!A to Z」を同じく神戸から放送する予定です。
マスコミはこの日しか震災の報道をしないという批判があることは知っています。しかしこの日でさえマスメディア全体の報道量は以前と比較すれば明らかに減ってきているのです。
それに抵抗していくこと、それが震災を経験した報道記者の務めだと思っています。
そしてあの時神戸放送局を訪ねてくれた、若者たちにもお願いしたいのです。
みずからのボランティア経験を語り続けることを。