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活動リポート

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2014年3月 1日

東日本大震災から3年 大阪でフォーラム「そのとき高齢者・障害者は」を開催しました。

2014年3月1日(土曜日)、大阪・梅田にあるオーバルホールで、NHKハートフォーラム「東日本大震災 そのとき高齢者・障害者は」を開催しました。

写真:フォーラムのステージ上、左から町永さん、立木さん、スクリーンを挟んで、蟻坂さん、青田さん、八幡さんの順に並んでいる。スクリーンには「災害=ハザード×脆弱性」の図が映し出され、立木さんが説明している

東日本大震災では、亡くなった方の6割が60歳以上でした。また、障害のある人の死亡率は、一般の人々の約2倍に上りました。災害は「弱者」により厳しく襲いかかるのです。
フォーラムでは震災直後から、障害のある人や高齢者など、いわゆる「災害時要援護者」(以下、要援護者)を支えてきた人の体験をもとに、「災害があっても障害があっても誰もが安心して暮らせる社会」を作る手がかりを話し合いました。

出演は、宮城県石巻市八幡町の民生委員・蟻坂 隆さん、福島県南相馬市で障害者の通所施設を運営している青田 由幸さん(さぽーとセンターぴあ代表理事)、被災した障害者の支援をしている八幡 隆司さん(NPO法人ゆめ風基金理事)、福祉防災学を専門とする立木 茂雄さん(同志社大学教授)の4人です。司会はNHK「福祉ネットワーク」で被災地の福祉現場の情報を伝え続けた町永 俊雄さん(福祉ジャーナリスト・元NHKアナウンサー)が務めました。

出演者のプロフィールはこちらをご覧ください。


宮城・石巻市 全国に先駆けて取り組んでいた避難行動支援

写真:蟻坂 隆さん

まず報告したのは、蟻坂さんです。
蟻坂さんは全国に先駆けて2004年から、要援護者を支援する「防災ネットワーク」という仕組みを作り上げてきました。「防災ネットワーク」は要援護者1人につき住民2人を支援者とし、災害が起こったときには駆けつけて、避難の支援や安否確認を行うという仕組みです。
震災のときは八幡町で14人の要援護者が被災しました。そのうち6人については支援者が駆けつけましたが、残りの8人は仕事で地元を離れていたなどの事情で、駆けつけることができませんでした。蟻坂さんは、災害時に個人が駆けつけて支援するという仕組みの限界を痛感したと言います。
しかし実は、支援者が駆けつけることができなかった要援護者も、ほとんどの人が助かりました。近隣住民や顔見知りのヘルパーなどが救い出していたのです。
「『防災ネットワーク』は地域の付き合いが土台でできたもの。普段の顔の見える付き合いがあったからこそ、救われた命があった」と蟻坂さんは指摘します。同時に「『防災ネットワーク』を作ることが、住民に防災意識を根付かせることにも役だったのではないか」とも話しました。

いま蟻坂さんは、「支援者」という個人に頼るのでなく、住民みんなで声を掛け合って避難することが大切だと感じています。イメージしているのは回覧板を回し合う7、8軒のご近所同士。お互いが顔見知りになり、いざというときには助け合える関係を深めていくために、町の人たちが集まるサロン活動「みんなと行兵衛茶屋(いくべっちゃや=「行きましょう」の意味)」もはじめています。

福島・南相馬市 取り残された人々を支えて

写真:青田 由幸さん

次の報告は青田さんです。
青田さんが運営する障害者施設は、福島第一原発から24キロメートルに位置しています。原発事故後、原発から20キロメートルから30キロメートルの範囲に屋内退避勧告が出され、南相馬市は市民に避難を促しました。7万の人口が一時1万にまでなったほど、ほとんどの市民が避難しました。残された1万人の多くは高齢者や障害のある人々だったといいます。自宅を離れて生活することが難しいため避難できなかったのです。市外からの人も物資も入れない状況の中、青田さんの元には避難できなかった多くの障害者・高齢者から助けを求める声が届いたため、やむにやまれず南相馬市に残り、支援活動を続けたそうです。
支援活動をするために必要になったのが、「要援護者名簿」でした。緊急時に援助が必要な人々が記載されている行政の名簿です。しかし実際には、支援が必要なのに名簿に載っていない人がたくさんいることが分かりました。青田さんの施設でも「要援護者名簿」と施設の利用者をすり合わせてみたところ、ほとんど載っていなかったといいます。青田さんは「寝たきりなど動けない人だけしか対象にしていないのではないか」と感じたそうです。
そこで、青田さんたちは障害者手帳所持者の名簿を開示して欲しいと市に求めましたが、個人情報保護の壁に突き当たりました。交渉の末、最終的には個人情報保護条例の中に「緊急時、生命や財産に関わるときは第三者への提供が可能」という例外規定があったため名簿の情報を提供してもらい、支援活動を続けましたが、ハードルの高さを痛感したといいます。

「今後の災害への備えとして、要援護者名簿の整備と、いざというときに情報を提供してもらい、支援のコーディネートをする受け皿作りが必要です。小規模な災害であれば、地域の防災組織でクリアできることもあります。でも大規模災害の場合は地域全体が被害者。南相馬は誰もいなくなってしまった。そんなときには外部に頼るしかないのですが、外部から大きな団体が入ってきても、『あなた達は誰?』となるわけです。どこに支援を要請し情報を出すか、事前協定しておく必要があります」という青田さんの言葉には、極限状態で支援を続けた当事者ならではの思いが込められていました。

大阪市 防災が障害のある人と地域をつなぐ

写真:八幡 隆司さん

続いて、被災地全体の支援に当たっていた八幡さんが話しました。
八幡さんは震災後、いち早く被災地に入り、障害のある人たちの支援に当たろうと考えていました。ところが避難所に行くと、「障害のある人はいない」と言われたそうです。
「受付では『いない』と言われますが、まったくいないわけではないのです。物資が来ても取りにこない人が、実は聴覚障害のある人だったこともありました。障害のある人がいるけど気づけていなかったのです。」

避難所は人がごった返している状態で、車いすを利用している人たちは身動きできずに避難所から引き返したり、「周りに迷惑がかかる」と最初から避難所にも行くことをあきらめたりしていました。
このような事態にならないためにも、日頃から地域住民と障害のある人々との関わりが大切だと八幡さんは言います。
「大阪では福祉サービスは充実しているけれど、障害のある人とない人の住民同士としての関わりは薄い。共に防災に取り組むことが顔の見える関係をつくり、お互いに知り合うチャンスです。」
八幡さんは実際に、大阪市内のある町内会で、障害のある住民も参加した避難訓練をはじめています。訓練を通じて、障害のある人も一緒に避難できる避難所のあり方が少しずつ見えてきているといいます。

あいさつから始まる防災

写真:立木 茂雄さん

皆さんからの報告を受けて、立木さんは、災害に備えるためには、普段からの近所づきあいが大切と話しました。
「災害は社会的現象です。被害を抑えることは社会的営みによって可能です。それは他人事でなく、私が近所の方にあいさつする事から始まります。あいさつなど、普段からの楽しみでやっていることが、お互いを知り合うきっかけとなり、助かる道にもなるのです。」


出演者

青田 由幸 あおた よしゆき (NPO法人さぽーとセンターぴあ 代表理事)

1954年福島県南相馬市生まれ。2008年「NPO法人さぽーとセンターぴあ」を立ち上げ、「断らない」を合言葉に障害者の生活介護、就労支援事業に取り組む。東日本大震災では原発事故後に避難出来なかった障害者の支援や調査を行った。

蟻坂 隆  ありさか たかし (宮城県石巻市八幡町 民生委員・児童委員)

1950年宮城県石巻市生まれ。障害者・高齢者の避難を支援するため、全国に先駆けて2004年から石巻市八幡町で立ちあげた「防災ネットワーク」に関わっている。東日本大震災では自らも被災しながら、地域の支援のとりまとめ役として活動した。

八幡 隆司 やはた たかし (NPO法人ゆめ風基金 理事)

1957年大阪府生まれ。1995年1月の阪神淡路大震災では兵庫県南部地震障害者救援本部を設立し、障害者支援にあたる。東日本大震災後も発災直後から被災地に入り、障害者の支援にあたってきた。被災地での経験から「障がい者市民防災提言集」や「防災ハンドブック」などを手がける。

立木 茂雄  たつき しげお (同志社大学社会学部 教授)

1955年兵庫県生まれ。専門は福祉防災学。阪神・淡路大震災後の被災者復興支援会議メンバーとして生活復興に向けた施策の提言活動を行う。東日本大震災後には、災害時要援護者への対応策を提言。著書に『市民による防災まちづくり』(共著)、他。

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主催

NHK厚生文化事業団、NHK大阪放送局

共催

NPO法人ゆめ風基金

後援

大阪府、大阪市、大阪府社会福祉協議会、大阪市社会福祉協議会、日本障害フォーラム(JDF)、きょうされん

 

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