Q阪神・淡路大震災の時、中村さんは東灘区で被災されたそうですが、当時の体験を教えてください。
Aいまだにその揺れの怖さね、感覚が身体のどこかに覚えていますわ。地震の直後は、ぼう然として。あの惨状、どこを見ても頭が真っ白になりました。
何かしないといけない。だけど何をしていいかわからない……。
会社を辞めてからの13年間、ここまで私は高齢者や障害のある人たちの在宅ケアをがんばってやってきた。今この惨状の中で、絶対に私のやるべきことが何かある。しなきゃいけないことがある……。
地震当日の午後から、今までお世話した高齢者や障害のある人たちのところを見回りに行きました。自分は何をしなきゃいけないのかを問い続けながら。
「水くみや!」
水くみ110番、これが今の私の仕事や、と思ったんです。私の家は部分的に倒壊しましたが、家族は全員無事でした。でも水道は2か月出ない、ガスも3か月出ない、そんな生活でした。親、兄弟、親戚の家は全壊して、みんな私の家に避難していました。水は、私の家でも本当に困っていました。どこの家を見回っても、一番困っているのは生活用水でした。飲み水はなんぼでもペットボトルで手に入るんだけど、トイレ、食器洗い、顔洗ったり、何につけても水がいります。その生活用水が本当に不足していたんです。そこで「東灘・地域助け合いネットワーク」という団体をつくって水くみのボランティアを始めたんです。
Qどうやって水を被災された方の家へ届けたのですか。
Aまずは大阪のYMCAからポリタンクを100個くらい送ってもらいました。ボランティアの拠点をどこに置くか。キリスト教系の幼稚園が「1週間後に園を再開するから、それまでだったら貸しましょう」と言ってくれました。「たった1週間でも結構です」と、そこにテントを張って、「東灘・地域助け合いネットワーク」と看板をかかげました。
看板をあげたとたん、ボランティアがいっぱい来てくれ、救援物資も届くようになりました。水を調達するための給水車が、いつどこに来るかという情報を集めて、若い学生のボランティアに、20リットルの水の入ったポリタンクを両手に運んでもらいました。今までお世話していた方、その周辺の家や地域の家々にも水を配っていったんです。
Q中村さんは、大震災以前から、東灘区のボランティアの団体に所属されていましたが、なぜ新しい団体を自分で立ち上げようと思われたのですか。
A なぜそれまで所属していたボランティア団体の看板を使ってできなかったかというと、救援活動はみんな無償ボランティアです。でも私の所属していたのは有償ボランティアをする団体だったんです。震災後に緊急対策会議を開いて、有償ボランティアという制度を変えてまで震災救援をしない、という方針を決めました。名前も知らない人に水を運んで行くような状況の中で、新しい利用者に入会金を払ってもらって登録して、なんてことができるわけありません。それだったら私は自分で立ち上げます、ということになったんです。「東灘・地域助け合いネットワーク」という団体名をつけて、やるべき仕事が見えた時、本当に私はほっとしましたね。
Q水くみの他にはどんな活動をされたのですか。
A水くみの他には、「洗濯代行」もやりました。地震から1か月たつと水の出る地域が出てきます。水が出る地域のご家庭に、水が出ない地域の洗濯を頼む。その橋渡しを私たちがしたんです。ポリ袋に洗濯物を入れて、洗濯ボランティアの家庭に運びます。そこで洗濯をして、干さずに軽くたたみ、濡れたままポリ袋に入れてもらいます。それを私たちが持ち主に届ける。お洗濯も困っていましたからね。喜ばれましたよ(笑)私の家で困っていることをやればええんやと。自分のニーズがそのまま地域のニーズになったわけです。
当時の活動の記録が残っています。2月の「水くみ」の件数は延べ602件。「洗濯代行」は75件。3月になると「安否確認」や「介護(話し相手など)」といった活動も増えてくる。ライフラインの復旧とともに刻々とニーズが変わる。つまり私たちの活動内容が変わっていったということです。“自分たちは今、何をするべきなのか”。ニーズをしっかりと見ながら仕事の内容を変えていく。この頃の活動が私の中に遺伝子として残っていて、今のNPOの活動にすごく生かされているんです。
Q「東灘・地域助け合いネットワーク」を母体に、1996年10月、NPO法人「コミュニティー・サポートセンター神戸」が発足しましたが、そのきっかけは何だったのですか。
A地域の実状が変化していくんですね。1995年9月頃、被災された方たちが仮設住宅に入居されて、一見、仮住まいでの落ち着きを取り戻していきます。この頃から被災地で何が起こってきたかというと、ボランティアと被災者のニーズの需給バランスが崩れるんですね。うちの団体だけじゃなく、全体的にボランティアの方が多くなるんです。そして被災者の中に「(物を)もっとくれ、もっと手伝って」という人も出てきたんです。
“被災者はすべからく弱者で、何でもしてもらえる人”これを早く脱却しないと復興はできない、と直感的に思ったんです。そこで今度は、被災者に対して“あなたは、地域のために何ができますか”という問いかけに変えたんですね。
何かをやってもらうばかりではなくて、今度は自分が地域のために何かして、人から「ありがとう」と言われる。そのことによって自分が元気になる。「生きていてよかった」「また明日も続けていこう」と、明日に向かう力になっていきますよね。被災された方たちの、残された力を元に戻し、さらにその人と社会との関係をつくる。それがエンパワメントだと思うんです。
しかし一部の人からは怒鳴られたし、嫌がらせも受けましたよ。「家も家族もなくしている人たちに向かって自立しようとは何ごとかー」「お前は鬼みたいな女や!」って(笑)。だけど私は言い続ける。これは外から来たボランティアが絶対に言えないこと。この被災地の中で生活して活動している私だから「あんた、がんばりなさい」って言えるの。だから何を言われても私は言うよ、と気丈にがんばりましたよ。つらかったけどね(笑)。
それでも、中には自ら「お手伝いすることはないですか」と飛び込んでこられた地域の方もおられました。「家もようやく片付いたし、ここまでボランティアさんにお世話になった。その分を返さないかんと思うようになった」と。そんな方たちにものすごく救われましたね。
「あなたの思い、こころざしを形にする、これが私たちのミッションです。ですから自分が持っている技術、能力、時間をすべて言ってください。私たちは、仲間や資金や場を集めて一つのグループ活動ができるようにお手伝いします」と。こうしてNPO法人「コミュニティー・サポートセンター神戸」の活動が1996年から始まりました。
QNPO法人「コミュニティー・サポートセンター神戸」の活動の中で、中村さんが楽しいと思うときはどんなことですか。
A私たちは、これまでにおよそ250団体の立ち上げや運営の手伝いをしてきました。
その中に、「あたふた・クッキング」というグループがあります。メンバーはもともと、大震災の時に炊き出しをしてくれていた近所のおばさんたちです。当時は、毎日ボランティアや私たちスタッフのための昼食を50食ほど作ってくれていたんです。でも大震災から1年もたつと、ボランティアも減ってきたので、「もう炊き出しはやめて、その代わりに地域のための配食サービスをするグループに変えませんか」と提案したんです。というのは50名の食事を毎日作るノウハウってすごいんですよ。それを壊すのはもったいない。そこで地域に向けた配食サービスへと事業化していったんです。
この「あたふた・クッキング」は、ほとんどが60歳から70歳のおばさんたち。一番年長は80代の女性です。この方は80歳になる直前に「もうやめる」と言いだしました。「これをやっていてほんとうに楽しかった。元気をもらえました。でももう80歳になるのでやめます。お世話になりました」と。でも1か月後に「やめたらえらいことになった。家でくすぶってしまって、全然元気がでないから、もう一回やります」と言って復帰されました。それから1年半後、83歳の時に、また同じようにやめて、1か月後に復帰されました。
先日、私のところへ来て「もうやめるといいません。死ぬまでやります」と約束して帰っていきました。彼女を含め、みんな「あたふた・クッキングが元気の源や」って言いますね。それはうれしいですよ。こういう人たちと一緒に仕事をしているときが、私は一番楽しいです。
もう一つ楽しいのは、夢を描いているとき。次はどんな仕事が地域に求められているんだろう、と2年、3年先の仕事をいつも考えているんです。その時は最高に楽しい。頭に描いたものを人に話して、「こんなことしない」って仲間を広げていくときは最高に楽しい。常に前を向いているときですね。後ろを向けって言われるのはつらいんです。報告書とか決算書を書くときは、後ろを向かないといけないでしょ。そんな時は一番つらいのですよ(笑)。
取材 大和田恭子