フォーラム「東日本大震災 そのとき福祉現場は
--被災経験から何を学ぶか--」抄録3

第2部 パネルディスカッション「何を学び活かすか 〜災害への備え〜」(前編)

目次

                           
  1. はじめに
  2. ビデオ:原発事故で取り残された障害者・高齢者
  3. 避難できない人びと
  4. 「保護」だけでなく「活用」を
  5. 「災害時要援護者名簿」の作り直し
  6. 避難時の「緊急介護」
  7. 復興計画への提案
  8. 長い目で見ること
  • 講師プロフィール
  • フォーラム主催、後援
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    はじめに

    町永

    NHKハートフォーラム、被災経験から私たちは何を学び、どう生かしていくべきかの第2部です。
    もう一度現場の様子をたどりながら、被災地だけの問題じゃなくて、あるいは障害のある人たちだけの支援という問題だけではなく、私たちすべてに関わる問題が見えてきました。これは3・11をめぐる基本的な考え方なのですが、そこに具体性をどう盛り込んでいけるのかをたどっていきたいと思っています。

    第2部の初めは福島であります。いうまでもなく福島第一原発の影響下、大きな災害のもとにあり、いまなお難しいつらさ、困難のもとにあるところであります。その中で、災害時、避難区域がどんどんと切り替えられる中で、支援がさーっと引いていきました。すると、支援につながらない障害のある人たち、あるいは高齢の人たちが出てまいりました。一体どう支援につなげていったのか、一番困難な取り組みかもしれません。ここもまずはビデオでお伝えしていきましょう。

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    ビデオ:原発事故で取り残された障害者・高齢者

    ビデオの内容

    地震、津波に加え、原発事故に見舞われた福島県南相馬市。1年余りがたつ今も、放射能汚染のため、先が見えない状況が続いています。

    震災後、この地域の障害者の暮らしを支える拠点となった「デイさぽーと・ぴーなっつ」。「どんなに重い障害のある人でも断らない」を目標にするこの施設には、知的、精神、身体、自閉症など、様々な障害のある人が通ってきます。

    震災後、ぴーなっつでは、毎日一日の始まりに室内と屋外7つのポイントで、放射線量の値を確かめています。

    7つのポイントの中で一番高い数値を示す場所は1.8マイクロシーベルト。2を超える時もあります。室内で測定した数値が、1時間1マイクロシーベルトを超えたら、施設を閉鎖することにしています。

    (青田さん)
    「せっかくここに来て被曝したんじゃ何の意味もないので、なるべく安心な状況を保っておくっていうか、確保しとかなきゃいけないんでね。そのためには毎日測っとかなきゃいけない」。

    震災の翌日、福島第一原発の1号機が水素爆発。
    その後も、3号機、4号機が相次いで爆発します。
    国は、まず、原発から半径3キロ圏内の住民に避難指示を出しました。翌日には20キロに拡大。さらに20キロから30キロ圏には、屋内退避が指示されました。ぴーなっつは、その中にあります。

    こうした状況の中、南相馬市は、市内全域で、市民の避難を促しました。新潟や群馬に避難先を確保し、自力で移動できない人にはバスを用意したのです。

    そして、市内には、物も人も入らなくなりました。町から人の姿が消えました。住民は7万人から1万にまで減りました。
    青田さんが運営する「ぴーなっつ」に通う人たちの3割は、避難していませんでした。

    星 正春さんもその一人です。星さんは、十代の時、交通事故にあって脳を損傷。重い後遺症が残りました。兄夫婦と母親が介助していますが、原発事故の後、市から避難が指示された時、ここに残ることを選びました。正春さんと一緒では、避難するのは 難しいと判断したからでした。

    (星 米子さん)
    「おしめを何重にもするから漏れない状態になりますけども、それでなければ、タオルケットからシーツからパジャマから、みんな洗濯になります。それを干すところって、普通の環境ではちょっと無理ですわね。家族にそういう人がいるのに、押し切ってよそいって、迷惑かけたり、ちっちゃくなって暮らすことは、そのころは考えられませんでしたね」。

    「ぴーなっつ」では、青田さんと2人の職員が南相馬市にとどまり、利用者の家を訪ね、オムツや食料を届けるなどの支援を続けました。

    (郡 信子さん)
    「物資持って家庭訪問して、お会いするたびに、だんだん表情も身体も悪くなっていくのが見えて。2週間目くらいから、『これはだめだね』って。そういうことを考えると、ほんとにリズムついた生活、身支度して、ご飯食べて、出かけてとか、帰ってお風呂入って寝るとか、そういうのは当たり前のようだけど大切。今回、すぐ崩れちゃって、しかも身体にすごい影響があるっていうのは、びっくりでしたよね」。

    このころ市役所には、避難できなかった人たちから、「物資がない」「体調を崩した」など、切実な訴えが寄せられていました。

    南相馬市ではもともと、災害時に支援が必要な高齢者や障害者の名簿を作成していました。 しかしそこには名前や住所、家族の連絡先といった情報しかなく、避難のためにどんな支援が必要かについては、全く記載されていませんでした。

    南相馬市は、3月末、自衛隊に依頼して、残っている人がどんな支援を必要としているか、自主避難の可否などの調査をしました。

    (住民)
    「避難したくたって避難できないんですよ。車がないと何もない。車あっても私、目が悪いもんですから」。

    しかしその後も、ぴーなっつには、「避難できない障害者」が多数いるとの情報が寄せられていました。青田さんは、この人たちが要援護者名簿に載っているかどうか、市に問い合わせました。

    (青田さん)
    「愕然としましたね。本当に家から出られない人、ベッドから降りられない人、そういう人たちだけを想定しているんだろうなって思ったんですけどね」。

    今後災害が起きたとき、障害者を確実に避難させるにはどのようにして名簿をつくればいいのか。青田さんたちは、すべての障害者を個別に訪問し、詳しく調査する必要があると考え、南相馬市、障害者支援団体と話し合いました。そして、障害者手帳を持っている人の名簿を提供して欲しいと市に求めました。

    市は、調査の必要性は認めたものの、個人情報を外部に提供することには、慎重でした。 提供に踏み切らせたのは、個人情報保護条例の中の例外規定でした。
    「個人の生命・身体又は財産の安全を守るため、緊急かつやむを得ない」ときには外部に提供してもいいというものです。

    こうしたプロセスを経て、障害者手帳の名簿が提供され、4月末から半年にわたり、訪問調査が行われました。調査では、避難のためにどんな支援が必要か、避難所ではどんな配慮が必要か、といった一人ひとりのニーズを具体的に聞き取りました。
    調査結果は、市に渡され、今後の避難計画に役立てられることになりました。

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    避難できない人びと

    町永

    青田さんにお話を伺います。原発という影響下にいまなおあって、1年3か月たちましたが、現状はどんなふうにとらえていらっしゃいますか?

    青田

    もっと過酷になっているということだと思います。南相馬市の人口は7万人です。震災後、一番少ないときで1万人まで減りました。現在は4万5000人まで戻ってきています。2万5000人がまだ市外に避難しています。2万5000人の避難している方っていうのは、ほとんどが子どもさんとその家族です。さらに、南相馬市の中で、市内から市内に避難している人たちが1万人います。ですから被災者全部でいうと3万5000人、人口の約半分の方がまだ被災していて、その人たちが大変な生活を続けているという形です。

    町永

    湯浅さん、1年以上たって、より過酷になっているという南相馬の現状ですが。

    湯浅

    震災は大きく被災3県に影響しましたけど、原発事故というのは、ちょっと宮城・岩手と同列に語れないような異相を福島にもたらしてしまいましたよね。

    町永

    この難しさにどう取り組んでいくのかというのも頭に盛り込みながら、もう少し話を伺っていきたいのですが、そういった中で取り組みをしていて、何とか支援につなげようとして、でも、そこに個人情報という壁がありました。
    青田さん、当事者としてどんなふうに受け止めましたか?

    青田

    今回、この震災が起きて原発事故が起きたときに、南相馬市では最終的には市民の命をもう守れなくなったので、一度どうか避難してくださいっていう話になったわけです。そのために全員が外に出なきゃいけなかったわけですね。そのときに、中に残る人は自分で自分の命を守れる人だけが残ってくださいという、ある意味、残った人は自己責任で残ったっていう形になったわけです。 でも現実的に残る人は誰かっていったら、高齢者、障害者、その家族、そして避難所にいる方、そういう人達が残るようになるわけです。自分で自分の命を守れない人たちが残るわけです。しかも、30キロから中は警察の検問が張られたことによって、人が外から入れなくなる。それから物資も中に来なくなる。もっと過酷な状況になっている。そうなると、中に残っている人たちに支援をつなげるためには、ある意味、個人情報のようなものを出していただいて、要援護者という人たちを洗い出さないと、誰がどこにどういうふうに残っているかわからないんです。

    町永

    結局、つながってその情報を共有できるようになったのですが、そこに至るまでどういう問題を実感しましたか?

    青田

    まずは残っている人たちは、間違いなく命に危険が迫っています。食料がないし、病院が全部閉まりましたので薬がなくなります。それから移動手段がなくなります。当然、介護もなくなります。それと同時にまだ原発が爆発するかもわかんないんですよ。また爆発したときには、残った人たちはもう逃げられないということです。
    南相馬市は屋内待避っていう指示だったので、屋内にいればとりあえず大丈夫だと言われたわけです。でも現実的には、屋内にいても全然ダメだったんですね。しかも要援護者の人しか残っていない。とにかく命が一番危ない状況がずっと続いていたんです。

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    「保護」だけでなく「活用」を

    町永

    いま2つの課題が浮き上がってきたと思います。
    原発事故の場合には、一番支援が必要な人が避難できない。そのことは避難しなさいと言っているのだから残るのは自己責任という形で支援から切り離されたままになっている。それを目の当たりにしている青田さんとしては何とかしなければならないと取り組みを始めますが、個人情報の保護があって、どこにどういう人がいるかわからなかった。
    立木さん、この問題はかなり議論もされましたが、改めて確認しておいたほうがいいと思います。どう考えますか?

    立木

    個人情報保護法ができたとき、法律の頭のほうに「この法律は個人の情報については保護する」ということと、「活用する」ということ、この2つのバランスをとらなければならないと書かれているんです。けれども現実には要援護者のリストに関しては「保護する」ことばかりが議論されてきていて、結局どう活用するのかが考えられないままにきてしまっていた。
    今回南相馬市は、被災した東北3県の中で正式な形で行政が「生命・財産に緊急な危険が及ぼすときには目的外利用、第三者提供してもかまわない」という例外規定に照らし合わせて、そのとおりに判断してやった数少ない例です。他には宮城県東松島市と、岩手県で仮設に入居された障害のある方に対して当事者団体が訪問するという非常に限定的な形でしか情報が活用されなかった。 本来は条例の目的外の規定にのっとれば、どこでもできたはずですが、現実には個別の役所の担当の課長さんレベルでその判断を求めることになって、結局はできなかった。我々は当然できるはずだと震災直後から言っていたんですけれども、例えば南相馬のように、生命・財産に緊急の危険がある場合ということならばできたと、別の自治体でも考えたんですけれども、「生命・財産の緊急の危機ってどれくらいまでが当てはまるだろうか」、「72時間くらいまでではないか」とずるずるしていて、結局いまからでは無理じゃないかということで出さなかったという例もあります。
    ただし、どの自治体も、その項目以外に相当の理由があれば、例えば南相馬市では公益上の必要性を審査会が認めれば可とするような、そういう別の条項でも72時間を超えたとしても本来は出せるので、活用しなきゃいけない。ところが事前に、活用や運用ということを考えてこなかったために、できなかったということですね。

    町永

    緊急時の行政の対応はたいへん難しいとは思いますが、その対応いかんによってはたいへん影響力が大きい。これは、単なる個人情報の保護という問題だけじゃなくて、いわゆる想定外なり緊急時の対応をどうするかにつながると思います。湯浅さんも政策策定の現場に立たないと現実は変えられないという立場をいったんはとられましたが、どう考えますか?

    湯浅

    先ほど町永さんが2つの課題としてまとめられた、実際に避難しなかった人はできなかった人ということと、その方たちの個人情報の問題。それはいったい誰の話なのかが結構大事だということを第1部で言ったと思いますが、同じだと思うんですよね。福島だけじゃなくて、岩手でも宮城でも、避難所に最後まで残っていた人っていうのは誰かというと、結局同じですよね。自宅を建て直すお金もない、仕事に決まったわけでもない、家族が呼び寄せてくれるわけでもない人が結局最後まで避難所に残っている。

    町永

    そういった人々は自己責任で残ったということになっちゃうんですね。

    湯浅

    そうですね。最後まで避難所に残っている、しがみついているみたいに言われたこともありますが、実際にはそこから出るルートがない人が最後まで避難所に残っている。それと同じようなことが起こっているんだと思います。そういうときに個人情報の問題ですが、これまでの間に孤立死が立て続けに起こっていますし、阪神淡路大震災のときから孤独死というのは社会問題になっているのですが、結局そこでも同じ問題なんですよね。さっきから繰り返し被災地だけの課題でないと言っていますが、逆に言うと、次にどこが被災地になっても同じ問題が起こるということですよね。そのときに備えてやっぱりいろいろ考えておく必要があるし、個人情報保護法の活用については一連の孤立死の課題を受けて、行政から5月に一連の通達、わりと包括的な通達が出ましたけども、自治体がやっぱそれをふまえながら、そこに踏み込む準備をしなければいけないですよね。結局、最後は自治体の独自判断になりますから、南相馬のような実際に災害の被災地になったところはもちろんですけれども、それ以外のすべての自治体も考えないといけないと思いますね。

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    「災害時要援護者名簿」の作り直し

    町永

    制度があるとどうしても制度の時点でストップしてしまって、そこからの発想しか生まれないのと、暮らしの困難の側から立つ青田さんの発想の違いがぶつかったんだろうと思います。結局、青田さんは個人情報をもとにして訪問調査をなさいましたね。これはどういうことでもって訪問調査をして、やってみてわかったことはどういうことがありますか?

    青田

    まず、そんなに障害のある人、高齢者が多く残っているとは思わなかったんです。やはり、毎日自分たちも避難しなければいけないって思っていたんですね。明日こそ避難しよう、明日こそ避難しようと思っていたわけですよ。それで、自分たちの利用者さん、仲間たちがどれだけ残っているのかを先に確認しなければいけないと訪問を始めたんです。するとうちの利用者さんは35%の方が残っていました。その残っていた人たちに物資を届けたりしているうちに、日々、どんどんどんどん状況が悪くなっていくんですね。立っている人が座りきりになって、座りきりの人が寝たきりになって、それから保護者がこれ以上は無理という状態になってしまったり、自閉症の人は自傷行為が始まったり。この人たちがこのまま自宅にじっとしているのは無理だという状況が続くわけです。 それと同時に他の事業者さんとか親の会とかにつながっている人はどうなんだって調べてみると、残念ながらその人達には声がかかってないんです。緊急的な形で逃げちゃったので、自分たちで逃げるようにしましょう、という形になっちゃったんですね。
    中に残っている事業所はうちだけだったので、うちの利用者さんたちはうちでつながる。でも他の人たちはどこにもつながらない。しかも、南相馬市全体では福祉のサービスにつながっているのは、うちの利用者では3割です。うちだけでも7割の障害者は福祉のサービスにつながっていません。 そうするとその人たちは、ここの地域に残っていれば完全に孤立しているってことです。その人たちの命に関わってくるときはどうすればいいかといったら、一件一件しらみつぶしに歩くしかなかった。それしか方法が浮かばなかったっていうことです。

    町永

    例えば医療か何かにつながっていれば、まだ見えたということになりますよね。ただ青田さんたちのような福祉的な分野からも落ちこぼれてしまうっていうか、つながらない人がかなり多くなってしまった。それは支援がつながらない中でさらに悪化したということも言えるのですか?

    青田

    いえ。地方なので、福祉のサービスそのものが脆弱で、それと家族構成が結構しっかりしているところが多くて、家族の中で介護ができあがっている。ただ、原発事故っていうのは家族がバラバラに逃げるんですよ。親は親、子は子、それから残る人たちと、バラバラになってしまうんですよね。そうすると残った人たちには介護する人がいなくなります。残念なことに、田舎では、社会福祉協議会が介護の中心を担うので、社協そのものが閉まったことによって、高齢者支援のところも0になってしまった。障害者4割、高齢者も重度の人中心に4割の人が南相馬市では残っていました。障害者も高齢者も同じですよ、残るのは。でも介護はゼロです。
    ただ、思いのある人は必ずいて、社協のヘルパーさんが4人残ってくれました。その人たちはガソリンがなかったので自転車で必死になって、重い人を中心に回っていました。

    町永

    青田さんの話を伺っていて、今の話が大事な視点だと思うのですが、幾重にも困難が波状的に襲いかかってきて、今までそんなに福祉や支援の手が届いていたわけではない。ただ、地域や家族が懸命にそれを支えていた。原発っていうのはそれをも全部奪い去ったから、一番支援の必要な人がむき出しになって残ってしまったということですね。そこを今、青田さんは懸命に支えようとしている。やっぱり、「ぴーなっつ」みたいなものが果たした役割は大きいですよね。

    青田

    今は福祉のサービスのところは徐々に戻ってきています。事業所そのものはほとんど再開しています。入所系もほとんど戻ってきています。ただ、定員が今まで受け入れていた人数の半分くらいでしかできていないのですが、支援を必要とする高齢者に関しては増えています。避難している間にどんどん状況が悪くなり、避難前は介護状態でなかった人が、戻ってきたら介護状態になっている。でも受け手、担い手のスタッフがいません。福祉のスタッフって子どもさんを抱えた女性に担い手が多いんですね。でもその人たちは福島に戻って来られないんですよ。やっぱり放射能の怖さがあって、子どもさんに放射能のリスクを負わせたくないという思いがあって戻ってきません。
    でも現場は支援しなければいけない人が多い。医療も同じ。病院は4つあったうち、ベッドを全部空けているのは1つの病院だけで、あとは3分の1しか空けられないんです。そんな中で、何とか頑張ってやらなければという熱い思いの人がいっぱいいて支えてはいますけれども、そろそろちょっときついかなという時期にきているなと思います。

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    避難時の「緊急介護」

    町永

    1年3か月たって、私たちが向き合わなければならない現実です。今の青田さんの話を聞くと、「頑張ろう日本」が空疎に聞こえます。ここにどう立ち向かうか。ここから私たちは何か作り出していかねばならない。
    内出さん、いま介護が全くない中で、時がたてばたつほど、困難になってきている。ここにどう私たちは取り組んでいけばいいのか、ご提言はありますか?

    内出

    私は岩手なので、直接、原発とは向き合う機会は少ないんですけれども、私たちは災害が発生した当時から1か月、2か月までがとてもつらかったです。まずケア事業所がどんな状況だったかと言いますと、当時は被災してないケア事業所にどんどん被災した事業所の利用者さんが押し寄せてきました。それだけでなく地域の方も「おにぎりお願いします」とか、地域のお母さんも「ミルクがないんです。何とかしてください」ということで、いろんな方がケア事業所に走って逃げてきました。一方で私たちの職員の家も被災していて、携帯電話もつながらず、家族の安否すらわからないんですね。そんな職員たちに、24時間ずっと働き続けることを私たちは強制しなければいけなかったということがありました。そういう状況なので、肉体的にも、精神的にも、感情的にも、疲労のピークが3日目でした。これはどうにかしなければいけないというとき、大船渡市では3日目から衛星電話を消防署の中に6台だけ設置しました。そこに私たちは行き、長い行列に並んで衛星電話でかけました。どこにかけたかというと、いつもお付き合いがあったグループホーム協会という大きな全国の組織に、「とにかく誰か派遣してください」とお願いをしました。

    その後、通信がプッツリと切れたんですが、震災から一週間後の3月18日に第一陣が駆けつけてくれました。それは遠く石川県から来ていただきました。そのチーム構成は看護師さんが2人、介護員さんが3人、それを束ねるソーシャルワーカーが1人という構成でした。この方たちは、災害時の対応について訓練されたんじゃないかと思うぐらい、自分たちのことは自分たちでまかなって、いろんな支援をしてくださいました。建物の泥かきはもちろんのこと、お年寄りや職員の精神的支えにもなってくださいました。
    そういう経験をもとに私たちは今、「DCAT(Disaster Care Assistance Team)=災害時介護派遣チーム」というものを考えています。

    DCAT(災害時介護派遣チーム)

    • ソーシャルワーカー、介護福祉士、看護師などで構成
    • 徹底した研修
    • 36時間以内で駆けつける

    これのお手本は「DMAT(=Disaster Medical Assistance Team)」といって、日本には災害時医療派遣チームというのがあるんですね。お医者さんとか看護師さんが48時間以内に災害時に駆けつけるという制度はあるんです。 でも今回は、DMAT、お医者さん方の活躍の場はほとんどなかったんですね。津波のために生きているか死んでいるかで、空振り状態でした。でも、ケア事業所ではこの緊急時の介護派遣チームがあったらどれだけ助かったかわかりません。 また、ケア事業所の混乱だけでなく、同時に、発災直後から避難所も混乱の極みでした。どういうふうに混乱したかと申しますと、認知症の方が右往左往するんです。でも、ただ1人で右往左往するわけじゃないんですよね。例えば夜トイレに行きたいから立ち上がると「おばあちゃん、みんなに迷惑だから座ってて」なんて家族に言われる。自分がトイレに行きたいのに立ったことを非難されると興奮するわけですよね。本人が単独で興奮するわけではなく、相互関係によって興奮したりするわけなんです。そんな感じで、避難所でも認知症の方を理解したり、知ってる人が少ないために、興奮状態の人が多くなったり、避難所にいられない人が多くなるわけなんですね。 ですから、例えば認知症に対して多少なりとも知識のあるプロの専門家が避難所に駆けつけると、興奮状態になってしまうような人たちがもっと少なくて済むような気がしました。そういった意味合いからもDCATを、ぜひ日本でも早くつくってほしいと提唱しておりました。 その結果、今年の4月下旬に厚生労働省からDCATを各都道府県で考えてくれという通達を出すまでに至りました。

    町永

    1つの提言です。これまで救急医療チームはすぐに派遣され、全世界から今回の大震災にも来ましたが、ほとんど出番がなかった。内出さんがおっしゃっているように、津波という非常に切実な災害によって、生きているか死んでいるかという2つに1つだったから、たちまち帰ってしまった。必要だったのは救急介護と、それに続く生活支援の緊急性があった。そこが抜け落ちていたということです。
    立木さん、これらはどのようになるでしょうか?

    立木

    もう少し大きな視点で考えると、介護のサービスは生きていく上での必要最低限、絶対途切れてはいけないサービスだと思うんです。そういったことでは民間の企業なんかではやっているのですが、「BCP(Bussiness Continuity Plan)=事業継続計画」というものを考えている。これは災害時などに自分たちの決して止めてはいけない機能は何だろうかを絞り込んで、絶対続けるために必要な人手を確保するための計画を立てるものです。そのために応援協定を事前に結んでおくひとつとして、DCATが出てくると思うんです。もっと大きく言うと、災害のときに福祉事業者として何が大切か、いろいろな形で事業を継続するために事前に計画を立てておかなければいけない。しかし民間の企業と比べて福祉事業者の世界では、まだBCPの作成が遅れています。まさに、大きな文脈の中で、人、資源、コアな事業は何か、そういったことを事前に考えておかなくてはいけない。それは他人事ではなく、我が事として考えなければならないんだなと強く考えました。

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    復興計画への提案

    町永

    今回の大きな教訓として、緊急に介護、あるいは生活を支援するという体制がつくれるかどうかも議論の中にのっているということです。もう一度、青田さんの南相馬に戻ると、そうした人々がそこに入って、支援につながっていくかというと、また重苦しいところがあるわけですが、青田さんたちはそこを乗り越えて、訪問調査などの調査項目をもとに避難計画という1つの支援対策をつくりました。これは日本障害フォーラム(以下、JDF)で発表されて、大きな反響を呼びました。
    青田さん、改めてこの意味合いは?

    青田

    今回はたまたま個人情報がうまく出て、そこに支援につながったと思います。でも、もし南相馬市でもう一度同じような災害があって、出るかというと出ないかもしれません。今回は福祉部長や市長など人とのネットワークの中で出たっていう結果があります。形としてはきちっとした形で出ていますが、もしかしたら正式なルートは後づけだったかもしれないんです。人とのつながりがあったから出た。でもそれではダメなんです。その人たちがいなかったら、出なくなってしまうんですよ。だから平時の間に、ちゃんと個人情報が出て支援につながるっていう形をつくっておかないと、多くの人たちの命が危なくなるということです。皆さんの町にも要援護者リストがあると思います。でもそのリストが本当に活用されるかどうか、今回は残念ながら東北は出なかったんです。ということは、今のうちからそれが出るような形をきちんとつくっておかないと、災害が起きたときにはもう間に合わないということです。
    震災後、うちの事業所には障害者の大きな団体で、JDFが入ってきてくれました。うちの事業所では職員が3人しか残らなかったので、支援もできなければ調査もできなかったのです。ですから外にヘルプを出すしかなかったですね。それでJDFが入ってきてくれました。その人たちは、現在のべ1500人ぐらいになっています。調査は終わりましたが、支援はずっとつながっています。毎週5人ずつずっと来ていただいています。今年の12月まで入れてくれると約束してくれました。その人たちの支援があったから、私たちも元気をもらって、ここまで続いているんですね。 その人たちは、大船渡に来たチームのように普通のボランティアではないんですよ。障害者の世界で10年以上実際に活動してきた人たち。その人たちだけに入ってきてもらっているんです。当事者の目線がよくわかる人たち、話もわかる人たち。その人たちに入ってもらって支援を続けてくれたからこそ、中身の濃い調査であったり、支援につながったと思います。
    南相馬市はよかったねという話ではありません。本当に、どこの市町村でも出してもらうようにしないと、いつ、次、どこの地域で、また災害があるかもしれません。そのときに同じ思いをしていただきたくないなって、その強い思いがあります。

    町永

    青田さんから切実な思いで述べていただきました。善意のそれぞれ個別の支援も貴いものですが、それだけだとボランティアがいなくなればとぎれてしまう。青田さんのところでは訪問調査をしてきちんと避難計画をつくり、そしてどこの地域でも使えるような共有の財産とする。そういうことでしか今回の震災を乗り越えるような支援は形作れないのではないかと。
    青田さん、これはある意味、単なるマニュアルではなく共生の時代に向けての提言であるとも報告書に書かれていますが、そういった意味合いと考えていいですか?

    青田

    はい。JDFのホームページの中でも調査の内容は全部公開しています。その中を見てもらうとわかりますが、今思えばそうだろうなという人がほとんど残ってしまうんですよ。聴覚障害者は情報が入らないですよ。メールがまず来なくなりますからね。通常、メールやFAXに頼っているのですが、そのようなハードが全部なくなるんですね。盲の人たちも、テレビ・ラジオから情報が入るだろうと思うけど、そういう情報って、大きな情報しか読まないんですね。地域情報はテロップで流れるものを見るしかない。何も入ってこないんです。どうやって逃げたかというと、田舎だから隣近所の人が逃げるときに、「一緒に逃げないか」と言って逃げてるんです。でも避難所に行ったら、目の見えない人たちは「動線が全部ゼロからになってしまうから」とか、「みんなに迷惑かけるから」と、中に残ることを選択せざるを得なくなるんですね。だからおそらく皆さんの周りにも障害のある人たちがいたときに、そうやって残った。その人たちをどう助けるんだとなったとき、南相馬市は人口7万人だから何とかなりました。でも30、40、50万人の都市で福祉サービスにつながっていない人たちをどう網羅してどう支援するかは、今から動かないとダメだと思うし、でもそれは自分たちだけでできないとすれば、多くの人たちの知恵をかりていかないと、命を守れないかなと思っています。

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    長い目で見ること

    町永

    命が守れるかどうか、ぎりぎりの所からの1つの提言だろうと思います。月日がたって1年3か月。もちろん復興の道のりも見えてきたのですが、より困難な部分も浮き彫りになったと思います。それは個別に支援したものが、個別のままであってはいけない。それを寄り集め、システムにして、万一災害が再び起きた時に、命が守れるか、そういう手だてに合わせることができるかどうか。 青田さんの訴えはそこにつながるかと思います。
    湯浅さん、いかがでしょうか。

    湯浅

    青田さんのお話では、割と長い間の支援経験のあるJDFの人たちが調査されたということで、いろいろ充実したものが作れたと。これは専門家連携というか、専門的支援者連携というか、そういうことだと思います。
    もう1つ、「たすけっと」の話もそうですが、そういう人たちが頑張ると同時に、その姿を見ながら、まわりの地域の一般の人たちも変わっていく必要があるわけですよね。そうでないと避難所に行きたくても受け入れてもらえないだろうと思うしかない環境は変わっていかないので。そういう意味で言うと、一般の人たち、多くの地域住民の人たちが、こういうときに「こんなときに贅沢やワガママ言うな」という側に立つのか、あるいは「1人1人のニーズを組み上げていかないと」という意識を持つのか、ここが分かれ目になるんだろうと思います。避難は一瞬ですけれども、避難所の生活は今回は半年、仮設の生活はこれから何年も続くわけです。その暮らしをどう立てていくかというときに、普段からその地域の中にいろんな人たちがいて、発達障害のお子さんとか、自閉症のお子さんもいれば、耳の聞こえない人、目の見えない人もいるということを踏まえながら、基本的な対応のノウハウを地域住民が身につけていくのが、実は何かあったときに、5分の間にどこまで逃げるかという避難訓練と同じくらい重要な避難訓練なんだと。その意識が社会の中、あるいは地域の中に定着していくことが大事なのかなと思いますね。

    町永

    私たちのある意味での避難計画みたいなものは、まだ作り上げられていないのかもしれません。どう作り上げていったらいいのか。最後のビデオをご覧いただき、その後は現地報告の皆さんも含めて、これからどうこの共同体を考えたらいいのかを話し合うことにいたします。

    註:青田さん方が行った調査報告書については、JDFのホームページをご覧ください。別ウインドウが開きます。

    第1部『高齢者施設の津波体験 生死を分けたもの〜岩手県・赤崎町デイサービスセンター〜』の抄録

    第1部『障害当事者による当事者支援 〜宮城県・CILたすけっと〜』の抄録

    第2部『震災がもたらした施設・地域の変化 〜岩手県・赤崎町デイサービスセンター〜』の抄録

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    講師プロフィール

    写真:内出さん

    内出 幸美(うちで ゆきみ) 社会福祉法人 典人会 理事・総所長

    岩手県大船渡市生まれ。1994年に認知症専門デイサービスを立ち上げ、その後、グループホームや特別養護老人ホームなどを運営。東日本大震災時は津波によりデイサービス施設が全壊したが、迅速な非難により犠牲者はなかった。災害時の緊急介護派遣チームの創設に向けて活動をしている。

    写真:井上さん

    井上 朝子(いのうえ ともこ) 自立生活センターCILたすけっと事務局長

    1985年岩手県二戸市生まれ。出生時のトラブルで脳性まひの障害を持つ。2003年、養護学校卒業後、仙台市で「自立生活」を始める。「CILたすけっと」の当事者スタッフとして活動。東日本大震災直後から、障害者一人ひとりに救援物資を届けるなどの支援を展開している。 。

    写真:青田さん

    青田 由幸(あおた よしゆき) NPO法人さぽーとセンターぴあ代表理事

    1954年福島県南相馬市生まれ。2008年「NPO法人さぽーとセンターぴあ」を立ち上げ、「断らない」を合言葉に障害者の生活介護、就労支援事業に取り組む。東日本大震災では原発事故後に避難出来なかった障害者の支援や調査を行った。 。

    写真:立木さん

    立木 茂雄(たつき しげお) 同志社大学社会学部教授

    1955年兵庫県生まれ。専門は福祉防災学。阪神・淡路大震災後の被災者復興支援会議メンバーとして生活復興に向けた施策の提言活動を行う。東日本大震災後には、災害時要援護者への対応策を提言。著書に『市民による防災まちづくり』(共著)、他。 。

    写真:湯浅さん

    湯浅 誠(ゆあさ まこと) 反貧困ネットワーク事務局長、NPO法人自立生活サポートセンター・もやい事務局次長

    1969年東京都生まれ。95年よりホームレス支援、2008年「年越し派遣村」村長など、貧困問題に取り組む。著書『反貧困—「すべり台社会」からの脱出』で大佛次郎論壇賞を受賞。東日本大震災では、内閣官房震災ボランティア連携室室長として被災地支援にあたった。

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    フォーラム主催、後援

    主催

    NHK、NHK厚生文化事業団

    後援

    厚生労働省、東京都、日本障害フォーラム(JDF)、NPO法人地域精神保健福祉機構(コンボ)

    終わり

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