フォーラム「東日本大震災 そのとき福祉現場は
--被災経験から何を学ぶか--」抄録2

第1部 被災地からの報告 「生死を分けた情報とネットワーク」(後編)

目次

                           
  1. はじめに
  2. ビデオ:障害当事者による当事者支援
  3. 障害者にとっての避難所
  4. 障害者の掘り起こし
  5. 日常からのネットワーク
  6. ニーズにあった支援
  7. 被災体験と「自立生活」
  • 講師プロフィール
  • フォーラム主催、後援
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    はじめに

                 

    町永

    次は第2の報告です。
    東北で最も人口の多い仙台市にある自立生活センターCILたすけっとです。たすけっとは障害のある人の組織ですが、あえていえば障害のある当事者が障害のある人の支援に向かった。当事者が支援することとは一体どんなことなのか、そしてどんな役割を果たしたのか。まずはビデオでお伝えします。

    ビデオ:障害当事者による当事者支援

    ビデオの内容

    仙台市に、自らも被災しながら障害者の支援に立ち上がった人たちがいます。障害者が地域で暮らすことを応援するボランティア団体「たすけっと」の皆さんです。スタッフは障害者と健常者、合わせて10人。身体障害者の「自立生活」を支援するため、ヘルパー派遣のコーディネートなどを行ってきました。

    事務局長の井上 朝子さんは、当事者として、障害者の相談に乗っています。

    井上さんは、脳性まひで手や足に障害があるため、1日24時間介助が必要です。現在、マンションで一人暮らしをしています。着替えや身の回りのこと、入浴など、すべてヘルパーの手を借りながら、自分らしい生活を目指します。

    食事は、「自炊」です。野菜の切り方、いため方、味付け、一つ一つ細かく指示します。料理へのこだわりには、「自立生活」に対する、井上さんの考え方が表れています。

    (井上さん)
    「細かく指示を出すときは細かく出します。こだわりがあるところは。ぜったいに」

    「たとえ失敗しても、挑戦したい。自分のことは自分で決める」。井上さんはそんな暮らしをしたいと考えてきました。

    東日本大震災が起こったその時、「たすけっと」のメンバーは、事務所で会議中でした。震度6強の激しい揺れ。棚は倒れ、壁に亀裂が走りました。

    井上さんたちは、避難所に指定された小学校に移動します。しかし、大勢の人が詰めかけ、車いすの人には居場所がないように思われました。何より和式のトイレでは使えないため、井上さんたち「たすけっと」のメンバーは、事務所に戻ることを決断しました。

    震災後、町では、食料や生活用品、ガソリンがたちまち姿を消しました。こんな中では障害者は無事に生きていけないだろうと感じた「たすけっと」のメンバーは、全国から寄せられた支援物資を被災した障害者に届ける活動を始めました。

    菊地さんたちスタッフは、まず、自分たちの活動を知ってもらおうと、仙台市郊外の避難所を回りました。

    (菊池さん)
    「今ですね、障害者の方への物資の支援ということを始めまして。やっぱ障害ならではのニーズっていうのがいろいろあるかと思いまして。必要なものがあったら、うちのほうに言っていただければ」。

    避難所では、オムツや尿取りパットなど障害者や高齢者に必要なものが不足していました。避難所を回る中で、障害者を取り巻く厳しい現実にふれました。

    避難所をさけ、自宅に留まる人たちもいました。「たすけっと」は自宅で孤立しがちな障害者の支援に力を入れることにしました。

    Aさんは、たすけっとの支援を受けた一人です。震災後、自宅から一歩も外に出ていませんでした。Aさんは脳性まひで手や足に障害があり、日常生活に介助が必要です。震災で、電気、ガス、水道が止まってしまいましたが、避難所には行かないことにしました。

    (Aさん)
    「やっぱり避難所のトイレは使いづらいとか、あと、どうしても車いすだと4〜5人分の場所を取ってしまうでしょ。そうすると『あっちに行ってください』とかっていう感じに。遠慮して外にいるという話も聞くので。うちのトイレだと自分でもできますし」。

    震災から間もなくして食べるものが底をつきました。震災前から食材の宅配サービスを利用していましたが、それも途絶えてしまい、近所の人に譲ってもらっているということでした。そんな時に「たすけっと」の活動を知ったのです。

    宮城県内の状況を見て回ったスタッフが現状を報告しました。おむつや尿取りパットなどのニーズが高いことや避難所の実体などが報告されました。

    (スタッフ)
    「町には1,160人の障害者がいるはずという情報はもらったんですよ。なのに、実際避難所には1人も障害者らしき人は見当たらなかったんです」。

    活動を通じて、障害者が災害にあった時、何が必要か、隠れたニーズが見えはじめました。

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    障害者にとっての避難所

    町永

    ここからは「たすけっと」の事務局長 井上 朝子さんにお話を伺います。障害のある人にとって避難所がとてもつらかったと聞きますが、障害のある当事者として、井上さんご自身どうでしたか?

    井上

    私たちもまず、地震が起きた後すぐ一時避難所の小学校に向かったんです。小学校の体育館には大勢の方が避難されていて、車いすで一度入ってしまうと身動きが取れないんですね。私たちが行った時はまだ夕方の早い時間帯だったので、まだそこそこ床に空間があるようにも見えるんですが、車いすではとても方向転換すらできない状況でした。暗くなるにつれて体育館の中にますます人が入って来て、一般の方々も三角座りでないといられないような状況。トイレも使えないですし、横になることもできない。私たちは障害があって体に緊張が入りやすいので、できれば横になってちゃんと体を休めたいし、何よりトイレが使えないっていうのは一番の問題で。これ以上ここにいたら大変なので、動けるうちに事務所に戻りました。それで事務所を緊急の避難所として、何日間か使っていました。

    町永

    さきほど立木さんが災害のハザードもさることながら、社会の脆弱性が問題だとおっしゃいました。ビデオに出てきたように、避難所に行くことがたいへん困難なので、結局自宅で暮らしたり、井上さんたちのように事務所で寝泊まりしたり。これはまさに、避難して命は助かっても社会の脆弱性ではじき飛ばされてるような感じもするのですが。

    立木

    大変ショッキングな映像です。今回、災害時要援護者については安全なところに移動することにかなり精力をかけていて、避難先にいったら、そこで対応されるというのが当然視されていた。ガイドラインの中にも、福祉避難所を設ける項目はあったんです。で、今回は唯一、仙台市だけが福祉避難所の開設をやりました。トータルで280数人の方々の対応だったんですが、障害のある方はほとんどいなくて、多くは高齢者だったんですね。
    どうしてかというと情報が共有されていなかったんですね。仙台市では、二次的な避難所として福祉避難所を若林区と宮城野区については置くことになり、障害のある方については身体障害者福祉協会がやっているデイサービスセンターが福祉避難所になりました。本来一般の避難所でやっていただきたかったのが、例えば井上さんのようにトイレのことだとか、横になれないとか、一般の避難所では受け入れられない場合、福祉避難所につなぐことをしなきゃいけなかったんですが、避難所の応援に行った方にまでそういう情報がちゃんと共有化されていなかった。ですから、器としての仕組みはあったのですが、そこにつながってなかった。
    どうしてだろうかと考えると2つあって、まず福祉避難所のあり方について、どんなふうに運営するのかを当事者が一緒に入って計画を立てることがなかった。そのために、仕組みとしてはあったんけども、ほとんど障害のある方に使われなかった。計画の当初の段階から、当事者に一緒に入っていただくことがすごく大切だなということ。
    もう一つは、障害のある方が、ビデオの中の井上さんの生活の場面で、ヘルパーの方にいろいろ指図をされておられましたけれども、同じように災害時に障害のある方がどんなふうにしてもらう必要があるのか、社会はどんなふうに応じなければならないのかを教育する。ある意味それは当事者のある種の責務であるのではないかと思います。そういう両方がないと、前に進まないのかなと思いました。

    町永

    阪神、中越と様々な災害をかいくぐってきながら、なんで繰り返すのかという気もするし、まさに立木さんの言うように、当事者がそこに加わって事前にそうした対策をなぜ立てられないのか。これは第2部でもう一度考えていきたいと思います。
    たすけっとの活動に戻って、もう少し具体的なお話を伺いたいと思います。当事者が当事者を支援するという意味では大変大きな役割を果たしましたが、実際に関わった菊池さんはどんなふうにとらえていますか。

    菊池

    私たちのように避難所では生活できず、半壊のような自宅や事務所に戻って生活せざるを得ないことからすると、ほかの人たちも同じように考えているのではないか。施設で支援を受けている方たちはまだしも、自宅しか戻る場所のない方、なおかつ地域の中につながっていない方たちもずいぶんいらっしゃいますので、そういった人たちが一番困っているのではないかと思いました。そういったところに、どう支援を届けたらいいんだろうと一番最初に考えました。

    町永

    ビデオの中で、一般的に行政は公平に一括で支援できるけれども、当事者が何をいま必要としているのか、当事者だからこそ一番よくわかっている立場だという話し合いが行われていましたね。

    菊池

    行政ではオムツは支援してますというお話はありました。確かに1週間もすると、ずいぶんと大量の物資が運び込まれて、避難所を中心にそういう支援は行われていました。
    ただし、私たちみたいに個別に避難をしたというところまでは全然情報は届いていませんでしたし、なおかつ大量に物資が届く中で、ある程度画一的なものが届けられていました。オムツ1つとっても、高齢者用のものもあれば、大人用、子供用、または幼児用などいろいろあって、その中でもサイズもいろいろ。特に今回はお子さんのスーパービッグサイズが非常に足りなかった。私たちが普段かかわっている障害者はある程度全介助なのですが、トイレで排泄していましたから、そこまでオムツについて詳しくは知らなかったんだと痛感しました。それ以外にも人工呼吸器をつけた方であったり、ストマーをつけた方であったり、とにかくいろんな障害の方がいました。例えばカテーテル1本とっても、人によって太さ、用途、長さとか違うですね。それを無理に当てはめようとすると、そこには無理がきてしまう。その辺りまで細かく丁寧にやっていかなければ、その方の生活は成り立っていかないんだなと今回は感じました。

    町永

    井上さん、オムツ1つにとっても大変きめ細かいものが必要だったということですか。

    井上

    そうですね。その方1人1人の体型にあわせたものを届けたとしても、銘柄で質感とかもぜんぜん違いますし、やっぱり普段使っているものを使っていかないと肌荒れとかにもつながっていくので、私たちは銘柄とかサイズとか、非常に細かく気をつけながら希望を聞きました。

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    日常からのネットワーク

    町永

    メーカー名までちゃんと聞きとって、どのように支援につなげたのですか。

    井上

    障害者同士のネットワークで、自立生活センターの全国団体JIL(Japan Council on Independent Living Centers)があるんです。そこから物資を届けてもらうルートができたので、そちらに聞きとった要望をFAXして、届けてもらうような形でした。

    町永

    背景には東京や大阪などのCILがFAXで次々ときめ細かい要望を受け取って支援物資につなげたということですが、菊池さん、日頃からのそういった団体や組織のつながりが大きな力になりましたか。

    菊池

    はい、とても勇気づけられました。はじめ3月16日くらいに東京で災害本部を立ち上げたという連絡が入って、そちらから「物資が集まって仙台にも送るルートができたので、「たすけっと」で支援してみないか」と言われたんです。
    でも、『自分たちは被災者なのに…』と初めは思っていました。ただ、日頃のネットワークの中から物資がどんどん入ってくることができてくれば、そこで心のゆとりができて、同じように困った障害者を後押しするためにも、我々も1つになっていかなければということで決断しました。

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    障害者の掘り起こし

    町永

    被災者が被災者を支援する、障害者が障害者を支援するという、全く新しい取り組みだと思いますが、菊池さん、ビデオでもご紹介しましたが、話し合いの中では1,160人の障害者がいるはずなのに、1人も見当たらなかったということで、避難所にいられなくて、在宅で埋もれている人がいるに違いないと。そこで菊池さんたちが、ガソリンの残りに注意しながら、いろんな場所を訪問していく活動になりました。そこでまずはチラシを配ったんですね。

    菊池

    「被災した障害者の皆さんへ」というチラシを配りました。私たちは被災した全員を支援していくほどの大きな力を持っていないので、あくまで障害者の視点で支援していきたいという思いだったものですから。
    まず避難所に行ってチラシを配ったのですが、そこで返ってくる言葉は、「うちの避難所には障害者はいません」と。確かに中を見ても、井上のように車いすで生活しているとか、避難している方はいなかったのです。しかし実は、知的障害のある方や精神障害、または聴覚障害や視覚障害というコミュニケーション的な障害のある方たちがずいぶんいました。それは、4月くらいから大勢のボランティアの方が「たすけっと」に入ってきて、避難所を再度洗い直したところで判明してきたんです。

    また、チラシを配って在宅の人を支援していきたいというところでは、やはり個人情報という問題が1つ出てきまして。どこにどなたが住んでいるのか、なかなか分からないものですから、それだったら逆に困っている人自身が手を挙げてくるだろうと思われる場所、例えば、役所の福祉担当であるとか、ボランティアセンター、福祉事業所関係、そういったところを中心にチラシをばらまいて、障害のある人で何か困ったことやこういったものが欲しいというニーズがあったら、ぜひ声をかけてくださいと広報活動を行っていきました。

    町永

    チラシを配ったとき、最初はその場の担当者に相談するわけですよね。反応はどうだったのですか。

    菊池

    来たら渡しておきますというぐらいでした。なので、初めはあまり反応はよくなかったのですが、地元紙とNHKで取り上げていただき、その後、ようやく電話が入ってくるようになりました。

    町永

    情報が力になるんですよね。きちんとした情報がいかに足りないか、特に障害のある人への情報はとてもか細いものだったのですが、チラシという、ある意味とてもプリミティブでアナログな形ですが、これでずいぶん電話がかかってきたんですね。

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    ニーズにあった支援

    井上

    電話がかかってくるようになったもう1つの理由として、私たち障害者スタッフがヘルパー事業所や障害者関係の施設などを一つ一つ電話で「今の現状はどうですか。何か欲しいものはありませんか」とチェックをしていたということもありました。

    町永

    完成された形の支援があったわけではなく、走りながら考えた。チラシを出してみて、そこからの反応で次に何をやればいいのか、だんだんたぐりよせるようにして見えてきたと考えていいですか。

    井上

    そうですね。とりあえず何か動かなければならないという使命感というと大げさですが、自立生活センターとしてもともと地域の中で障害のある人が生活することを支援してきたので、地域にいる障害のある仲間をどうにか助けたいというか、自分も避難所にいられなくて引き返した立場なので、同じ当事者として何かしなければならないというのがまずありましたね。

    町永

    内出さん、施設という現場で働く方ならではの分かり方があるかと思いますが、これまでの話しをどう聞きましたか?

    内出

    私たちは普段、認知症の人たちと暮らしているんですけれども、いつもその人の立場になって接していたかなと、いま自問自答していました。

    町永

    支援というと、無意識に支援する側か支援される側に分かれてしまいがちですが、被災者が被災者を支援する、障害のある当事者が当事者を支援するという関係性。湯浅さん、どうとらえましたか?

    湯浅

    だいぶ私も避難所を回りましたけれども、今日のような落ち着いた場で、「人には1人1人ニーズがあって、それは個々別々で当たり前なんだ」という話を聞けば、もちろん、そうだという話になるんですが、災害のあった場では、「こんな大変なときにわがまま言うな、贅沢言うな」という力が非常に強まる。皆さんが被災者で余裕のない中で集まっていて、管理する人ももともとの住人だったりして、要するにみんなに余裕がなくなっちゃっているんですよね。そういうときに、1人1人のニーズみたいなことを言われても、「これしかないんだから文句言うなよ」っていうふうな反応が出やすくなる。
    そういう意味では避難所のトイレの話がありましたけれども、物質的なバリアというものの一方で、意識のバリアが強くなると思うんですね。ただ、それは被災地だけの問題じゃなくって、日本全国そうなってきている。みんなの生活、暮らしが大変だっていう中で、1人1人の暮らし、ニーズみたいなことを言うと、「贅沢言うな、みんな大変なんだから何言ってんだ」みたいな声が強まっていることを考えると、避難所の大変な状況の中でのプレッシャーは、社会の縮図の1つだなと思いますね。そういうとき、どうするかと考えると、2つだと思うんです。
    1つは井上さんや菊池さんのように、誰がどう言おうと私たちはこうやるんだという強い気持ちを持って、贅沢言うなと言われることにめげない人たちをちゃんと支援できる体制を作っておかなくてはいけない。その人たちが動きやすい準備をしておかなければいけない。
    もう1つは、それが周りに示される中で、自分たちにとっての当たり前だったよなというのを取り戻してもらわないといけない。その2つが合わさっていくことで、避難所でも地域でも社会でも、今ここで落ちついて話して「そうだよね」って言えることが、どんなときにも「そうだよね」って言えるようになる必要があると思うんですよね。

    町永

    つまり、「これはあなたの問題ですよ」と問いかけられているということでもありますね。そういった意味では、発達障害などのお子さんも避難所にいて、そこの状況もとても大変で、支援もとても大変だったそうですが、菊池さんどうですか?

    菊池

    避難所では最初はみんな、こういう緊急事態ですからお互い様ということで許してもらっていたのが、1か月もたつと、「何だ、あそこの家の子どもは夜中も騒いだり走り回ったり、親のしつけがなってないじゃないか」という話も出てきました。そうなると、その子の家族はその避難所に居づらくなってしまって、例えば夜は外にテントを張って生活せざるを得ないとか、車の中で寝なければならなくなって。その子のことを調べていくと、DVDが好きで見ているととてもおとなしくて、逆に周りの人も、見せて見せてってその子の周りに集まってきて、子どもたちの中心になっていって、そういった中で落ち着いていったということもありました。とにかくその子に合ったものは何なんだろうと考えていくことで問題解決が図られるということもありました。

    町永

    たすけっとの物資支援は8月中旬まで続けられた訳ですが、震災直後から1か月以上たってくると物資が変わってきました。ゲーム機器やDVDプレイヤー、こんなものなんで支援に必要なのかと言われるものを、あえて支援物資に入れていったということになりますね。

    菊池

    初めはゲーム機器とか入れ始めたらきりがなくなるのではと怖かったんですが、現地に行って顔を見て、話をしてきたボランティアさんたちが、「これは絶対この子には必要だ」と強く訴えかけてくるんです。それで、その人にあったものであれば、必要なんだから何でも渡していこうと。活動する中で一番大切にしたいと思っていたものは、顔と顔の見える関係ですね。その人がなぜそういった環境においてそういったものを必要としているのかをちゃんとお話したり、顔色や状況を読み取った上で、その人に合った支援をということを大切にしました。

    町永

    立木さん、ご専門の防災や支援対策を考えると、さきほど湯浅さんが言ったように、みんな同じなんだから贅沢言うなっていうようなところを、どう共感力をもって、そこを突破するか。あるいは今、菊池さんがおっしゃったように顔の見える関係のようなものを、どう支援対策というシステムにのせていくか。この辺りをどうお考えですか。

    立木

    ものすごく大きな盲点だと思うんです。阪神・淡路大震災以降、基本的に災害が起こると外からボランティアがやってくることが支援の前提で、今までの災害対策が進んでいました。外からボランティアがやって来ると、公的な制度が提供する企画化・標準化されたサービスに加えて、かゆいところに手が届くような個別化されたサービスをたくさん提供してきていた。
    ところが今回の場合は、ガソリンが手に入らなくなって、直後に大量にボランティアが本来必要とされていたときに入れなかった。そのために、個別化されたケアを担ってくれるはずの人手が圧倒的に足りなくて、自助で、あるいは共助で、互助で乗り切られた。ある種の互助ですよね。確かに阪神のときも、当事者の団体の方々が自分たちで助け合ったといったこともあったんですが、それに加えて、例えば避難所で子どもと遊ぶ大学生のボランティアが被災直後から入ってきて、遊びのグループをやったり、個別のケアのインフォーマルな支援があったんですね。今回は構造的な問題、流通の問題、あるいはガソリンの問題などがありましたが、万が一ボランティアが来なかったらどうなるんだということを考えさせられました。

    町永

    まさに空白を埋めていったのが当事者支援「たすけっと」の活動だろうと思います。裏返せば課題が浮き彫りになった。公助がまだ発動しないとき、行政機能がまだまだ動き出さないときに共助でどう乗り切られるか、地域にそういった力があるのかどうかを点検する必要があると思います。

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    被災体験と「自立生活」

    町永

    第1部の最後に湯浅さん、たすけっとの井上さんは、障害で24時間いろいろヘルパーの支援をかりながら、自分らしい暮らし、自立生活を営んでおられます。このことと災害支援というのをどうつなげて考えればいいでしょうか。

    湯浅

    さっきの話と同じになりますが、井上さんの前で私が言うのも何ですが、「自立って何か」ってことだと思うんですね。
    私もホームレスの人たちと一緒に活動してきたので、自立しろってずいぶん言われたわけです、今でも。それはホームレスの方に限らず、引きこもりの方とかフリーターなど、いろんな人たちに同じ言葉が使われますが、要するに経済的に自分で稼いで自分で暮らせるようになれということなんですよね。なんだけど、「自立」ってもともとそういうことじゃないだろうって、私たちは障害者運動の人たちから学んだ。自分のお財布と相談しながら自分の夕食を決められる。こういうことが「自立」なんだということを学んだ。誰かにメニューを全部決められて、今日はこれだから嫌だったら夕飯はなしだと言われる生活から、自分で食事とかをコントロールできる生活ですよね。そういう状態というのがいま、大きな災害が起こり、障害・高齢の人に限らず、多くの人から奪われているわけですよね。しかも被災地じゃなくても奪われている人はいっぱいいる。そのことを、一人ひとりが取り戻していくっていうのが、いわば生活の復興ということなんだと。実はこれ、災害が起こらなくても、なくてはいけない考え方で、取り戻すべく、日々努力しなければいけないことだろうと思います。

    町永

    支援を前提として、自分らしい暮らしができるかどうか。それが当たり前なんだという社会に私たちは戻れるか。そこに至るまでが復興への道筋だろうと思うんですが、井上さん、いま震災から1年3か月たちますが、ご自分の生活は元に戻っています?

    井上

    そうですね。震災当初1年間は、被災地障害者支援センターみやぎとして、被災した障害のある仲間を助けていく活動を主にやっていたんですけれども、いまはやっと「たすけっと」本来の自立支援の活動にどんどんつながっていくようになっています。私自身の生活もずっとすっと落ち着いてきているかなと思います。

    町永

    「これが本当に当たり前の生活なんだ」と肩身狭くではなく、堂々と井上さんのように「私の自立した暮らし」と言えるかどうか。それは障害のあるなしにかかわらず、私たちが暮らしの復興を1つの目標地点と見据えながら、第2部の話し合いに進んでいきたいと思います。

    第1部『高齢者施設の津波体験 生死を分けたもの〜岩手県・赤崎町デイサービスセンター〜』の抄録

    第2部『原発事故で取り残された障害者・高齢者 〜福島県・デイさぽーと ぴーなっつ〜』の抄録

    第2部『震災がもたらした施設・地域の変化 〜岩手県・赤崎町デイサービスセンター〜』の抄録

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    講師プロフィール

    写真:内出さん

    内出 幸美(うちで ゆきみ) 社会福祉法人 典人会 理事・総所長

    岩手県大船渡市生まれ。1994年に認知症専門デイサービスを立ち上げ、その後、グループホームや特別養護老人ホームなどを運営。東日本大震災時は津波によりデイサービス施設が全壊したが、迅速な非難により犠牲者はなかった。災害時の緊急介護派遣チームの創設に向けて活動をしている。

    写真:井上さん

    井上 朝子(いのうえ ともこ) 自立生活センターCILたすけっと事務局長

    1985年岩手県二戸市生まれ。出生時のトラブルで脳性まひの障害を持つ。2003年、養護学校卒業後、仙台市で「自立生活」を始める。「CILたすけっと」の当事者スタッフとして活動。東日本大震災直後から、障害者一人ひとりに救援物資を届けるなどの支援を展開している。 。

    写真:青田さん

    青田 由幸(あおた よしゆき) NPO法人さぽーとセンターぴあ代表理事

    1954年福島県南相馬市生まれ。2008年「NPO法人さぽーとセンターぴあ」を立ち上げ、「断らない」を合言葉に障害者の生活介護、就労支援事業に取り組む。東日本大震災では原発事故後に避難出来なかった障害者の支援や調査を行った。 。

    写真:立木さん

    立木 茂雄(たつき しげお) 同志社大学社会学部教授

    1955年兵庫県生まれ。専門は福祉防災学。阪神・淡路大震災後の被災者復興支援会議メンバーとして生活復興に向けた施策の提言活動を行う。東日本大震災後には、災害時要援護者への対応策を提言。著書に『市民による防災まちづくり』(共著)、他。 。

    写真:湯浅さん

    湯浅 誠(ゆあさ まこと) 反貧困ネットワーク事務局長、NPO法人自立生活サポートセンター・もやい事務局次長

    1969年東京都生まれ。95年よりホームレス支援、2008年「年越し派遣村」村長など、貧困問題に取り組む。著書『反貧困—「すべり台社会」からの脱出』で大佛次郎論壇賞を受賞。東日本大震災では、内閣官房震災ボランティア連携室室長として被災地支援にあたった。

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    フォーラム主催、後援

    主催

    NHK、NHK厚生文化事業団

    後援

    厚生労働省、東京都、日本障害フォーラム(JDF)、NPO法人地域精神保健福祉機構(コンボ)

    終わり

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