皆さんは2011年3月11日をどんなふうに過ごしたのでしょうか。この3・11という日を境にして、日本の社会は大きく変わらなければならない、変わるべきだという声があります。1年3か月が経とうとしていますが、今なお被災地はつらさ、困難さの中にいます。歳月がたてばたつほど、解決するのではなく、逆に深刻さ、困難さも増している部分があります。いま被災地で何が起きているのか、そのことを今日、皆さんにお伝えすることを通じて、これからの日本の共同社会のあり方へのヒントを指し示すことができればと思っています。
今日は現地の報告から、生々しいあのときの感覚をよみがえらせつつ、希望につながるフォーラムにしていこうと思っております。
登壇いただいたのは、被災地から4人の方、そしてコメンテーターとしてお2人お迎えしました。 まず被災地からお越しいただいた方をご紹介します。
1人目は、岩手県大船渡市の社会福祉法人典人会 総所長の内出 幸美(うちで ゆきみ)さんです。
内出さんは三陸海岸で高齢者施設を運営されていますが、1人の犠牲者も出すことなく済んだということであります。それは一体どんな取り組みだったのか、ご報告いただきます。
2人目は、宮城県仙台市のCILたすけっと 事務局長の井上 朝子(いのうえ ともこ)さんです。
井上さんは障害があります。当事者が当事者を支援したことの意味合いについてお話を伺います。
3人目は、井上さんと同じくCILたすけっとのスタッフ 菊池 正明(きくち まさあき)さんです。
被災直後から障害者へ支援物資を届けました。
4人目は、福島県南相馬市のNPO法人さぽーとセンターぴあ 代表理事の青田 由幸(あおた よしゆき)さんです。
南相馬市は原発の半径30キロ圏内にあります。見えない、重苦しいリスクといまなお立ち向かいながら、障害のある方の支援をし、その在り方を提言なさっています。
コメンテーターは、
同志社大学 教授の立木 茂雄(たつき しげお)さん。
反貧困ネットワーク 事務局長の湯浅 誠(ゆあさ まこと)さんです。
立木さんは福祉防災学を提唱され、災害時要援護者の制度にもかかわって提言されています。東日本大震災から1年3か月たちますが、震災をこの時点でどうとらえればいいと思っておられますか。
まだ災害は終わっていません。私たちはまだ災害過程にいます。これから10年ぐらいはかかるであろう長い長い生活の再建、復興のプロセスが始まります。それぐらいの大きな災害だったということです。この1年間で見えてきた課題がありますが、これから生活の再建に向けてどんなことが課題になるのか、まだ明らかにされていない課題を、今日明らかにできればなと思います。
湯浅さんは震災直後から現地に何度も入り、内閣官房震災ボランティア連携室長としても1年間活動なさいました。この震災からの1年をどんなふうに考えていますか。
被災地での課題は空間的にも時間的にも、被災地に限定されないものだと思っています。空間的には、被災が大きかった東北3県だけでなく、日本全体のいろいろな課題が凝縮されています。時間的には、震災があったから起こってきた課題というよりは、震災前からずっと引きずっていて、震災によって浮かび上がってきたことが多いということです。そういった意味では、日本社会のいろんな課題がぎゅっと凝縮して見えるようになっているのが、いまの被災地だというとらえ方をしています。被災地を考えることは、日本社会のこれからを考えることだと思っています。
今日の構成は次の通りです。
被災した東北3県の方々の経験から、私たちは何を学ぶのか。そして、これからの地域づくり、社会づくり、さらにはこの国をどう考えていったらいいかを話し合っていきます。
未曾有の災害であったことも含め、とりわけ福祉施設、障害のある人にとってはとても大きな被害をもたらしました。立木さん、これをどう考えればいいですか。
「災害」は、2つの大きな要素からできあがっているんです。
津波、地震は確かに災害を引き起こすきっかけになるものを、防災の世界では「ハザード」と呼びます。けれども誰も住んでいないところに津波が来ても被害は生じません。ということは、人が住んで生活を営んでいるところに「ハザード」が襲い、しかも狙われるところは社会の弱い部分、そこに「ハザード」が重なることによって災害が生まれるんです。だから、津波だろうが、地震だろうが、「ハザード」に対して、どういった脆弱性が社会にあり、どう手を打てるかという視点を合わせて考えていくと、いろいろな災害に対して効果を発揮すると思いますし、より安全な社会をつくることができるのだと思います。
いま、日本の社会は災害の多発期に入ったと言われています。1995年の阪神淡路大震災がきっかけになり、それ以後、たくさんの地震・災害が日本列島を襲っています。東京も首都直下型地震がいつ来てもおかしくないと言われていますし、西日本の南海、東南海、東海という大きな地震が来ることも想定されています。
さらに20世紀の最後の40年間で、台風で亡くなった方は163人ですが、災害時要援助者の問題を考えるきっかけになった新潟福島豪雨水害があった2004年の単年度に気象災害で亡くなられた方が160数人。過去40年間で亡くなられた方と、2004年の1年間で亡くなられた方の数がほぼ一緒になっている。気象災害も大きな災害多発期に入っているんだと思わなくてはいけない。災害はよそで起こることではなく、この私に、いつ起きてもおかしくない、我が事として考えなければいけないと思います。
災害を防ぐことはできない、備えることはできないということで、最近「減災」という言葉をよく聞きますが。
日本は高度経済成長期のときに、ダムを作ったり、堤防をしっかりしたりと、防災という意味では頑張ってやってきました。けれども、想定していた以上の被害が起きています。そういうときになるべく被害を少なくしようというのが減災の考え方で、それはとりもなおさず、私たちの社会にある脆弱性を人の手で何とか改善していこうとすることです。防災と減災2つ合わせてこれからは安全・安心を考えていこうというふうになってきています。
立木さんのおっしゃったように社会の脆弱性が問われているというのは、大変大きな視点だろうと思います。
今回、障害のある人、かなり多くの方が犠牲となられました。それは障害のためであってはならないのです。社会の脆弱性がそうした人々の命を奪ったのかもしれない。つまり障害のことを考えるとき、社会の側に責任がある、責務として備えなければならない、減災をしなくてはいけないという視点にもつながるだろうと思います。
それでは、まず現地からの報告ということで、内出さんにご報告いただきたいと思います。内出さんは多くの高齢者施設を運営されていますが、1人の犠牲者も出さなかった。そのひとつ、岩手県赤崎町のデイサービスセンターではある取り組みが大きな役割を果たしました。そのビデオからご覧いただきます。
ビデオの内容
岩手県大船渡市。ナマコやアワビの豊かな漁場として知られたこの海で、津波によって400人以上が犠牲になりました。
津波で多くの失われた命があった一方、施設職員の適切な誘導によって、津波からから逃げおおせた人たちがいます。金野 幸子(きんの さちこ)さんも、その一人。91歳、認知症です。
震災当日まで幸子さんが通っていたデイサービス事業所「赤崎町デイサービスセンター」は、海から500メートルの町の中にあったため、津波ですっかり流されてしまい、入り口の門柱だけが残りました。
建物は、140年前に建てられた民家を改修したものでした。昔懐かしい雰囲気の中で、お年寄りたちが、食事や畑仕事をして、日中を楽しく過ごしていました。
東日本大震災の2日前、三陸沖で地震が発生。津波注意報が出されたため避難を開始しました。そのとき職員たちはどうしたら利用者にすばやく避難してもらうことが出来るか、と考えました。
お年寄りが、自分の持ち物にこだわりがあることを思い出し、持ち物を玄関に並べました。作戦は成功。玄関に出てきたお年寄りにそのまま車に乗ってもらいました。
ところが、幸子さんだけがトイレに入って出て来なくなってしまったのです。どんなに呼んでも、頼んでも、トイレから出てきません。出てきた時には、30分以上が経過していました。
夕方、デイサービス管理者の河原さんたち職員は、この日の避難について話し合いました。そして万が一の時は、ドアを無理やり外して、男性職員が担ぎ上げてでも逃げようと決めました。
そして、3月11日、午後2時46分、東日本大震災が発生。震度6強。防災無線で津波警報が伝えられ、河原さんたち職員は、直ちに避難行動を開始しました。その時、またもや幸子さんがトイレに入ってしまいました。しかし、打ち合わせどおり、職員がトイレの戸を外し、幸子さんを担ぎ上げて車まで運び、1.5キロ離れた高台にある施設に避難しました。
高台にある施設に到着したのは、午後2時55分。地震発生から10分足らずで、避難を完了したのです。その20分後、大船渡の町に津波が到達し、多くの家や車、人の命を押し流しました。
(河原さん)
「今回私たちが助かったのは、津波ってものを知っていたからです。何で知ってたかというと、高齢者の方々から教えられてた部分が大きいんです。それこそ、地震があればお年寄りの皆さんは津波の話しかしないんじゃないかってくらい、ほんとに耳にタコができるくらい聞いてた話なので。ただ『ほんとにそんなの来んのかよ』みたいな気持ちはあったんです。でも体に染みつくくらいお年寄りが言ってくれていたおかげで自分たちが助かったので、逆に今後は私たちが、自分たちの子どもだったり、孫だったり、子孫とかにどんどん語り継いでいかなければ。千年に一回と言っても、千年後まで私たちの考えが伝わる活動をしていければいいかなと思います」。
内出さん、3・11で忘れている方もいるかもしれませんが、2日前に津波注意報が出る地震があったんですね。そのときは訓練したが、うまくいかなかったわけですよね?
そうですね。このビデオにもありましたように、いつもトイレに入っているお年寄りがいて、9日もやはりトイレに入っていました。
そうすると、東日本大震災のときに1人の犠牲者も出すことがなかったというのは、あえていえば失敗したから。失敗をうまく取り込んだからということになりますかね。
そうですね。震災の2日前、トイレに入っていたおばあちゃんをどうにかして助けるために40分くらいかかったんです。それだけではなく、お年寄りのケース記録を持ち出せなかったり、反省が山のようにありました。その日の夕方のミーティングで、『このままでは本当に津波がきたらダメだ』と職員全員が反省して、何と何と何を持ち出したらいいのかとか、どういうふうにトイレにこだわる方に対処したらいいのかなど、いろんな反省材料について徹底的に話し合いをしました。それが活きたのかなと思います。
内出さん、避難する時、お年寄りの持ち物を玄関までみんな持っていったというのは?
お年寄りって、認知症であるかないかにかかわらず、自分の持ち物にこだわるっていう特徴があると思うんですね。ですから、大きな地震があって逃げるときにパニックにならないように、最初に「持ち物が玄関にあるよ」とお年寄りたちに伝えれば、パニックを起こさずに自然と玄関に出ていただけるのかなと考えました。
ご高齢の方に、何かあったとき逃げようと言っても、部屋に荷物があるからと取りに行ってしまう。すると対応が間に合わない。まず持ち物を職員が玄関に持って行って、「玄関にあるよ」と言えば、みんな来るだろうと。日頃の観察のようなものが必要ですよね。
お年寄りを知る、理解するというのは、日頃の心構えが大切なのかなと感じます。トイレに閉じこもってしまったときの対応も、日頃の見方・理解が活きたと思います。
扉を外して避難させようって、震災が起きた時は上手くいったと思います。でも、何もないとき、トイレの扉を外して、引きずり出してでも避難させようという結論に至ったのは、結構思い切った対応かなと思いますが。
40分かかったという失敗から学んだってことがあると思います。それにいつもお年寄りとお話しをする際に、「地震がきたら津波と思え」と、本当に耳にタコができるほどお話をされてたんですね。ですから、こういう大きい地震があったら必ず津波がくると、私たちも思いました。それで外してでも行こうという態度に出たんだと思います。
それは職員の見解よりも、日頃から、「地震が来たら津波だ」っていう、利用者さんから教えられていたことが活きたと。
そうですね。利用者さんから毎日のように教えられていたのが活きたんだと思います。私たちの施設は若い職員も多いので、このビデオを見ると職員が助けたような感じですけれども、そうではなく職員たちが口々に言うのは、「お年寄りに『地震が来たら津波と思え』という教訓を毎日のように聞かされていたからこそ、言ってみれば、お年寄りがいたからこそ、逃げられたんだ」ということです。
日頃から地震が来たらすぐ逃げなければいけないと言われていないと、トイレの扉を外してまでとはなかなか思わなくって、まあしょうがないかな、別のことを考えましょうで話し合いが終わっていたかもしれませんね。
さて、内出さんたちの施設では、施設にいた人だけでなく、デイサービスを利用しているけれども、その日は自宅にいたという人も犠牲にならなかったということですね。
私たちのデイサービスに週に4回通っている方がいらっしゃいまして、3・11の日はちょうど利用日ではなかったんです。ただ毎日のように利用されているので、その人のことが心配だったんです。
ですので、私たちが逃げる途中に家に寄りました。そうしましたら、その方がいらっしゃらなかったんですね。どうしたんだろう、もしかして先に誰かが助けたんじゃないかと思いまして、避難所に向かいました。そうすると、その方がいらっしゃったんですね。
実は、私たちが駆けつけるすぐ前に地元の民生委員の方と一緒に避難していたんですね。その方はその日お姉さんと一緒にいたそうなんです。大きな揺れがあったときに、お姉さんが「あなたは誰かが助けにくるから、大丈夫だからここにいて」と言って、お姉さんはいち早く逃げていってしまったそうです。
そのあとすぐに民生委員の方がかけつけて助けてくれた。私たちも駆けつけたんですが、すでに避難していたってことなんですね。私たちの地元は、セーフティーネットが二重にあったということでしょうか。
日頃から地域の方は、認知症の方がそこに暮らしているのをご存じだったんですか
そうです。地域にはマップみたいのがありまして、ここにはこういう認知症のお年寄りがいるとか、みんな頭の中に入ってたんですね。
お姉さんと一緒に暮らしていて、お姉さんが認知症の人を置いて先に逃げちゃった。はた目から見ると置いて逃げちゃったことになりますよね。立木さん、どうお考えになりますか。
今回の震災で、津波がきたらそれぞれバラバラに逃げろという「津波てんでんこ」みたいなのがいいんだ、みたいに思われがちなんですが、実はお姉さんが逃げたのは、この認知症の方には誰か支援者が駆けつけてくれることを知っておられて、だから任せられた。みんながそれぞれに自助や共助をするっていうのが「津波てんでんこ」の本当の意味だと思うんですね。
内出さん、「津波てんでんこ」っていうのは、勝手に逃げろではなく、実は地域の支えがあるという前提があって、共に助かろうということなんですね。
地域の力を信じていたからこそ、お姉さんはいち早く自分も逃げられたということだと思います。ただ、その反面こういうケースもありました。認知症を隠していた夫婦がいまして、旦那さんが認知症で、奥さんがそのことをどうしても地元の人たちに隠したいと。そういう家庭には誰も助けに駆けつけられなくて、夫婦ともども命を失ったという例もあります。ですから、いかに地域にオープンにしていくかが大切なんだなと、こういった事例からもわかります。
大船渡でのデイサービスセンターでの取り組みでは、2日前の失敗の経験が大変に役立ったということですが、立木さん、福祉防災学が専門の立場からはどうとらえていますか。
地域とつながっていたというは自然に起こったことではなくて、2005年3月から要援護者対策として国がガイドラインを全国各市町村の防災あるいは福祉の担当者に配りました。そして、民生委員さんには気がかりな人がどこにいるのかを把握してもらうという取り組みを始めていました。これとうまくつながったのだと思います。
だけど、一番大切なことは、自分がここにいることを知ってもらう決断、それが命を救うことにつながった。共助のつながりはあるのですが、私は1人では逃げられなくて助けてもらう必要がある、私にはいろいろな不自由があることを知ってもらって構わないんだと自己決定していた。それが自助となり、共助につながったんだなと思いました。阪神淡路大震災のときに火災や崩壊で生き埋めになって助かった人もいらっしゃいます。その方々にどうやって助かったかと聞きますと、自助が3分の1、共助が3分の2、公助は0.7%でした。普段は公的な援助があるから自分は大丈夫と思っていても、その公的な援助がつながらない事態を、我々はどう考えていられるか。そうすると、自己決定、自助、そういうものが大切になってくるんだなと、今の話しを聞いていて思いました。
自分の命を守る。それはもちろん自助だけでなく、共助が大きな力になった。地域の力といってもいいと思います。湯浅さん、1人の犠牲者も出さなかった施設についてどう思いますか。
トイレに入ってしまったことを、職員の皆さんが話されて、誰が突破するかまで含めて、きちんと対応を決めていたのが印象的でした。1000人亡くなった、1万人亡くなったというと、どうしても数で見ちゃいますけど、どういう方が亡くなっているかを見る視点が大事だと思います。いざというときにはイレギュラーな動きが起こる。そういうときに、誰がそのイレギュラーな動きに対応するかを事前に決めて、その人がその役割を全うするか。この施設の取り組みから私たちが受け取るべきなのは、イレギュラーなことがあったとき、原発事故の話に似てきますけど、想定外だったからしょうがないよねとしてしまうのか、何かが起こることを前提にいろいろ準備をしておくのかということであり、自分の家庭とか職場に持ち帰って、イレギュラーなことが起こることを前提に何ができるのか話すことかなと思いました。
原発事故は想定外で済ませられないというのは、規模の問題ではなく、一人ひとりの命、暮らしにかかわっているということです。確かに私たちは犠牲者やその被害の大きさに圧倒されますが、内出さんの施設の取り組みは、マニュアルではなく、この人にはこうしたらいいとか、お年寄りは持ち物にこだわるから玄関に持って行くとか、1人1人の顔がちゃんと見えている人間関係があったからこそのものだと思います。
そうですね。本人と向き合う中から見えてきたノウハウとか、本人の持ち物というツールをどう活かすかとか、細かいノウハウの積み重ねなんだと思うんですよね。
細かいノウハウを共有するには、マニュアル的に共有するのではなく、自分たちの問題としてどうとらえるかがとても大きいのかもしれません。 ここまでは大船渡でのデイサービスセンターの報告をもとに話し合ってきました。
第1部『障害当事者による当事者支援 〜宮城県・CILたすけっと〜』の抄録
第2部『原発事故で取り残された障害者・高齢者 〜福島県・デイさぽーと ぴーなっつ〜』の抄録
第2部『震災がもたらした施設・地域の変化 〜岩手県・赤崎町デイサービスセンター〜』の抄録
岩手県大船渡市生まれ。1994年に認知症専門デイサービスを立ち上げ、その後、グループホームや特別養護老人ホームなどを運営。東日本大震災時は津波によりデイサービス施設が全壊したが、迅速な非難により犠牲者はなかった。災害時の緊急介護派遣チームの創設に向けて活動をしている。
1985年岩手県二戸市生まれ。出生時のトラブルで脳性まひの障害を持つ。2003年、養護学校卒業後、仙台市で「自立生活」を始める。「CILたすけっと」の当事者スタッフとして活動。東日本大震災直後から、障害者一人ひとりに救援物資を届けるなどの支援を展開している。
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1954年福島県南相馬市生まれ。2008年「NPO法人さぽーとセンターぴあ」を立ち上げ、「断らない」を合言葉に障害者の生活介護、就労支援事業に取り組む。東日本大震災では原発事故後に避難出来なかった障害者の支援や調査を行った。
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1955年兵庫県生まれ。専門は福祉防災学。阪神・淡路大震災後の被災者復興支援会議メンバーとして生活復興に向けた施策の提言活動を行う。東日本大震災後には、災害時要援護者への対応策を提言。著書に『市民による防災まちづくり』(共著)、他。
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1969年東京都生まれ。95年よりホームレス支援、2008年「年越し派遣村」村長など、貧困問題に取り組む。著書『反貧困—「すべり台社会」からの脱出』で大佛次郎論壇賞を受賞。東日本大震災では、内閣官房震災ボランティア連携室室長として被災地支援にあたった。
NHK、NHK厚生文化事業団
厚生労働省、東京都、日本障害フォーラム(JDF)、NPO法人地域精神保健福祉機構(コンボ)
終わり