2008年8月 4日
〈車いすバスケットボール選手〉
京谷 和幸(きょうや かずゆき)さん
ただメダルを目指す。日本チームは、それだけのものを持っています。
車いすバスケットボール男子日本代表の京谷 和幸選手(37歳)。15年前までプロサッカー選手として活躍していました。1993年のJリーグ開幕の半年後、22歳のときに事故で脊髄を損傷。みぞおちから下の感覚を失います。もうサッカーができない・・・、そんな失意から立ち直ったのは、妻・陽子さんの笑顔を見たいという気持ちがあったからです。そして車いすバスケットと出会い、2000年のシドニー大会から3大会連続で日本代表となります。北京大会では日本選手団の主将を務める京谷選手にお話を聞きました。
Q.今では日本代表として活躍していますが、車いすバスケットを始めた当初は、あまり気が乗らなかったそうですね。
京谷:初めて車いすバスケットを見たのは、埼玉にある国立身体障害者リハビリテーションセンターに入院しているときです。そこで見たときは、やったことはなかったけれども自分でもできそうなレベルだと思ったんです。でも、退院して、いま所属している千葉ホークスというチームに行ったら、スピード、パワー、テクニックすべてが全然違った。まるっきり違うスポーツでした。それが自分を尻込みさせた。こんなのできないって。その反面、しょせん障害者のスポーツだって思ってしまった自分もいたりして。逃げたかったんですね。プロサッカー選手だった自分が車いすバスケをやって、恥をかいたらどうしようと周りの目が気になっていたんですね。そんな醜態をさらすくらいなら、プロサッカー選手だったころのままの自分でいたかった。そんな心のかっとうがあり、自分から逃げていたんだと思います。
Q.でも逃げずにいた。その理由は?
京谷:友人の結婚披露パーティーがあったんです。そこで昔の仲間が、「期待の星だったのに残念だな」って。僕は今の自分を見てほしいのに・・・。アトランタオリンピックの年だったものだから、次のオリンピック目指して頑張りますって言ってやったんです。まだバスケットを本格的に始めてないし、パラリンピックっていう言葉も知らない。次の開催都市も知らなかった。それでもそう言って、本当に出たら驚くだろうなと思って。
2つ目は、サッカーをやっていたときの仲間の結婚式に行ったとき。周りはJリーガーばかり。そのときにワールドカップの話が出て、自分だけが取り残された気がしたんです。くやしい反面、いま自分はこの場所にいてはいけない人間だと思ったんです。自分は何も目標に向かってがんばっていないから。そして日本代表への思いがまたわきあがってきた。競技が違ったって、日の丸背負うことができたら、こいつらと肩並べてしゃべることができるんじゃないかと思えたんです。
3つ目は娘が生まれたこと。娘が誇りに思ってくれる、家族が誇りに思ってくれる、そんなパパになりたい。そのためには、この子と共に自分も成長していけるものって、バスケットしかなかったんですね。そう考えたら、もうやるしかない。それが決定打ですね。
Q.決意とともに魅力もあったのではないですか?
京谷:すごいスピード感とあたりの激しさが、見ている人に、これが障害を持ってる人がやるスポーツなのって衝撃を与えると思うんです。そんなふうに感じてくれたら、ぼくらにとっては楽しいことですし、うれしいことです。
それと、ぼくだけのものだと思うんですけど、車いすバスケットという競技を借りて、頭の中ではサッカーをやってるんですね。
Q.頭の中でサッカーをしているとは?
京谷:例えば、相手がいないスペースに味方が走りこんでくるのを予測してパスを出す。サッカーでいうスルーパスですよ。味方はスピードに乗ってパスを受け取れるので、相手の選手を振り切ってシュートできる。他にも、相手を背にしてパスをもらったとき、その選手の前にくるっと回り込む感じでいってシュートをうつ。そういうのはサッカーといっしょだなと思います。決まると、ほんと最高ですよ。これまでのサッカーの経験が生きてるんだと思うんですよ。それがぼくにとっては最高の魅力ですね。
Q.北京大会で目指すところは?
京谷:ただメダルを目指す。今の日本チームはそれだけのものを持ってるチームだと思います。みんな技術は持っている。あとは気持ちで負けないように相手に絶対に勝つっていう気迫を出していけば、メダルを取れるチームだと思います。
車いすバスケットボールで使用するコートの大きさ、ゴールの高さ、ボールなどは、一般のバスケットボールと同じです。選手には障害の程度が重い順に1.0から4.5の持ち点が定められており、試合中コート上の5人の持ち点の合計が14.0を超えてはいけません。京谷選手の持ち点は1.0です。