発達障害のお子さんに社会性のつまずきという問題がおきてくるというテーマでお話しするわけですが、まずこうした子どもたちが全体としてどんなつまずきを持つのかを確認する必要があります。私は大きく6つの柱で考えています。ひとつは社会性のつまずき、その他に言葉・学力・運動・注意力、そして心の問題です。
この中で社会性のつまずきというのがちょっと特別です。いろいろなつまずきが、年齢があがっていくにつれ社会性のつまずきに吸収されていくケースが多いと感じるからです。
たとえば、「子どもに言葉のつまずきがある」ということでお母さんが心配されて相談に来るケースで、長く付き合っていくとお母さんの心配が「お友達がうまくできない」ということに変わっていったりします。
小学校低学年のうちは、友人関係で言葉の力がそれほど大きく関係しない。それが高学年あるいは中学生になってくると、友人関係を成立させたり維持させたりするために、圧倒的に言葉の持つ役割が大きくなる。昨日のテレビ番組の話をしたり好きなキャラクターの話をしたり。
たとえば約束をするなんていうことは子どもの世界ではきわめて重要です。もし約束破りだといわれたらペナルティーが大きい。「遊ぶのやめよう」なんて言われたりする。こうした約束も全部言葉という道具によって支えられていて、言葉をうまく使いこなせないと社会性の問題に関係してきてしまう。
では、学力のつまずきが社会性のつまずきに影響してくるというのはどうでしょう。みなさんあまりピンとはこないと思います。勉強が出来なくても友達関係がうまくいっている子はたくさんいますからね。ところが昔私がLD(学習障害)という読み書きの苦手さを持つ子どもを教えていったなかで、そうした子たちの何割かが学力から社会性の問題に移行していくことに気がつきました。
どうしてだろうと考えてわかってきたのは、学力につまずきのある子は学校嫌いになることがあるんです。当たり前ですね。朝から晩までやっている勉強が分からないと、どうしても学校が好きになれない。ところが学校は教科学習だけやっている場ではなく、社会的体験を子どもたちに確保する場でもあるわけです。すると勉強ができずに学校が好きになれないことで、社会的体験までもができなくなってきてしまうことが起きてきてしまいます。
こんなふうに、いろんなつまずきが社会性に吸収されていく傾向があります。
今日のお話の大原則ですが、社会性というのは体験を通じてしか身につかないものです。自分自身を振り返ってみて、どうして人と付き合っていけるんだろうと思ったとき、たくさん本を読んだから出来るようになったわけじゃないですね。社会的体験を積み上げることによって社会性が育ってくる。
また体験の質も重要です。嫌々参加している社会的場面はあまり社会性を伸ばさない。なじめない集団だと、1年たっても2年たってもなんだか1人だけ浮いてる。ところが前向きに楽しく過ごす場面、たとえば趣味のサークルなどでは、ほんの2、3回参加したらもう1年くらい仲間みたいな感じで、すっかりなじんでしまうなんてことがある。社会性というのは、ヴィヴィッドな、生き生きとした体験じゃないと積みあがっていかないという性格があるようですね。
そこで今日のテーマは、子どもたちにいかにヴィヴィッドな社会的体験を積み上げさせることができるか、いかにそういう場を確保できるか、という話題が中心です。これは簡単な話ではなく、あれこれ工夫が必要になってきます。
たとえば発達障害をもつ子の中に、運動が苦手という子が多くいます。こうした子たちは、スポーツを通じた社会的体験をなかなか得られない。休み時間にみんながドッジボールをやっているから一緒になろうとしたのに、「君が入ると負けちゃうからダメ」なんていわれると、体験が“目減り”していることになります。
スポーツでいうと、中学校の部活動なんて社会的体験としてすごく豊かです。上下関係があって、同級生で役割をもって、目的に向かってみんなで頑張る。あるいは遠征先で礼儀正しくするとか、いろんな体験がある。そういう体験が確保できないと社会性に不利に影響してくるんです。
発達障害の子たちにどうして社会性のつまずきが起きてくるのか。メカニズムを書くとこうなります。
一番下にある「社会性のつまずき」というのが、「友だちがうまくできない」とか「集団行動が取れない」といった、教室で見える姿です。そこからさかのぼっていくと、背景に「中枢神経系の機能障害」があるだろうと推定しています。
発達障害の子の場合、部分的にうまくいかないということがありますから、偏りという言い方をすることがあります。ADHD(注意欠陥多動性障害)の子の場合ですと、自己コントロール能力です。具体的には、行動・感情・衝動のコントロールがうまくいかないことがある。アスペルガー症候群の子ですと対人意識の希薄さ、あるいはズレといった問題が起きてきます。こうした問題は、本人の努力不足、保護者のしつけ不足、教員の指導力不足といった、外的な要因から起きてくるのではなく、脳の特徴から直接起きてしまうものです。
その次に起きてくるのが、ソーシャルスキルの問題です。ソーシャルスキルとはごく簡単に言えば、朝起きて人にあったら「おはよう」と言うこと。他には「こんにちは」も「こんばんは」も「さようなら」もあって、我々はそういう何千何百ものソーシャルスキルの塊で社会性というものを作っているわけです。社会性のつまずきに対応する第一歩は、子どもが必要とされるソーシャルスキルを「持っていない(欠如)」のか、「持っていても使えない(運用困難)」のか、この2つをきちんと見極めることです。
大人が発達障害を持つお子さんに対応するとき、その子がスキルを「持っていない」のか、「持っていても使えない」のかを、よく考えないためにうまくいかないケースが随分あります。その8割方が、スキルを持っていない子に対して、持っているのに使っていないはずだと思いこむケースです。その子がソーシャルスキルを持っていないことに気づかず、「何でやらないの!」と叱ってしまうパターンです。当然、スキルを持っていない子は、いくら言っても出てこないから、お互い平行線をたどっていくことになります。
我々大人は、ある年齢になったら誰でも社会性を身につけているはずだという思い込みを持っています。身についていないことは不思議だと考えてしまうのが、ソーシャルスキルの特徴なんですね。スキルを持っていないのも、持っていてうまく使えないのも、姿はまったく同じです。「おはよう」って言わない。そこでまずこの子たちがスキルを持っているのか使えないのかきちっと理解しないといけない。
けれどそれを知っただけでは十分ではありません。もっと大きい問題がこのあとに起きてくる。「おはよう」って言わない、「ありがとう」「ごめんなさい」って言わない。すると、この子の周辺から友だちがいなくなるということが起きてくるんです。そのことが、社会的体験の不足へとつながっていきます。
そこで、我々がこうした状況にある子たちを前にしたときは、まずこの子の日々の生活の中でいかなる社会的な体験が足りないのか、どうやったらそれを確保できるか、ということがテーマになってきます。
グループで社会的経験を積む「ソーシャルスキルトレーニング(SST)」という方法をやっていたときに、「うちの子が楽しみにしている野球チームの練習と、小貫先生のトレーニングが重なっちゃったので、野球はやめてトレーニングを受けにきます」なんておっしゃられるお母さんがいたんですが、これは全然ダメなんです。ヴィヴィッドな社会的体験を減らしたら意味がない。本末転倒なんですね。それならば、野球のコーチと相談して、「球拾いや草むしりばっかりじゃ体験としては十分じゃないですから、何か役割を持たせてください、責任持たせてください」とお願いする形で体験を充実させていくほうが、ずっとソーシャルスキルトレーニングになります。
ところが、発達障害がある子たちの中に、なかなかそういう場が得られない子たちがいる。そういう場合はやむを得ないので、大人が積極的に社会的場面を作っていく必要が出てきます。
社会的体験の確保との関連で、反社会的な行動の問題があります。
以前、ADHDといわれる子が行為障害を併せ持つ率が、ADHDでない子に比べて少し高いという研究報告が出たんです。
行為障害とは、簡単にいえば非行のことです。よく考えると、これはおかしい話です。ADHDで、集中力がないとかじっとしていられないということは、悪いことをするのとは違います。みなさんの中にも集中が途切れている方がいらっしゃるんじゃないですか。その方が立ち上がって物を投げてやりたいとか、悪口を言わないと気がすまないとか、思わないですよね。集中できないのと悪いことをするのは全然違うことです。
そこで「ADHDにともなって非行の問題が起きてくる」ということを、どう考えたらいいか。
第一に、「ADHDの特徴は叱られやすい特徴だ」ということを考える必要があります。わたしたちは聴覚障害のある子に対して「耳が聞こえないとは何事だ」と怒ることは絶対にないですね。ところが、ADHDのある子と関わるとき、声かけと叱責の区別がなかなかつかない部分が出てきます。「ほら、ちゃんとこっち見て」とか「じっとしてなさい」といった言葉を、叱責と捉えるか声かけと捉えるかは非常に難しい。そう考えると、他の子が体験する叱責量に比べて、ADHDという特徴を持っている子が体験する叱責量は、10倍、いや20倍くらいあるんじゃないかと考えるわけです。仮に20倍の叱責を受けながら育つという体験をしたら、どんなふうな世界の見え方をするか。多少ザラザラした気持ちがするのは仕方がないんじゃないかと思う。これがひとつ。
もうひとつの本質的な問題は、注意力がないことや多動なことで起こってくる体験の欠落。たとえば先生の話を聞いていないから、みんなが動き出してから慌てて追いかける。みんなで練習するときにじっとしていられないから端っこのほうに飛び出してしまう。そういう日々が続いていきますと、精神的・物理的にも集団にいられたという体験が圧倒的に少ない状況で育っていくわけです。もっと言えば、「ルールを守った」という体験の量が、他の子に比べてずっと少ないという状況が起きてくる。
すべての人にとってルールというものは、「窮屈」なものなのです。しかし、皆さんちゃんとルールを守ってらっしゃる。それはルールを窮屈だと感じなくなっているわけではなく、窮屈は感じるんだけれど、その窮屈さを乗り越える力を持っているということです。その乗り越える力はどうやって付いてきたかと考えると、繰り返しルールを守った体験が蓄積されているからなんですね。その蓄積がないと、ルールを守るという行為そのものが受け入れにくくなるのではないでしょうか。
そうすると我々はADHDのある子たちに対して何をすべきでしょうか。
たとえば、薬物療法があります。ちょっとややこしいのですが、薬物療法は、「症状があるとできない経験があるのだけれど、薬で症状がなくなればその経験をさせてあげられるから使ってみよう」というのが本来の考え方なんです。
言い換えれば、「今この子にはこういう体験が必要で、症状がなければその体験がさせてあげられるから、薬を使う」ということでなければ、本末転倒です。医学側はそう思って薬をだしています。重要なのは症状を抑制している間にいかなる体験が確保できるのかということ。僕は体験を確保しない社会性の指導は、単なる「お説教」と呼んでいます。言葉だけで社会性を伸ばそうという試みですね。そして、「あの子にはたっぷりお説教したから社会性はぐんぐん伸びた」という子は出会ったことがありません。
体験して初めて身につくのが社会性です。さらに言えば、成功体験によって社会性が身につきます。「うまくいった」「出来た」という形で終わるような体験をさせたいということです。
成功体験の確保という言葉は、発達障害の本を読むとたくさん出てきます。「成功体験を確保しないと、うつ状態や反抗的な行動といった二次障害が起こっちゃうんだよ、学校行きたくなくなっちゃうんだよ、やる気なくしちゃうんだよ」と書いてあります。私はもうひとつ突っ込んで、「成功をともなう体験は身につく」ということを言いたい。
オリンピックの本番で金メダルがかかっている場面で、練習で3回しか成功してないけれど、一か八かやったらうまくいって金メダル獲った、というエピソードが山ほど出てきますね。成功をともなった体験が体に残っている証拠です。実際はそこまでに何百回ものいろんな失敗をしているはずです。ところが何月何日の失敗をもう1回やってごらんといってもなかなか再現できない。言い換えれば、成功をともなった体験は再現性を高めるということです。
専門用語になりますが「強化子」という言葉があります。行動をより強化していく、身につけさせていくきっかけのことです。一番古典的なのはごほうびをあげること。ねずみは、レバーを押して餌(=強化子)が出てくると、またレバーを押そうとします。ただ、人間はごほうびもらえるからやっているだけではありません。社会的強化子、たとえばほめられるということも、行動の再現性を高めます。
ほめられるためには、やはり成功することが必要になります。さらに「自己強化」という言葉もあります。自分自身が「やった!」とか「できた!」とか思っただけで、その行動は身に付いてしまうという考え方です。
「失敗させちゃだめだ」ということではないんです。失敗したっていいんですが、他方で成功もさせたい。成功した部分は体に残っていくからです。理想的には学校の中で成功体験を確保したいのですが、学校という場面はなかなかコントロールが利かない。そこでコントロールが利く程度の小さな集団を作って成功体験を確保しやすいようにする、というのがソーシャルスキルトレーニングです。
具体的には、ゲームを使います。ゲームというのは優れた体験を確保する道具で、たとえば「ダルマさんが転んだ」というのはすごいゲームです。鬼の声の調子を聞きながら、自分の体を動かしたり止めたりする。友だちの名前を呼んだり、我慢してつながれてたり、そのうち誰かが助けに来てくれるなんていうシーンまで確保されている。
実際にソーシャルスキルトレーニングを受けている子の保護者から、「いつになったら学校でうまくいくようになりますか」と質問を受けます。当然気になりますよね。でもその質問には、「トレーニングを受けたからといって、すぐによくなるとか、受け続けて学校で適応がすごくよくなるというわけじゃないんです」と答えざるを得ない。
スポーツにたとえると、ソーシャルスキルトレーニングは基礎体力トレーニングにあたります。「人の話に耳をすませる」「ちゃんと相手を見る」「相手の気持ちを考えてみる」といったことをひとつずつやっていきます。トレーニングで基礎体力がついたら、それだけで試合で勝てるかというとそれはまた別の話。試合というのはいろんな要素があって、いろんなことが起きる中でやっていかなければならない。体力だけついているから勝てるわけじゃない。ところが体力をつけないで試合に臨んだら大怪我するかもしれない。だからトレーニングは必要になるわけです。学校は試合の場に例えることができるのです。
もう一つ、「コーチング」という発想があります。実際の試合でこうしてごらん、ああしてごらんと、とアドバイスしてくれる役割です。トレーニングとコーチングの二本立てのイメージが社会性を育てます。小集団を作ってソーシャルスキルトレーニングをして、そこでできたものをなんとか学校でできるようになってほしい。そのために、学校や家庭でコーチするという発想です。
それからもう一つ、スポーツの世界ではトレーニングと試合の間に練習試合というものがあります。練習試合というのは「シミュレーション」ですね。「こんな場面だったらどうなるかな」と想定して、実際に演じてみる。こんな場面があるよ、どうやったら切り抜けられるかな、なんて言って。
僕が巡回相談していてすごく感心したケースで、小学2年生のときにアスペルガー症候群の診断を受けた子がいました。教室の中で色々不適応が起きたんです。その子が3年生になったとき、若い先生が担任され、一学期はやはり大変だったんですが、二学期になったらすっかり落ち着いてるんです。
何か秘密があるんだろうと思って聞いたら、先生がマンガを描くのが上手で、その日に起こったトラブルをマンガにして子どもに持たせていたんです。その子が家に帰ってマンガをお母さんに見せて、お母さんはそれを見ながら「これ誰なの」とか「このときあなたなんて言ったの」なんて聞いて、「そのときはこういうふうに言ったらよかったね」と言うことを毎日やっていたんです。それをまた学校で先生が「こういうときどうするってお母さんに言われたの?」と問いかけて、実際にやらせたりしていました。
ここにはシミュレーションと実際の体験(=トレーニング)とコーチングが全部入っているんですね。こんなふうな工夫で学校と家庭と連携をうまくできないかなと思っているんです。社会性というのは学校だけで育てられるものでも、家庭だけで育てられるものでもありません。両者のつながりをうまく作っていけるかどうかが重要です。
最後ですが、これまで私が社会性指導してきた子たちがみんな大人になってきています。そこで考えなければならないのが、彼らが社会に出て行くための準備です。ソーシャルスキルトレーニングでは友人同士の社会での生き方を一生懸命やりますが、年齢が上がってくると自分のことなんか全然知らない不特定多数の人からなる一般社会でどうやっていくかというテーマにかわってきます。これをライフスキルトレーニングといいます。
千葉の幕張に「障害者職業総合センター」というところがあって、アスペルガー症候群のある子の就労を支援するプログラムが開発されています。そのプログラムの一つに、リラクゼーションスキルのトレーニングというのがあります。リラックスできる力が身につけられるかどうかなんですね。
なぜこうしたスキルが必要なのかというと、、発達障害、特にアスペルガー症候群の人たちが一生懸命やりすぎて燃え尽きて辞めてしまう、あるいはストレスが溜まりすぎてワッと怒ってしまうというケースがかなりあるんだそうです。そこで、そうなる前にちゃんとリラックスできるという能力が大切になってくる。小さいときはこれが出来ても、大人になるにつれてだんだん出来なくなっていく子がいるんですね。
これは考えてしまいます。大人の教育、あるいはしつけの副作用というものがあるんじゃないかと。たとえば「人が見ていなくてもまじめに仕事するんだよ」と僕らは教えますが、本当にそれを実践しては仕事が続かない。多くの子は本音と建前とか、ちょっと手を抜くといったことを自然に覚えていく。でもそうした表に出ていないものを覚えることができないとなると、僕らがやっているのはいったいなんだろうと考えてしまいます。
就労との関連でいえば、マニュアルを作成する技能です。もちろん職場には職場のマニュアルがあります。そうではなく、自分用のマニュアルを作れるかどうか。
たとえば普通は三つのステップでやるところを、「自分は二番目のステップと三番目のステップの間にこういう失敗が起こりそうだから、間に二つくらいステップを作ろう」といったようなことができるかどうか。これを支えるのは「自己理解」なんですね。もっと突っ込んでいうと「障害受容」というテーマなんです。これができない子たちが結構います。「ぼくは障害じゃない、僕は何も問題はない」という。そうすると社会的な支援が整備されても活用しないという可能性があって、そのことが本人の人生にどうつながっていくかという大きなテーマになってきます。
その「障害受容ができる人」と「できない人」にどんな違いがあるんだろうという問題については、「成功体験が十分蓄積されている人は障害受容のプロセスをたどれる」というのが今のところ私の結論です。
NHK厚生文化事業団、NHK長野放送局、信州発達障害研究会
長野県自閉症協会、長野アスペ東北信、NPO長野アスペ中南信親子お楽しみ会、えじそんくらぶ長野(チャイルド・ドリーム)、発達障害児・者及び家族支援の会 シーズ
長野県、長野県教育委員会、長野市、長野市教育委員会、長野県自閉症・発達障害支援センター、日本発達障害ネットワーク(JDDネット)、全国LD親の会
小栗 正幸さん(宮川医療少年院院長)による講演『青年期の社会的不適応の予防と修復』の抄録をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。
終わり