皆さんこんにちは。
私は、平成6年に、当時勤務しておりました国立精神・神経センター武蔵病院において「もの忘れ外来」を設立し、認知症の人たちをできるだけ早期に診断し、できるだけ早期から対応するということを臨床のモットーとしてまいりました。早期に診断するということに関しては、私なりに方法論を確立したつもりですが、早期に対応するということに関しては、なかなか難しく、今でも手探りの状態です。認知症の進行を止めるような薬については、現在、基礎的な研究が随分進められておりますけれども、臨床で使える薬はまだありません。ですから、診断をした後患者さんを長期にフォローしようとする時、さまざまな困難が出てまいります。
今日は、そういう方たちに、どのような生活指導をするか、ということについてお話しますが、これの手がかりになっておりますのは、認知症発症には「生活習慣」がかなり影響しているということです。その研究や私自身の経験をもとに、認知症であると分かった後、どのような生き方をしたらいいのか、また薬剤を使わない治療法はそもそもあるのか、また、私の外来で行っている美術療法は、患者さんたちにとってどういう意味があるのか、といったことについてお話したいと思います。
はじめに、認知症について、基礎的なことをお話しします。
認知症:
脳の病気のため、知的機能全体が低下し、それまでの生活が困難になった状態
認知症をきたす疾患は非常にたくさんありますが、次に述べる4つの疾患の患者さんが非常に多く、これだけで90%以上を占めます。
認知症を来す脳疾患
中でもアルツハイマー型認知症は非常に多くて、全体の半分以上を占めます。今日は、このアルツハイマー型認知症に対してどう対応するかという話が中心となりますが、ここでお話しすることは他の認知症に対しても部分的には適応できますし、特に血管性認知症とはかなり共通した場合がございます。
本論に入る前に、アルツハイマー型認知症とはどういう病気かについて、簡単に説明します。
アルツハイマー型認知症
脳の萎縮に伴いまして、認知症が重くなってまいります。では、このベータアミロイドとは、どういうものでしょうか。
我々の神経系は、非常に多くの神経細胞がお互いにネットワークを組んで活動しております。ひとつの神経細胞はその神経線維を他の神経細胞の方に伸ばし、他の神経細胞との間に非常に密なネットワークを組んでおります。このネットワークは常に変化していくものです。そのために、この神経細胞を包んでおります神経細胞膜は常に少しづつ補修されたり、作り変えられたりしています。盛んな代謝が行われているんですね。
その時、いらなくなったものは、小さく分解されて脳の外に出されます。ところが、だんだんと年をとってくると、そのような脳の代謝系が少しづつ変わってまいります。少し弱くなるのかもしれません。脳の中に不要なものが少しづつたまるようになってくるようです。その一つがベータアミロイドです。
このベータアミロイドはかなり早くから、脳にたまり始めるようです。まだ、いろいろな意見がございますけれども、50歳代から既に始まるのだと言う意見もあります。そしてこのベータアミロイドは神経に対して毒性を持っているものですから、その周辺の神経細胞を死なせて行くんですね。そうしますと、脳の中に、真ん中にベータアミロイド、周りに神経細胞の死んだかけらで作られた「老人斑」という"しみ"のようなものが出てまいります。これが60歳代から少しづつ出てくるようです。そして、その数はどんどん増えていきます。
脳は非常に代償性の強い組織ですから、すぐに症状が出てくるわけではないのですが、10年くらい経つといよいよ認知症の症状が始まります。つまり、初めに脳の異常が始まってから本当に症状が出るまで20年くらいかかります。
認知症が現れるまでに生活習慣が非常に関係するということが分かっております。また病気が始まってからも生活習慣は色々と重要な役割を果たします。
次の図は、アルツハイマー型認知症の長期経過を示したものです。
症状が始まっても、いきなり重症の認知症になるわけではありません。アルツハイマー型認知症の場合は、脳の記憶に関係の深い海馬というところとその周辺から病変が始まります。ですからアルツハイマー型認知症の症状は、最初はもの忘れです。
もの忘れというより、新しく物を覚えることが非常に苦手になります。数年たちますと記憶障害は重くなり、数分前のことも忘れてしまうようになります。そうなりますと、だんだん理解力とか判断力、あるいは思考力といったものが落ちてまいります。自立した生活がだんだんしにくくなる。これが「中期」と呼ばれている段階です。知的能力が下がるだけではなくて、感情のコントロールが難しくなり、行動上の障害が起きます。そのため、不安とか妄想、あるいは焦燥とか徘徊とかいわれる症状が出てまいります。
さらに数年たちますと、いよいよトイレの失敗が多くなる。全面的に介助してもらわなければ生活できなくなります。これ以後を「後期」と呼びます。
その人によって進行の仕方は色々です。非常に早い人では、5、6年で重症になってしまう人もいますし、非常に緩やかに経過して10年経ってもまだ中期の中頃という方もおられます。平均しますと、初めてもの忘れに気がつかれてから約10年で後期に達します。この実線で書いたカーブ、これが平均的な進行のパターンと考えてください。私が今日お話しますのは、この平均的なカーブを、いかにして緩やかな進行の方に持っていけるか、ということです。
まず、日常生活をどのようにして送ったらよいかということについて、二つの資料をまとめながら話していきます。
第一は、初期から中期にかけてどのように症状が進んでいくのか、それに伴って日常生活の機能がどういう風に低下していくか、ということの観察に基づくものです。
初期から中期への症状の移行を分析:
日常生活機能を低下させないために、外出、道具の使用、社会参加を
患者さんがもの忘れの段階のときには、かなり自立した生活が可能です。しかし、中期に入りますとまず外出、特に交通機関を使った外出をあまりしなくなります。これは、自分が今どういう場所にいるのか、どういう場所関係の中にいるのかということに関する認識が弱くなるからですね。専門的な言葉を使えば「場所見当識の障害」です。
二番目に、道具を使用して何かを作りだすという作業の手順が分からなくなるんですね。例えば、炊事でお話ししますと、包丁を使ってりんごの皮をむくという、個々の作業はうまくできます。しかし、道具を使って何か、たとえばカレーライスを作るという手順は分からなくなります。そのために、炊事などをしなくなります。
三番目は、それまで地域に出て割合活躍していた人も、だんだんと家に引きこもる傾向があります。
この、外出の問題、作業の手順の問題、社会参加の問題、こういうことがある程度以上に現れてしまいますと、これをもとに戻すということがなかなか難しいんですね。ですから、アルツハイマー型認知症の初期だということがわかったら、初期の段階の時から、この三点については、かなり意識的に積極的に行なうよう働きかけることで、日常生活の機能レベルが落ちないようにします。
もうひとつの資料は地域に住んでおられる高齢の方達についての前向き研究の結果です。どういう身体的生活習慣を持っている人、あるいは知的な生活習慣を持っている人は認知症になりにくいのか、逆にどういう場合には認知症になりやすいのかということが随分分かってきています。
認知症を予防する要因
認知症の増悪要因
好ましくない方から先に言いますと、高血圧とか、糖尿病とか、動脈硬化といった、いわゆる生活習慣病を持っておられる方、特にそういう病気を持っていながらきちんと治療しようとされない方は認知症になりやすいです。これらによって血管性認知症にもなりやすいことは以前から分かっていましたが、アルツハイマー型認知症にもなりやすいことが分かってきました。
では、予防する要因である「身体的生活習慣」「知的生活習慣」について、順にお話しましょう。
生活習慣としていくつかの点を上げますが、まず第一は、言うまでもなく身体活動です。
運動には有酸素運動と無酸素運動があります。いわゆる有酸素運動には、歩行とかジョギングとか水泳とかが入りますが、そういうことを一日30分から60分、週三回は行うことが勧められております。ただ、認知症の方の場合にはジョギングと水泳というのはちょっと無理なようですね。散歩、できれば早足の散歩をできるだけ続けることがいいと思います。介護者が配偶者で、かつ健康な場合には、患者さんは散歩をかなりされているようです。しかし、ひとり住まいの方の場合、これは難しいものです。
この有酸素運動は循環器系に対する適当な刺激となって、虚血性心疾患の予防にも役に立ちますし、体脂肪の消費を進めてメタボリックシンドロームの予防にもなるということは皆さんもご存知だろうと思います。最近の研究では前頭葉の機能も上げると言われています。ただし、なんとなく散歩するだけで前頭葉の機能が上がるかな、と私は疑問に思っています。もし、前頭葉機能を高めたいと考えるならば、同じ体を動かすにしても知的なものを加えたような、例えば散歩するにしてもしょっちゅう道を変えて新しいところ新しいところを探りながら散歩する、電車に乗って少し遠いところまで行き、そこで散歩する、ということが必要でしょう。
後ほど話しますが、レジャー活動と認知症のリスクの中では、ダンスがいいというんですね。ただ汗をかくだけではなく、音楽に合わせ、相手の呼吸に合わせ、という知的な要素を持っているからだろうと思います。
次が食事の問題ですが、食事に関しては量の問題と質の問題があります。少なすぎると良くない因子、多すぎると良くない因子をまとめました。
予防という観点からは、過剰な栄養摂取を控えるように、ということはよく言われておりますし、皆さんも良くご存知だと思います。ところが、認知症のある程度進んだ方を外来で見てみますと、実は非常にやせた方が多いんです。むしろカロリー摂取が少ない方が多いです。特にひとり住まいの方は、三食をいちいち作るのが面倒くさいからなんでしょうか、朝昼兼用でパンと牛乳とちょっとしたもの、夕食はスーパ−で適当に買ってくる、あるいはお惣菜を買ってきて済ましてしまう、という方が多いですね。そうしますと体重が37キロ以下という人が少なくありません。そういう人たちの健康管理が非常に大事になってまいります。
こういう方々の食事の内容を見ますと、やはり内容が乏しい点が気になります。何よりも野菜が少ないです。また、こういう患者さんは、何か食べ始めると、同じ物を食べる傾向があるんですね。そのため、夕食に毎日毎日コロッケを買ってきて食べている方もおられます。
認知症予防には、高カロリー・高脂質・高飽和脂肪酸に注意する必要があるということはご存知だと思います。最近、精製白糖といいますか、お砂糖を摂る量が少し多いんじゃないか、という説が出ております。地域に住む高齢者の方たちを長い間フォローしていきますと、糖尿病を持っておられた方は糖尿病のない方に比べて、血管性認知症だけでなく、アルツハイマー型認知症になるリスクが2倍だと言うんですね。しかも困ったことに、糖尿病にまではなっていないけれども、血中のインスリンの量が多い方、高インスリン血症と呼ばれておりますけれども、そういう方でもアルツハイマー型認知症になる危険率が2倍だといわれています。
次に、どういう食事をしたらいいか、野菜・果物とそれから魚ということを中心に述べていきたいと思います。
食事の内容
皆さんは毎日食事のときにかなりの量の野菜・果物を食べておられると思います。このことを問題にしますのは、野菜、特に緑黄色野菜にはビタミンCとかEとかベータカロチンといった抗酸化物がたくさん含まれているからです。また動脈硬化を防ぐ効果のある葉酸を含んでおります。
皆さんは、活性酸素という言葉を何度も聞かれたことがあると思います。我々は空気中の酸素を吸って、それで栄養物を燃やして、活動しているわけです。若いうちは問題ないんですが、ある歳になってきますと、この活性の強い酸素の一部が体に残りやすくなります。体に残りますと、これが細胞を障害しやすい。特に神経細胞は、非常に活動の盛んな細胞で、酸素をかなり消費しますので、活性酸素の影響を非常に受けやすいのです。そのために、ベータアミロイドなどによって神経細胞の力が弱まっている時には、この活性酸素のために壊されやすいということがあるんですね。そういうことで、できるだけ抗酸化物を摂って、活性酸素を身体の外へ出してしまうほうがいいわけです。この作用を強く持っているのが、ビタミンC、E、ベータカロチン、それからお茶に含まれているカテキンとか、カレーのウコンに含まれておりますクルクミンと呼ばれているポリフェノールなどです。
私の友人でアルツハイマー型認知症と食事の関係について研究している自治医大の植木教授は、「一日に野菜350グラムを摂りましょう」と言っております。皆さんいかがでしょう。一日350グラム摂るというのは、自分で計ってみると、量が多いなという感じがします。ですから認知症の人たちに「野菜をたくさん食べなさい」と言ってもなかなか難しいですね。そういう場合には野菜ジュースがいいのでしょうか。
もうひとつは魚です。肉が悪いっていうわけではありません、肉も大切な蛋白源です。しかし、どちらかというと魚の方をたくさん食べた方がいい、と言われています。魚は、DHA、ドコサヘキサヘン酸とか、EPA、エイコサペンタエン酸とか呼ばれる不飽和脂肪酸をたくさんもっているということですね。この不飽和脂肪酸が血清脂質を改善したり、動脈硬化を防ぐ効果があることは皆さんご存知かと思ます。さらに、最近の研究によると、ベータアミロイドの沈着を防ぐという作用があるようです。そういう意味では、直接アルツハイマー型認知症の予防に役に立っているということが言えると思います。
次は、知的な生活習慣についてです。高齢者の生活状況と認知症の発症のリスクの関係を調べた研究が、盛んに行なわれていますが、その中で、地域活動に積極的に参加し、多くの友人を持つ人たちには、認知症の人が比較的少ないといわれております。
社会参加
多くの社会活動に参加し、多くの友人をもつことは認知症のリスクを軽減する(Chicago Health and Aging Project)
デイサービス、デイケアへの参加が認知症の進行を遅くする
介護保険が始まってから、私は、外来に来られる患者さんに、できるだけデイサービス・デイケアに参加することを勧めております。長い経過を見てみますと、デイサービス・デイケアに早い時期から参加している、その中で友人もでき、いろいろなプログラムを楽しんでいる人たちは、比較的病気の進行が遅いという印象を持っております。そういうことを、学会に報告されている方たちもおられます。
ただ、これを証明しろと言われると非常に難しいんですね。証明するためには、デイサービスに行っている人と行っていない人を別々の群にして比較するわけですけれども、患者さんたちをその二つに分けて比較するというのは、医療倫理上できるかなという感じがします。
そこで、知的活動が認知症予防に本当によいのかについて、コントロール群と比較検討した研究を二つ取り上げたいと思います。最初は、知的なレジャー活動に打ち込むことが認知症の予防に役に立つのか、という研究です。
レジャー活動についての研究:75歳以上の地域住民(5年間)
これは、地域に住む75歳以上の方約500人を、5年間フォローした追跡研究です。知的なレジャー活動として、まずボードゲーム、これはチェスのことだと思いますが、日本でいえば碁・将棋でしょうね。ついでトランプとかクロスワードパズルや楽器演奏など全部で6項目を取り上げています。身体的なレジャーとしては散歩、自転車とかダンスなど9項目です。それぞれのレジャー活動について、その頻度を5段階に分けております。毎日行なっている、週数回行なっている、週1回行なっている、月に1回行なっている、あるいはそれ以下である、の5段階です。
例えば、ボードゲームとトランプを、毎日あるいは週に数回楽しんでいる人は、週に1回以下の人に比べ、認知症の発症リスクが4分の1に減るといいます。ですから相当な差だなと思います。
また楽器演奏を毎日ないし週数回行っている人は、そのリスクが3分の1に減ると言われております。やはりこれも大きいですね。
そして、身体的レジャー活動の中でいちばんいいのは、ダンスです。ただ、日本では、ご夫婦でダンスを楽しむ方はそう多くはないと思うので、これは参考になるかどうかは分かりません。ダンスを趣味にし、週数回以上楽しんでいる方たちは、リスクが4分の1に減ると報告されています。
もうひとつの研究は、余暇の利用と認知症のリスクとの関係です。
余暇の利用についての研究:カトリック司祭、修道女(4.5年間)
ラジオ、新聞、ゲーム、パズル、博物館など
この研究にはカトリック教会の方たちが協力されています。司祭の人と修道女、約800人の方を4年半フォローしております。余暇の活動として調査されたのは、ラジオ・新聞・パズル・博物館、など7項目で、それぞれを毎日行なっている、週数回は行なっている、月数回は行なっている、年数回行なっている、まったく行なっていない、という5段階に分けています。この場合は個々の余暇の利用と、認知症のリスクの関係が調べられたのではありません。7項目を全部調べて、それぞれの方の余暇の利用率を割り出し、その利用率と認知症とのリスクとの関係を調べております。
そうすると余暇を積極的に利用するほど認知症のリスクが少ない、ということが分かってきております。この方たちは基本的には同じところに住み、同じような食事をし、同じような義務を果たしているわけですね。ですから、生活の中でいちばんの違いは余暇に現れるわけです。この研究はやはり、余暇の時間を、有意義に使うことが認知症予防にいかに重要であるかを表すと思います。
アルツハイマー型認知症の研究の中では非常に有名な、"ナンスタディ"というのがあります。この"ナン"というのは修道女のことですね。修道女の方たち678名の方の追跡調査が行なわれています。これはスノウドンという方が中心になって行なっているのですが、その方たちの生活状況を調べ、毎年、認知機能検査を行ないます。そして、亡くなったら全例を解剖して脳の状態を調べています。そのためにこの臨床研究は非常に価値が高い研究になっております。「100歳の美しい脳」というタイトルで日本語にも訳されて出版されています。
100歳の美しい脳 (スノウドン D 著)
先に下の方から説明しますと、アルツハイマー型認知症の病変だけでなく、それに加えて血管性の病変を持っている、例えば小さな脳梗塞がたくさんある、といった血管性の要因を持っていると、それをきっかけに認知症になりやすい、しかも認知症が重症になりやすい、ということを表しています。そういう意味ではアルツハイマー型認知症の予防と同時に、こういう脳の動脈硬化、脳の循環障害の予防ということが非常に大事だということが分かってまいりました。
もうひとつ、これがちょっと驚いたデータなんですが、脳に高度なアルツハイマー病変が出現していても認知症を発症していなかったケースが報告されていることです。
全体としてみると、脳の病変が著しい程、亡くなる前の認知症は重症でした。ところが、この方は、亡くなる前にまったく認知症に気がつかれていない、知能検査をしても正常だったそうです。それなのに亡くなった時に調べてみたら、脳に、先ほど言いましたね、老人斑といわれるものが随分たくさんあって、脳の病変としては重いアルツハイマー型認知症だったと書いてあります。
このことはどのように考えたらよいのでしょうか。アルツハイマー型認知症になっても脳全体の神経細胞が脱落するわけではありません。強く障害されているところもありますし、残っているところもあります。ここで報告された方は、老人斑はたくさんあるけれども、神経細胞が比較的残っていたようです。そして、それらの神経細胞が非常に活発に働き、認知症の症状が出現することを防いでいたと解釈されています。
そういう意味からも、認知症の予防あるいは進行を予防するためには、神経・精神活動を盛んにするということがいかに大事か、ということがわかってくると思います。
次に心理社会的治療法です。認知症の人たちに心理的な働きかけを行なう、あるいはリハビリテーション活動へ導くことによって、認知症を少しでも良くしよう、生活を少しでも良い方向に向かわせようという治療法を「心理社会的治療」と呼んでおります。これには、いろいろな種類、方法があります。
心理社会的治療法
それらの考え方の背景は、それぞれ随分違いますし、実施方法も大変異なります。しかし、それらを全体としてまとめて何が目標かといえば、これはQOL、クオリティ・オブ・ライフ(生活の質)を少しでも改善して、その人たちの日常生活の機能を最大限まで広げてあげよう、ということです。そしてできれば、認知機能を少しでも高めよう、認知症の人たちの感情を安定させ、行動の障害があればそれを何とか防ごう、ということであります。
種類が非常に多いので、これらは4つに分けられます。行動、感情、認識、刺激、のそれぞれの焦点にあてたアプローチ、として普通、記載されております。
まず行動に焦点を当てたアプローチです。認知症の方たちは、先ほど述べた中期に入りますと、単に知的機能が落ちるだけではなくて、感情面にいろいろ問題が出てまいります。なんとなく怒りっぽくなる人が割合いるんですね。そして、突然興奮したり、怒り出したりした時、それらの行動がどのような状況で起きているかを調べることが大事なことです。そのことがわかれば、どのように介入したら良いかわかると思います。
行動療法
次は感情に焦点を当てたアプローチです。高齢になりますと、配偶者や親しい友人を失うことが多くなります。そして体の病気もいろいろ出てきます。ですから気分的にも、落ち込みやすいし、考え方も悲観的になります。抑うつ状態です。こういう方たちの心理療法として、昔から「回想法」が知られていました。
回想法
その人の人生の話を聞いてあげ、その人の人生を肯定的に捉えてあげるという心理療法です。高齢期の抑うつ状態の治療については、現在はいい抗うつ剤がありますので、ほとんどの場合、抗うつ剤が処方されます。こういう回想法の考え方は、むしろ介護施設で、認知症の人たちのグループの話し合いの中に取り入れられています。
十数人の人が集まった中で、昔の物品、写真、テレビとか、ビデオとか音楽などを利用し、過去の出来事を話し合う。学校時代の楽しかった思い出、村祭りの話もあるでしょうし、夏休みの話もあるでしょう。そういうことで皆さんのグループの話し合いをもりたてていく。それを繰り返すことによって、認知症の方たちが持っております抑うつ気分が改善したり、不安が軽減する、と報告されています。この考え方を、私も外来診療で多少使っております。認知症の方と面接する時に昔の出来事を話題にすることは、彼らの記憶を刺激しますし、過去の生活に自信をもつ機会になるので、結構意味があるなと思っています。
私たちが脳梗塞あるいは脳出血で倒れ、その後片麻痺のため歩行がうまくできなくなった、とすればまず間違いなく理学療法室で歩行の訓練を始めます。認知症の場合、認知機能が落ちているから、認知機能の訓練をしようという考え方があるわけです。その代表的な方法が記憶訓練法とリアリティ・オリエンテーションです。
認知機能の訓練
リアリティー・オリエンテーションは、現実見当識訓練法とも訳されます。認知症の方たちは、最近のことを憶えることができないため、今日は平成何年何月何日なのか、自分は一体どういう場所にいるのか、また、ここにいる人たちは自分とはどういう関係があるのかという、自分の位置付けが分からなくなっています。そのような見当識を訓練しようというわけです。
この方法で良くなったという報告もあるにはあります。しかし、アルツハイマー型認知症の人の記憶力低下や見当識障害は、非常に重篤です。重篤な障害を訓練で良くしようとすると、逆に患者さんたちの強いストレスになったり、不安を高めてしまうことがあります。ですから、このような訓練は強制的にならないように注意することが大切です。
日本でいちばんよく行なわれているのは、学習療法でしょうね。音読ドリルでは、有名な小説の1節、400字くらいを音読します。計算ドリルでは、足し算・引き算・掛け算といった簡単な計算を50題くらい毎日行なう。そういうことを行なうと脳の前頭葉の機能が上がると、この方法を開発した研究者は言っています。そして半年くらいで調べたところ、MMSEと呼ばれる知能評価スケールや前頭葉機能評価表で有効であったことが分かった、とのことです。
ただ問題は、先程も述べましたように、アルツハイマー型認知症は、進行性の病気です。ですから、半年という短い期間の観察で結論を出すのは早過ぎます。こういうことを1年、2年と続けうるのかどうか、それで続けると、認知症の進行もある程度遅くすることができるのか、その間の患者さんのQOLはどうなるか、ということをきちんと調べる必要がある。結論はまだこれからだろうと思います。
そこで脳を訓練するという考え方ではなくて、その人が楽しめるような知的環境を提供してあげて、その中で精神活動を活発にしてもらおうというアプローチがあります。「刺激に焦点を当てたアプローチ」です。
刺激に焦点をあてたアプローチ
先程、何か好きなレジャー活動をもち、毎日あるいは週数回それに打ち込むことは、認知症の予防に役に立つ、ということをお話しました。ここでの考え方は、たとえ認知症が始まってからも、レジャー活動に一生懸命になることは、認知症の進行を止めるとまでは言わなくても、少し緩やかにすることはできる、という考え方です。
アルツハイマー型認知症の原因に基づいて、その予防あるいは進行を止めるための薬物療法が盛んに研究されています。そのきっかけには、遺伝子工学の進歩があります。人間のアルツハイマー型認知症の原因であるベータアミロイドと同じ物を持つマウス、アルツハイマー型認知症のモデルマウスを作り、実験が行われています。
アルツハイマー型認知症のモデルマウスを二群に分けて、一群は昔ながらの狭い飼育室で育てます。もう一群は、比較的広い箱庭みたいなところで、一日に数時間遊ばせます。そこには、マウスの好きな回転車とかトンネルがあります。いわばマウスにとっての知的な環境、豊かな環境です。二つの群を比べると、遺伝的にはまったく同じなのに、広い箱庭で育てたマウスは、アルツハイマー型認知症の発症が遅れます。すなわち、豊かな環境の中で育てたアルツハイマー型認知症モデルマウスの場合には、脳のアミロイドの蓄積が遅くなるんですね。
こうしたことから、いかに環境、しかも知的な環境が大事か、ということがわかります。知的といいますか、ここでは、エンリッチメントという言葉を使っております。エンバイロメンタル・エンリッチメント、環境的な豊かさ、とか、エンリッチド・エンバイロメント、豊かな環境、という言葉を使っていますが、そういうところで育てることによって病気の発症を遅らせる、ということを意味しています。
認知症の症状が現れた時は、すでにベータアミロイドのレベルは終わっていて、神経細胞がかなり失われてきている段階ですので、臨床の場では豊かな環境の意味するところは少し違うと思います。豊かな環境の中で生活するのは、脳の残されている健康な部分をより活発に働かせて代償機能を盛んにする、という意味だと考えています。このような、刺激に焦点を当てたアプローチとして、音楽療法、書道、美術療法を紹介しましょう。
1990年代から、ヨーロッパ・アメリカでは、認知症に対する音楽療法が、音楽療法士によって盛んに行なわれるようになりました。そして、音楽療法が、認知症のケアにどういう意味があるかについて、多くの論文が出ております。この論文の主な点を3つにまとめてみると、こんな風になります。
音楽療法の意味
第一は、音楽療法ですから、なじみのある曲あるいは歌詞を歌うということを繰り返すわけですね。なじみのある曲と歌詞は、その人の記憶を喚起する力をもっている、そして記憶を喚起するとともに記憶の保持を強化します。もうひとつは、初期の認知症の方についてですけれども、新しい曲をある程度学習することができるといっております。アルツハイマー型認知症の場合、言語による学習は非常に難しいですが、曲の学習はある程度はできるようです。それはある意味で記憶の学習にもなるということです。
二番目は、認知症の皆さんはとかく引きこもりになりがちです。しかし、音楽の仲間と付き合うことによって、仲間との感情的な交わりが増す、介護者とのふれあいを増すことができます。すなわち社会的なコミュニケーションを改善するということです。
第三番目はBPSD(認知症の行動と心理症状)への効果です。アルツハイマー型認知症の中期になると、不安とか妄想とかいった心理症状、あるいは焦燥といって、非常に落ち着きがなくって、ちょっとしたことでもすぐに反応してしまうような症状とか、徘徊などのBPSDが出てきます。そのうちの不安と焦燥に関して効果があると言っております。
日本でも介護施設では音楽活動は随分よく行われていると思います。ただ日本では残念なことに、音楽療法士による音楽療法として行われているところは、少ないのではないでしょうか。現在、音楽大学で音楽療法士の育成が随分行われているようですが、そういう方たちに現在の介護システムの中に参加してもらうのは、残念ながらなかなか難しいです。
音楽療法という観点ではなくて、認知症の人たちにも音楽がどれだけ感動を与えうるか、という観点から音楽活動をしているグループがあります。これは、国立精神・神経センター武蔵病院で、また最近は上川病院で、折山さんたちが行っている認知症の人たちの合奏です。このグループは音楽をすることで自分の気持ちを表現するように働きかけます。「人間はだれでも、自らの生い立ちの中で培われた「音楽感性」を持っている、その感性を引き出そう」というのが、折山さんたちの考え方です。
アルツハイマー型認知症の人たちの合奏
どんな音楽かちょっと聴いてみてください。
左の図をクリックすると、演奏を聞くことができます
アルツハイマー型認知症の患者さん、家族、ボランティアの方々で行っておりますが、それぞれの人がキーボード、和太鼓、コントラバス、カスタネットなど、割り当てられた楽器を使って単純な演奏を繰り返し、それが全体としてひとつの音楽になるように構成されています。1曲、2分から4分ですが、この間かなりの集中が必要です。指揮者の指示に対して非常に集中しているんです。練習をしているうちに全体が合ってきて、合奏らしくなってきます。
ということは、アルツハイマー型認知症の患者さんたちにも、音楽に関してはある程度の学習効果があるということを表しているのではないでしょうか。家族の方たちの話によりますと、曲が終わった時に、ある種の爽快感と感動を伴うといいます。そういう点が非常にいいんだろうと思います。
私のところに来られている患者さんは、ほとんどの方が70歳以上です。この方たちは、小学校の時に習字の基本を習っていることが割合多いですね。特に女性の場合は、子育てが終わった頃から、書道を趣味にしている方が随分多いので驚きました。そういう方たちは、書道の会に入りまして、その会の発表会に出品するのを楽しみにしております。
私の外来に7年も通院されていますが、まだ書道の先生をやっておられる方がおられます。右の作品はその方が私のために書いてくださったものです。すばらしいと思います。
書は、「ほのぼのと 春こそ空に来にけらし 天の香具山 霞たなびく」(後鳥羽院)
ここで、ちょっと脇にそれますけど、記憶の分類について説明したいと思います。記憶というのはひとつではないんですね。いろいろな記憶があります。
記憶
ひとつは、意識に再生され、言葉で表現される記憶です。
これも二つに分けられます。我々が学生時代に一生懸命勉強して習ったこと、普通は「知識」といいますが、「意味記憶」とも呼ばれています。鎌倉幕府ができたのは「"いい国作ろう"で"1192年"」と日本史の授業で覚えましたね。別にその時に生きてたわけではなくて、知識としてそれを知ってるだけです。
もうひとつは、「エピソード記憶」です。エピソード記憶というのは、我々の生活上の経験を、心に留め置くというか、頭に留め置くというか、そういう記憶です。例えば、昨日、新宿の書店で友人に会ったとか、このゴールデンウィークに家族でどこどこに旅行して楽しかった、というような記憶です。こういう記憶はエピソード記憶、あるいは生活記憶と呼ばれておりまして、アルツハイマー型認知症の人は、これが非常に強く侵されるわけです。これがだんだんひどくなりますと、つい数分前のことを忘れます。本当にひどくなってくると、1分前のことを忘れるようになります。すぐに忘れるというよりが、新しいことを憶えられない、と言った方が正確です。
記憶には、もうひとつあります。それは、行動で再生される記憶です。極端な場合は運動で再生される記憶です。
例えば、子どもの頃に覚えた自転車の乗り方は認知症になっても忘れません。体が覚えております。自転車に乗って何処へ行くかを忘れても、自転車の乗り方そのものは認知症になっても忘れません。そのように体で覚えた記憶は、認知症になっても割合残るものですね。
書道というのは、かなり体で覚えている部分があります。そのために、認知症が始まってからも、書道は長く続けられるようです。しかも、これはただ体で覚えて単純に書くのではなくて、例えばこの人の場合ですと、この和歌を書く時にどういう「かな文字」を選ぶか、そのかな文字をどういう大きさでどういうバランスで書いていくかという、いわばその人の美的センスを活かすことができる。そういう意味で、書道は、認知症の人達にとって楽しめるもののようです。書道療法という言葉があるわけではないのですけれども、日本の文化を反映するものとして、これは認知症のケアに、もっと取り入れていければなと思っております。
最後に、美術療法について話します。のちほど蜂谷氏が、美術療法については詳しくお話しますので、私は医師の立場から、私たちが行っている美術療法("臨床美術" と呼んでいます)の特徴と、治療的意味について述べたいと思います。
美術療法
美術療法は、1990年代から、アメリカ・ヨーロッパで、美術療法士によってなされております。ただ残念ながら、音楽療法と違って、研究論文が少ないです。多くの場合は、どういう患者さんに対してどういう美術療法を行ったか、どういう作品が生まれたか、患者さんにどういう変化があったか、という一例一例の報告的なものは書かれております。しかし、そういうものをまとめて、そもそも美術療法というのは認知症に対して効果があるのかどうか、ということになると、ほとんど研究論文がありません。
最近外国で出た文献の中で、よく引用されてるのは、エイブラムというイスラエルの方が書いた本「When words have lost their meaning」です。この方は美術療法士なのですが、お母さんが認知症を発症しました。それをきっかけに、お母さんと何人かの認知症の人たちに美術療法を行いまして、それを本にまとめて2005年に出版されております。その中でこういう風に言っております。「アートは病気を治すことはできないが、QOLを高め、作品を通じて、患者がうちにもつ感情を表現することを助ける」と。美術療法士の人たちは、大体共通して、こういう印象をもっておられるようです。
認知症に対する美術療法は、日本の方がずっと進んでいると私は思っております。特に、金子健二氏が開発した「臨床美術」は、認知症に対する美術療法として非常に独創的であり、且つ内容の豊富なものです。優れた内容を持っております。この方法は元来は、競争主義の芸術ではなく、「共に生きる芸術」をモットーにした、子どもの美術教育、あるいは子どもの美術活動のために開発されたものでした。
臨床美術(art activity)
芸術造形研究所 金子健二氏が開発
【競争主義の芸術でなく、共に生きる芸術を】
1977年に、金子氏が子供造形教室を始め、約20年の経験をもとに1996年に、大宮市のある病院で、アートセラピーとして認知症に適用してみました。その当時の新聞を見てみますと、アートセラピーを受けた患者さんたちが、いかに生き生きとした表情になったか、ということが書かれておりました。その3年後に、私がまだ国立精神・神経センターにいた時に、当時のリハビリテーション部長が導入し、私もこの美術療法に出会いました。そして2001年に退官して、今のクリニックに移りましてからも、この7年間、私は臨床美術に関わっております。
金子先生が行った功績のもうひとつは、臨床美術士の教育です。日本で唯一と言っていいと思います。本格的な美術療法士の教育は、金子氏が始めたわけです。現在、臨床美術士は、大体700名ほどおります。
この臨床美術について、私が見た特徴を何点かあげたいと思います。
美術を中心に精神活動全体を高める
第一の特徴は、美術活動を中心にした精神活動全体を高めるアプローチだ、ということです。単に皆さんで一緒に絵を描きましょう、ということではないのです。
現在、私のクリニックでは、一週間に1回、グループセッションとして行っていますが、これは三段階に分かれております。
最初は、季節の行事をしたり、歌を歌ったりして、あるいはテーマに関した写真や話を通じて、皆さんの、何か絵を描こう、何か作ろう、という意欲を盛り立てていきます。要するに、モチベーションを高めるような活動を行います。20分から30分くらい行います。この写真は、お正月の獅子舞です。患者さんが獅子の面をかぶって踊っているところです。
それが終わりますと、今度はいよいよ美術活動に入ります。美術活動が1時間20分から30分ですが、具体的な活動の方法については後ほど蜂谷さんが詳しく話します。私の目から見ますと、制作活動中に、特に病状がかなり進んだ患者さんにいかに注意を集中してもらうかというのは、大変努力がいるところで、このあたりが臨床美術士たちの腕の見せ所です。
描き終わってから、では終わりました、さようならではありません。終わってから20分から30分、作品について語り合いをします。同じテーマのもとでそれぞれの人がそれぞれの作品を作ったことの喜びを共有する、そういうことがグループ活動として大事なんだろうと思います。そういう中で一種の社交的雰囲気ができてくる、そういうものを含めて、臨床美術の患者さんに対する働きかけが行われ、その効果も現れてくるのではないかと思います。
2番目の特徴は、誰でも取り組める描き方・作り方で教えていくことです。
誰でも取り組める描き方・作り方
基本的には線、形、色で自分の気持ちを表現することです。
絵というと、例えばデッサンというのがあります。デッサンはプロの人には絶対必要でしょうけど、素人には、なかなかできるものではないです。私も、絵は率直にいうと、あまり好きではないです。これは中学の時に、何の準備もなく、静物を描かされ、街並を描かされ、上手・下手の評価をされました。それ以来、絵というのは、ある意味トラウマになっていて、自分から絵を描こうという気になりません。臨床美術では、「うまい」「下手」という言葉を絶対使いません。「うまい」の裏には「へた」があり、他の人と比較することになるからです。むしろ、「線、形、色で、あなた自身の気持ちを表現してください」と言い、その手伝いを臨床美術士が行うわけです。
左から、「黒皮かぼちゃ」、「触覚アナログ画」、「土偶」
ですから、左の作品の「黒皮かぼちゃ」のように具体的なものを描くセッションもありますが、むしろ、ここでは、抽象画とか立体表現が結構多いです。
真ん中の作品は、「触覚アナログ画」です。画用紙に自分の好きな絵の具をたらして、それを手の平を動かしながら、手を汚しながら描いていきます。子どもが好きそうな絵ですね。一種の開放感を感じるようです。なお、テーマは「梅雨」です。
右の作品は「土偶」です。これは粘土の感触を手のひらで感じながら作っております。視覚だけではなく、触覚も使います。ムードミュージックを聞きながら何かをイメージして描いたり、あるいは津軽三味線を聴きながら何か描いたり、聴覚も使います。あるいは蜂谷さんの話に出てくると思いますけど、味覚とか嗅覚、そういう五感で感じたものを、線、色、形、立体で表現するのです。
患者さんたちがどんな絵を描いていくか、ご紹介します。まず、アルツハイマー型認知症の初期の人たちです。
アルツハイマー型認知症初期の作品
左は「あじの干物」、右は「花火」
ご覧いただいてお分かりになりますように、初期の人たちは、バランスのいい構成のしっかりした絵を描きます。
アルツハイマー型認知症の中期の人たちが同じものを描くと、どうなるでしょうか。
アルツハイマー型認知症中期の作品
左は「あじの干物」、右は「花火」
中期に入りますと理解力がずっと落ちてまいります。ですから、何か描いてもらおうとすると、繰り返し、易しく話し、励まさないと、なかなか描いてくれません。パステルや筆を手にするまで時間がかかります。描かれた絵も、先程の初期の人たちの絵と比べると、随分違います。しかし、それなりにすばらしい絵だと思いました。
アルツハイマー型認知症の人たちは、脳の機能の低下のため、特に頭頂葉の機能が低下しており、3次元のものを2次元に描くということがほとんどできません。形を描くことも非常に困難ですから、そういうことは要求しません。「あじの干物」は、初期の人の絵と比べるとだいぶ違います。しかし、この作品を見て、どこかのモダンアートミュージアムで見たことがあるような作品だと錯覚するくらいに、私は感動しました。
「花火」には、打ちあげ花火らしい球形がありません。この段階になりますと、脳の中に球形というイメージがないのでしょうね。ですからそれは描くことはできないです。しかし、こういう患者さんたちにも、最後まで色の感覚が残っているようです。非常にきれいな色で表現していますね。
こういう臨床美術は、どういった治療効果があるか、ということをお話ししまょう。
臨床美術の効果
臨床美術を取り入れた最初の目的は、認知リハビリテーションとしての価値があるかどうか、知りたかったためです。そこで、この臨床美術が始まる前に、参加する人たち全員に知能テストを行いました。そして1年後、2年後、3年後と同じテストでフォローしております。
1年後でみますと、知能テストの一部の項目が前より少し良くなっておりました。言語的知能の中の「理解」という項目です。理解というよりも、自分の気持ちや考えを表現する言葉の数が少し増えたためではないかと思います。おそらくグループ活動の中で、皆さんわいわいがやがや話すということが関係あると思います。
もうひとつは視覚認知、視覚処理に関する項目です。視覚認知というのは、単純に言うと、絵の中の間違いを見出すテストです。そういう視覚認知とか、視覚を使った情報処理が少し良くなります。
ところが2年経ちますと、残念ながらそううまくいきません。2年経つと、認知機能はやはり落ちてまいります。リハビリ的活動を全く行っていない人と比べると、その落ち方は比較的穏やかだなという印象はあります。しかし、残念ながら知能はやっぱり落ちてくる。アルツハイマー型認知症の知能の低下を、こういう方法で何年間も止めるのは、非常に困難です。
では、参加していた方たちはその段階で、このアート塾は終わりにしたかというとそうではなくて、3年以上通っている人は何人もいます。いちばん長い人は7年来ておられます。知能も大分低下してしまったのに、なぜ通ってくるのか。おそらくやっぱり楽しいからなんですね。アートセラピーに参加するのが楽しいと言って来られます。また、それだけではなく、仲間との交流が楽しいということもあるかと思います。
中期の人達は家を出るときは、何のために通うか思い出さない方も多いです。クリニックに着いてから皆の顔を見て「あっ、そうか」と思い出します。それでも家族の方が連れて来られます。ある家族の方が、こういう風に話しておられました。「介護というのは、初めも終わりもなくずっと続いてしまいます。しかし、こういうアートセラピーの会が毎週月曜日にあると、月曜日を軸として、一週間のリズムのある生活が成り立ちます。けじめがついて非常に生活しやすいのです」。
臨床美術は、認知症の進行を止めるという意味では限界のある方法です。しかし、心理社会的治療法の最大の目標、Quality Of Life、生活の質を高めるという意味では、それに沿った治療法ではないかと思います。
認知症が早期に診断されたあと、どのような日常生活の送り方、あるいはリハビリテーション活動がいいかということをお話してきました。
しかし、認知症の方たちが、地域で積極的な知的活動を行う場所というのは、残念ながら非常に少ないです。患者さんを診断したあと、絵に興味のある人はこのグループに入ってもらってますけど、絵は嫌だという人も多いです。そうすると一体どういうところで皆さんを支えていけばいいのか、ということになります。私なりに考えているのは、次のようなことです。
認知症ケアに豊かな環境を
こういう方達のニーズに見合ったようなことができる場所、できれば、デイサービスの一部が柔軟に運営されて、その人に合った知的活動のできる場ができればいいなと思います。デイサービスは重症の方が入っていることが多くて、比較的軽症の方のための活動はなかなか充実しにくいのですが、なんとか一部を知的活動を楽しめる「ゆたかな環境」にすることはできないでしょうか。
わが国では滋賀県の藤本先生が、デイサービスの一環として「もの忘れカフェ」という取り組みをされています。外国には「アルツハイマーカフェ」というのがあります。アルツハイマーカフェというのは、認知症の患者さん、家族、それから友人、また介護関係者とか医療関係者が月1回集まって皆で楽しんだり、教育活動をやったり、地域のいろんな社会的な交流を図る、という社会的集まりの会です。
どのような形にせよ、認知症の人たちがそれぞれにあった知的活動を楽しめる場が、地域にできることが必要です。認知症の人がますます増加することが予想される現在、認知症の進行を少しでも遅くし得る場は、認知症の医療と介護にとって、そして何よりも認知症の人にとって、非常に重要なことと思います。
1936年生まれ。東京大学医学部卒。同大学精神医学教室、東京都精神医学総合研究所を経て、国立精神・神経センター武蔵病院副院長。2001年、退官。吉岡リハビリテーションクリニック院長となり、現在に至る。日本老年精神医学会評議員。日本臨床美術協会副理事長。
第2部、日本臨床美術協会専任講師の蜂谷 和郎さんによる講演『認知症の人も楽しめる美術活動 ---「臨床美術」の方法---』の抄録は、こちらをご覧ください。
終わり