
ラッキーじゃなくても
一歩踏み出せる社会へ
今回のゲストは、視覚障害者柔道連盟の会長、日本パラリンピアンズ協会の副会長、内閣府障害者政策委員会の委員などを務め、起業家として、障害者のキャリア支援や社会参加の環境づくりにも挑まれている初瀬勇輔(はつせゆうすけ)さんです。24歳で両目の視力を失った初瀬さんは、視覚障害者柔道で北京パラリンピックに出場されました。しかし、その一方で就職の壁にぶつかり、起業のきっかけを得たそうです。初瀬さんが考える「障害があってもあきらめなくていい社会」について、柔道の総本山、講道館でお話をうかがいました。@講道館(東京都 文京区)
初瀬さんにとっての福祉とは
〈VOICE〉

目次
先ほどいただいたこの名刺ですけれど、こんなことができるんですね。表側は普通に名前と肩書が印字されていますが、裏側では、中心部分が丸く隠れていて、周りの部分がぼんやりしている。これは、初瀬さん自身の見え方が反映されたデザインになっているわけですね。
これいいでしょう。視覚障害者の目の見え方って一人一人違って、それを本人が説明するって結構難しいんですけど、これ渡すだけで一気に伝わるんですよ。スマホでQRコードを読み込むと、カメラにフィルターがかかって、僕の見え方を体験することもできます。名刺は特別に作ってもらったんですけど、それぞれの見え方を再現するフィルターは必要な検査結果データがあれば、誰でも無料で作れるようにWEBで公開されているんです。(※1)
なるほど、学校なんかでも活用できそうですね。
そうですね。僕は小中高の時はまだ見えてましたけど、視覚障害のあるお子さんだったら、こういうものを通したコミュニケーションがあると、友達とか、先生に理解してもらいやすいと思います。
- ※1視覚障害者の目の見え方を可視化するツール『VISIONGRAM』・・・WEBサイトで視覚検査データを入力すると、自分の見え方を再現したビジュアルフィルターを、誰でも作成、共有することができる。
畳の上はフラットだった~死ぬのを延期して、見えた世界~
1980ー
子ども時代の話が出ましたが、初瀬さんはどんなお子さんだったんですか? やっぱり、スポーツ万能でしたか?
いや、どちらかというと苦手な方だったと思います。小学校の5、6年生の時は空手が好きでやっていたんですけど、それもあんまり強くなかったんですよ。「組手」も「形」もうまくいかなくて。ただ、好きは好きで、先輩の巻いてる黒帯に憧れて。でも、中学に上がったら、空手部がなかったんですよ。それで、同じように胴着を着て、黒帯を巻いてる柔道をやってみるか。っていう始まりなんですね。
少し意外なきっかけですね。それでも、その後、どんどん勝ち上がっていくんですよね。
まぁ、ちょっとずつ強くなっていって、高校生の時には県大会で3位ぐらいまではいきました。でも大学浪人して、その間に目が悪くなったので、柔道は全くやらなくなるんです。僕、実は3浪してるんですけど、右目が緑内障になったのが19歳の時で、左目は大学2年生、23歳の時でした。
手術されたんですか?
まだ一人で出歩けるくらいには見えていたんですけど、「手術しないと全く見えなくなるよ」っていうことだったので、否応なくって感じでした。進行を止める手術なんで、別に良くなるわけじゃないとはわかってはいたんですが、術後、眼帯を取ったら、今みたいに真ん中がすっぽり見えない視力になってて、「あれ!?」みたいな感じです。一気に、廊下で母親とすれ違っても気づけないような状態になりました。「女手ひとつで育ててくれた自分の母親の顔もわかんなくなったんだ」っていうのは非常にショックでしたね。そこからはもう絶望で、「死んだ方がマシだ。もう死にたい」みたいなことを病室でずっと言ってました。そしたら母親が、「もう死んでいいけん」って言うんです。「私もあんたと一緒に死ぬけん」って・・・。そう言ってくれたことでちょっと冷静になったというか、母親を死なせたくないなって強く思って。それで、もうちょっと、あと1年だけ頑張ってみようって、死ぬのを1年だけ延期したんです。今から考えると、この時、時間を置いたのはすごくよかった。どんな環境であっても人間慣れるものですから。
穏やかに語られていますが・・・壮絶ですね。退院されてからの生活はいかがでしたか?
病院にいる間に何もできなくなっているんで、とにかく外に出るのがすごく怖かったですね。上手に歩けないんですよ。道路って何かしらの凸凹があって、皆さんは目で見て、無意識にその情報を処理して歩いているんでしょうけど、当時の僕はちょっとした段差やくぼみが怖かった。あと、視野の真ん中が見えないので、何かが正面から向かってくるとわかんないんですよね。だから、車の音がすると全部自分の方に向かってきてるんじゃないか、って。怖くて怖くて歩けないって感じでしたね。
当時、周りの方の反応はどんな感じだったんですか?
基本的にみんなすごく優しいんですよ。いいやつばっかなんです。でも・・・難しいんですよね。目が悪くなった直後って、自分がまだ障害受容の一歩を踏み出せていないんで、友達の優しい声かけにすら、すごく傷ついたりしちゃうんです。何気ない一言が、心ない言葉に聞こえちゃったりとか。映画の話をされたところで、「もう映画なんか見に行けねえのにな・・・」とか、仕事の愚痴ですら、「俺は仕事なんて一生できないかもしれないのに・・・」とかって。実家に帰れば、母親がカレーみたいなスプーンで食べられる料理ばっかり出してくる。それはそれで「スプーンしか使えない人間なのか」と落ち込む。小さなことにいちいち傷ついている毎日でした。
しかも、その頃って自分が何をできてないのか、どうお願いすればいいのかの整理がついてないので、人にお願いもできなかったんですよ。それもあって、何かを能動的に始めるなんてことは考えもしませんでした。
そうすると、柔道再開のきっかけは何だったんですか?
死にたい時期を経て、4年生の夏ぐらいまでは、目が悪い自分に少しずつ慣れながら生活していたんです。やっぱり目が悪いのは嫌だし、どうしたって視力は良くならないけど、友達はずっとサポートしてくれるし、大学に行けば先生も相手してくれる。楽しくないわけではない、みたいな時期でした。でも、あと半年で大学卒業で、そうなると支えてくれた奴らも就職する。なのに、自分は何やるかも決まってない・・・。今思うと、切羽詰まってたんでしょうね。そんな時、「視覚障害者柔道っていうのがあるらしいよ」って教えてもらったんです。
2005ー
最初の一歩はどういうふうに踏み出したんですか
まずね、1回電話したんですよ。視覚障害者柔道連盟の事務局に。
今、まさに初瀬さんが会長を務められているところですね。
そうそう、ちょうど20年前の今頃ですよ。「中学、高校と柔道やってたんですけど」って言ったら、「11月に試合があるから出てみたら」って言われて。でも、「出る」って即答できなくて、「検討します」って返事したんですよ。そうしたら、「負けてもいいから出てみたら」って言われて。今は、僕が新人にそれを言う立場になってますね(笑)
初めて道場に練習に行かれた日の印象はどうでした?
それが、意外とできるな、って思ったんですね。当然いろんな相手に投げられるんですけど、逆に投げたりすることもできて。これだけブランクがあっても、相手のことを投げられると、気持ちいいんですよね。で、相手も投げられたら悔しいわけですよ。目が悪くなってから、久しぶりにちゃんと人と競ったなーって感じましたね。柔道の練習をしてる分には、勝ったらうれしいし、負けたら悔しい。日々、情けないなと思っていたところが、久々に「悔しい」って思えたのは大きかった。
柔道の畳の上って本当にフラットで。組んでしまえば公平に柔道ができて、お互い切磋琢磨できる(※2)。もう一つ、物理的な意味でも畳の上って段差がないので、すごく安全にスポーツができたんですよね。安全な場所で、心もフラットな人たちと一緒に柔道ができた。それは僕の本当に原点になってて、そんな世界を世の中に作っていきたいなっていうふうに今思ってますね。
- ※2視覚障害者柔道・・・一般の柔道では、お互いが距離をおいて向かい合った状態から始まるが、視覚障害者柔道では、お互いが組み合った状態から試合が始まる。いつ技がかかってもおかしくない緊張状態で始まるスリリングな競技。
この最初の一歩が、その後の初瀬さんを決定づけるような大きな一歩になったんですね。障害と向き合う姿勢に変化はありましたか?
めちゃめちゃ変わりました。当然ですけど、視覚障害者柔道のプレイヤーは全員、視覚障害者じゃないですか。視覚障害者が主役で、マジョリティーとマイノリティーが普段の生活とは逆転しているんですよね。大学にいると目が悪いのは僕だけだけど、ここには視覚障害者ばかりがいて、しかも、みんな結構楽しそうに柔道をやってるんです。家族が応援に来てる人もいるから、「あ、結婚してる人もいるんだ」とか、「仕事もしてるんだ」って、いろんな人達と知り合うことができて、「悪いことばっかりじゃないかもな」って思えた。
僕は初めて試合に出るって決めて3ヶ月ぐらいしか経ってなかったんですけど、優勝したんですね。しかも、その大会は国際大会の予選も兼ねていたので、日本代表に内々定するんですよ。それで合宿に呼ばれるようになったりと、劇的に変わりました。白紙だったスケジュールが、突然、柔道で埋まり始めて、「自分だけが世界に取り残されてる感」がなくなったというか。
初瀬さんを取り巻く環境も、初瀬さん自身の内面も激変したんですね
そうなんです。さらに、その優勝で弾みがついて、就職もしてみようって気分になって、翌月くらいから就職活動を始めるんですよ。
障害者雇用の壁・・・もう障害者の仕事は自分で作るしかない!
障害者の合同就職面接会のチラシを見て、行ってみたんですけど、これが、もう箸にも棒にも・・・って感じで。「視覚障害者ってこんなにダメか」と。視覚障害って、すべてのことが少しずつできないんですよ。だから、ぴったりの仕事に出会うのがすごく難しいんです。まあでも、そこで「障害者雇用」っていうのがあるんだってことを知って、とにかく障害者専門の就職サイトでたくさんエントリーするんですけど、それも面白いぐらい落ちるんです。120社ぐらい落ちました。面接まで進めたのは2社ですから。同じ大学の同級生だと、一般就労であればエントリーくらいは結構通ってたんですよ。でも、「障害者雇用だとこんなに落とされるんだ」と。同じ大学、同じ学部、同じ学科のやつが内定してる会社とかを、僕は書類で落ちるんで。「書類でダメなの・・・?」みたいな。僕だけちょっと別次元の就職活動をしていました。
新卒って、本来は一番採用されやすいはずですもんね…。かなり衝撃だったんじゃないですか?
びっくりでしたね。まあ、20年前なんで、人事担当者も含めて当時はまだ知識不足で、視覚障害の人の場合、例えば「パソコンはどうやって使うの」とか、「そもそも出勤どうするの」とか、雇用する側の不安感が大きかったんじゃないですかね。好事例も少なかったんで。
結局、卒業してから1、2ヶ月後に内定が出た、ある企業の特例子会社に入社することになりました。特例子会社って、そもそも障害者が多い会社ではあるんですけど、僕が働いていたところはちょっと特殊で、社員のほとんどが障害者みたいな会社で。その分、いろんな障害の人がいたんで、障害当事者としては居心地がいいんですよ。目が悪いのが嫌だとか、恥ずかしいとかって気持ちはどんどんなくなりました。
そこでは、どんなお仕事を担当されてたんですか?
知的障害の方たちのマネジメント業務です。4年半ぐらいそこで働きました。その後は会社を立ち上げて、それで今に至ってます。
「全日本視覚障害者柔道大会」で優勝して、2008年には北京パラリンピックに90kg級の日本代表として出場し、その一方で就職して、独立して起業までしたんですね。独立のきっかけは何だったんですか?
きっかけは、自分の就活体験でしたね。
障害者の仕事を作る会社を立ち上げたんですが、それは、自分の就活で落ちまくったときに、「もう障害者の仕事は自分で作るしかないんじゃないか」って思ったのが、きっかけなんです。それに、30歳ぐらいの頃って、みんな“働いてる自慢”をするじゃないですか。「俺、今月残業100時間でさ」とか「全然寝てねえよ。」「土日もさあ」みたいな友達の話を聞いてて、「いや、俺、毎日定時で帰れって言われるんだけどな、仕事ないんだよな」みたいな。だから、もうちょっと仕事でも充実したいなって。同じ困りごとを抱えている人が他にもいるはずだ、って。
それで、起業を志されて。障害者の就職・転職を支援する会社を立ち上げられたんですね。
簡単に言うと、民間のハローワークみたいな仕事ですね。障害者の方は、うちに登録して就職活動をされる。企業の方は、うちに求人票を出してくれて。そこをマッチングしていくような形です。
初瀬さんが就活されていたころと比べて、今の障害者雇用の状況はどうですか。
2025
例えば、聴覚障害の方だと今は文字起こしのアプリもあるし、チャットをうまく組み合わせることでコミュニケーションの問題はクリアできるので、一般就労が可能だったり。コロナ禍を経て、オンラインシステムが整って、在宅勤務も当たり前になってきてるんで、可能性は広がっています。
「視覚障害の方はすべてのことが少しずつできないから、合った仕事を見つけるのが難しい」という話がありましたが、その状況は改善しているのでしょうか。
視覚障害だと、書類を間違いなく作るとか、作業の割合が多いような仕事は難しいんですけど、でも、「こういう内容で資料を作ってね」とかって指示する側にいたりすると、結構仕事ができるんですよね。本当はマネジメントだって、ただのジョブの一つなので、そういう役割の人だって思ってもらえればいいんでしょうけど、まだ、なかなかそうもいかない状況ではありますね。
障害者雇用をする上で企業側が抱える課題や悩みの相談に乗ったりもしているとうかがいました。どんな提案をされるんですか?
実際の例でいうと、マッサージルームを提案して、そこに視覚障害者を採用してもらった、なんてことがありましたね。
社員専用のマッサージルームを新たに設置してもらった・・・?
そうです。視覚障害の方って、盲学校でマッサージの資格を取ってる人、結構まだいるんですよ。昔だと、治療院を開業される方が多かったんですけど、今は企業内マッサージ室で働かれてるケースがあるんです。社員の方たちは福利厚生の一環として、仕事中にマッサージを受けて、リフレッシュして仕事に戻るみたいな・・・。いいでしょう?あったら受けたいでしょう?
そのために出勤しそうです(笑)
でしょう?(笑)そこでマッサージを受けることで障害者への理解が進むっていうメリットもあるんですよ。障害者雇用された人が社員と接する機会って、あんまりないんですよ。実際、人事部だけだったり。でも、タダでマッサージが受けられるんだったら、役職者とか取締役とか来るじゃないですか。すると、そこで障害者に接するんで、障害者への理解が自然に広がるんですよね。しかもその場では、障害者の方は“先生”ですから。
雇用された側も誇りを持てますし、理解が進めば進むほど、どんどん活躍しやすくなりますね。
まさにその通りで、人事の方が「視覚障害の方、事務職でも採用できるんじゃないか」って言って、実際に採用が決まったりしたこともあります。マッサージを通して視覚障害者と日常的に接することによって、思い込みがなくなっていくんですよ。「一人で会社に来られるの?」って不安に思ってたのが、「いや、そういえば毎日あの人来てるもんね」って変わっていく。「見えないのにパソコンとか使えるの?」だったのが、「いや、でもパソコンでカルテつけてるの見てるじゃん」とかって。
実際に当事者と関わることで、障害への理解が深まって、どんどんいい方向に変わっていくんですね。
そうなんですよ。あと、うちの場合は、そもそも目が悪い僕自身が一人で営業に行って、自分がパソコンを使ってるのも見せますからね。「メールでやり取りしてましたけど、僕はこうやって音声入力してたんですよ」とかって見てもらう。障害のことって、ちょっと本人には聞きづらいっていうところがあるかもしれませんけど、見れば一発なんで。
目が悪くなって、よかったかもしれない
会社を立ち上げて今年で14年。起業当初と比べて、初瀬さん自身の変化はありましたか?
そうですね。障害を受け入れられるようになったのが大きかったですね。
柔道で活躍して代表になったり、メダルを取ったりするのってすごくうれしくて、テレビでインタビューしてもらえたり、メディアを通してみんなが楽しんでくれたりするのも、ほんとにありがたいんですよ。でも、僕自身としては、例えば、パラリンピックに出たことよりも、仕事で「ありがとう」って言われたことの方が障害受容に繋がってる気がしてます。
パラリンピック出場よりもですか?
仕事で社会と関わることって、ものすごく障害受容につながるんですよ。どんな会社でどんな仕事をしていたとしても、それって必ず誰かの役には立ってるじゃないですか。僕の場合、障害者雇用での就職のマッチングが成功した人に「ありがとうございました!」って言われるたびに、「この人、俺が目が悪くなったおかげで就職できてるんだな」って感じるところがあって、「目が悪くなって、よかったんだろうな」っていう瞬間がどんどん増えてきてるんですよね。
ずっと前に、「もし目が良くなる手術があったら受けますか」みたいな質問をされたことがあって、その時は即答できなかったんですよ。でも今は、「今ぐらいでもいいかな」って思ってますよね。目が良くなったら、そうだな・・・漫画の『ONE PIECE』の続きを読みたいぐらいで(笑) でも、目が悪くなってなかったら、こんなに人生の充実度はなかったかもしれないですね。
今や、視覚障害者柔道連盟の会長であり、日本パラリンピアンズ協会の副会長であり、内閣府障害者政策委員会の委員も務められてますもんね。初瀬さんの次の戦略はあるのですか?
最近、同行援護サービスの事業所を立ち上げて、視覚障害者の移動のサポートを始めたんですよ。同行援護って、ガイドヘルパーのひとつなんですけど、視覚障害者が外出するときに一緒に同行して、日常生活の行動をサポートしてくれるんです。もちろん、家族とか友人だって、連れていってくれるんですけど、頼んでいるこっちはどっかで心苦しいんですよね。「俺だけが買い物に来たけどつまんないだろうな。申し訳ないな」とか。そうなると、「ご飯おごるよ」とかって、こっちも気をつかわなきゃいけなくなってくる。その結果、外出をあきらめちゃってる人がいると思うんです。でも、視覚障害者こそ、街に出て、いろいろ関わっていった方がいいですよ。出会わなきゃ、やっぱ何も始まらないんで。そういう意味で、同行援護って、「本当は出会えたはずの人との機会を取りこぼさない」、そんな役割もあるんじゃないかなと考えてます。
確かに、身近な人だからこそ遠慮してしまうってことがありますよね。同行援護サービスは、自由に行きたいところに連れて行ってもらえて、新たなつながりを作るきっかけにもなるわけですね。
そうそう。その一歩ってほんと大事なんで。実をいうと、僕が初めて視覚障害者柔道を体験しに行った日も、同行援護サービスの方に連れていってもらったんですよ。その時に連れて行ってくれた方の名前はいまだに覚えてます。あの日がなかったら僕は柔道やってないんで、本当にありがたかったです。
就職活動にも役立つんですよ。通勤には使えない自治体の方が多いんですけど、あらかじめ会社までのルートを確認しておくとか。自分の行動範囲を広げるのに使えるので、うまく活用して、社会で活躍してほしいです。
初瀬さん自身の大きな一歩を支えた存在でもあったんですね。
そうなんです。とはいえ、僕は本当に超ラッキーなんです。でも、僕みたいにラッキーじゃなきゃ仕事できないっていうのは、おかしいですよ。今って、スーパー障害者みたいな人だけが活躍できてる。だからって「ゲタをはかせてくれ」っていうわけじゃなくて、せめてみんなにチャンスがあるといいなと思います。どんなに細い糸でもいいから、何か可能性が欲しいですよね。どんな地方に住んでても、どんな障害があっても、本人のやる気があって、努力があれば、諦めなくていい社会であってほしいと思ってるんです。
それには、企業が門戸を広げるのか、行政が手を差し伸べるのか。みんなが仕事ができるような社会にしていくのか、わかんないですけど。
とにかく何かを始めたい人が、その夢とか目標を諦めなくていい社会にしたいですね。
(撮影:金子直生)
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プロフィール

初瀬 勇輔さん
日本視覚障害者柔道連盟 会長
株式会社ユニバーサルスタイル 代表取締役1980年長崎県生まれ。
学生時代に緑内障を発症し、視覚障害者となる。柔道を通じて障害を受容し、2008年には北京パラリンピック柔道90kg級日本代表として出場。全日本視覚障害者柔道大会では通算9度の優勝を果たす。柔道家としての活動と並行して、障害者雇用の支援にも興味を持ち、2011年に株式会社ユニバーサルスタイルを設立。障害者の就職・転職支援やパラアスリートのキャリア支援を行う。2023年には内閣府障害者政策委員会の委員に就任。2024年に日本視覚障害者柔道連盟の会長に就任。
趣味は読書。短歌やラップなど表現活動にも取り組み、「障害の有無にかかわらず挑戦できる社会」の実現を目指している。