障害のある息子と暮らしています。その息子は四人目の子どもで、上に兄二人姉一人がいます。夫と六人家族で暮らしていました。
夫が八年前に亡くなり、長男も去年亡くなって、今は障害のある息子と孫と三人で暮らしています。息子は五十六歳、私は九十一歳になった今、息子を通じて参加した障害者運動が私の人生そのものでした。無我夢中で過ごした時期を今思うと、家族に対して反省すべき点がたくさんあったと思います。
だから晩年夫がふともらした「あのエレベーターの活動は良かったね」の言葉が、私にとっての最大の褒美でした。家事よりも活動に熱中していた私にとっては、ありがたい言葉でした。その運動は、障害児の全員入学に始まって、車いすの子どもたちが電車に乗りたいとの夢を実現するための駅にエレベーターの設置運動│設置後の制限を撤廃してもらうための活動│で、これらに十六年間を要しました。それに続いて身体障害者のためのグループホーム設置運動、いずれも現在では普通になっている事柄ですが、大勢の人の賛同協力を得て実現したものです。
今、過去をふりかえって、当時親の会発行の冊子に載せた文を読み返し、記載したいと思います。
一 曜介(ようすけ)が歩く(古い日記から)
きょう、今年最高の気温、七月にはいってから毎日暑い日が続く。夜は涼しくなって曜介はいい気持そうに寝ています。一九六八年の八月いっぱい曜介は入院していました。肺炎と急性脳症で四十一~四十二度の高熱が続きました。左手が硬直して後遺症として左手左足まひになりました。この時お医者さんが「二、三日と思っていました」と言われたように、今こうして生きていられるのは医学とリハビリのおかげです。生後九か月の時でした。後日、ある日外出の際、娘が「あ、この道、曜ちゃんが死にそうだっていう時通った道だ」と言ったので、四歳の娘の心にも記憶が残っていたのでしょう。
翌年一九六九年にも肺炎で入院しました。当時病院にリハビリ科はなく、病院から紹介されて一九七〇年五月から都立心身障害者福祉センターに通い始めました。
二歳半でおすわりができる状態でした。自分から座ることはできず、座らせてやるとそのまま座って遊んでいるという状態でした。
この時リハビリの先生が曜介といっしょにころぶ練習をして下さいました。からだを右に倒すと右手は反射的に出ますが、左手は全然だめなのです。何週間か経った頃、家で曜介が自分でころぶ真似をしているのです。わざと倒れて右手を出して支えるという練習をやっているのです。これを見た時、私は感激しました。教えるということのすばらしさに。教えてやればだんだんできるんだ、と思いました。
歩くための準備はその辺からはじまったように思います。つかまって立つと左足の甲を床につけるので、必ず正しい位置に直してやるようにしました。けとばす力をつけるために、曜介が寝て私の頬に足の裏をうちつけるようにしてやりました。兄姉たちも「足をあげ」といって足あげ遊びなどやっていました。
つぎに歩くまでの様子を日記から拾ってみます。
●一九七一年一月五日(三歳二か月)
おわんでカルピスを、右手でつかんで飲んだ。飲む時は上手だが、おわんを置く時におわんが傾いてしまうので、支えてやろうと手を出したら、その私の手をはらいのけた。
飲み終わった時のうれしそうな顔といったら‼
おいしいネェーと笑いかけると、いっそう喜んで笑う。
こたつに手をついて立っている時、今までは背中をまげて体重をこたつの方にかけていたが、今日からはぐーんと手をのばして背筋を伸ばす。椅子に腰かけて食事をしている時、テレビ「おかあさんといっしょ」の体操が始まったら喜んで体を前後に動かす。今年はおもちを食べた。
●一九七一年八月二十四日
はいはいしながら右ひざを立てることができる。これでぐいーと上半身をおこせるといいのだが。階段の四段目位で止まって「あーあー」と呼ぶ。行くとふざけて後ろを見ながら登っていく。月はじめからダイヤブロックをつみ重ねる。うまくできると見せて喜ぶ。電灯のスイッチをつけたり、消したり。つみ木を並べたり。うさ子ちゃんの本『小さなさかな』の女の子が出てくるところが好き。
●曜介が、手を持ってやると外を歩けるようになった。はじめて歩いたのは十三日だった。
週一回通っている障害者リハビリセンターへ行くときに山手線高田馬場の駅のホームで、だっこしているといやがるので立たせると、喜んで進んでいった。帰りの駅から家まで歩いたりだっこしたりでのんびり帰ってきた。
これが体を支えられているとはいえ、曜介が地球上に二本の足で立った初めての足跡である。
●一九七二年一月五日(四歳二か月)
手をつないで歩くのがかなりできるようになった。今までは両手を持ってやったが、片手でも部屋をひとまわりするくらいはできる。それから「立っちは上手」と話しかけると、手を離して右手を高くあげる。机につかまって一分位手を離すことができる。
お姉ちゃんとテーブルにつかまって、しゃがんでテーブルの下から顔を出す「いないかナー、いたよ」など遊びの中でリハビリしていました。
●一九七二年二月四日
私がだめ、とにらんだら、右手で自分の左手をたたいている。曜介が水そうの中をいじったりすると私が手をたたくので、そのまねをしたらしい。上のお兄ちゃんが学校の技術でこしらえている本棚にやすりをかけていると、そばでやすりを持ち出してまねしてこすったりしている。
お風呂にはいった時、一人で湯舟のふちにつかまって歩いたり、ひざをついてつかったりしていた。
●一九七二年四月二十八日
曜介は立っちについては前のように「立っちは上手」に合わせてそれっと手をあげるのではなく、だいぶ自然に立っていられるようになった。つかまっている手を自分で離して何かやっていることもある。
次男がこの間「曜ちゃんが五歩あるいた」と叫んだ。移動する時つかまりがないとこわいらしい。一、二歩あるいてつかまりを探す。左手を軽く支えてやると、下に落ちているひもなどをかがんで拾いあげることができる。
●一九七二年九月十八日
歩くのはかなりしっかりして、七、八メートルは歩けるようになった。外ではつかまろうとするのでかえって転びやすい。お尻をついてしまうと立ち上がれないので、その段階をのりこえるのが難関というわけだ。
夏休みに下のお兄ちゃんと「片足あげてー」の遊びをやっていた。
●一九七二年十一月二十一日
立ち上がるのが十一月はじめ頃からできるようになった。十月終わり頃、つかまりなしで立ち上ろうとしているので足を立てるように補助してやったら、割合早く要領を覚えた。下のお兄ちゃんと椅子のとり合いごっこをやって、兄が座っているのをどかせようとするが、なかなか動かず、兄をぶったりするが、ついにかなわずわあわあ泣きながらお姉ちゃんに加勢を求めに行く。
センターで名前を呼ばれた時、九月頃から小さな声で「ハアー」と返事をするようになった。
●一九七二年十一月二十二日(五歳)
曜介、誕生日。御祝いを無事に終えた。
お赤飯をこしらえてセンターにも持って行った。お姉ちゃんがピアノをひいて(曜介はピアノがとっても好き。楽譜は読めないのに、好きな曲のページを知っている)五時半頃、テーブルについた。ろうそくをつけてあかりを消したら曜介は身をのりだして喜んだ。うれしそうな顔。ふーと消すように言うと、鼻でふーと息をふきかける。下のお兄ちゃんと一緒にふき消した。七五三のお人形のろうそくをつけてもらったので、よけいにうれしかったのだろう。それからケーキを一切、コーヒー牛乳(白牛乳にコーヒーを入れたもの)、おせんべい、レーズンサンドを少し食べた。食べ方も上手になった。
二 兄姉の力
一九七四年(昭和四十九年)四月十一日は、曜介にとって小平養護学校へ入学の日でした。
あいにく朝から強い雨でした。補装靴の左足は、すり足にするので先に穴があいて雨がはいってしまって、学校に着いた時は足がすっかり冷たくなっていました。それから二、三日雨の日でした。八時に家を出て九時頃学校に着きます。五月半ばを過ぎてから 私は当番の日以外は家に帰り、また十二時半に迎えに行くという生活が始まりました。
また、この年は雨の日が多く、新しい靴もできましたがひものところから水がしみ込むので、長靴をはかせてみました。やわらかいゴムの靴なので足の指が曲がっていても直せるので、うまくはけました。そのお姉ちゃんのお下がりの赤い長靴をはいて、ギャバジンのダブルのレインコートを着て歩くと、曜介はごきげんでした。
水たまりでは、ピチャピチャできるし、
この前の年は、だっこして傘をさしてふーふー言いながら歩いていました。これからは雨の日でも歩かせて行こうと思いました。
長靴をはく、こんなあたりまえのことが私たち親子にとってはとっても大事な経験でした。そのあたりまえということについて、私と長男でこんな会話をしたことがあります。
曜介が長い間かかって一生懸命やってできるようになったこと、例えばスプーンを持つ、歩く、しゃがむ、洋服をぬぐ、おばあちゃんから教わったやり方で靴下をはく、その他もろもろ、健康な子ならすぐにできているのに、と私が言った時、当時高一の長男が、それだからこそ、そうやって練習する、努力することが意義がある、価値があることだと言ってくれたのです。私はその言葉を聞いた時、本当にうれしかったし、励まされました。
今、以前の記録を読み返して、曜介を育てている時、兄姉の働きが大きかったと痛感しております。こんな出来事もありました。
養護学校入学前の頃、次男の友達が「曜介君、あそぼ」と言って家に来ました。しばらく遊んだあとでおやつを食べて帰るのがお決まりのコースでした。
ある日、別の友達がやって来ました。その子は曜介を見ていきなり「なんだよ、これ!」と言ったのです。すると次男が「なんだよって人間じゃないか」と言い返しました。
家の中で家族として、みんな同じと思っているのに、世の中の冷たさを感じました。弟を大切に思っている次男の強さにうたれました。話は違いますが、大人になってからの次男の額の真ん中に軽いへこみがあるのを見た時、私がどうしたのかしらねと聞いたら、次男が小さい頃、ガラス戸の縁にぶつかって「痛い痛い」と言ったのに、私が「あ、大丈夫、大丈夫」と言っていたとか。上の兄姉を放りっぱなしで、むしろ留守番など頼んでいた(命令していた)母親でした。
私は母親から「上の子達にがまんばかりさせるのは良くないよ」と教わったのに、よく留守番してもらって会合に出かけたものでした。めずらしく養護学校の先生と父母の懇談会が夕方からあり、私が曜介の世話を頼んで出かける時、「またお通夜?」と聞かれました。養護学校で
次男は留守番の時、「曜ちゃんは夕飯の支度を見ているのが好きだから」と言ってカレーを作りました。たまねぎを茶色くなるまでいためる本格派でした。夫が料理上手で、夕食の用意をよくやってくれたので見よう見真似でした。夫のお得意メニューはコムタンクッパでした。この味はなかなか他の人には出せません。
次男が小学生の頃、大切に製作した作品を曜介がこわしてしまったことがありました。次男は泣いてくやしがりましたが、ぶったりしませんでした。
娘は次男より一歳年上だったので、小さい頃から自分でしなければならない状況におかれました。幼稚園の参観日にも「ママ、曜ちゃんの世話があるから来なくてもいいよ」などと気を遣っていました。私は、参観日など出来るだけ行くようにしていました。
弟を連れて散歩していた時、石をぶつけられたという話を大人になってから話してくれました。
弟の誕生日に座ぶとんをこしらえてプレゼントしたことがありました。
娘が小学生の頃ピアノを練習していると、聞き手は曜介でした。好きな曲があり、そのページを開いてリクエストするのです。字が読めないのですが、題の字の形なのか、音譜の並び具合なのか、何によって決めているのかわからないのですが、希望するページはわかっていたのでした。レコードを聴いている時も曲の順番を心得ていて、好きな曲が始まる前には正座して目をかがやかせて待っていました。
「曜ちゃんにお願いしていいかな」
娘にそう言われると、曜介はすぐその気になります。
「はさみ、持ってきてちょうだい」
こんな風に言われた時に、曜介は私に「トイレに行きなさい」などと言われた時よりずーっと生き生きと行動します。娘の方が、母親にはできないゆとりを持って弟の能力を引き上げようとしていると思いました。
私が一人で育児にがんばっていると過信することは、母親にとっても子どもにとってもマイナス傾向をもたらすものでした。
曜介が「エーエー」と言っていたのは、実は「おやすみ」の意味でした。その時「おええん」と四つの音を出せるようにしたのも娘でした。
ところが、私の耳に残っている言葉
「こっちの人権も認めてよ」
「こどもは一人でしょ」
などの厳しい批判は、娘からのものだったのでしょう。私が曜介にとっての人権、人権と口にしていたのでしょうか、同性の辛辣さかなと思ったりします。
また、娘の言葉で忘れられないのは、妊娠した時の「もしも、障害があっても育てるから」です。思い、悩み、そして結論を出していたのでしょう。私は曜介が急性脳症に罹り、片身まひとなり障害があると解るまで、障害児を知りませんでした。ところが兄姉たちは、子どもの時から障害のある弟と暮らしていました。娘は子どもを産む時、そのように考えているのだと強く心を打たれました。
娘は無事に出産して、曜介はおじさんという立場になりました。家に遊びに来た時のことでした。孫はちょうどつかまり立ちをしている頃でした。母親の肩につかまって立っていて、時々手を離して一人で立っているのがうれしい様子でした。母親が「ひとり立っち」と声をかけると、子どもが手を離して立っています。その時ふと曜介を見ると、椅子に座っていて背筋を伸ばしています。
「あ、曜ちゃんもやっているね」と姉から声をかけられると満足げな様子でした。
小さい赤ちゃんと思って可愛がっていた甥がスタスタ歩いたり、しゃべったりするので、曜介は戸惑いを感じたようでした。大好きな姉の側で「おかあさん、おかあさん」とはしゃいだりしていると違和感があるようでした。
機嫌が悪かったのか、テレビを見ていた甥の頭をぶった。「曜ちゃんにぶたれた」、孫はがまんしているようで涙をためたが泣かない。曜介が「アーアー」と何か訴えているので、私が「何がほしいの、言って」と言うと、孫も「曜ちゃん、エーエーと言って」と話しかけています。あとから「曜ちゃんしゃべれないの?」と聞いてきました。孫が三歳の頃でした。孫は小学校三年の頃おじさんの車いすを喜んで押してくれました。二人の目線が同じ高さでした。
養護学校高等部の修学旅行では京都に行き、自由に歩行できていたのが車いすになったのは、二十九歳の時でした。転倒事故で四肢まひと診断されましたが、「ふり出しに戻る」と思い、再出発して歩けるようになりました。
災難はここ六年間で起きました。入居しているグループホームの職員の失点で足の骨折がありました。二〇二一年にはアレビアチンの中毒に罹りました。処方された薬は一回たりとも飲み忘れをしなかったので、本当に残念で悔しかったです。
続いて心筋梗塞、じょくそう、コロナ、でした。命拾いしました。今、食事を自分で食べ、車いすを動かすことができます。満面の笑顔を見せてくれます。
現在、私は車いすを押す位はできますが、ベッドへの移乗などの介護はできなくなりました。甥がやってくれます。曜介が入居しているグループホームの夜勤のアルバイトをやって以来、甥がおじさんの介護をやっています。家族だけでやるより、ヘルパーさんを頼んだ方が良いと思うので、訪問看護やヘルパーさんをお願いしています。
三 これから
曜介は幼い頃から人好きで、今もしゃべれないのに会話するのが好きです。土曜、日曜は、グループホームから自宅に戻っています。
つい昨日も、曜介がテーブルの上を指さして「アーアー」と言いますが、私はなかなか何を指さしているのかわかりませんでした。ようやく、はさみをいつもの場所に移してということがわかりました。集団の生活の中で理解されにくく、静止されることもあるでしょう。お互いにコミュニケーションが取れる所で生活できるよう望んでいます。
息子も年を重ねるにつれ、体力を現状維持しようとよく言われます。ですが現状維持するためには、新しいチャレンジが必要と思っています。車いすにじっと座っているだけではなく、右手右足を使い車いすを動かす、背筋を伸ばしたり、腕を上げたり、かつてのように歩けないまでも、足をあげたり、伸ばしたり、家に戻っている時は音楽を聞きながら手足を動かしてやります。
時にはウインナワルツに合わせて、踊ったり。
私もイタリア語の勉強に挑戦しています。テキストの中の課目「女性の労働環境」の中で、女性が右手で料理、左手にパソコンのイラストがあり、思わず笑ってしまいました。私も駅にエレベーター設置の活動中、受話器をキッチンに移して、フライパンでいためものをしながら電話をしていたことがあったからです。Ciao
受賞のことば
矢野賞を頂きありがとうございます。
身に余る光栄です。子育てと言いながら私の方が育てられた年月でした。今は無いと思いますが、NHK「おかあさんといっしょ」の集まりに行きました。「みんなおいで」の声に誘われて息子も舞台に上らせていただきました。
帰り際に知らない人から「奥さん、よくこんな子を人前に出せますね」と言われました。現在障害に対する理解は広まっています。更にそれが深まるよう願っております。
選評
一口に五十年と言っても、若い頃に「これから生きる五十年」を思う時と、年老いてから五十年の人生を振り返る時とでは、その歳月の長さの実感にはずいぶんと違いがある。
私自身、八十八歳になってみて、そう痛感する。
まして障害のある子を育て、成長を見守る日々を重ねてきた五十年となると、その歳月の重みは格段に大きなものとなるだろう。大西さんの手記を拝読すると、その長い歳月を、単に「大変だった」と言うだけでなく、障害のある人が街に出やすく生活しやすくする活動に情熱を注ぎ、障害のある子の兄姉三人を弟思いの子たちに育てるなど、内実の豊かなものにして来られたのですね。大西さんのその人生に拍手をお送りさせてください。(柳田 邦男)
以上