第59回NHK障害福祉賞 佳作受賞作品
~第1部門より~
「大好きな 手仕事から 音声パソコンへ!」

著者 : 中地 惠子 (なかち けいこ)  栃木県

自分の指がパソコンのキーボードの上を楽しそうに踊っている。パソコンの横には小型の可愛いスピーカーが置いてあり、パソコン操作や文字を読み上げて、失った目の代わりをしてくれている。想像できない……姿。
二年前まで、この机の上には、古布の端切れ・色とりどりの糸・針・はさみなど、手仕事の材料や道具がところ狭しと並び、ウキウキしながら作品を作っていたが、全てが消えた。いまだに信じることができない。夢であったら。何度も何度も……。
八十歳を迎えるにあたり、文字が読めない、書けないことがどんなにか虚しく悲しいことかと苦しんだが、このような別の方法と出あったお陰で自由に思いを綴ることができている。心の整理をしつつ、これまでの道のりを振り返り、〝人生捨てたもんでないよ”と伝えたい。

~手仕事大好き~
テレビはついているが見ていない。手の先に針を持ちチクチク縫っているのが大好き。テレビとのお付き合いは苦手だが、布との相性は最高だった。この布で何ができるかな。ここに、この布を足したり、除けたりしてみて、算数の計算をしているようで何もかも忘れられた。
思い出の作品「かさじぞう」のおじいさん。ストーリーのある人形作りが好きで、地蔵に笠をかぶせてあげたおじいさんの優しい雰囲気を出したいと、工夫をこらした。紺のかすりの着物に、無地のモンペと白足袋に草履姿。背丈十三センチのおじいさんの髪は、もちろん白髪で、てっぺんはつるつる。コメカミにある髪を後ろで束ねた。顔は集中しなければできないので、一度、座り直して、手元が揺れないように椅子を引き、黒糸を針穴に入れながら、満足のいくまで、〝どうしたらおじいさんの顔になるか”と、何個も作ったから、今、手元にあるおじいさんは最高の顔だ。直径四センチの顔に、目じりの下がった目・団子鼻・ふくよかな耳・深めのほうれい線・口は口角をあげて微笑みの表情を表現した。作品作りでの一番の苦労は、顔作り。特に一本の黒糸で目を描くように表現する。顔全体の中心より上で目頭を近づけると老人に、中心より下で目頭の間隔をあけると幼い子供になる。目一つで顔の印象すべてが変わる。神経を使えば出来ばえが違ったので、顔作りの完成度を上げるため、人形作りは、いつしか深夜の仕事になった。集中した疲れは庭いじりで解消した。花の咲く季節になると、〝忘れないで今年もよろしくね”と、多年草の小さな花が私を喜ばせてくれた。交配して色違いが咲く自然界の面白味に感動したり、癒されたりもした。
庭先の花を布で表現したくなり、少しでも色を似させようと、白地の布を染めたり、花びらを観察して、どのように作ろうかと、考えれば考えるほど面白さは増し、夢も膨らんでいった。剪定した小枝に、布のつぼみを付けた蝋梅は、遠くから見たら本物みたいだった。花びらの重なり方、実物のおしべめしべの位置を見ながら作っていった。
こんな楽しみが全て奪われた。年老いてもできるものと思って、腕を磨いてきたはずなのに、どうして? なんで? 奪ってしまうの! と何度も問いかけた。
二度と針仕事も庭いじりもできなくなった。

~持って生まれてきたもの~
人はいろいろな運命を持って生まれてくる。私が生まれながらに持っていた病気、先天性血液凝固因子欠乏症。なかでも両性に発症する全国で一七〇〇人くらいの登録患者しかいないフォン・ブイレブラント病(凝固因子が少ないために出血したら止まりにくい病気)だ。
百三歳まで生きた母も、妹を出産してからは貧血がひどく、ほとんど寝たり起きたりの生活だった。歯の治療も出血したら止まらないので、抜歯した時には、何日も粥しか食べられなかった。母の父、兄も鼻血がよく出る人だったと聞いて、体質だろうと、深く考えたこともなかった。私も幼少期から出血しやすかったから、息子が出血しやすくても、親子だからと簡単に片づけていた。
息子が小学校に入学する前に細かい検査をすすめられた。結果、東京医科大学病院で今の病気がわかった。私三十三歳、息子六歳の時だった。
「遺伝です。現在の医学では治りませんが、治療方法はあります」と、突然医師から告げられて、理解ができなかった。
ふと振り返れば、今まで四度も死の瀬戸際を歩いてきたと思う。一度目は、私が初潮を迎えた中学生の時、経血量も多い生理が二か月も続き、貧血で学校にも行けなくなり、二〇〇〇㏄の輸血をした時だ。昨今では、この病気のある女性は、生理が来て初めてこの病気がわかることが多いそうだ。私は、出血しやすくても、検査もせず、病気がわかるまでに、三十三歳まで過ごしてしまった。この病気だと知らないまま、三人の子供を出産した時が、三度の死の瀬戸際だった。私と同じように生理で悩んでいる人がいたら、一刻も早く検査してほしい。

~先天性の病気がここまで……~
私が二十九歳の時、母がうつ病になり、父の血圧が二五〇まであがり、二人での生活が無理になったので、私たち夫婦が横浜から栃木の実家に移り住んだ。母は寝たり起きたりの生活で、夫は痛風、父は風邪から急性糖尿病にもなった。常に病人がいた。私は福祉施設で調理員として働くなどして、三人の子育てもした。
子育てもひと段落した、私が四十八歳の時、父が心筋梗塞で入院。その翌年、夫が小脳出血で倒れた。五十五歳だった。身長もあり身動きできない人形状態の夫は、週三日透析に通った。そのつど、車いすに移動させなければならず、出血しやすい私の目の奥の脈絡膜の毛細血管は、力むたびに切れ、新生血管ができては切れを繰り返した。視力の低下に気付いて、眼科を受診した時には、毛細血管はレース状の膜になり果てて、その薄い膜は破れていた。三回の手術を受けるが、完治することなく、現在、右目は失明。左目は濃霧の中で、色彩は白黒のみ。視野は狭まり五円玉の穴を覗く程度の視界である。目の病名は、〝汎ブドウ膜炎を伴う多巣性脈絡膜炎(はんぶどうまくえんをともなう たそうせいみゃくらくまくえん)”。手術すれば治るだろうと安易に考えていた私。病院に行けば、見えるように治していただけるという甘い考えは、数年で消えて行くことになる。見えなくなったというよりも、徐々に見づらくなってきたという表現が正しい気がする。
出血したら止血しにくい病気だから、見えないところの出血は気を付けてくださいと言われたので、お腹をぶつけないように気にかけてはいたが、大事な目のことは一度も考えたことはなかった。日常生活の中で、家族の看病は当たり前のことと考えていた。その当たり前の介護生活が、自分の先天性の病気の認識不足から、まさか失明することになるとは、思いもよらなかった。

~〝ひなたぼっこ”~
私は、五十歳を前に、家族三人の在宅介護のため、調理員の仕事を辞めた。介護にも慣れてきたころ、時間にゆとりが出てきたので、今市市の助成を受け、介護保険制度が始まった二〇〇〇年、自宅を開放して、元気なお年寄りが通う憩いの場〝ひなたぼっこ”をオープンさせた。その翌年、寝たきりであった父が逝去した。
〝ひなたぼっこ”の利用者さんが元気なまま過ごせるようにと、もともと好きだった手仕事の布で作る作品作りを始めた。すると、利用者さんといっしょに作品を作る喜びもあって、笑い声が絶えない施設になっていった。一人ひとりが丹精込めて作った布の作品展では、一〇〇〇人近い来場者から褒めてもらえて、思いのほかビックリ。「高齢者も捨てたもんじゃないわ」と喜んだのに……。目の病気は視界だけでなく、大好きな手仕事をする私の未来も消し去った。
七十三歳の時、身体障害者二級と認定された。悔しくて返せなかった運転免許証を翌年、返納した。二〇二〇年に母と夫を相次いで見送り、その二年後、七十七歳の時〝ひなたぼっこ”を閉めた。
一日五人×二十日×十二か月×二十二年=二六四〇〇人!
ざっと延べにしてこの人数の方々と共に過ごした〝ひなたぼっこ”。その二十二年に終止符を打たなければならなかった。何百個とあった布の作品一つ一つに語りかけながら、部屋いっぱいに飾って、最後のお別れをした。

~こんなことってあるの……~
太陽の日ざしが邪魔になり、遮光メガネをしないと外には出られない。目は、見えなくなるまでに、いろいろな信号を出しながら、ふと気づくと、薄紙をはがすように視界が消えていった。
歩行が難しくなりだしたころ、医師と娘から白杖を使うように勧められたが、高齢者用の杖で何とか歩けていたので、三年間理由をつけて逃げていた。プライドが邪魔して、どうしても素直に受け入れられなかった。見ず知らずの視覚障がい者福祉協会の方から、「歩行訓練しませんか」と電話をいただいた時も、一瞬沈黙して、すぐには言葉が出なかった。訓練をするには、外に出る、近所の方に視覚障がいを知られる覚悟ができてない。いつかはわかることだが、白杖を使っている姿を見られるのが耐えられなかった。
日々衰える視力には対策が必要になり、とうとう、盲導犬センターの訓練師さんの指導が始まった。家の周りの歩行を始めると、あれほど抵抗のあったことに少しずつ慣れてきた。一人で歩くには、「私は視覚障がい者です」と堂々と伝えないと、困ったときに支援いただけないことを知った。
訓練で大変だったのは正しい白杖の持ち方・振り方だ。手のひらで軽く握り、へその前で、肩幅に左右に振る。その振り方で方向が決まる。正しい持ち方をしなければ真っすぐに歩けない。「姿勢が悪い。下を見ないで!」と立て続けに注意を受ける。二時間の訓練は苦しかったが、いろいろわかってくると、人の目が気にならなくなりだした。縁石に沿って、白杖の振りを頼りに歩く。
「預金の引き出しはどうしてますか」と訓練中に聞かれた。「娘に頼んでます」と答えると「自分でできますよ」と言われた。「行きましょう」と郵便局へ。ATMの機械の正面の左手に受話器があり、受話器を取ると音声で指示され、暗証番号も自分で入力できた。あの瞬間は目からうろこだった。六年ぶりに自分の手で預金を引き出せた喜びに、「できたよ!」と叫びたかった。〝できない”と思ってたことがすんなりできた。〝知らない”と〝知っている”とでは、こんなにも違うのだと教えていただいた。見えないから何もできないのではなく、デジタル時代だから、ますます便利なことが出てくる。それを楽しみたい! どうしてあんなに白杖を持つことを嫌ったのかわからないくらいに、今では白杖は体の一部になり、置き忘れることもなく外出にはいつも一緒だ。

~人との出会いで~
「待っといてね」と優しい岡山弁で声をかけてくれる自治医科大学附属病院の眼科医師との出会いが、辛く悔しい日々を何回も支えてくれた。一回目の手術で入院したその日、病棟の通路で「細く長くお付き合いしましょうね」と言われた言葉は忘れることができない。その言葉の意味を理解するまでに時間がかかったけれども……。
ボンヤリ見える中で顔に視点を合わせると顔から下は消え、右目に視点を合わせると左目が消える。全体を見るのは難しい。医学が進歩しても治せない病気があることを知った瞬間は、切なく言葉が出なかった。病院へ行けば治してもらえると思っていたのだから……。
先天性血液凝固因子欠乏症が原因で失明。みじめな自分を見せたくないから、心で泣いていると、ポンポン肩をたたかれ、「自分で命落とすことはしないでね」とやさしく言葉をかけてくださった。視力低下が進むにつれ、心では葛藤が続き、大声で叫びたい心境。それを察し、優しく握手で元気づけてくれた私の主治医。音声パソコンが使えるようになり、ビクビクしながら、メールアドレスをお聞きしたら、気持ちよく教えてくださり、メール交換が始まった。一日の報告・仕事の悩み・人間関係……など、やり取りが一〇〇〇回を過ぎた。モヤモヤしていることを文字にして吐き出すたびに、あたたかい言葉の返信でどんなにか助けられたか。落ち込んでいる時には、なにげない言葉に勇気づけられた。完治しない患者を投げ出すことなく、声をかけ続けてくれる。病棟の通路で言われた「細く長くお付き合いしましょう」の意味を、十一年経ってようやく理解した。曲がることのない前向きな生き方を教えられたのは、クスリではなく信頼がもてる医師に出あえたことでした。「目は心の窓」、目は心の気持ちを教えてくれる。主治医の眼科医になるときの信条だそうだ。

~ICT機器との出会い~
視力低下につれ、何かと不自由になりだした頃、一人暮らしで不便になった携帯電話を買い替えるにあたり、とちぎ視聴覚障害者情報センターを訪問した。職員の先天性全盲の女性が、明るく対応してくださった。彼女は、「これからは、ね」とパソコンの部屋に移動し、ポンポンとキーボードを打つ。パソコンからは音声が……話し声が聞こえる。「なんでしゃべるの?」と質問した。「見えない人には耳でね」と、本や映画を聞いた。驚きと同時に、本も読める! 文字も書ける! 「次にスマホは、ね」と、言いながら、行きつけのスーパーのチラシの情報を聞き、「帰りに買っていこう」と、いとも簡単に言ってのける。見えないのにこんなに明るく楽しく日常生活を送っている姿に勇気をもらった。ビクビク聞いてみた。「高齢者でもできますか?」と。答えは「誰でもできるよ。一緒にやりましょう」。笑顔で誘ってくださった。爽やかな言葉がとても嬉しく後押しをしてくれた。早速パソコンを購入したとたん、新型コロナウイルス感染症で外出ができなくなってしまい、パソコン操作指導が開催出来るようになるまで約二年間待つことになった。
視力低下で施設の運営が困難になり、閉じたことで、時間にゆとりができたと同時に、手持ち無沙汰になって、本でも読んでみたくなり、とちぎ視聴覚障害者情報センターを訪問した。以前、対応してくださった彼女が、「スマホやパソコンを使ってますか?」と聞いてきた。「そのまま眠ってます」と答えると、「今なら来所すればパソコン操作の指導してくれますよ」と教えられ、すぐに申し込んだ。
二〇二二年十月二十日、音声パソコン操作指導がスタートした。知らない世界に入るワクワク感の反面、ドキドキの不安で胸がはち切れんばかりになった。ふたの開け方・電源の差し込み方、全てが初めてのことばかり……。ICTサポートセンターの相談員は「やるしかないね。毎日触ることからだね」と言う。触ることが怖い。触れるだけでパソコンが動かなくなり、ニラメッコしたことが何回もあった。こんなに繊細なパソコンについていけるのか、自分に問いかける毎日。パソコンを寝室に移動させ、起きては触り、何回も何回も開いては閉じるを繰り返した。
次の段階は文字の入力。苦手なローマ字が出てきた。「カナでは駄目ですか?」聞いてみると、「カナは覚える文字数が多いよ。大変でもローマ字で覚えたら」と。打ち方の練習に入ると、とても丁寧に、どの指でどのように動かすかを指示してくれた。家族の名前を何回も打っていると一字ずつ位置がわかりだした。すると、相談員から日記を書いてくるように言われた。イヤイヤ、日記は人に見せるものではないからと思いながらも言えず、渋い顔をしてたら、「ご飯のメニューでもいいよ。三回食事はするよね。メニューは書けるわけですから、嫌でも三回はパソコンにさわるでしょう」と。後でわかったことだが、毎日パソコンに向かってほしいという願いが込められた課題だったのだ。さりげない心遣いに励まされ、日記を一度も休むことなく書き続けた。
パソコンの操作を忘れるたびに、何回お聞きしても怒ることなく、淡々と指導してくださり、時には冗談を入れながら、二時間のレッスンが日ごとに短く感じられ、楽しく通えた。そして、書き留めた日記を冊子にしてみないかとお声がかかったが、自分はまったくその気はなくお断りした。お断りしておきながら、練習にちょこちょこメモしておいた母のことを相談員に見せた。「これはいいね。冊子にしたら」と言われ、『ちゃんの愉快な百三年』と題名をつけ一年後完成した。
大正に生まれ戦争を経験し、戦後の物資のない中、三人の子供を育て、老後は娘に世話になりながらも、百三年の生涯を終えた見事な母。一緒に生活したことで学んだことや思い出を形にすることができたのは、パソコンのおかげだ。六十冊を配らせていただいたところ、嬉しい反響をいただいた。「読んでいてあたたかい気持ちになりました」「読んでいるうちに自分の母を思いだしました」一冊の冊子のおかげで、人の温かいぬくもりに接することができた。
でも、冊子ができ上がった時には、自分では読むことができなくなっていた。センターの全盲の職員が冊子をこすりながら「ネーこの紙、あたたかいね」と言った。あ、彼女も読めないんだ。「表紙はね。和紙を使ったの」と答えると同時に、彼女から「音訳を頼みましょう」と、提案され、音訳ボランティアの協力でデイジー版ができ上がった。CDから流れる丁寧に読まれたひと言ひと言が、ひとコマひとコマ、映画を見ているかのように、鮮明に浮かび、いつしか目には熱いものが溢れていた。皆さんのおかげで母の思い出がこのような素晴らしいものへと変身させていただくことができた。〝見えない”イコール〝何もできない”ことではないのだ。「あきらめない」ことの大切さをしみじみと感じた。できないのでなく、やるかやらないかで、楽しく生きるかが決まるのだと、大きな勇気をいただいた。

~できなくなったことをいつまでも追いかけないよ~
今回の応募は、二月二日のラジオ深夜便の対談を聞いて、パソコンで書いてみたいとICTサポートセンターの相談員にメールしたことから、始まった。たくさんの思いが込められていた「やるしかないね」と、あの手この手で飽きないように挫折しないようにと、楽しい雰囲気を作りながらパソコンの世界にいざなってくれた相談員が、また、「やってみたら」と後押ししてくださり、こうして自分の過去と向き合っている。
八十歳を目の前にして、このようなことに挑戦できる機会に出あわせてくれた音声パソコンに感謝。そして、ここまで指導し、支えてくださったたくさんの方々にありがとう。共に歩んでくれたパソコンにありがとうのハグをしてあげ、音楽に乗って踊りだしたい。失ったものは取り戻せない。でもね、その代わりをしてくれることがあった。デジタル時代がね。私たちのためにたくさん便利なことがあった。自分自身がアンテナを高く掲げ、一歩前に進むことで、不可能が可能になり、できないことができるようになって、勇気をもらい、その勇気を土台にして、負けないよ。あきらめないよ。
大好きな手仕事ができなくなったけど、このような原稿が書けているのは、音声パソコンを学んだおかげだ。どんなことでも挑戦してみたい。時間はかかるけど。「できる。できた」という喜びは格別。失ったのは視力。心には、いつか見たことが残っている。香りがバラの季節なんだと思い出させてくれる。見えないけど、教えてもらうことで、共有できる幸せなひと時となる。心にゆとりができホッとする。普通の生活が少しでもしたいと願い、残りの人生を楽しく生きる。新しいことに出あえるとワクワクする。そのポジティブ感を忘れないで、笑顔を大切にしていこう。残りの人生、楽しく過ごしていこう。

受賞のことば

この度は、嬉しい賞をいただきありがとうございました。
眠れない晩の深夜便に流れた対談の明るい声に吸い込まれるように聞き入った。
初めて知った障害福祉賞の存在。応募してみたい思いから書き始めて十か月終ってでた結果に驚き、日ごとに胸の興奮は高まるばかりです。悔しい毎日に明るい光が……。
本当にありがとうございました。この喜びを噛み締め、支えてくださった仲間に感謝してこれからもお世話になりながら歩んでいきます。

選評

先天性の病気に加え、家族三人を介護したことが原因で失明。布を使った針仕事や庭いじり、全ての楽しみが八十歳を目前に全て奪われてしまう。私なら絶望してしまいそうな状況ですが、筆者は違う。支援を受けながら家の周囲を歩き始める。訓練を受け、白杖の振りを頼りに歩く。そして音声パソコンにたどり着き、母親の生涯を記した冊子を完成させるまでに至ったのは、医師や施設の職員のみなさんの支援もありますが、やはり筆者の「負けない、諦めない」という強い気持ち、そしてデジタルという新しいことへの好奇心だと強く感じました。(藤澤 浩一)

以上