第59回NHK障害福祉賞 佳作受賞作品
~第1部門より~
「夢を繋げ」

著者 : 後藤 未来 (ごとう みく)  埼玉県

二〇二四年の夏、大阪・関西万博まであと一年。
バーチャルな世界の技術は日々進化していく中で、「メタバース(インターネット上の仮想空間)ってゲームみたいで楽しそうね」と私の周りでは、普通にそんな声が聞こえてきます。メタバースの世界で遊んでいるように見られている現実に落ち込む私もいます。そう思ってしまうのは、私にとってメタバースの世界は、私の夢に繋ぐ入り口だからです。
私がメタバースの世界と出会ったのは、二年前にShining children(※注)のメタバース活動に参加し始めてからでした。それから二年が経ち、リアルの生活まで変わりました。私は今、メタバースを活用しながら働き始めたのです。
私にとって今まで夢に見ていた、働きたい、家の外に出かけて人と関わりたい、という願いが、メタバースと現実で繋がり、夢を実現させてくれたのです。
私は身体的に先天性の脳性麻痺のため車いす生活を送っています。また、心理的には極度の不安から家以外の場所では話すことや動くことが出来ない症状を持ち合わせています。
今から九年前、特別支援学校の高等部二年生の私は、学校に行けていなかった分、就活に励もうと、気持ちを切り替えようとしましたが、障害者就労支援センターを訪ねた時、就労支援の人に次のように告げられました。
「特別支援学校に在籍なら、まずは学校に行けるようになってから就労の相談をしてください」
学校に行けないことが就労の壁になったようです。私の能力や就労願望の話よりも「不登校」というラベルが貼られて、働きたい夢は破られました。現実の壁は想像以上に厚かったのでした。
当時悔しくて、「不登校」のラベルを剥がしてやると、頑張って学校に行こうとしましたが、スクールバスに怖くて乗れませんでした。
登校できるように頑張りたいと思っている私を応援するために、母は仕事を辞めるまでして調整し、毎日片道二時間を、私の送迎に費やしてくれました。それ以外に、校内では緊張のあまりに、私は給食が食べられませんでしたので、母は私に合わせて学校内で待機し、給食の時間になったら、私を校舎の外へ連れ出し、一緒にお弁当を食べる日々を過ごしていました。しかし、母を中心に、支えてもらって、学校のルールに合わせる努力をしたけれど、結局高等部卒業後も就労には結びつきませんでした。
悔しさと違和感を抱えながら、高等部卒業後の春、私は生活介護事業所に通う生活を始めました。
通所利用中、支援スタッフからの「社会人になったのだから、挨拶くらいできるように」「社会人なのだから、受け身じゃだめだよ、どうしたいのか教えて?」等々、週に五日、絵本や紙芝居の読み聞かせに紛れて、都度聞かされてきました。支援スタッフの「助けてあげたい」という強い思いから、声に熱が入りました。しかし、その声は、聞き手の私の耳には、ナイフのように刺さるトゲトゲしたものでした。苦しくてパニックを起こしては、施設内の活動準備室に送還されることが日常的でした。
そんな通所の生活が七年間続きました。この生活が当たり前だった私に突然な転機が訪れました。
昨年、二〇二三年の秋、それまで元気だった母が神経痛で倒れ、生活介護に行くための準備や私の身支度を支援できず、通所できなくなってしまいました。その時に昨年の夏の記憶が蘇りました。
私は昨年の夏、歯の治療のために入院をしましたが、不安や恐怖が強く残る入院だったため、退院後は自宅に戻っても、食事が摂れなくなって、極度の脱水と低栄養に苦しみ、布団から動けず、起きられない時期がありました。固形物どころか水分も身体が受け付けず、通所は一旦お休みし、点滴通院を軸とした在宅療養をしていました。通所を休んだら社会から隔離される孤独で当時はいっぱいでした。そんな中、一年前に出会ったShining childrenの仲間から、チャットで「メタバースで遊ぼう!」と、誘いがありました。誘われてとても嬉しかったので、私はすぐに横になったままでもメタバースに入れるように調整してもらいました。
この経験が私の夢に影響することを、この時は知る由もありませんでした。
メタバースで仲間たちと花火をして過ごした日は、非日常として思い出になりました。リアルではいくらしんどくても、メタバースでは変わらず、好きな姿で元気にいられたのでした。
「好きな自分でいられる!」と、改めて自由な自分に目覚めたのでした。
楽しい思い出のおかげで、リアルでは徐々に身体が起こせるようになりました。体を起こせるようになっても、在宅療養は続き、その時間が延びれば延びるほど孤独や不安は強まっていきました。そんな私の状況をまるでどこかで見ていたのかと思うほどのタイミングにメタバースで知り合った仲間から、アバター(メタバース上の分身)越しでの接客のお仕事をいただくことになりました。画面の向こうにいるお客様との接客、やり取りをする中で、人と関わる楽しさに気づきました。おそらく私は、声を発する恐怖がアバターによって緩和され、孤独から抜け出したいきっかけが欲しかったのです。孤独から私を救ってくれたのはアバターでした。
こうして私の体と心が少しずつ回復に向けた矢先に、不意に母が倒れてしまいました。
母が倒れた後、私が通所できない状況となって、生活介護事業所に行く理由を自分に問いてみました。今まで通所の目的は、「親の加齢や老障介護の負担軽減、親亡き後に地域で暮らすための繋がり」だったはずです。
生活介護事業所に行くためのヘルパーが見つからず、制度の仕組みによって、母の支援なしでは通所できませんでした。逆に、行けなくなったことがきっかけで、通所にこだわる理由がなくなったことに気づきました。
在宅でも、家族の了承を得ればやりたいことや、本当に叶えたい夢を考える時間が出来たので、高校生の時の就労願望が蘇ってきました。私は自分らしい自由な生き方を再び探し始めたのです。
二〇二四年の春、自分らしい生き方を模索する中で、通所で介護を受ける受動的立場から一変、在宅でできる仕事に挑戦するという能動的な立場に気持ちを切り替えました。
そして、私は長期間コツコツと継続していくことよりも、一度十分に力を充電して、一気に活動する方が向いている、と自己分析をしました。だからこそ、たとえ簡単な作業であっても同じことを長く続けられないという特性を知り、力の配分は自由に決めようと心しています。
自分で自分のスケジュールや力の配分を、自由に支配でき、周りに縛られることはありませんでした。なぜならば、高等部卒業の際に、働けないと周りから判断されていた私であり、幸い親からのプレッシャーは全くありませんでした。それに加えて二〇〇六年の八歳の頃には、病院の担当医から「成人するころには寝たきりになるので就労は難しいでしょう」と聞かされていました。これらの理由から、周りからの高い期待がないままに自由な環境に置かれていました。

自宅で好きなことをしていくうちに分かったことがあります。手指を巧妙に使うような作業は難しく、仕事仲間に迷惑をかけることを心配していたけれど、アバターを動かすことに慣れてからは周りに迷惑をかけることがなくなり、むしろ周りにアバターの操作を教えてあげられるまでに成長しました。
メタバースの世界では、リアルより気楽になれたおかげで、家の中ではアバター越しであれば、家族以外の人と声を出してのコミュニケーションを図ることが出来るようにもなりました。
メタバースと出会ってからの変化は、自分の想像をはるかに超えていました。アバター越しの世界との繋がりが、リアル世界で、自分の自信にも繋がり始めたのです。
働き始めて起きた心と体の変化についていくには、想像以上に負担が大きくかかっていました。デスクワークが増えた分、身体の機能の低下が大きく、通院日やリハビリの時間を増やすことになりました。そして仕事を始めて、「こう在りたい、やってみたい」という情熱はいつからか、「やらなくては」という使命感へと変わり、強いプレッシャーを感じ、気分が乱れる日が増えたのは、残念ですが事実でした。
「みんなが応援してくれているから頑張らなきゃ」という焦りは、周りからではなく、自分自身の特性ゆえにだと思います。メタバースで夢を叶えるのも、そう簡単ではありませんでした。それでもその葛藤を乗り越え、形にしていくことに全力を出しました。例えば、
①やりたいことを、声が出ないなら違う形で表明すること。
②やりたいことのためにどう支援してもらうか考えること。
③支援してもらうだけでなく、支援する側も一緒に楽しめる、活動したくなる伝え方をすること。
そして、私が伝える中で昔から気をつけていることがありました。生まれてからずっと抱えてきた劣等感は必要ないのではないかと、メタバースに出会ってから疑問に思い始めたのです。
実は今まで実年齢に対して経験が少ないことにずっと劣等感を抱いていたけれど、メタバースでは、私が車いすに乗って生活していることも、声でお話が出来ないこともほとんどの人が知らないので、リアル世界の私と全く違うアバターの私として、メタバースの世界では違う私を受け入れてくれていることに気付きました。
もっと言うと、リアルの世界では失敗すると周りから注意されたり、指摘されたりしますが、メタバースの世界は失敗しても間違えても皆が温かく接してくれ、怒られたりはしません。そこには大人も子供も上下関係も、男女さえ関係なく、平等に存在できることが背景に影響していると思います。メタバースの世界では、リアル世界の実経験によらず、誰も劣等感を感じる必要はないのです。
もう一つ、自分では理解できない現象があります。メタバースであっても声が出せる時と、不安で出せない時があります。どんな状況だと声が出せなくなるのか、自分で研究をしてみたくなりました。その現象の因果関係が何かわかっていれば、それをもとに私が支援者に伝えることで、理解してもらえる日が来ることを夢に見ています。
更に、私が自分の夢を追うことに成功した場合、私と同じような、リアル世界での身体の不自由な人の就労成功例のモデルとなり、コミュニケーションに不安を抱える人に対する周りからの理解が得られやすく、一昔前の私のようなリアル世界で苦しむ人の背中を押すことができるのだろうし、そしてそれは私が長年抱えてきた違和感の解消へも繋がります。
正直、私は現在請け負っているメタバース上のお仕事だけでは、一人で暮らしていけるほどの充分な収入にはなっていません。ただ、この体験はお金では買えないご縁や経験の「価値」をつけてくれています。おかげで、自身の夢を一緒に繋いでくれる仲間たちと出会えました。
先天的に重度の障害を持っている人なら必ず通る、親亡きあとの問題も、メタバースでの出会いから解決の光が見えたのです。
メタバースで出会った仲間たちに、実際にリアル世界で会いに行くことを繰り返しているうちに、場合によっては、身体が固まってしまうことや食事が思うように摂れないことも発生しました。メタバースに出会う前の私なら、また迷惑をかけてしまうのが怖くて、二度とその人に会いたくないと回避するはずでした。それが今は不思議とまた会ってみたいと思えるようになったのです。
メタバースではケーキやコーヒーを出されても実際に飲食できないことが普通で、当たり前だから、食べられないこと自体はなにもストレスにはなりません。それはリアルでも同じように理解してもらえれば、「私はここでは飲食できないのが普通だ」と、私のストレスがなくなります。そうしたら、リアルで次回会おうと言うハードルが少し下がってくれるのです。
経験の積み重ねから、大切なのはメタバース内だけで物語を完結させず、行動に起こすことでリアルと融合させることこそが真の理想形だと私は思っています。世の中にこのメタバース×リアルのハイブリッド型の未来形についてもっと多くの人に理解してもらえれば、遊びやゲームという表側での認識から、「メタバースでの働き方もあるよ」と裏側の問いかけへと認識を改めることができたら嬉しい、という望みがあります。
生き方を変えるという、新しいことに挑戦する時、危険を伴うかもしれません。それでも「冒険することは夢を叶える唯一の道」だと私は考えています。
スマートフォンが出始めた頃、当時十四歳の私はSNSで発信し始めると、親からは「よく分からないものは危ない」と言われました。そうしたら私は逆に燃えて、理由と事実を伝えることで、「SNSの使い方によっては安全で新しい出会いがあるのだ」と親を納得させた位の力を出し切って、親に理解してもらった結果、今の夢に近づくことが出来ました。
私は障害者として生まれ育ったからこそ、現在の日本には伝えたいことがあります。
それは現在の日本では、障害者がバーチャルアイドルやVTuberになっただけでニュースになってしまいますが、特別な存在として生活する理由が「障害があるけど負けずに生きているから」と障害についての注目評論が多いことです。そうではなくて、本当であれば障害のところに着目せずに、「愛される、応援したい才能があるから」と認めてくれる社会を心から願っています。
最後になりますが、私自身が誰かの目指すモデルになれるよう、日々発信を続けて、私の人生を全身で伝えて届けたいです。そうすれば、私と同じような身体の不自由さや、不安や恐怖を強く感じるような障害があってもメタバースの世界でなら、それらを個性として強みに変えて安心して自由に楽しみながらそれぞれの夢を追っても良い取り組みがあることを案内できます。
現代の日本からこれから先の日本へ、私は今日も、この先も、メタバースで夢を繋いでいく活動を積極的に行動して、発信し続けていきます。

(※注 障害や生きづらさのハンデを抱えた人たちを孤独から救い、メタバースでの仲間作りと経験により、医療の力でなくテクノロジーの力で共に成長・自律することを目的としたプロジェクト https://www.shining-children.xyz)

受賞のことば

今回、私の作品を選んでくださり、ありがとうございます。この賞を受賞したことで、見た目で伝わる障害と見た目では伝わりにくい障害を併せ持つからこそ、感じてきた声にできなかった想いを、皆さんに読んで知って頂けることがとても嬉しいです。そして、これから「メタバース」がもっと身近なものに感じてもらえるよう、この機会に感謝して、励み続けたいです。

選評

メタバースの世界で働き始め、リアルでの生活も変化したことについて、率直かつ魅力的に書かれた文章に「愛される、応援したい才能」を感じました。自分のこと、やりたいこと、長年抱えてきた違和感の解消としっかりと向き合い、これだと決めたことに全力を注いでいく姿勢は、多くの人の勇気とヒントになると思います。これからも既存の枠から自由で本質的な考え方、新しい生き方を全身で伝えて届けてほしいです。(藤木 和子)

以上