二〇二〇年、新型コロナウイルスが登場し、世界に衝撃が走った。同年、我が家にも衝撃が走ることとなった。
当時私は三十一歳。第二子妊娠中。妊婦検診のエコーが毎回楽しみで、この日も軽い足取りで病院の産婦人科を訪れた。今日はどんな動きをしているかな? どれくらい大きくなっているかな? 先生と一緒に白黒の画面を覗く。なぜだろう、いつもよりエコーの時間が長い。先生も静かだ。いつもと違う空気を察した。長いエコーのあと、先生が口を開いた。
「腎臓の映り方がおかしいね。羊水も減っているし、腎臓が機能していなさそう」
腎臓? それっておしっこを作るところ? 機能していないってどういうこと? 赤ちゃんは大丈夫なの……? 私の心臓は一気にドキドキと音を鳴らして、頭は混乱した。その日は混乱したまま、涙を流しながら家に帰った。
後日、精密な検査入院と状況の経過観察を経て、お腹にいる赤ちゃんがすでに「腎不全」であることが分かった。「腎不全」、なんとなく聞いたことはあるけれど、身近な言葉ではなかった。その後、小児の腎不全に対応できる病院に転院し、お産はそこですることとなった。
自宅から車で一時間ほどのところにあるその病院は、子ども専門の総合病院だった。再度そこで妊婦検診を行い、新生児科、腎臓内科の先生が改めてお腹の赤ちゃんの状況を説明してくれた。
お腹の中の赤ちゃんの腎臓は、残念ながらすでに動いていない。そしてそれはとても深刻な問題である。なぜなら実は、お腹の中で赤ちゃんは羊水を飲んでおしっこをしていて、羊水は赤ちゃんのおしっこでできている。そのおしっこが腎不全で作れないので、もう羊水がほとんどない。さらに、赤ちゃんは羊水を飲んだり出したりして、呼吸の練習もしている。胎児期に腎臓が動いていないとなると、おしっこを作れずに羊水が消滅し、呼吸の練習ができない。つまり、生まれたときに息ができない。オギャーと泣かない。生まれてから生きられるかわからない。そんな内容だった。
腎不全について、自分なりにいろいろ調べていたが、そもそもまず呼吸の問題が有り、生まれても生きていけるかわからない。涙が止まらなかった。
泣いている私に、先生たちは続けて丁寧に説明してくれた。
「なので、生まれてすぐに、人工呼吸器を挿管し、蘇生する必要があります。それがこの病院ではできます。万全の体制を整えるので、計画分娩をしましょう」
妊娠三十九週になる約二か月後に、娘の計画分娩をすることが決まった。
それから数日後、私の仕事も産休に入り、二歳になる息子の存在と、まわりの家族に支えられながら過ごしていた。妊娠三十七週に入ったある日、急激にお腹が張り出した。前駆陣痛かも。病院に連絡し、二人目であることからお産が早くなってしまう可能性があること、医師が蘇生できる万全の体制で計画的に出産した方が良いことを説明され、安静に過ごした方が良いという判断で、急きょ入院することになった。
入院期間は産後も含めると約三週間になる。私は二歳になる息子が心配で仕方なかった。まだたったの二歳で、「ママ、ママ」と甘えん坊な息子。急に私が三週間もいなくなって、大丈夫だろうか? もちろん私も、そんな長期間息子と離れたことはない。本当にこれからどうなるのだろう? 息子を夫と近くに住む両親に託し、また涙が止まらないまま、病院に向かった。
絶対安静の入院中は、とにかく手持ち無沙汰だった。もともと忙しく働いていた性分だったので、どう過ごせば良いものか戸惑い、ひたすら月額制の動画サービスにお世話になった。おやつを含む一日四回の食事を楽しみに、毎日を過ごした。
息子の様子は、毎日動画で送ってもらった。やはり寝るときは「ママ、ママ」と泣いていた様子の息子。もともと子煩悩な夫は、いくらママと言われても息子に寄り添い、次第に息子は逞しくなっていった。
ある日、ブランコに一人で乗っている動画が送られてきた。甘えん坊で、怖がりだった息子は今までブランコに一人では乗れなかった。動画の中の息子は「ぼく、お兄ちゃんなるから、もう怖くない!」と言って、勇敢にブランコに乗っていた。その姿は、逞しかった。
そして、無事に計画分娩の日を迎えた。数か月前に病気がわかり、羊水がなくなり、それでもお腹の中で立派に生きてくれている娘。たくさんの不安はあるけれど、この日は娘に会える嬉しさの方が大きかった。
朝から促進剤の点滴が入った。あれよあれよと陣痛が来た。夫は立ち会ってくれて、常に私の痛いという叫びをなだめながら、お茶を飲ませてくれた。娘とは抜群のコミュニケーションで、約三時間の安産で生まれた。
呼吸の練習ができていないので、生まれたときに泣きません。そう言われていたが、生まれた瞬間、娘は小さな声で「ふぎゃ」と泣いた。私も夫もそれを聞いて泣いた。
その後娘は、すぐに隣の蘇生室に運ばれていった。しばらくすると、先生たちの談笑が聞こえてきた。(ああ、娘は無事なのだ。成功したのだ)私たちは、大きく安堵した。
まずは蘇生に成功した出産当日、NICU(新生児集中治療室)に面会に行き、人工呼吸器にサポートはされているものの、そこに存在している娘を見て、安心した。その日夫は息子のもとへ帰宅し、私は自分の病室ですごした。
その日の夜、疲れて寝ていた私のもとに、慌てて看護師さんがきた。「すぐにお父さんを呼んでください。お母さんはすぐにNICUに向かってください」、何かが起きた。「何が起きたかわからないけど、すぐに病院に来て」、私は夫に電話をした。
NICUに到着すると、新生児科の先生が待っていた。人工呼吸器を挿管していたが、それだけだと、呼吸状態が厳しくなってきたこと。今の人工呼吸器より、さらに難易度の高いECMO(当時、コロナ禍でよくテレビにも取り上げられていた人工肺)を使わないと生き延びられないこと。そしてECMOを使えるのは七日間だけなので、その間に自らの肺に成長してもらって、人工呼吸器に再度切り替える必要があること。そのような説明をしてくださった。「とにかく、ECMOの緊急手術に入ります」、生後一日の娘は、そのまま手術室に運ばれた。
数時間後、手術が終わった。NICUでは対応しきれず、案内された先はさっきより大きめのPICU(小児集中治療室)だった。大きなベッドに、小さな娘が眠っていた。その姿は衝撃だった。首の血管からホースくらいの太い管が繋がれ、全身の血を常に入れ替えている。この状況は壮絶なのだと、一目でわかった。生後一日の娘の痛々しい姿に、涙が止まらなかった。ただ、手術は成功した。このままECMOを回して、肺の回復を待つ。あとは、待つしかなかった。
私も夫も、毎日毎日面会に行った。鎮静されて動かない娘の手を握って「大丈夫だよ」と伝え続けた。
娘の名前も考えた。「とにかく生きて。生きているだけでいい」、そんな思いで名前を付けた。
ECMO装着から、数日たったある日、新生児科の先生がガッツポーズをして、こちらに来てくれた。娘の肺が回復したのだ。「今日ECMOを離脱します」、装着から五日目だった。すごいぞ、娘。
無事にECMOは取れ、呼吸は弱いながらも自分の肺を使っていけるようになった。生まれても生きていけるかどうか。その砦はひとまずクリアできたのだ。
そして、呼吸が落ち着いたここからが娘の本題、「腎不全」に対する手術だ。娘の腎臓はやはり全く機能していなかった。おしっこが全く作られない、無尿なのだ。
ここで、小児の腎不全について少し触れたいと思う。
腎不全には、「血液透析」「腹膜透析」「腎移植」の三つの腎代替え療法がある。「透析」というのは、腎臓の働きを人工的に補う治療法で、体内の血液をろ過して余分な老廃物や水分を取り除くものだ。
大人の選択として多いのは「血液透析」で、点滴のように腕に針を刺し、血をろ過する治療を週三回くらいの通院で行うことが多い。
まだまだ体の小さい子どもに関しては、小さいがために、この腕に針を刺す血管のシャントというものが作れず「腹膜透析」を行うことが一般的だ。お腹にカテーテルを挿入し、腹膜に専用の液を溜めて、本来であればおしっこになる老廃物と余分な水分をその液に吸着させ、カテーテルから体の外に出す。これを在宅の機械を使って毎日行う。
ただし、人工的に調整を行う「透析」には限界が有り、特に小児の場合は、成長への影響も大きく、また、諸々の数値や水分のバランス調整の難しさ、カテーテルがあることによる感染リスク、私生活での制限などがあり、タイミングをみて「腎移植」を行うケースが多い。
ただし、「腎移植」を行うには、ある程度の体格が必要なため、まずは「腹膜透析」を行い、移植ができる体格まで成長してから、腎移植を目指す。これが生後すぐから無尿である娘のプランだ。
腎不全の状態や体格にもよるが、娘の場合「腹膜透析」を行う時間は毎日十二時間以上。主に寝ている夜間に行うが、一日の半分以上を使って、この医療的ケアが発生する。
まずは、これから毎日行っていく腹膜透析のカテーテルを導入する手術、それを行う。
生後十日にも満たない娘の大手術。夫と私はそわそわしながら控室で待つことしかできなかった。数時間後、先生が来てくれた。娘は、腹膜透析の大手術を乗り越えてくれた。
おしっこが出ない娘の、おしっこの代わりをしてくれる腹膜透析。その肝となるカテーテルが娘のおなかに入っていた。お腹から管が出ている様子にまた涙が出た。でも、これが娘の命を繋いでくれている。(カテーテル、末永くよろしくお願いします)心の中で囁いた。
呼吸が安定し、腹膜透析の手術が終わり、あとは透析の安定と身体の回復を待つ入院生活が始まった。少しは落ち着いてきたかな? そう思い始めた生後一か月。新たな問題が発生した。
いつも通り面会に出向いたある日。「お母さん、落ち着いて聞いてください」、初めて見る先生がやってきた。「お子さんは、目が見えないかもしれません」、眼科の先生だった。「目? 何? 何のこと?」お腹の中にいる時から聞かされていた、腎臓と呼吸、すごく頑張ってくれて、前に進んでいるよね? その中で次は目……? 自分では気丈な方だと思っていたが、さすがに心が折れそうになった。もう、涙が止まらない。
詳しい説明はすごく難しいのだが、すぐに手術しないと、手遅れになる。そんな状況だった。また手術。こんなに小さいのに、なんでまた。
目の宣告から約一か月。手術の予定が決まった。手術までのこの期間、何をしていても、上の空だった。毎日ふとした時に、流れる涙。限界だった。
そんなある日、息子の保育園の参観があった。コロナ禍で開催された、規模の小さいものだったが、人前に立つのが得意ではなかった息子はすごく緊張していた。今にも泣き出しそうな顔をして、前に立つ息子。でもしっかりと最後までやり遂げることができた息子。今でもあの顔は愛らしく、逞しく、忘れられない。
私には、頑張っている息子がいる。子どもたちの親として、パートナーとして、同じ気持ちで頑張ってくれる夫がいる。いつも前向きに、私たちのことを全力で支えてくれる両親がいる。そして、たくさんの試練を乗り越えて生きている娘がいる。私は絶対に折れない、そう誓った。
生後一か月。娘は目の手術を行った。娘の目は、弱視ではあるものの、視力を取り戻した。
二〇二〇年のクリスマスの頃。娘は退院した。初めて家に帰ってきた。
生まれてからずっと病院だった娘。コロナ禍で面会はかなり制限されており、夫と私以外の家族は、この日初めて娘に会えた。みんなこの日を心待ちにしていた。病院には、家族みんなで迎えに行った。
妹と会えることをとても楽しみにしていた息子。会うや否や、第一声に「いないいないばあ!」と遊んでくれた。この瞬間を、私は一生忘れないと思う。
退院後の生活は、目まぐるしかった。毎日の腹膜透析に加え、娘は経管栄養もしており、ミルクは毎回鼻のチューブから注入。そして弱視治療のためのコンタクトレンズの装着。やるべき医療的ケアは多かった。
そんな毎日を支えてくれたのは、たくさんの医療・福祉サービスの方々だ。娘のかかりつけの病院は車で一時間かかるので、何かあった時のために、定期的に訪問してくれている訪問診療。毎日の医療的ケア、バイタルの確認、そして娘の見守りや遊びまで行ってくれる訪問看護。諸々の疾患により成長がゆっくりである娘のリハビリを行ってくれる、訪問リハ。
退院直後は、トラブルや体調を崩すこともあり、何度も入院になることもあったが、娘はそのたびに一つ一つ乗り越え、そしてたくさんの人たちに支えられて、日々を送ることができた。
二〇二二年、娘は二歳になった。生まれても生きていけるかわからない。そう言われていた娘が、二歳になった。よく笑う、とても可愛い女の子になっていった。そして、環境も少しずつ変わっていった。
娘の年齢を機に、私は復職した。医療的ケアの必要が有ること、医療的ケア児の受け入れが可能であっても、そもそもの空き状況が厳しいことなどから、当時近隣の保育園への入園ができなかった娘は、日中、重症心身障がい児放課後等デイサービスに通うこととなった。
この、通称「デイ」との出会いは大きかった。
身体が弱いこともあり、おうちで過ごすこと、家族で過ごすことが中心だった娘にとって、初めての社会。泣いてしまうかな? 毎日通えるかな? そんな私の心配をよそに、初日から一度も泣くことなく通い始めた。娘は、とても楽しそうだった。何より、先生方がとても優しく、親切に寄り添って下さり、今の娘は「デイ」があるから存在すると言っても過言ではないほど、「デイ」で過ごす日々が、娘を成長させてくれた。
二歳になって、新しい出会いがあり、娘の世界が広がっていったある日、また次の試練が訪れた。
機嫌が悪く、目を痛がる様子を見せた娘。目の術後の合併症の一つである、眼圧が上がり出した。すぐに大きな病院に行き、手術をすることとなった。また手術。大きな病院での一度目の手術は成功したものの、その後も何度か手術を重ねないといけない状況になった。
その後、娘は全盲になった。
突然だった。良くなると思って臨んだ手術。娘の目の構造は、普通ではなかったらしい。手術をしたが手遅れになり、弱視だった娘の目が見えなくなった。
今までもいろいろな手術をしてきたが、それを乗り越えて良くなってきた娘。今回の手術後の娘は、見ていられなかった。術後の炎症を起こしてしまい、術後約一か月、ぐったりとした様子で元気がなかった。笑顔が多かった娘から、笑顔が消えた。
ぼーっとする様子の娘。スマホのライトを目の近くで当ててみた。娘は全く眩しがらず無反応だった。「ああ、見えていないのだ」、今までと様子が違う娘の姿に、涙が止まらなかった。
一か月後、ぐったりしていた様子から、徐々に回復していった。息子の声を聞いて笑うようになった。娘に笑顔が戻ってきた。「ああ、見えなくてもいい。娘が笑ってくれればいい」、この日私は、心の底からそう思った。
そして、さらに一か月後、娘は急に言葉を話し出した。まだ発語がなかった娘が、急に。そこからのお喋りはすさまじかった。「あーあー」などの喃語から始まり、「ママ」と呼ぶようになった。もう、いくら抱きしめても足りないくらいの感動だった。そして「これは?」など疑問や会話ができるようになった。
目は見えなくなってしまったけど、娘はしっかり生きている。娘は逞しく成長している。十分すぎる幸せだ。
二〇二四年、現在娘は三歳になった。今の娘はとにかく明るい。とにかくお喋り。そして、とにかく人が大好き。いろんな人に支えられて、愛されて、娘は大きくなった。
そして同年春、娘は視覚支援学校の幼稚部に入園した。
目が見えなくなったころ、私たち親に何ができるのかたくさん調べた。その中で、今の視覚支援学校の先生と出会った。見え方や発達が一人ひとり違う子どもたちに対して、一人ひとりしっかり寄り添って下さる先生方、のびのびと過ごすお友達。入園前に何度か通わせてもらっていたのだが、初日から、娘はすでにずっと通っているかのように楽しく過ごしていた。
もちろん「デイ」にも引き続きお世話になっている。娘は幼稚園もデイもとても楽しく通っていて、お家に帰ると、一緒にいたお友達の名前を教えてくれたり、その日歌った歌を歌ってくれたりする。
娘の病気が宣告された時の私に教えてあげたい。お腹の子は、何が起きても一つ一つ乗り越える、すごく逞しい子だよ。そして、たくさんの人に愛されて、毎日笑顔で、とても楽しそうに生きてくれているよ。愛おしくて可愛い、自慢の娘だよ。
そして最後に、息子にも伝えたい。現在まだ六歳の息子。娘の入院など、寂しい思いをさせてしまうことが多くてごめんね。それでもいつも、誰よりも妹を可愛がり、お世話をしてくれて、一緒に遊んでくれて、ありがとう。あなたのその優しさ、強さに、私はいつも支えられています。
この世で確かに、しっかりと生きている娘。そして兄として寄り添ってくれている息子。私は二人の親になれてとても幸せだ。もう一度人生をやり直せるとしても、二人の親でありたいと願います。
「生きているだけでいい」、その本当の意味を教えてくれてありがとう。
きっとこれからも、色々なことがあると思う。でもあなたは、きっと大丈夫。これからも
「芽吹いて、生きて」。
受賞のことば
娘が生まれるまで、私にとって障害はどこか遠い世界にあり、日常や生きることが当たり前だと思っていました。それを娘が覆し、世界を広げてくれました。今回、たった三歳でいくつもの困難を乗り越え、懸命に生きる娘の生き様を通して、人の生きる力は凄まじく、生きているだけで素晴らしいということを伝えたいと思い、筆をとりました。この度は素敵な機会と賞をいただき、ありがとうございました。
選評
小さな、とても小さな体に大きな困難が押し寄せてくる。乗り越えたと思ったら、また次の困難が。よくぞ三歳になってくれました! と読者はドキドキしながらも、お嬢さんの「生きたい力」に、頼もしく読んでいました。泣いてばかりの放心状態だった母親は、今はもういない。お嬢さんが笑う度に家族が強く結ばれていくようです。生きるとは、幸せとは何か、私たちに問いかけられました。お嬢さんは西川さん家族に贈られた宝物ですね。(鈴木 ひとみ)
以上