一
二〇二三年九月十四日のお風呂上がりに脱衣所でドライヤーをしていた時、ふと鏡に映る自分の顔に違和感を覚えた。その直後には左頬が痺れ始め、リビングにいる家族のもとへ駆け寄った。リビングでは大ちゃん(夫)が四歳の娘と一歳の息子を見てくれていた。私が慌てて駆け寄りてんかんかも! と告げると、冷静に体を支えてくれたが、次の瞬間には左手がガタガタと痙攣し始めコントロールができなくなった。救急車を呼ぶ慌てた声や泣き叫ぶ娘の声は聞こえているため意識が飛んでいるという認識はなかったが、救急隊員が電話越しに、
「聞こえているのは奥様のいびきですか?」
と聞いていて、自分がいびきをしていることに初めて気付かされた。救急隊が自宅に着く頃には痙攣は治まり、呂律は回らないが会話はできるようになっていた。これが三回目のてんかん発作だった。後日、冷静に対応していたと思われた大ちゃんが、救急ではなく警察に電話をしてしまったと白状してきて、私は大笑いしつつも当時のことを想像し、あわてんぼうな夫に改めて感謝の念を抱いたのだ。
二〇二二年四月二十一日第二子を出産。そこから十九日後に脳内出血により救急搬送され、三か月間ほど入院した。三週間意識が戻らず生死をさまよった末、奇跡的に回復したものの、てんかんと高次脳機能障害が残った。一回目の発作は入院中のことで全く覚えていない。大ちゃんと実母が面会に来てくれていたタイミングでの発作だったらしい。初めて見る発作に驚愕したと言う。二回目は発症から一年以上が過ぎ、日常を取り戻しつつある中、てんかんのことなど毛頭気にもかけていなかった翌年二〇二三年の六月、その日は家族と富士山の麓でキャンプをして疲れて帰宅。息子とお風呂に入っている時だった。その時も左頬に痺れがあった。軽い痺れだったので気にしていなかったが、そろそろ出なければと思っているのに力が出ない。立ち上がることも、ましてや息子を抱えることもできない。かろうじて風呂場の呼出ボタンを押すことができた。大ちゃんが飛んで来て、まず息子を風呂場から出した。その後私を抱き抱えるようにして風呂から出し、濡れた体のままバスタオル一枚に包まれリビングまで運んでもらった。その時はろれつが回らなくなる程度で、全身の痙攣や意識が飛ぶようなことはなかったように思う。その日は朝の薬を飲み忘れていた。
二
退院から一年が過ぎてから、てんかん発作が立て続けに出たことで、いよいよ生活の中で対策していかねばならないと考えるようになった。高次脳機能障害ばかりを気にしていたが、てんかん発作についても調べてみることにした。てんかんは百人に一人の病気で、知らないだけで周りにもいるのかもしれない。私は二万人近く社員がいる鉄道会社で事務をしており、現在は第二子の育児休職中だ。ともに働いた仲間の中にもてんかんを抱えている人がいたのかもしれない。
退院後しばらくして、地域のママさんバレーに参加し始めた。人生一度きり、やりたいことをやらなければ、という価値観に変わったのだ。小学四年生から中学、高校、大学、会社とこれまで様々なチームでバレーボールを続けてきた。バレーで友人もたくさんでき、会社のチームに参加していた頃には、そこでの人脈を活かし仕事も順調に運ぶことが多かった。バレーを通じてさまざまな経験ができたと感じている。私にとってバレーなしの人生などありえなかった。チームの方々には参加する際に病気をしたこと、車の運転ができないことは伝えたが、てんかんがあることは伝えていなかった。一年近く発作はなかったため伝える必要はないと思っていたからだ。だが状況は変化してしまった。練習中に発作が出ないとは言い切れない。
「実は病気を機にてんかんを発症しており、昨晩発作が出てしまったため、しばらく練習をお休みします」
とグループメールで初めてカミングアウトした。その反応は期待していたものとは違い、はっきりと拒絶されることはないが、内心は目にしたことのない病名は怖いのだろうと感じた。後日、監督やキャプテンと話し合いの場を設けてもらった。
「主治医にはバレーをやっても問題ないと言われており、私は参加したいと思っています」
と素直に伝えた。それに対し、
「次回の診察でどんなことに注意すべきかなど情報収集して、ご主人に練習に付き添ってほしい」
という条件を提示された。私はこの先一人で自由に行動することはできないらしい。子供と追いかけっこするのが私の日常だというのに。
てんかんについて調べていくうちに、てんかんがあることで臆病になったり、人付き合いを避けがちになる人も多いと聞く。結婚や就職もなかなか難しいようだ。私はてんかんについてもっと知って欲しいという気持ちが強くなった。そしてここでバレーを諦めたら、今後の人生さまざまな局面で、私は大切なことを諦めていかなければならないような気がして、なんとかすがりつきたい気持ちでいっぱいだった。私自身も自分が発症するまでは言葉は知っているが、それがどんな症状で、どんな治療があるのかなど詳しいことは何も知らなかった。どうすればてんかんについて知ってもらえるのか。NHK障害福祉賞に応募してみることにした。
三
日本てんかん協会が作成している『てんかんとともに働き暮らすために』という冊子を読んでみると、症状や発作の頻度は人それぞれで、投薬によりコントロールしている人が多いということがわかった。しかし問題はもっと根深く、就職しても発作が出るたびに離職を余儀なくされるケースもあれば、理解してもらいたいが相談先は公共のサービスしかなく、恋人や結婚相手など個人間の関係を築きづらいこともある。両親が他界した後の生活の不安もあるようだ。てんかんを知ってもらう第一歩として、ママさんバレーの仲間にてんかんを抱える私のことを知ってもらうことから始めようと思った。
私には年の近い姉がいて、子育ての悩みなどなんでもよく相談している。他人が言いにくいことも姉ならズバッと言ってくれるのでいつも頼りにしている。ママさんバレーの経緯と私の考えについても話を聞いてもらったところ、別視点からの意見をくれた。
「発作を目撃してしまった人はかなりショックを受けると思う。少なくとも、私は自分の子供達には見せたくないかも」
「は? 人生諦めることが増える? そんな訳あるか! 今は自分を大切にする時期ってだけよ」
そう言われて、胸が痛んだ。自分本位になっていた。チームは私だけのものじゃない。適合する薬がはっきりして、発作がコントロールできているという自信がつくまで休んだ方がいいのかもしれない。メール一つで終わらせることも可能だったが、元気な姿を見せておけば復帰しやすくなると考え、直接チームの皆さんに説明に行くことに決めた。
「人と関わるということは、傷つけられる恐れがあることだよ」
と母に言われ一瞬怖気づいたが、それでも対話しなければ何も始まらない、案ずるよりまず行動だ。
金曜日の練習日に大ちゃんに付き添ってもらい練習に顔を出した。練習の前に、皆さんにお話があると切り出した。とても勇気がいることだった。チームの仲間は、私の昔からの友人ではなく、付き合い始めて一年も経っていない。そんな人達に自分の極めて個人的なことを伝えることには大いに抵抗があったが、どうして話す気持ちになったのかから始めた。
「大前提として、私はこのチームでこれからもバレーがしたいと思っていますが、皆さんが不安に思う気持ちもよくわかるため、体に合う薬が見つかり、もう発作は出ないという自信がつくまでお休みさせて欲しいです」
と伝えた。内心は悩むことに疲れていたし、万が一、再び発作が出てそれを見られたら、もう二度とこのチームでバレーはできないだろうという恐怖心もあった。それから現在の治療や主治医の話、発作自体は数分で治ることなども話した。最後に、
「戻って来たら、皆さんに受け入れてほしいです」
と伝えた。勇気を出して直接会って伝えることができて本当によかった。皆さんの表情は私が心配していたよりもとても穏やかで、温かく聞いて頂けた。「ぜひ戻って来て下さい。待っています」と言ってくれた方や、「少し目を離した隙に大怪我されては困る」と率直な意見を下さる方もいた。
その日は中秋の名月で、外には大きくて綺麗な満月が出ていた。自宅に帰って来ると、大ちゃんがお月見しようよと提案してくれ、自宅にあったお菓子やジュース、缶チューハイを持って子供達とテラスに出た。満月は本当に綺麗で、私達家族を見守ってくれているようだった。子供達の明るい笑い声、大ちゃんの優しい眼差し、私を理解してくれる環境はここにある。大丈夫。そう思える夜だった。その日は、チームの方々と話ができ漠然とした不安がひとつ解消されたし、大きな第一歩を踏み出した記念に一本だけ飲むことにした。心穏やかな一晩を過ごした。
四
今回の一件は私のプライベートな場面での出来事だったが、仕事に復帰する時も同じ悩みが生じて来るだろう。私の高次脳機能障害は損傷範囲が広かったものの、三十四歳と若かったこともあり、お世話になった主治医や看護師、リハビリの先生も驚くほどの回復力だった。数ミリ出血箇所が違えば命はなかったとも言われたが、幸い退院から半年ほどで日常生活に支障もなくなり、復職することを目標にすることができた。復職に対して不安がないとは言い難いが、復職という目標が私の心の支えになっているのは確かだった。大ちゃんや実母は必ずしも復職しなければならないとは考えていないと伝えてくれた。かなり気持ちは楽になったが、復職しないという決断をするまでには至っていない。長く働いた会社だ。辞めるという結論は簡単ではない。この先仕事と家事、育児の両立が難しくなることは明らかで、いつかは耐えられなくなるだろう。それでも社会参加したい。いつてんかんが起きるかわからないこと、それを理解されないこと、久しぶりの仕事に順応できない不安は続く。高次脳機能障害とてんかんを抱える私を受け入れてくれる環境はあるのだろうか。高次脳機能障害は他人のキッチンで料理をするような感覚に近い。作り慣れた料理でも、場所や道具が変わると
「プライドなんて捨てちゃいなさい」
と母に言われたが、それは私にとってそんな簡単な話ではなかった。
五
手帳を取ることへの抵抗感も強い。ひとつは、三十年以上健常者として何の不自由もなく生きてきたのに、急に障害者にカテゴライズされることに抵抗を感じること。働いていた時にも、職場に見た目は健常者と何も変わらない内部障害のある方がおり、残業ができなかったり、現場研修に参加できなかったりしていた。私はその人のことを十分に理解できていただろうか。私も理解されない苦しさは一生付きまとうだろう。もうひとつは、高次脳機能障害も相まって、自分のことをポンコツ、役立たず、と感じるようになっており、そこに重ねててんかんによる行動制限(単独行動や自動車運転ができない)によるお荷物感、大ちゃんへの後ろめたさなども感じており、手帳の存在がよりネガティブな方向へ私を連れて行ってしまうのでは、という漠然とした恐怖心もあった。手帳の申請をする前に、大ちゃんに私の気持ちを理解してほしかったため、今考えていることを伝えた。すると、
「その気持ちは当たり前で、手帳を取得することを強要するつもりはない。まずは生活しやすくなること、それにより心が救われることが優先だよ」
と言ってくれた。大ちゃんには本当に感謝している。入院中も、仕事を抱えながら、子供のお世話から病院との連絡、幼稚園との連絡、〇歳児の定期検診、予防接種、お食い初めまでやってくれていた。退院する頃にあわせ息子が一歳になるまでの育児休職もとってくれた。名目は育児休職だが、実情は妻のサポート休職だ。キャリアの足枷になったのか、いい経験になったのかはわからないが、「世間のパパが一生かけても過ごすことができない子供との時間を僕は過ごすことができた」と言って、こんな経験をさせてもらって感謝しているとまで言ってくれた。大ちゃんはとても前向きな人で頭が上がらない。入院中の子供達の様子を日記につけてくれてもいて、退院した日にプレゼントしてもらって本当に嬉しかった。我が家の家宝だ。息子が一歳となり、大ちゃんは復職となった。昼間私と息子だけで過ごす時間が長くなり、最初の頃は不安だったが、次第にその生活にも慣れてきた。大変なのは車が運転できないため、遠くに出かけられないことだ。買い物、リハビリ、息子と遊びに出かけること、娘の習い事、全て徒歩圏内で済ませる必要があった。大ちゃんがいない時間帯にもし発作が出たら、と考えることはよくあるが、その不安は生活に慣れるとともに薄らいでいった。万が一発作が出ても、転ばない姿勢になればいいだけのことだ。数分で回復することは経験からわかっている。人前で発作が出てしまうことの方が数倍怖いことだった。
六
子供達と過ごす時間はかけがえのないものだが、一人になりたい時もある。そういう時は美容院を予約する。自分のことだけに集中して、シャンプーしてもらえる時間が大好きだし、リラックスができ、最上級のご褒美なのだ。しかしそれも怖くなった。万が一今ここで発作が出たらと思うと、全然リラックスできない。薬を飲み忘れていないかばかり考える。発作を他人に見られたくない。家族旅行へ行った時も、娘と息子を二人とも男風呂へ入れると大ちゃんから提案された。万が一風呂場で発作が起きたら助けに行けないからだ。これまでの発作が自宅の風呂場や脱衣所で起きていたため、風呂に対して慎重になっていた。主治医曰く、薬の血中濃度が低くなっているタイミングとお風呂の時間が重なっただけで、風呂自体がトリガーになるとは考えにくいらしい。(私の場合)自宅でも脱衣所の扉は開けたまま風呂場のすりガラスに映る私の様子が確認できるようにして風呂に入っているし、湯船に浸かるのも最小限だ。日常の疲れを忘れるために旅行に来ているのに、発作が出るのでは、という恐怖心から解放されないし、大ちゃんの負担が重くなっていると思うと申し訳なく感じる。近頃何事にも臆病になっている。私らしくない。二年間発作が出なければ、自動車も運転できるようになる。それが薬でコントロールできているという証でもあるので、まずは二年発作が起きないことを目指し自信をつけていければ、心も軽くなるのではないかと感じていた。
そんな矢先、四回目の発作が起きた。また風呂上がりにドライヤーをしているタイミングだった。左頬の痺れ、左手の小さな震え程度だったため、その日は救急車を呼ばずに次の日に病院へ行った。今の薬が合っていないのかもしれないから、新しい薬を試してみましょうとのことだった。これまで三種類の薬を試している。毎回、薬の副作用に悩まされている。一種類目は不眠と頻尿だった。それに耐えられなくなり、主治医に相談すると薬を変えてもらえた。次の薬は軽い立ちくらみ、乗り物酔い、肌荒れが出た。三種類目の薬は眠気が出てしまうし、軽い頭痛、ドライアイ、耳詰まり感、体重減少など複数の副作用が出てしまった。新しい薬を試すということは、再発作のリスクもあるため、新しい薬に変えたタイミングは行動に慎重にならなければならない。しばらく美容院や単独行動、旅行には行けないだろう。結局三種類目の新しい薬も辛くなり、最初の薬に戻してもらった。副作用と上手く付き合っていく生活はまだまだ続きそうだ。
七
どうすれば生きやすくなるだろうか。
「人を変えるより自分の考え方を変える方が簡単よ」
とよく母が言っているのを思い出した。 私に関わる全ての人に理解してもらう必要はない。私の暮らす世界はもっと狭い。その世界を自分で見極め、これからも付き合いが長くなる身近な人にだけ知ってもらえばいい。そう考えると多少、問題は軽くなるような気がした。まずは家族に理解してもらうことだが、大ちゃんはよく理解してくれている。問題は小さな子供達だ。娘は最初の発作以外全て目撃してしまっているので、私が風邪を引くだけでも過敏に不安になるようで、「ママいなくなったりしないよね?」などと口にすることが増えた。幼稚園でも急に泣き出すこともあるようだ。さらに「たまにはママとお風呂入ろうよ」と誘っても、あーだこーだと理由をくっつけて断ってくる。四歳なりに私を気遣っているのか、発作の現場を見たくないのか、いずれにせよ心に不安を抱えているのは確かだった。幼い子供達が私の病気やその対処について真に理解できる年頃はまだまだ先だろうが、共に生活する中で自然と身につけてくれるだろう。
ある時、一時間程一人で電車に乗る機会があった。怖くて仕方なかった。ここで発作が出たら乗客達は私を助けてくれるのだろうか。特に何をして欲しいということはないが、てんかん発作だということがわかり、数分で治ることを知っている人が一人でもいればいいなと思った。大ちゃんに長文メールを送って気を紛らわして一時間を乗り切った。これを機に一人で電車に乗る時はヘルプマークをカバンに付けて出かけようと思うようになった。別にたまたま乗り合わせた乗客達に障害を隠す必要はないと思えた。
毎年二月に市主催のファミリーマラソンが開催される。一キロコースと三キロコースがあり、一キロは子供と一緒に参加できる。ベビーカーを押して参加してもいいらしい。今年の目標はみんなでマラソンに参加することにしようと思い、家族に提案してみた。小さな目標の設定だったが、今の私には重要なことだった。ひとつひとつを乗り越えればまたひとつ良くなる。この考え方は大ちゃんのものだ。高次脳機能障害の症状で衝動が抑えられない時があり、それにより人付き合いがうまくできず、落ち込んでいた時に教えてくれた。
「落ち込む必要はないけど、反省は大事だよね。うまくできないことに気付けたなら、次はうまくできるように行動を変えてみたらいい。その繰り返しで、ここまで良くなってきたのだから、これから先もその繰り返しだよ」
小さな目標を設定する癖をつけて、ひとつずつその目標をクリアしていく。マラソンも、本番当日までに何度か家族で練習をした。問題なく走ることができ自信になった。このNHK障害福祉賞への応募も目標のひとつだ。今日は息子と少し遠くの公園まで散歩しようとか、新しいレシピに挑戦しようとか、そんな小さな目標でいいのだ。日々の積み重ねが自信となり、大きな一歩を踏み出す勇気をくれる日が必ずくる。マラソン当日。その日は大ちゃんに仕事が入ってしまい、両親と姉家族にサポートに来てもらい、無事参加、完走することができた。周りに上手に甘えることも、時には必要なことなのかもしれない。
知ってほしい。
てんかんのこと。
数分で治まること。
死に直結する病気ではないということ。
今の私が、前向きに生きていけると感じていること。
生まれ変わってもまた私がいいと思っていること。
受賞のことば
最初は個人的な備忘録のつもりでした。
それが次第に知ってほしいという気持ちに変わり、障害福祉賞へ応募してみることにしました。夫の支え、親の支え、子供の存在、友の存在、お世話になった医師や看護師……私はみんなのお陰で生きている。だからこそ知ってほしいことがある。
子供達が大人になったとき、いつかこの話をしてあげたいと思っています。
この度はこんな素晴らしい賞を頂きありがとうございました。
選評
てんかんのこと(夏目さんの場合)、そして、ご自身とご家族の前向きな生き方を「知ってほしい」という思いがストレートに伝わってきました。私も知った一人です。周囲の方々やいつか大きくなったお子さんたちにも読んでもらえたら嬉しいですね。ママさんバレーの皆さんとの対話、マラソンの完走など、目標を設定して、周囲と助け合いながら日々の積み重ねを自信にしていく姿に大きな可能性を感じています。(藤木 和子)
以上