◎出会い
坊主頭のその人は、満面のほほえみで私を迎えてくれた。
「障害がある人の役に立ちたい」
私がそんな思い込みだけの夢の第一歩を踏み出したのは、三十八年前、脳性麻痺等により身体に重度の障害がある方たちが五十人暮らす入所施設だった。
〈障害がある方〉イコール〈車いすに乗っている方〉程度の認識しかなかった私にとって、その人との出会いは少々衝撃的だった。
ストレッチャー型の車いすにうつぶせに寝た姿勢から、グイっと顔を持ち上げ、汗だくの笑顔で自己紹介をしてくれるのだが、言語障害もあり語尾が聞き取れない。聞き返すのも申し訳なく思っていると、先輩職員がいたずらっぽく笑って、男性だと付け加えた。しかし、よくよく周囲のやり取りを聞いているうち、その人はみんなから「千代ちゃん」と呼ばれていることが分かった。
それが千代子さんと私の出会いである。
私が大学を卒業して働き始めたのが一九八五年、千代子さんはその少し前に三十代で入所していた。
入所する前、千代子さんは、どこに通うこともなくお母さんと二人で暮らしていた。千代子さんの話では、お互い気が強い似た者親子で、喧嘩ばかりしていたというが、幼いころは、歩くことができない千代子さんを乳母車にのせてあちこち連れて行ってくれた大切なお母さんだった。
そのお母さんが糖尿病の悪化で目が見えなくなり療養施設に入所したのをきっかけに、千代子さんも入所した。千代子さんとお母さんの絆は強く、お母さんが存命中は、毎年お見舞いに行き、その帰りにお寿司屋さんに行くという外出に、私は何度もご指名を受けて付き添った。
まちなかで、当時は珍しいストレッチャー型の車いすを押していると、よく、すれ違う人に「お母さん、大変ですね」と声をかけられた。大きなベビーカーを押しているようにでも見えるのか、私をお母さんと呼んで声をかけてくださっているのは確かで、私の方がだいぶ若いのに……と、そのたび私は憤慨し、千代子さんは楽しそうに笑った。
そもそも、なぜ千代子さんが座ることができなくなったのかというと、後頭部におできができてそれが治るまでうつぶせで過ごしていたためらしいが、詳しいことはわからない。
ちなみに坊主頭は、少しでも髪の毛が伸びると頭がかゆくて我慢がならないためだとのことで、長年付き合ったけれど千代子さんの坊主頭以外の髪形を私は見たことがない。
施設に入所してからストレッチャー型車いすに乗るようになった千代子さんは、四肢麻痺で座ることができないこと以外はすこぶる健康で、一日中うつぶせの姿勢のまま生活をし、買い物や運動会や遠足など施設の行事を目いっぱい楽しみ、職員と御園座(みそのざ)にお芝居を見に行ったり演歌のコンサートに出かけたりした。
福祉の制度も今ほど整ってはおらず、バリアフリーや、ノーリフトなどの概念もなかった時代、私の仕事は、千代子さんたち施設で暮らす方たち(以下、住人さんという)を気合いとパワーで抱きかかえてトイレやお風呂に入り、着替えや食事の介助をしたり、笑ったり泣いたり、冗談を言い合ったり、それは一言でいえば生活そのものだった。
生活そのもの。それは走り出したばかりの私にとっては〈大変〉を〈楽しい〉が上回るものだったが、春夏秋冬、二十四時間三百六十五日終わりがない繰り返しの中で、数年がたったころには、この仕事の〈やりがい〉に迷いが生じるようにもなっていた。
そんなころ、千代子さんのお母さんが亡くなった。
施設では、家族のつながりを大事にしていたこともあり、定期的に家族が面会にみえたり、帰省される方も多く、家族参加の行事などがあれば、ほとんどのご家族が参加され住人さんの横に座ったが、天涯孤独となった千代子さんの横には誰もいなかった。
目標を失いかけていた私は、自分の中だけで勝手に、千代子さんを看取るまではこの仕事を頑張ってみようとゴールを決めた。
◎短歌教室
当時、施設では、ボランティア講師を招き、月一回短歌教室があった。参加者はみな重度の身体障害があり、毎月のその会に、トーキングエイドという意思伝達装置を使って自分で文字を打ち込んだり、職員に口述筆記してもらって宿題を持ち寄った。その会に、千代子さんも参加してみたいと言い出し、学校に行ったことのない千代子さんは短歌の基本も知らないまま、その会に果敢に飛び込んだ。
首から上しか自由が利かない彼女の短歌は、そのほとんどを私がノートに書きとった。
それは主に夜勤の最中、トイレの中で作られた。千代子さんは毎晩十時ころトイレに入り、一時間ほどそこで過ごすのが日課のようになっていた。寝たままできるストレッチャー型のトイレは、二人部屋、四人部屋での集団生活の中で、唯一、一人になれる空間で、落ち着いて考えごとをするには良い場所だったのかもしれない。
トイレから、「できた!」と呼ばれて、トイレの中でノートに書きとり、私が指を折って二人で文字数を数え、合わなければ、修正して、宿題の短歌を作った。
その一部を紹介したい。
プロポーズされたようにいい気持ちあのひとがくれた口紅ぬると
この年で恋をしている恥ずかしいでも恋してるよんじゅうごさい
桃色の梅の花模様の服着たら私の心も桃色になる
このころ、千代子さんはショートステイで定期的に利用される男性と親しくされていた。
この短歌から誰が千代子さんの障害を想像するだろう。この素直な言葉の魅力。私は千代子さんの短歌のファンだった。
◎地域移行。ケアホームへ
千代子さんが施設で暮らして二十年がたったころ、事業所として、地域移行に取り組もうという動きがあり、好奇心旺盛な千代子さんは真っ先に手を挙げた。
そのころ、ひとり暮らしに向けて動き出す仲間や、すでに施設を卒業して福祉ホームで生活を始めた仲間などに刺激を受けたこともあると思うが、千代子さんはそれを〈夢への挑戦〉だと言った。
地域移行を希望する住人さんの中から、四名、まずは月に一泊、二泊から、施設近くの建物で、宿泊体験が始まった。そこから、もっとイメージがもてるように法人内のケアホーム(現在のグループホーム。以下ホームという)の部屋を借りて、ホームで暮らし、施設まで通ってくる生活をイメージできるようにステップアップしていった。
幸運なことに、法人内で女性七名のホームが新規に作られることになり、私たちの施設からは宿泊体験の実績があった千代子さんを含めた三名が、そのホームに移行できることが決まった。
そこからは、宿泊体験の日数を伸ばし、新しいホームでの暮らしに向けての話し合いなど、準備も加速して、千代子さんは六十歳の時、慣れ親しんだ施設を卒業し、ホームでの新生活をスタートさせた。
立ち上がったばかりのホームには、新しい仲間、かわるがわる入ってくださるヘルパーさん、新人の職員、日中を過ごすため、平日毎日車で片道三十分かけてホームから施設に通う生活。六十歳で、重度の身体障害がある千代子さんにとって新しい生活に慣れることは、身体的にも、精神的にもしんどいものがあったと思う。
千代子さんがホームで暮らし始めて少したったころ、千代子さんに「ホームの暮らしは何点?」と聞いたことがある。
千代子さんはちょっと考えて「百点」と答えた。介助方法を言わなくてもやってもらえる施設とは違って、まだ慣れないスタッフがバタバタしながら、暮らしも落ち着かないところで、普通なら、不満やぐちが出ても不思議ではない時期だ。
「じゃあのぞみの家(施設)は?」と聞いたら、「百点」
何かと不自由なこともあったであろう時期の「お母さんと二人で暮らしていたころは?」と聞くと、それも「百点」と答えた。
私は正直、長年暮らし慣れた施設が一番高い点をもらえるだろうと計算していたが、どんな時でも、何かしら困ったことがあっても、うまく流して、自分の暮らしをおおむね百点と答えられる千代子さんに、適わないな~と思い、その気持ちにどれだけ私たちが救われたことか。だからこそ、その気持ちに応えたくなる、千代子さんは、そういう方だった。
千代子さんが地域移行した翌年、私は自分から希望したわけではないが、千代子さんを追いかけるように、ホームを所管する事業所に異動になった。
◎旅立ち
千代子さんがホームで暮らして一年十か月が経ったころ、千代子さんは朝ごはんのあと、傾眠しており、日勤だった私はその眠り方がなんとなく変なことが気になった。血中酸素濃度を計測すると低下しており、嫌な予感がした私は、千代子さんに総合病院の救急外来を受診してもらうことにした。
病院に向かう車中、うなぎ屋さんの横を通って「食べた~い」と言う千代子さんに、私は「帰ってきたらね」と返した。
病院でCT、血液検査など行うも、特に悪い数値はなく、「気管支が少し太くなっているからウイルスによる気管支炎でしょう」との診断で、入院加療となった。酸素マスクで二リットルの酸素を投与されてはいたが、その時はいつもの千代子さんで、「おなかすいた~。鰻がたべたい~」と言い、自分のことよりホームの仲間のことを心配して、その翌日も、受け答えもちゃんとされていた。が、翌々日の早朝、医師の連絡を受け病院に駆けつけると、呼んでも目を開けず、答えない千代子さんがいた。
一晩で何が起こったのか訳が分からない状態のまま、医師の説明を受けた。
「再度検査したが、やはり検査の値で悪いところはない。ただ、心臓が普通の人より大きい。長い間、ずいぶん頑張って呼吸してきて心臓に負担がかかってきたのだろう。結論的には呼吸機能の限界」という説明だった。
三日前までは、変わりなく元気に見えていたので、私たちホームの仲間でさえ、目の前の事実がなかなか受け止められなかったが、千代子さんは、遺言書を書いており、私はそこに立ち会わせていただいてもいたので、医師から、人工呼吸器の選択を問われた時、迷わず延命治療を本人が望まれていないこと伝えることができた。次の選択は、酸素の投与を少なめにすることで本人の自発呼吸を促すのか、本人が苦しくない酸素量を投与するのかの選択だった。苦しくない酸素量にすれば、必然的に体内に二酸化炭素がたまり、眠るように亡くなるとのこと、もう苦しくないのがいいねと、そちらを選択した。
医師の説明によれば、千代子さんの状態は『治療で何とかなるものではなく、病院に来るのが一日早くても、一週間早くても、結果は変わらなかった』とのことだった。
悲しみは変わらないが、それでもお医者さんの口を借りて千代子さんが「だれも責任を感じたり、背負ったりしないでね」と、原因がわからなければ(なんで気づけなかったのか)と思ったり、後悔したりしてしまうだろう私たちを気遣って伝えてくれたのではないかと思ったりする。
徐々に血中酸素濃度が低下していく間に、病院からの緊急の連絡をうけて職員やボランティアさん、二十人近い方たちが病院に駆けつけ、眠っているような千代子さんの最期を看取った。その晩は仲間たちが待つホームに戻り、自分のベッドで過ごした。そこにも、病院に間に合わなかった入所施設の職員さんたちが会いに来てくれた。
翌朝には葬儀会場に移った。ご家族がみえない千代子さんなので、通夜という形式はとらなかったが、その日も、夜遅くまで本当にたくさんの方が会いに来てくれた。
新人職員だったころ、どうしても星が見たいといわれて、こっそり外に連れ出した夜勤の思い出を語る人、外出先で約束したビールの本数なんか無視して思いっきり飲んでいい気分だった千代子さんの思い出を語る人、付き合った時間の長い短いにかかわらず、みんなが自分だけの千代子さんとの温かい思い出やエピソードをもっていて、千代子さんが眠ったその場所が温かい笑いに包まれた。
生前の千代子さんを知らない葬儀会場の方も、「この方はすごい方ですね。この方の財産は人なんですね」と言われた。ご家族のいない千代子さんだったが、この「人」というたくさんの財産は千代子さん自身でつくられてきたのだなと感じさせられ、私もこういう生き方をしたいと改めて思った。
ホームで暮らして一年十か月、六十歳で初めて乗った電車、仲良しになったご近所の子供たち、休みの日に長い坂を下って行ったコンビニ、投票所に行った選挙、週末のヱビスビール……千代子さんは地域生活を満喫し、次々夢を実現した。
ひとつ夢をかなえると次の夢が生まれて、それがちょっと厳しいんじゃないかと思えることも、千代子さんの人柄に動かされるように、関わってくれた人たちがいつも頑張って何とかしてくれるのだった。
だからもう十分生き切ったかというと、やり残したこともまだまだあった。公開予定の映画〈相棒〉、注文して届くのを楽しみにしていたパソコン、「富士山に登りたい」と言って、お医者さんに「それはちょっと……」と言われると、それなら「沖縄で魚と泳ぎたい」とも言っていた。もう一回北海道にも行きたかったのかもしれない。せっかちであわてん坊の千代子さんだから、きっと天国で、「しまった~!」と言っているだろう。
天国への旅立ちは、千代子さんがフリーマーケットで「いい買い物をした♪」と、自慢げに買ってきて、以来いろんなお出かけに着て行った、グリーン地に花柄のブラウス。〈身だしなみ〉だと言って、通所先に出かけるときも毎朝つけるようになったピンクの口紅。棺の中にはもちろん、大好きだった裕次郎のグッズと、たくさんの花と、おなかがすいた時のために親友のボランティアさんが焼いてくださった大好物の鰻。
法名は〈釋尼千劫〉とつけていただいた。〈劫〉は天女が一年に一度、舞い降りてきて、大きな岩を羽衣でひと撫でし、岩がなくなるまでの果てしない期間を一劫といい、その千倍もの間、ずっと私たちを見守り続けてくれる……という由来だそうだ。
千代子さんのように生きたいと思いながら、日々の暮らしの中で、ついつい不満や愚痴を言ってしまう私たちを天国の千代子さんは、「わかるよ~」と言いながらこれからも見守って励ましてくれることだろう。
◎感謝
千代子さんといえば〈ありがとう〉。本当によく「ありがとう」と言われる方で、その声はまだ耳の奥に生き生きと聞こえてくる。
人の悪口は言わず、不満や、痛い、つらい、そういうこともほとんど言われなかった。
脳性麻痺の、ましてやうつぶせ姿勢で暮らす毎日、痛い、つらいがないはずはないのに、自分の身体、家族、環境、すべてを受け入れて、言っても仕方のないことは上手に流しながら人生を楽しまれてきたのだと思う。
救急外来での千代子さんの最後のエピソード。その日はバタバタと救急患者さんが運ばれてきて、てんてこ舞いの救急外来で、長い時間酸素マスクをされただけで待たされていたところに、やっとやってきた若い男の看護師さんが、同僚にかけた言葉がちょっときついな~と思って聞いていたのだが、彼は、「ごめんなさいね。今日はバタバタで。ふだんは僕、こんなんじゃないんですよ」と言い訳された。横で聞いていた私は、(おいおい、看護師さんが患者さんに、そんなこと言っていいの?)とあきれてしまいそうになった時、千代子さんが、酸素マスクをしたまま、一言「わかるよ~」と言われた。
こんな重症の患者さんに気持ちをわかってもらって、彼がどう感じたのか、ふうっとその若い看護師さんの表情が緩んで、忙しさに少し乱雑に感じられた手が、優しくなった。
こんな時にも、ちょっと出会っただけの人を癒してしまう、千代子さんにまたやられてしまった最後のエピソード、私はそのことをきっとずっと忘れないだろう。その若い看護師の彼もまた、次に、そんなばたばたした現場で、千代子さんのことを思い出すのではないかと思う。
私たちの仕事は、つらいときもあるけれど、日々小さなかかわりや出来事の中から感動をもらってそれでまた頑張れたりする。そして最後に一番大きな感動をいただく。
昼のふろお湯に移った秋の空わたしがはいるとばちゃんとこわれた
優しさに包まれ私は幸せと泣きたいほどのうれしさのなか
天国へいったばかりのわが友よさみしくなったら遊びにおいで
しろい雲ふうわりふうわりしたがえて私も行きたい旅をしたい
私は去年、千代子さんが「挑戦」だと言って地域移行したのと同じ年齢になった。
千代子さんを看取るまでというゴールをクリアした今も、何かしら勝手に決めた次の小さなゴールを目指しながら何とかやってこれている。
ただ、「障害がある人の役に立ちたい」という最初の夢は、千代子さんとの出会いによって修正された。
うつぶせの姿勢で固定した片足を軸にして顔を持ち上げ、大きな口を開けてご飯を食べる、話をする。自分でうつぶせになってみたらわかる。その一口にどれだけ体力を消耗することか。その不自然な姿勢がどれだけ全身に負荷をかけていたことか。
それなのに、どうして最後まであんな笑顔でいられたのだろう。私は千代子さんとたくさんの話をしたがそれを聴くことはできなかった。
ただ、言えることは、私にとって、千代子さんは障害のあるなしを超えて、こんな生き方がしたいという憧れの人だということだ。
千代子さんに出会って本当に良かったと思っている。そして今の私の目標は、千代子さんのように、あなたに会えてよかったと思ってもらえる人になることに代わった。
それはきっと、簡単なことではないけれど。
受賞のことば
走ってきた道をふと振り返ったとき、千代子さんはもちろん、家族や職場の人たち、たくさんの支えがあって今の私があることに改めて感謝の気持ちでいっぱいになりました。この思いを書き記しておきたくなって応募した作文が、思いがけずこのような賞をいただけることになり、驚きと感謝しかありません。願わくば、障害のあるなしにかかわらず、共に生きたいと日々がんばっている人たちへ、ささやかなエールが届きますように。
選評
うつぶせの苦しい姿勢でしかいられなくても、いつも他者の心を気遣い、ちょっと会っただけの人でもその心を癒してしまう。どんな人にでも施設にでも、「百点」をつける。
そんな千代子さんとの出会いと日常の情景を、倉科さんは淡々とした文体で綴りながら、人が他者と偶然に出会うことでもたらされる生きることのすばらしさへの気付きを、浮き彫りにしていますね。人の出会いの不思議とその深い意味を、しっとりと感じさせる人生エッセイとして、感銘を受けました。(柳田 邦男)
以上