第58回NHK障害福祉賞 矢野賞作品
~第1部門より~
「『幻肢痛』まぼろしの痛みと付き合って57年」

著者 : 星野 玲子 (ほしの れいこ)  東京都

昭和40年7月14日、私は東京大学医学部附属病院の手術台の上にいた。骨肉腫という病魔に侵された私は、左足の大腿部より切断手術を受けなければ、がんが全身に転移し命の危険があると診断されたためである。
「左足の切断手術をする」と知らされた時には、すでに手術の日程も決定していた。切断手術に最後まで反対していた母は、娘の生死に関わることが起きていることは理解していたので、泣く泣く医師の説得に応じたという。
手術当日の朝、昨晩飲んだ睡眠薬のせいかぼんやりした頭で目がさめた。東の空が白んできたことがカーテンを通して部屋に伝わってきた。とうとうこの日が来てしまったという怖さに耐えられず、ただただぎゅっと目をつむっていた。そこへ麻酔科の医師が病室に入ってきて予備麻酔の注射をしながら「少し経つと眠くなるよ、手術室に入る頃には朦朧として怖くなくなるからね」、そう言って肩をポンと叩いた。
それからしばらくして看護師が2人、ストレッチャーを押して病室に入ってきた。血圧と脈拍を測りながら「眠っている間に全て終わってしまうから頑張ってくるのよ」、そう言って励ましてくれた。
ベッドに横付けされたストレッチャーに移されると、病室の患者や家族に見送られて手術室に向かったのだが、その時にはすでに瞼が重くなってきて、自分が今目覚めているのか眠っているのか分からなくなっていた。
それから何時間経ったのだろうか、麻酔から覚めかけたぼんやりした意識の中で聞こえてきたのは蝉時雨だった。
いまでも、東大病院の構内にはあんなにたくさんの蝉がいるのだろうか?

そして、意識がハッキリしてくると、失ったはずの左足があることに気づいた。なんということだろう、私は切断されたはずの左足の感覚をハッキリ感じたのだ。
左足があることをありありと感じたのだ。
その時感じた、ジンジンとした爪先のしびれは、足が残っている証明のようで嬉しくてたまらなかった。
しかし、まもなく本当に自分の左足が無くなってしまったことを知らされ、それが『幻肢痛』と呼ばれる現象だと教えられた。

その痛みは徐々に激しくなり私を苦しめたが、存在しない足の痛みを治療することはできない。病室に寝泊まりして付き添ってくれた母に「爪先がビリビリして痛いからそこをさすってちょうだい」と無理を言うと、困ったような切ない笑顔で十センチ程残った左足の断端の上にそっと手を当てた。
包帯の上から母の手の温もりが伝わるとほんの一瞬ホッとした。
そんな時、母は途方にくれたような悲しそうな笑顔を見せた。
ふと笑いをとぎらせた母が「不思議だねえ」と私に言うでもなく、誰に言うでもなく、まるで自分に言い聞かせるように小さい声で呟いた。

幻肢痛は人それぞれで感じ方は違うらしいが、私は切断された断端部の先に、まだ左足が残っていて爪先やふくらはぎが痛むという症状だった。時には断端が雷に打たれたようにビリビリとした痛みに襲われ、耐えがたい激痛にうめき声をあげるほどだった。
医師に何とか痛みを取り除けないかと訴えたが、医師から明確な答えをもらうことはできなかった。
医者の立場からしても、幻の足の治療などできないのだろうし、13歳の少女が納得できるような明快な説明をすることは無理だったのかも知れない。
失った足に激しい苦痛を感じる幻肢痛の正体って、いったい何?
その頃はまだ傷が完治しておらず、義足をつけることはできなかったので、もしかして義足をつければ幻肢痛はなくなるのかな、そんな思いもチラッと思い浮かんだ。
東大病院で断端の傷が落ち着いたあと、虎の門病院に転院して抗がん剤の治療にはいった。右足の大腿部付け根から抗がん剤を注入するものだった。
東大病院では母が付き添ってくれたが、虎の門病院は完全看護で付き添いは許されず、私にとって、不安ばかりの転院だった。
近くに国会議事堂があるのでデモ隊のシュプレヒコールが聞こえることもあった。時折「いーしやきいもー、はーやく来ないと行っちゃうよ」という焼き芋屋さんの声が八階の病室にも届くので、窓から下を覗くと焼き芋屋さんの車の煙突から煙が見えて「食べたいなあ」と思わず小さい呟きが出てしまい、それが恥ずかしくて思わず周囲を見回した。
消灯時間になるとブラインドの隙間から見える高層ビルの煌々たるネオンが寂しさを誘う景色になった。布団をかぶると涙がポタポタと流れてきた。
虎の門病院では、義足装着に向けての準備も始まった。
残った10センチ程の左足に弾性包帯を巻いてぶよぶよの断端に筋肉をつけて形状を整えるため、重い砂袋を乗せるのだ。
ベッドの上で普通に寝ていると断端が上を向いてしまうので、重い砂袋を乗せてそれを防ぐのだが、コレが結構つらいリハビリだった。
そしてこのリハビリをすると幻肢痛も酷くなるので、隠れて砂袋をのけてしまうことも度々だった。

1回目の虎の門病院で抗がん剤手術を受けた時は、まだ義足ができていなかったので、松葉杖で入院生活を送っていた。
1回目と断ったのはその後、何度も虎の門病院で抗がん剤の手術を受けていたからだ。

1回目の虎の門病院入院時にとても不思議な体験をした。
廊下の突き当たりの窓から東京タワーが見えた。夜になると東京タワーの中心の光が上下するのがよく見えた。あの光がエレベーターだと知ってからはその光景を眺めるのが好きになった。
その日も椅子に座って窓外の景色を眺めていたのだが、私は急に立ち上がり、走り出そうとしてそのままステンと転倒してしまった。

私の左足は何故か急に走りだしたのである。それは幻肢痛とは違い、存在しない幻肢を動かしたという衝撃体験だった。
後で知ったことだが、それは切断された部位がまだ存在するように感じる『幻肢感覚』という症状だったらしい。
まだ義足を装着する前のことである。
今でもその時の感覚はハッキリと覚えている。失われた左足がまるで存在するように、私は走り出したのだ。
もちろん、片足で走ることなどできないのだが、存在する右足と失った左足で走ろうとして転倒したのである。その時はまるで夢の中にいるような感覚だった。

その後、鉄道弘済会で義足を作ることになった。ソケットと断端を密着させて真空状態を作る吸着式という大腿義足で、装着方法は引き布を使って断端をソケットに入れる方法なのだが、最初は全く上手くできなかった。
引き布のすべりをよくするために断端にシッカロールを塗ったり、スタッフに引き布をひっぱってもらったりと、歩くどころか義足を装着するだけで大変な思いだった。
義足を使いこなせるまでには、相当な努力と日数が必要だと覚悟しながらも、気持ちが萎えてしまうこともあった。この時は母と一緒に鉄道弘済会の宿泊施設に泊まり、リハビリをしながら義足の使い方の練習をしていたのだけど、幻肢痛もあるし、装着も上手くいかないし、歩行訓練に至っては2歩、3歩と歩くだけで精一杯の状況だしで、何もかもが上手くいかずに落ち込む日が続いた。
鉄道弘済会での宿泊訓練が1週間経った頃、引き布を使って義足装着ができるようになり、長い廊下を休まずに歩けるようになった。それからの進歩は、自分で自分を褒めたくなるほどで、13歳という若さが、義足で歩くという環境に適応する大きな要因だったのかもしれない。
私を担当した義肢装具士さんは、自ら大腿義足装着者だったこともあり、彼のアドバイスはスッと心に入ってくるのだった。初めての義足ということもあり、より慎重に私が使いやすい物を作ろうという彼の気持ちが私に伝わってきた。足の長さや膝位置、爪先の向きなど細かい調整を経て、私の一本目の義足は出来上がった。

義足を装着すれば、幻肢痛は消えるのではないかという私の期待は見事に打ち砕かれた。歩行中はあまりないのだが、じっとしている時や座っている時に、刺すようなズキズキした痛みに襲われるのだった。
そして義足を外してベッドに入ると、頻繁に幻肢痛に襲われる。義足を装着していない時の方が幻肢痛を経験する頻度が高いのだが、その理由は全く分からない。時には七転八倒する程の激しい痛みに襲われることもあった。そんな時は断端を激しく揺すりながら掌でゴシゴシ擦るのだが、その程度の処置で治まることはなく、時間経過で幻肢痛が消えるのを待つしかなかった。
その激しい痛みを表現すると、雷が左足に落ちてビリビリと電気が走るような、そんな激しさだった。

失った左足が、こんなにも私を苦しめるなんて、もしかして天国に行けずに霊界をウロウロ彷徨っているのかなどと空想するのだった。私の左足はホルマリン漬けになってるのかな? それとも焼却されたのかな?
私は自分の左足の行方が気になって母に聞いてみたのだが、母は医者からも看護師からも知らされていないという。
丁重に葬ってあげれば、こんな苦しみは無かったのだろうかなどと、非科学的だと頭では分かっていても、幻肢痛という現実には何かしら納得できないものがあった。
私には鮮明な幻肢があり、それが私を悩ませるのだ。
私の幻肢の5本の指はズキズキと痛み、時には親指を回すこともあり、幻肢の勝手な運動と痛みは続くのである。

一本目の義足制作から2年後に二本目の義足作りに入り、成長期の中学生の成長に合わせて義足も身体の変化と共に作りかえる必要があった。虎の門病院での抗がん剤手術は数年におよび、何度も入退院を繰り返したおかげで再発の兆候は見られなかった。
私は義足をつけて縄跳びや木登りもできるようになった。

中学の卒業を前にして身体障害者職業訓練所(現在の東京障害者職業能力開発校)に入るように言われたのは、母と一緒に入ったお風呂の中だった。入所試験の数日前のことで手続きはすでに済ませてあった。母は手に職をつければ将来の生活の糧になると判断して私に勧めたのだが、家族と離れての寮生活には不安がいっぱいですぐに決めることができなかった。
しかし、他の道が見えてこなかったので、訓練所で洋裁を勉強しようと一大決心をした。
小平市にある身体障害者職業訓練所の洋裁科に入所したのは昭和43年4月のことである。その時私は15歳だった。

その寮生活で私は実にさまざまな人々と出会った。何よりも驚いたのはその明るさである。自分の障害などまるで気にせず人生を謳歌している人がたくさんいた。その時同室だった洋子ちゃんは高校を卒業後に障害者施設で1年間洋裁を学んで、ここに来たので私より4つ年上だった。
彼女とは私が70歳になった現在も付き合いがあるので、洋子ちゃんとの腐れ縁はもう55年になる。
入所後は家が恋しくてメソメソしていたのだが、洋子ちゃんに誘われて、いつの間にか夜遊びまでするようになった。舎監の点呼が終わったあと、窓から抜け出し、塀を乗り越えてラーメン屋やスナックに行くのである。
20歳になった洋子ちゃんが酔っ払って、知らないおじさんにおんぶししてもらい寮まで送ってもらったこともあった。
夜中に塀をよじ登りながら、足が一本になったって十分楽しく生きていけることを洋子ちゃんに教えてもらった。
どんな姿になっても自分にプライドを持って生き生きと暮らすことができるんだとつくづく思った。

訓練所で生活するうちに私の心のなかで微妙な変化がおきてきた。それは自分に対してちょっぴり自信を持ち始めたことである。これも無理矢理ここに押し込んでくれた母のおかげだと思っている。
昭和44年3月、自分で縫ったピンクのワンピースを着て訓練所を卒業した。
その後洋裁店に住み込み、1年半にわたり見習いをした。家庭的な雰囲気の小さなお店で主人夫婦にしごかれ、スーツでもコートでも何でも縫えるようになった。私は腕に自信をつけて数年ぶりに我が家に帰ってきた。
板塀に小さな看板を掲げてひとりで仕事を始めたのは、もうすぐ18歳になるという夏のことである。
その年の秋、運転免許証を取得し、自分の車も購入して行動範囲はどんどん広がっていった。

虎の門病院で一緒の病室だった、同い年のマキちゃんとは退院してからも文通を続けていた。同じ病気で片足を失ったマキちゃんとは手紙を通じて近況を報告していて、彼女が自転車に乗ったと報告を受けてビックリしたこともある。
私が車を運転していることを報告すると、「いいなあ、私も絶対に免許を取るんだ」と宣言していたのに、ある時期からぱったり手紙が届かなくなった。それが気になっていた矢先、マキちゃんのお父さんから手紙が届いた。
「マキ宛てに何度もお手紙を頂きながらお返事も差し上げず本当に失礼致しました。……先月初め、マキは亡くなりました。このことを玲子さんにお知らせしていいものかどうか迷っているうちにこんなに遅くなってしまいました。今日がマキの四十九日でした。……玲子さん、勝手なお願いですがマキの分まで幸せになってください。……」

身体がガタガタ震えてくるのが分かった。同じ病気のマキちゃんの死は私の将来を暗示しているよう思えた。だが一方で理不尽な怒りがこみ上げてきた。マキちゃんは自転車に乗れる程元気だったのに。私だって、こんなに頑張ってきたじゃん、もうこれ以上どうすればいいのよ!
その夜はどうしても眠れなかった。こんな時にも幻肢痛はやってきたのだが、痛みを我慢している時は雑念を忘れることができた。幻肢痛に救われることもあるんだという思いは初めての感情だった。
その後の検査で再発の兆候は見られなかった。

ひょんなことから知り合った男性と結婚したのは22歳の時。ガソリンスタンドで給油している時にスタンドスタッフの男性から「今夜ご飯でも食べにいかない?」と誘われたのがキッカケだった。
私が義足であることは同じガソリンスタンドを使っている兄から聞いていて、それを承知の上でのデートのお誘いだった。
6つ年上の彼は陽気で優しくて健康そのものである。
彼のプロポーズの言葉は「将来、洋裁のお店を出してあげる」だったのだが、今でもその約束は果たされていない、いや約束そのものを忘れているのかもしれないが。

結婚して数か月後、妊娠していることが判明した。けれど不安の方が大きくて素直に喜ぶことができなかった。
無事に出産できるだろうか? 健康な子が授かるだろうか? 子育ては? 教育は?
考えれば考えるほど不安は大きくなったが報告に行った実家で、母は私の不安を見透かしたように「案ずるよりも産むが易し」と明るく励ました。

医師からは普通分娩はリスクがあるので帝王切開での出産を薦められた。お腹が大きくなるにつれて身体への負担は大きくなって、右足のふくらはぎがつってあまりの痛さに目が覚めることもあり、幻肢痛も以前より酷くなっていた。

そしてとうとう帝王切開手術の日が来た。
義足を外して手術台の上に横たわると背中に局部麻酔が打たれ、下半身は麻痺してきたが意識だけはやけにハッキリしていた。
麻酔の効いたお腹の上をメスが走るのを感じた。
そして、開いた傷口の中に医師の手が入るのが分かった。
医師の手はモゾモゾと何かを探り、肉塊を取り出すような感触がしたので、赤ちゃんを取り出すのに胃か腸でもじゃまをしているのでそれをよけているのかなと思った。
そんなことを考えた瞬間、「オギャー」という元気な声が聞こえた。
私が自分の胃か腸かと思った肉塊は、なんと赤ちゃんだったのだ。
なんということだろう、赤ちゃんは自分の内臓かと間違えるほどに私の身体の一部になっていたのだった。
そう思うと言葉では言い表せない程の感動が押し寄せてきた。

こんな私でも母親になれたのだ、そう思うとお湯のような涙がボロボロと流れた。今まで耐えていたものが一度に溢れてきそうな思いでいっぱいになり、10年前にも私は手術台の上にいたのだと、あの暑い夏の日を思い出した。
私の耳に聞こえてくる赤ちゃんの泣き声は、あの時聞いた東大病院の蝉時雨と同じくらい私の胸を切なくさせた。
でも、10年前の手術台の上で感じた死にたくなるような切なさではなく、「私、お母さんになったんだよ」と大声で叫びたいような、胸が苦しくなる程嬉しい切なさなのだ。

私は手術台の上で片足を失ったけれど、同じ手術台の上で赤ちゃんを授かった。失ったものよりも得たものの方がどれ程大きく大切なものか、自分自身の身体で実感できた。
13歳の夏、片足を失った私は何度も死にたいと思った。
でも、赤ちゃんが産まれた瞬間、この子のために死にたくないと心底そう思った。赤ちゃんは自分に生きる希望を与えてくれたのだと、身体の中から沸々とたぎってくる力を感じた。
深い悲しみを知ったことで強く歓ぶことができるようになったのだ。

自分の内臓かと錯覚した長女の出産から47年経った。
このとき生まれた長女は、今は3人の子供のお母さんになっている。
そして、その後に生まれた長男は4人の子供のお父さんになっている。
片足で2人の子供を必死に育ててきて、今は7人の孫たちから「ばぁば」と呼ばれるおばあちゃんになった。

切断手術から57年経った今でも幻肢痛との付き合いは終わらない。
でも、まぼろしの左足があるのが当たりまえの生活になった。今日も無いはずの左足のふくらはぎがピクピク動いて、生きていることを私に実感させるのだった。

受賞のことば

最終審査に残っていると連絡があった時は嬉しさと一緒に、本当に入選するのかしらという思いもありました。その後『矢野賞』入選の知らせを受けて、自分の書いた文章が評価されたことの喜びが込み上げてきました。作品を読んだ家族や孫たちから『ばぁば、スゴイねえ、おめでとう』とお祝いの言葉をたくさんもらい、嬉しさで胸がいっぱいになりました。今回の受賞は喜びも悲しみもいろいろあった私への何よりの素敵なプレゼントだと思います。

選 評

幻肢の存在が、受け入れ切れない過去の記憶や、現在の世界や人々との関係のありようと結び付いた、物語的な存在であることを、詩的な表現で伝えてくれる作品。東京タワーに向かって走り出す幻肢、友の死を前にした著者の傍らにいてくれた幻肢、ときに、「私を離さないで」とばかりに、刺し違えるような喧嘩をしながらも、仕事、恋愛、子育ての全てを半世紀にわたり共に歩んだ幻肢は、「友」でなくてなんだろうか。(熊谷 晋一郎)

以上