第58回NHK障害福祉賞 佳作作品
~第2部門より~
「はじくん、東京に行こう!」

著者 : 西釜 千尋 (にしかま ちひろ)  熊本県

「君は太陽だ」
なんて、初めて言われた。好きな人に必要とされて嬉しくて、はじくんと付き合った。私が大学3年生、彼は大学2年生の時だ。
「ちーちゃんは、とっても明るくて、一緒にいるとなんだか痛みが落ち着くよ。痛み止めより、ずっと効く」
彼は「痛みのない世界」を知らない。病名はエーラス・ダンロス症候群。先天性の難病だ。彼の身体には耐えがたい痛みが襲い続けるが、薬を使ってなんとか痛みをコントロールしている。この疾患は、コラーゲンの形成不全が原因で、彼はよく脱臼する。なので、彼は脱臼を防ぐために車いすで生活している。それに皮膚がよくのびる。彼が体のどこかの皮膚を引っ張ると皆驚く。皮膚はのびるのに、血管はもろい。医師は、彼の心臓の血管が「80代のおばあちゃん」と一緒だと言った。だから、彼の人生はとても短い。聞いたときはショックで胸がギュッとなった。いろいろなことを恨んだ。でも仕方ないから、人生がどんなに短くても後悔しないように考えた。彼は、死ぬまでにしたいことがあった。
「全部の都道府県をまわってみたいな」
よし、それは行かなきゃ! 最初の目的地は「東京」。理由は公共交通機関が発展していて自由に移動できそうで、彼が東京ディズニーリゾートにも行ってみたいからだ。そこは千葉だけど。4泊5日。2人のバイト代とお年玉からひねり出した予算は10万円。車いすでも行けるだろうか、無理をさせないか。初めてだらけの旅行計画を立てた。あっという間に2月3日。旅行の日がやってきた。

1日目 熊本→福岡空港→東京(浅草→東京スカイツリー)
飛行機は福岡から出る。そこまでの移動は高速バスだ。朝五時。車いすを積んで、彼を支えながらバスに乗り、腰をさする。今日の調子は上々だ。
福岡空港では目まぐるしかった。着いたら早速、彼を空港の木製車いすに移乗する。移乗は彼と覚えた技だ。そして向かった先は飛行機ではなく、外! なんで!? どうやら機内に行くには、車いすごと「トラック・リフト・バス」という大きな乗り物で移動する必要があるらしい。これはまるで、電車をそのまま持ってきたような内装で、つり革まであった。名称は空港の外国人スタッフの方が教えてくださったが、結局トラックなのかバスなのか、よく分からない不思議で面白い乗り物だった。
実は、車いすの人は機体に最初に乗って最後に降りる。これも知らなかった。だから、離陸するまでの時間が長くて飛行機が苦手な私は堪えた。飛行機は怖いと彼に弱音を吐くと、手を握ってくれた。そして「福岡空港は飛行機が2分間隔で離陸するよ。この機体は次のその次の順番だから、まだ大丈夫」とか「飛行機は時速300キロまで一気に加速してから飛ぶよ」とか、どこで手に入れるのか分からない知識で落ち着かせてくれた。彼は飛ぶものが好きだ。
ついに離陸した。福岡がどんどん遠くなる。次々出てくる飛行機の知識に感心していた時、彼が急にこんなことを言い出した。
「あーでも僕、飛行機乗っちゃだめなんだよね」
え?
「僕はあとね、飛行機とお酒と運動と、あとジェットコースターは乗っちゃだめ」
え!? なんで先に言わないの!
「ドクターにはちゃんと言ったよ? そしたらいいよって」
本当に? 本当は?
「無理するなって」
くぅ~! 今までと違うベクトルの不安である。私の確認不足、彼に何かあったらどうしよう。生きて帰れるのだろうか。機体は350トンで、百億円で、ああ、私まで覚えてしまった。それどころではないのに、もうこんなに遠くまで来た。
東京、空港に到着である。ぐるぐると不安でどっと疲れた私と対照的に、彼は元気だ。東京自体初めてらしく、目がキラキラしている。まずは荷物を置きに千葉のホテルへ。千葉なのは今後の予定を考えてのことだ。にしても歩きにくい。彼は手動車いすなので、私は両手にキャリーケースだ。ゴロゴロの音が三重奏。これでは腕だけでなく、耳も疲れる。あまりに移動に向かないのでタクシーに乗ることにした。Googleマップで調べると、ホテルまで五千円、許容範囲だ。
すごい、東京のタクシー! 感動した。福祉タクシーではなく、普通の大きい車で車いすがそのまま乗る。熊本でタクシーを呼んだら、事前に車いすだと伝えていても、畳んでも積めなくて、さみしい気持ちになることがある。快適だね、と彼の方を見ると顔が曇っている。どうしたの? 小声で聞くと、言いにくそうにLINEで送ってきた。
「なんか、メーター上がるの速くない? もしかしてボッタクリ?」
え! と思ってメーターを見るとたしかにすごい速度でメーターが上がっている。10秒で百円ずつ、本当に五千円で着くの? もう一度検索すると私の勘違いが発覚した。
“自家用車で高速道路使った時が五千円だった、勘違いしてごめんね”
「じゃあタクシーは?」
“えっと、二万七千円……”
今すぐ降ろしてほしい。でも、途中で降ろしてもらうにも土地勘が無い。どうしたらいい。もう高速に乗っている! 心臓ドクドク。変な汗が出る。あ、そうだ! 予備のお金があるから、ここから出そう……! こんなに早く使うのは想定外だ。多めに持ってきて正解だった。やっとホテルに着いたが、こんな調子で大丈夫だろうか? 東京観光はこれからだ。
チェックインを終えると、先ほどの反省を活かし、浅草までは電車で行くことにした。うーん、どの切符を買えばいいのか。身障者手帳があると、彼も私も割引が適用されるが、「障がいのある方用」の切符は無いようだ。「大人」2枚を買って窓口に行くと、これからは「小人」2枚で買ってくださいね、と言われた。知らなかった! 場所によってルールが違うと混乱する。
駅員さんが何も言わずにスロープを出そうとしたので、彼が止めた。
「僕は一人で乗れますよ! ありがとうございます」
私は彼がこういう時に感謝を伝えるところが好きだ。でも彼は、電車に慣れておらず、車いす優先スペースのところで小さくなっている。
目的の駅についても、毎回迷路だ。エレベーターを探してウロウロ。やっと外に出た。わっ! 車も人も建物も音も文字もたくさん! 圧倒された。これが都会か。角を曲がると、その先に東京スカイツリーが見えた。東京に来た実感がある。
浅草と言えば浅草寺。車いすで人にアタックしないように、ここでは彼が器用に操作する。通れない時は「すみません、通ります!」。順調に本堂まで着いた。私が修学旅行で来たときは全く気付かなかったが、実は浅草寺、エレベーターがついている。彼と一緒に参拝できる。でも、浅草寺の常香炉は高さがあって、彼は中身を見られないので私が実況する。ここの煙は健康になるらしいよ! 「ふーん?」とあいまいな返事をする彼に煙をかけた。彼の痛みも苦しみも全部なくなればいい! そんな簡単な話じゃないけどね、でもね。目がしょぼしょぼした。
浅草寺から東京スカイツリーまでは、憧れの人力車に乗った。人力車には畳んだ車いすを手拭いで縛り付けてもらった。彼と私(+車いす)の重さを軽々と持ち上げひゅんひゅん進む。2月の東京の空気は寒い。頬に当たるとピリピリする。
「すごい! 速い! 寒さが気持ちいいよ、体の痛みがまぎれる」
体の痛みがまぎれる、か……。彼は、体が痛くてたまらず、薬も効かなくて眠れない夜、ドライブに出かける。窓を開けて、冷たい風で痛みをごまかすのだ。手動運転装置は宇宙船の操縦バーのようで、彼は遠くに行ってしまう。彼が出ていくと、私はちょっとだけ、何にもできない自分が嫌になる。「君は太陽」と言われた私は人間で、力になれない私は価値があるの? いつも、答えは見つからない。
人力車で名所を巡っていっぱい笑った。東京スカイツリーと隅田川をバックに、私たちの写真を撮る。私ってば楽しそう。隣にいる彼も良い笑顔。素敵な写真だ。
「また生きているうちに来られるかな」
なんて、思わず弱音をつぶやく彼に、また来てくださいよぉ! と兄ちゃんが元気に返事をした。楽しい時間だった。人力車の兄ちゃんありがとう。きっとまた来ます。
東京スカイツリーに着いた。もう夜だ。てっぺんを見ようとすると、首が折れると思うほど大きい。よし、と覚悟を決めた。東京スカイツリーは、彼が東京で一番行ってみたい場所だ。
「いつも見下げてくる人たちを、日本で一番高い所から見下げてやるんだ、ひひひ」
といたずらっぽく笑う彼。
彼が撮る私の写真は、毎度下から見上げるような構図である。それが結構味があって好きだけど、そうか、彼から見たら、いつもみんなを見上げているように見えているのか。
エレベーターで展望台へ。エレベーター上部に金色の鳳凰が踊っているが、彼にはよく見えない。人の壁だ。と、東京スカイツリーの紹介アナウンスが終わる。展望台に着いた合図だ。扉が開いて、彼と一緒にすっと前に進み出た。わぁ! 圧倒的な夜景だ。無数の星が地面に散っている。夜景をバックに彼の写真を撮ろうとした時、
「車いすまで全部入れてね! 僕は車いすに乗っている自分がアイデンティティーだから」
と言った。彼は自分の病気を受け入れ、誇りとして生きている。私は彼がすごく強くて遠い存在に感じた。私には分からない痛み。
「分からないのは当たり前だよ、でも、いつもありがとう」
そう彼に言われたのはいつだったか。一番近くにいるのにね。彼にも私は、一枚のガラスを隔てた夜景みたいに遠く見えることがあるだろうか。

2日目 講演会→東京タワー
2日目最初の予定は講演会だ。「難病のある若者の会」のメンバーである彼が、自身の難病をZoomで語る。旅行中だがずらせない。彼は大学生でありながら、先生や講師で大忙しだ。自分の経験を語ることができる人は貴重だ。声を上げることで変わることがあると彼から学ぶ。見届けたら、しばらく休憩。彼は体調を崩しやすい、気圧の変化にも敏感なので、休憩時間をたっぷりとっている。
夜になってから東京タワーに向かった。彼が、
「押させてあげる~」
といって私に背中を預ける。疲れたから押してって意味だ。なーにそれ、と笑って彼の背中を押す。手に道路の振動が伝わって好きだ。でも、まだ押すのはあまり上手じゃない。段差に気づかずに引っかかったり、狭い所に入ったりするのでいつもは封印。
もうすぐ着くぞ、というところで困った。とんでもない角度の坂があるのだ。車いすで坂道を上るのは大変だ。自分の体重と車いすの重さを手で支えるからだ。でもそこで急に
「僕この坂自分で登りたい」
と彼が言うのでびっくりした。大丈夫? というが彼は譲らない。こういう時は頑固だ。分かった、任せるよ。
「ふ、ふんぬ~~~~~~~~っ」
思っていたよりも気合いの入った声で、驚いた周りの人が助けに来た。
「大丈夫ですか!? 手伝いますよ」、あっという間に囲まれた。ありがとう優しい皆さん。でも、
「えっと、自分で頑張りたいらしいので、見守ってもらってもいいですか!?」
なんて不思議なお願いだろうと思ったが、困惑しながら分かってくれた。彼はメリメリ坂道を登って、ついに登り切った。
「僕、やったよね! やった、やった!」
はじける笑顔、達成感に満ちている。小さい子が彼を不思議そうに見ている。彼はウィリーしてその場で一回転して見せた。彼が手を振ると小さい子も手を振る。「車いすってカッコいいって思ってほしいの、車いすは怖い物じゃない」、これは、彼のモットーだ。昔、小さい子を連れたお母さんが彼の車いすを見て「危ないから近寄っちゃダメ!」と言ったのがすごくショックだったそうだ。彼の誇りの理由が少し分かった。
東京タワーを巡る間、彼は他の人によく話しかけた。観光地では誰でも一緒に楽しみたいのだ。
「写真撮りましょうか?」
「Where are you from ?」
「補聴器つけているの?」
写真を撮ったり、つたない英語で話してみたり、かと思えば今度は手話で話し始めた。実は、彼は高校生の時に手話を覚えている。手話サークルに単身飛び込み、ろう文化に揉みに揉まれて身につけた手話は、手話甲子園で準優勝の実力だ。話が盛り上がり手の動きが速くなる。私はほんの少ししか手話表現を知らないので、もうついていけない。お手上げだ。この場では私は話せない人で、2人は楽しそうにお喋りしている。羨ましいので彼に聞いた。ねえ、なんて喋っているの?
「この人、恵比寿でバーをしているって! ぜひおいでって」
瞬く間に仲良くなって、名刺を交換して握手して、彼のコミュニケーション能力に脱帽する。彼には「言語の壁」や「障がい」を飛び越える何かがあると思う。それは少し英語を話せるとか、手話ができるとか、そういうことではなくて、相手を理解しようと努力する、過程にあるように思う。

3日目 東京ディズニーランド、4日目 東京ディズニーシー
ついに来た。ジェットコースターに乗りたい彼に、医師と彼の母からの「無理するな」の助言をひっさげ、できる限り全部のアトラクションに乗ってやろう、ショーもパレードも楽しんでやると画策してきた。
ディズニーリゾートには「ディスアビリティアクセスサービス」という制度がある。これはアトラクションに乗る時、身障者手帳などがあると申請でき、待ち時間に列を離れることができる。待ち時間は変わらないが、ものすごく助けられた。彼は必然的に、一日中座りっぱなしになってしまう。列を離れて伸びをしたり、一息入れたりすることで、最後まで一緒に楽しめる。ということは、あとは私が覚悟を決めるだけ……! 高いのもダメ、まわるのもダメ、速いのもまるでダメな私は明らかに向いていない。しかし、彼が乗るためには「同伴者」が必要なのだ! 私にしかできない仕事だ。私は特技、「丸暗記」を使った。どんな演出があるか、いつ落ちるか、速度がどのくらいまで上がって、どうしたら体がふわっとならないか、全部覚えて乗り込んだ。先のことを知っていると安心できる。怖いのは変わらないけど。
その甲斐あって私は、彼とともに岩場を猛スピードで走り抜け、地下探検をし、火山に突っ込み、深海に潜り、マンションの最上階から呪いで落とされ、宇宙をワープした。一緒に摩訶不思議な世界を乗り越えたのだ! 終わってみたら、まるで生まれ変わったように思えた。私はやり遂げたぞ! 彼と楽しめて本当に良かった。
ディズニーシーの最後に水上ショーを見た。車いす席でも人が多くて、4列目だったけれど、それはそれは綺麗だった。「夢はあきらめなければ必ず叶う」、このショーのテーマだ。いつか医療が進歩して彼の病気が治ることは叶うだろうか、いや、私の願いは、障がいがあってもなくても隣で同じ景色を見ることだ。この時間が永遠に続けばいいのにって本気で思っている自分が少しおかしかった。

5日目 東京駅→成田空港→福岡→熊本
東京駅は広い。広すぎる。地元の人は本当にこの駅を使いこなしているのか? それに人もとんでもなく多い。誘導してくれる駅員がいないと、私は目の前の彼さえ見失いそうだ。最終日も、東京の「都会」感に圧倒されっぱなしだ。駅を次々に乗り継ぐ。向こうの駅には別の駅員が待っていて、声をかけつつ誘導してくれて、どうしても階段しかないところは、斜めに動くエレベーターのような機械で車いすごと運んでくれた。それはまるで人の心でつながるラリーのようだと彼がとても喜んでいた。迷っていたら駅員に「なんでまだここにいる! 次の電車に連絡しないといけない」と怒られ、この5日間で己の対応力に限界を感じていた私も、この誘導は本当に助かった。あれだけの人を毎日捌くのは大変だと思う。しかしここで、事件が起こる。
成田空港の駅に着いた時、彼が改札で気づいた。
「財布がない!」
切符は身障者手帳に挟んでいたので無事だが、大変だ。折り返しの電車を駅員が止め、急いで捜索。ない、ない、どこにもない。忘れ物センターに届いていると一報を受けるまで、生きた心地がしなかった。東京駅で親切な人が拾って届けてくれたそうだ。彼は物知りで頼もしいが、おっちょこちょいである。飛行機の時間が迫り、もう駅に取りに戻れないので、郵送で熊本に送ってもらった。
予備のお金も使い切り、熊本に帰ってきた。生きて帰ってきた。さっきまで東京にいたのに、すごく昔のことのようだ。濃密な時間だった。たくさんの人と出会い、助けられた。こんなに大変だったのに、これからも彼と一緒に生きていけると思った。

誰かの太陽になるとき
後日談である。旅行は無理をしてはいけない。この旅行は体調と相談しつつ、医師の判断も仰いだ。熊本に帰ってきた私たちは、それからもいろいろな場所に行った。長崎でペンギン水族館に行き、原爆資料館を見て、福岡のドームで野球の試合を見に行き、宮崎の青島に行き、鹿児島の知覧特攻平和会館に行った。今は広島の大和ミュージアムに行くために計画を立てている。「全部の都道府県をまわる」、本当にできる気がする。でも、長崎の大浦天主堂には車いすで入れなかったり、階段しかないところはそもそも観光地の選択肢に入れられなかったり、できないこともある。そういう時、「あぁ、障がいがある」と思ってしまう。社会の壁だ。悔しい。でも、彼と一緒だから気づくこともたくさんあった。そもそも、彼がいないとこの旅行は計画されなかったのだ。私にとっての太陽は、はじくんだ。
彼といると「障がい」って何だろう、とよく考える。私たちは周りからどう見えているのだろう。前、彼に
「僕と一緒にいるとね、障がいのある家族をお持ちで大変ね、とか、そんなに頑張らなくてもいいのよと言われることが多くなると思う、ごめんね」
と謝られたことがあった。なんで謝るか分からなかったが、今は少し分かる。電車に乗るとき、私と彼は「介助者と車いすの人」になる。アトラクションに乗るときは「同伴者と車いすの人」である。でも、それで私が大変だと思われるのは大きな間違いだ。日常生活はむしろ逆で、「片付けができない私と上手な彼」、「無理しすぎる私とブレーキをかけてくれる彼」。お世話になりっぱなしだ。さらに、私と彼はどちらも発達障害の診断を受けている。私は「アスペルガー症候群」で、彼は「ADHD傾向強めの自閉スペクトラム症」である。だから、「障がい者と障がい者」そんな見方もできるかもしれない。でも、他のカップルと何も変わらない。彼といると障がいはころころと形を変える。不思議なことだ。あんなに生きづらかったのに、彼といると自分の障がいがなくなったかのように錯覚する。実際は、2人の雰囲気や声の調子が似ているから、姉弟に間違われることが一番多いけどね。
障がいはなくならないし、彼の痛みは、彼にしか分からない。私のいる意味に悩んだ時、SSW(スクールソーシャルワーカー)の方が教えてくれたのは、「痛みや苦しみが分からないのは当たり前で、きつい時、あなたが隣にいてくれる、それだけでどれだけ助かるか。分かってくれようとする人が隣にいることが嬉しいと思うよ」ということだった。なぜ障がいがなくならないのか、障がいという言葉があるから苦しむ人がいる、と悩んだ時、大学の先生は「目に見えない障がいは特に、障がいという言葉があるから支援を受けられる現状が今の社会だ。だから僕たちは、障がいを、自分を守る盾で、社会を変える剣として付き合っていくべきじゃないだろうか」と提案してくださった。
私たちは周りの人に支えられて生きている。そしてこれからは、私は保育士として児童養護施設に就職し、彼は医療ソーシャルワーカーとして病院で働くために社会福祉士の資格取得を目指している。彼は
「病気してこれから社会復帰しようって時に、支援する人が車いすならインパクトがあるし、この人が働けるなら自分も働いてみようかなって思えるでしょ?」 と笑う。
障がいがあっても、いや障がいがあるからこそ、私たちは誰かの太陽になれる時があるのではないだろうか。

受賞のことば

受賞のお知らせ、本当に嬉しかったです。
この文章は、はじくんとの旅行がすごく楽しかったので誰かに聞いてほしいと思ったのがはじまりでした。かけがえのない青春です。お世話になっているみなさんに感謝です。
これまでの2人と、これからの私たちに「そのままで君は太陽だよ、君を必要としている人がきっといるよ」とぎゅっと抱きしめてこの賞を贈りたいです。読んでくださって、ありがとうございました。

選 評

文章にほとばしる「痛み止めより、ずっと効く」二人の明るさと決意のパワーを感じました。「(自分以外の人の)痛みや苦しみが分からないのは当たり前」、見えにくい痛みや苦しみはなおさら理解される・理解するが難しいですが、「分かってくれようとする人が隣にいることが嬉しい」。この文章をきっかけにエーラス・ダンロス症候群を検索しました。2人とも互いの太陽、多くの人の太陽のような存在になっていくと確信しています。(藤木 和子)

以上