(子供を産まなければ良かった)
つらい不妊治療を経て、ようやく授かった待望の子であるにもかかわらず、娘が1歳半を過ぎた頃から、私は母親として無責任かつ冷酷な感情をふと抱くようになっていた。我が子が愛おしくて大切な存在であることに違いない。しかし、そんなことを感じる心の余裕が無くなっていた。夜中に中途覚醒し興奮する娘をなだめて睡眠不足が続く日々。暴れるため、娘の着替えと歯磨きは大抵2人がかりだ。髪をひっぱられ、手を噛まれたり、つねられたりしながら行った。娘から離れられる時間はない。少しでも目を離せば、家の壁一面ボールペンで落書きをされ、床は水浸しにされ、大切にしていたピアノは傷だらけにされた。トラブルを挙げればきりがない。娘にどれだけ注意しても指示は全く入らないし、思い通りにならなければ癇癪を起こして泣き喚いていた。
「魔の2歳児やイヤイヤ期と言われる今が一番大変な時期だよね」
と、周りからはよく言われたが、我が子は発達障害だ。私には、この魔の時間に全く終わりが見えなかった。
前述した通り、私たち夫婦にはコウノトリがなかなか来ず不妊治療をしていた。いろいろな検査を受けた結果、自然妊娠は難しいだろうと医師から告げられ、すぐに体外受精にふみきった。しかし治療をしても受精卵(胚)は一つしかできなかった。
「この胚はグレードが低く、妊娠率も低いかもしれません。移植はどうしますか?」
と、培養士さんから説明を受け受精卵の写真を渡された。細胞分裂をしているたった一つの卵を見たら不思議な愛情が湧き、
「移植してください」
と迷わずに答えた。そして、この卵が約9か月後に我が娘となって産まれてきてくれたのだ。娘の名前は『結(ゆい)』と命名した。
1歳の誕生日に一升餅を背負い、両手を支えられながら一歩一歩慎重に歩く娘の姿を見つめて(この子はどんな人生を歩んでいくのかな)と私は娘の未来に想像を膨らませた。その頃はまだ、娘に障害があるとは全く気がついていなかった。私は初めての子育てで、子どもの成長過程に対して鈍感であったと思う。定期購読していた育児本に、娘と同じ月齢の子が「ぶぅ」と飲み物を求めたり、ママが「ナイナイして」と子に物を差し出すと箱に入れたりする姿が紹介されていて(1歳児は、もうこんなことができるの?)と驚いたが、『3歳までの発達は個人差が大きいのが特徴』とも書いてあり、(もう少し経てば、我が子も同じようにできるようになるのかな)と悠長に考えていた。しかし娘は1歳を過ぎても発語がないだけでなく、バイバイなどの簡単な身振りもせず、いくら声をかけても反応が乏しく伝わっている感じがなかった。遊び方も長い紐や棒などを振り回すばかりで、いろいろな玩具を与えても興味を示さず、手を添えて一緒にやろうとすると叫んで拒まれた。一人歩きが可能になってからは手を繋いで歩くことを嫌がり、多動で落ち着かず、動き回るようになった。コロナ禍で市が催す1歳児相談会が中止になってしまったが、発育状態のチェック項目は『できない』ばかりに丸がついていた。
娘の発達障害を疑い始めたきっかけは1歳3か月の頃、同居している母が懸念を示した一言からだった。
「自閉症についての動画を見ていたら、紹介されている子の1歳の様子が結に似ていて心配になってしまった」
母は自分の子育ての経験から、孫の様子に疑問を抱いていたようだった。「そんなわけないでしょ!」と否定したかったが、この頃から娘には奇妙な常同行動が見られ、その他にも思い当たる点が多々あった。現代はすぐに多くの情報が入手できる時代だ。調べれば調べるほど(娘は発達障害かもしれない)と不安な気持ちになった。居ても立っても居られず、市の保健師さんに相談に行った。
「この年齢では発達障害かどうか判断できないことが多い。コロナ禍で人との関わりが制限されて日常の刺激が少ないかもしれないから、児童館等の同じくらいの年齢の子とふれあえる場に行ってみてはどうか」
という主旨のアドバイスがあった。児童館をすぐに予約して、同年齢の子が集うイベントに参加することになった。児童館に入ると、既に何組かの母子がいて、玩具や遊具で遊んでいた。お辞儀をしたり、手を振って挨拶したりする子も見えた。(娘と同じ年齢の子は本来このような感じなの?)娘との差に衝撃が走った。その日は歌や本の読み聞かせを行うイベントがあったが我が子は児童館に入った途端、目的もなくひたすらグルグル走り回っていた。母親が視界から見えなくなろうとお構いなしだ。児童館の保育士さんも追いかけて声をかけてくれたり、玩具を促してくれたりするが、娘は何も耳に入らず、目に入らず、といった様子で興奮していた。静止させようと引き止めるとギャー! と喚いて騒ぎだした。この状態では皆様に迷惑をかけてしまうため、即座に帰った。現実を突きつけられて、とてもショックだった。(娘の様子は異常だ)私は帰りの車の中で泣いてしまった。
その夜、夫婦で話し合い、かかりつけの小児科を受診することにした。先生は私に問診をしながら、娘をしばらく見つめて呟いた。
「確かに目が全然合わないね」
頭囲が大きく、嘔吐反射が頻繁に見られることも含めて専門病院に紹介していただくことになった。自宅から高速道路を使って一時間程走った所に大きな専門病院があり、1歳5か月の時に初めて受診した。担当の先生は、娘の経過や症状について時間をかけて詳しく話を聞いてくださった。MRIや血液検査も行った。
「検査の結果では発達を遅らせる原因となる奇形や病気などの所見はなかった。つまり聴取した状態を考えると、自閉スペクトラム症であるだろう。早期の発達支援が勧められているから、自宅の近くにある病院でリハビリを受けられるよう紹介する。しかし今は希望患者が多く、受診するまで半年以上待機することになるだろう」
と、先生からは説明された。
その日は早朝から病院に向かい、検査や診察など全てが終了した時には日が暮れていた。病院にいる間、夫と私は食事をとることを忘れていた。帰路の車中、娘は珍しくおとなしく過ごしていたため「高速道路のサービスエリアに寄って、娘を交代で見ながらサッと食事を済ませよう」ということになった。夫に娘を任せて、まずは私が館内に入り軽食をとろうとした。その途端、聞き覚えのある奇声が遠くから聞こえた。泣き喚く娘を必死に抱いてあやしている夫の姿が窓の外に見えた。癇癪を起こした状態を宥めるには2人がかりになるため、一口のラーメンもすすらずに帰ることになった。(これから娘はどうなってしまうのだろう。私たちはどうしたら良いのだろう)先が見えない不安を感じていた。その帰り道は夫も無言になっていた。
私たち夫婦はどちらも特定の趣味はないが互いに食べることが好きで、娘が産まれる前は美味しい物を見つけては食べに行き、グルメ旅を楽しむような時期があった。娘が産まれたばかりの頃、夫が
「結がどのくらいなったら一緒に出かけることができるかな。いろいろな所に連れて行ってあげたいな」
と、首も据わらぬ娘を抱きながら、その日を待ち望んでいる様子で話していたことがあった。私もその当時は、娘が少し大きくなったら、それほど遠くない先に、ちょっとした外出くらいなら一緒にできるようになるのではないか、と楽しみに思っていた。しかし、現実はとんだお門違いであった。
娘が1歳半を過ぎて、初めて近所の水族館に連れて行ったことがある。絵本やテレビで海の生き物を見ると笑ってくれるようになり、実物を見たら喜んでくれることを期待した。
「ほら、お魚が泳いでいるよ! イルカが来てくれたよ! ペンギンもいるよ!」
私がいくら見るように促しても、娘の目線はそちらにはいかず、周囲の鉄格子や網、水槽の蛇口から流れる水ばかりが気になっている様子だった。しばらくするとベビーカーから降りたいと体をゆすり始め、降ろすと訳もなくひたすら走り出す。それを止めるといつもの大騒ぎが始まり、途中で帰ることにした。
ママと手を繋いで魚を指差しながら歩いている子、パパが動物に餌をあげている姿を見て「やりたい!」とせがむ子、ショーを見て拍手している親子、館内にいる全ての親子がとても輝いて見えた。
(娘が好きなだけ走り回れたら良いだろう)と考えて公園にも連れて行ったが、走りだせば園外の車道に出ていきたがり、座り込んだかと思えば砂利や芝生を口に入れていた。そのような状態が続いて、私は娘と一緒に外に出ることが、だんだん怖くなっていった。
この頃、娘と同じ年齢の子供を持つ友人から、子と一緒に参加するイベントや食事会などに誘われる機会が度々あった。友人たちに会いたい気持ちはあったが娘の状態を考えると一緒に過ごせるはずがなく、参加すれば皆に迷惑をかけてしまうだろう。そして、友人の子と娘の成長の差を目の当たりにしたら、私の気分は更に落ち込むに違いなかった。最初は理由を濁して断っていたが、何回目かの誘いの時、一緒に出かけることが難しいという現状と娘の障害について、正直に話をした。
(私たち母子は、別次元の存在なのだ……)と。
とても虚しい気持ちになった。
冒頭にも書いたように、娘は一歳半を過ぎてから睡眠障害や他害行為など危険行動も多く、日に日に困りごとが増えていった。娘が癇癪を起こすと、落ち着かせる方法は授乳の他になく、私は娘と少しも離れられない日々が続いた。いけないと分かっていながら声を荒らげて怒ってしまうことも増えた。娘との関わりの中で気分は沈むばかりであったが、そんな私の気持ちを察知してか、ある日、夫が娘への思いを話してくれたことがある。
「結は君が想像していた子とは少し違かったかもしれない。でも、結が産まれてきてくれなかったら、きっと自分たちは今もまだ不妊に悩んでいたかもしれない。自分にとって結の存在は感謝しかない。だから結のためにできることは何でもしてあげたい。育児も一緒にやるから」
夫は仕事の都合上、帰ってこられない日や休日の出勤も多く、娘が産まれて最初の頃は育児に協力的とはお世辞にもいえるタイプではなかった。しかし、娘の障害が分かってからは積極的に娘のことを考えてくれるようになった。体を使った遊びをしたり、絵本の読み聞かせをしたり、居る時はメインとなって娘と関わってくれた。娘が夜中に目を覚ますと夫がおんぶをして寝かしつけて私を休ませようと気遣ってくれるようになった。そんな夫の変化は私を鼓舞した。この時期は母からも発破を掛けられた。私がしばしば娘に対して感情的になると、
「結には何も罪がないでしょ!」
と母は私を怒った。
「そんなこと、分かっている。だけど、どうしたら良いか分からない……」
私が泣き言を言うと、
「つらい時、泣くことは簡単。逃げることも意外と簡単。でも今日一日頑張ってみなさい。今日が終わったら、明日またもう一日頑張ってみなさい。そうやって一日一日を過ごしていたら、いつの間にか辛かったことが、なんでもなかったことのように思えてくるから。乗り越えられる日は必ず来るよ」
昔から厳しい母だったが、そう言って私を励ましてくれたことがある。母は足が悪く持病もあり自身の体調が優れない日もあるが、そんな中でも我が家の家事全般を請け負ってくれ育児も協力してくれている。
(私は結の母として、もっとしっかりしなくていけない)
家族に支えられながら、私の気持ちは少しずつ少しずつ前を向いていった。
前を向けたもう一つの大きな理由は娘の発達支援が始まったことである。
発達障害者支援センターの存在を知り、初めて相談に行った際、
「娘に全く成長がみられなくて……」
と私が吐露すると、
「成長しない子どもはいません。その子のペースで必ず成長していきます。結ちゃんの障害に早く気がついたことは、必ず結ちゃんのためになります。こうしてもう進んでいるのだから」
と、先生はとても優しく心強い言葉をかけてくださった。専門の知識を持つ方に話を聞いていただくことで安心感も得られた。そこでは困った時の関わり方や娘の現状に合った対応なども教えていただき、今も定期的にお世話になっている。
娘には1歳7か月から発達支援の相談員さんに就いていただいた。言語聴覚士さんが行う個別療育に通えるようになり、遊びを通していろいろなことを教えていただいた。そこで娘が少しでも関心を持った玩具や、お薦めの絵本は家でも取り入れてみた。言葉は多くの事柄を理解しないと発語に繋がらないことを知り、(人間が話せることは尊いことなのだ)と改めて感じたりもした。娘が2歳になると月に1回作業療法も受けられるようになった。リハビリ先の発達小児科の先生が娘の睡眠障害も診てくださり、睡眠を改善させる薬の服用を開始した。それから娘の睡眠リズムは比較的安定し、家族の睡眠と心身の休息時間の確保にも繋がった。その頃から小集団の療育にも入りマンツーマンで先生が付き添い、娘のペースでやれることを促してくださった。徐々にお絵描きや手遊び歌に興味を持ち、トランポリンや滑り台を楽しめるようになった。一緒に過ごすお友達のことも少し意識するようになった。最初は私も始終、活動に付き添っていたが「お母さんが自分の時間を少しでも持てるように……」と先生が私のことまで気にかけてくださり、娘は2歳8か月から私と離れても療育に通えるようになった。
以前、『家族の障害受容過程は、ショック、否認、悲しみと怒り、適応、再起』と学んだことがある。私が今、娘の障害に対して適応、再起の段階に向かえているのは、「一緒に考えましょう!」「一緒に頑張ろう!」とサポートしてくださる発達支援の方々に出会えたおかげであると思う。
娘は2歳7か月の時、初めて発達検査を受け『発達指数は8か月、障害の程度は重度』という結果が出た。娘はまもなく3歳になる。未だに有意語は一言も発さず、意志を伝えられないため叫んで怒る。移動にベビーカーは手放せず、食べ物は手づかみで食べ、こぼして遊ぶ。体は大きくなっても、中身は未だ赤ちゃんであることに変わりはない。しかし行動に変化を感じられる時がある。例えば見向きもしなかった玩具にも少しずつ向き合うようになった。娘が積み木を3個積んだだけで家族が手を叩いて喜んだ。ラッパをプープーと初めて吹いた時は、
「お赤飯を炊こう!」
と母が言うほど我が家では嬉しい出来事だった。言葉の理解も少しずつ増えてきた。
「お片付け」「はみがき」
などの声かけには無視したり逃げたりするが、
「アイス食べる人~?」
と聞くと冷蔵庫の前でビシッと手をあげて待っていたりした。呼名に反応しない子であったが最近ようやく、
「ホリウチユイさーん」
と呼ぶと手をあげるようになった。しかし、
「ウラシマタロウさーん」
と呼んでもチラッと手をあげた。そんな娘の姿を家族全員で笑って見ている。このようにゆっくり進む娘の成長を温かく見守りながら少しずつ家族の絆も強くなっていった。娘の存在は『結』という名の通り家族の結束を強くし、多くの縁を結んでくれている。
もう一つ、娘がもたらしてくれた大きな縁がある。それは我が家が新しく迎えた家族、ラブラドールレトリーバーのマークとの出会いだ。娘が自閉症と分かってから、障害福祉や発達障害に関する情報は可能な限り見るようにした。『今は多様性の時代』『凸凹な発達も個性である』とメディアで取り上げられるたびに救われるような気持ちになった。そして同じような障害を持つ子やその家族の話に触れるたびに私は励まされ、学ぶことが多くあった。その中でも、『発達障害により感情の起伏が激しく自傷行為をしていた子がキャリアチェンジ犬と一緒に暮らしたことで情緒が安定して明るくなった』というエピソードが印象に残り、犬についていろいろ調べるきっかけとなった。海外には発達障害者のための介助犬もいることを知った。自閉症の少年と犬が一緒に育ったという実話が書かれた本も読んでみた。(犬と一緒に生活をすることは娘にも何か効果があるかもしれない)登録用紙に『娘と犬が、きょうだいのような関係を築き、一緒に成長してほしい……』という親の思いを記し、我が家もキャリアチェンジ犬ボランティアに申し込みをした。登録をしてからしばらく待機していたが、娘が2歳半の時、県外の盲導犬協会からキャリアチェンジした犬がいると連絡が入った。『マークという名の一歳半の男の子。音に敏感で臆病な面があり盲導犬の適性はなかったが、人が大好きで素直な性格』という情報を教えていただき、会うことを決めた。マークと初対面の時、娘がどんな反応を示すか緊張したが、マークから娘に寄ってきてくれて、手をペロペロなめ、鼻を近付けた。娘は笑いながらくすぐったがり、初めて見る大きな犬を興味深そうに見つめていた。(出だし好調だ!)ひとまず、娘の反応に安心したことを覚えている。
大型犬との生活は家族全員が初めての経験のため、協会の方々からアドバイスをいただきながらマークを我が家に迎えて新生活が始まった。ヤンチャで構ってもらうことが大好きなマークと、自分の世界の中にいて他への興味が乏しい娘が交流することはそう簡単ではない。しかしマークが常にそばにいてくれることは確実に娘の刺激になっていた。大人がマークの相手をしていると、娘が手を広げて抱っこを求めに来たり、“私の方に来てよ”と言わんばかりにアイコンタクトして大人の手を引いたりするようになった。夫が帰宅して
「ただいま!」
と声が聞こえると、娘とマークが競争して玄関まで迎えに行き、夫に遊んでもらう順番を取り合う姿は微笑ましくも見えた。今、娘にとってマークの存在はパパやママを取り合うライバルなのかもしれないが、娘の中に嫉妬心が芽生えたことや、他者を意識する行動には僅かな成長の兆しを感じている。時々、玩具のひっぱり合いをしたり戯れ合ったりして交流も見られている。両者共にマイペースな性格なので、ゆっくり時間をかけて絆を深めてくれたら嬉しいと思っている。
当初は娘のために飼い始めた犬だが、実際は私が一番マークの存在に癒やされている。私の気分が苛立っている時、マークがそばに寄ってきてくれて頭や体をなでるだけで穏やかな優しい気持ちになれたり、マークの散歩をする時間が気分転換に繋がったりした。今までの生活に加えて犬の世話も増えたため慌ただしい毎日ではあるが、(充実している)と感じられるのはマークによるアニマルセラピーの効果かもしれない。私の今の目標は娘と手を繋いで一緒にお散歩をすること、夢はマークも連れて家族みんなで一緒に旅をすることだ。実現できた時は道中、嬉し泣きしてしまうに違いない。
娘はまだ3歳。これまでのことは娘の人生の序章に過ぎず、これから歳を重ねる度に、より多くの困難が待ち構えていることだろう。
3歩進んで2歩下がるような、歩みの遅い娘だが、泣いたり笑ったりしながら前だけを向いて一緒に何事も乗り越えていきたいと思っている。
娘はよくアハハと声をあげ満面の笑顔で笑ってくれる。何に対して笑っているのかよく分からない時もあるが、娘の笑い声を聞くだけで幸せな気持ちになれる自分がいた。そして、いつのまにか娘の微かな成長を発見することに生きがいを感じている自分がいた。
娘と会話ができる日がくるのか、言葉をどの程度まで理解できるようになるのかは分からない。
でも、私は娘に一生かけて伝えていきたい。
「産まれてきてくれて、ありがとう」と。
受賞のことば
私の手記を読んでいただき、ありがとうございます。
思いもかけないことだったので、入選の知らせをいただいた時は大変驚きました。
今回の受賞を通し、日頃より娘の発達支援に関わってくださる皆様に改めて感謝を申し上げます。
私にとって、この受賞は、これから娘を育てていく上で、エールとなり糧となると感じています。
娘にも、いつか伝えたいです。
ありがとうございました。
選 評
児童館で、高速道路のサービスエリアで、水族館で……他とは違う行動をとる子への不安。愛さんの、発達障害の娘に対する感情の移ろいが、原稿にそのまま刻みつけられていて、心を揺さぶられました。読み進むうちに、「アイス食べる人~?」と聞いて、娘さんがビシッと手をあげた時には、おお! とこちらまでうれしく思いました。
結さんは自分のペースで必ず成長していく。それを生きがいにし、存在に感謝している両親と愛犬マーク。みんなで会話をしたり、一緒に出掛けて笑いあう日がきっとくる……。
その兆しを、読む者がしっかり感じられる作品でした。(水高 満)
以上