第58回NHK障害福祉賞 最優秀作品
〜第1部門より〜
「生きる選択」

著者 : 野上 奈津 (のがみ なつ)  東京都

私には3つの難病がある。
1つ目の「筋ジストロフィー」は15歳の時に告知された。
13歳の時に母を心臓病で亡くし、父が再婚した2度目の母に連れられて大学病院を訪ねた。恰幅のよい年配の医師は私に遠慮なく話しかけてくる。
「あなたは筋ジストロフィーです。この病気の治療薬はなく、将来は寝たきりになるでしょう」
「治療法はないのだから、しょっちゅう病院に来なくたっていいんですよ」
「筋ジストロフィーが遺伝する確率は50パーセントです。将来あなたは結婚しても妊娠をしてもいけない」
今思えば思春期の少女に向かって何という物言いだろうか。この時の医師の言葉は、その後の私の人生観に大きく影響をする。義母に「泣いてどうなるものでもないでしょう」と叱咤されて、ここから私の難病者人生が始まった。

2つ目の難病である「特発性血小板減少性紫斑病」は38歳の春、生理の出血が10日間続き、そのうち顔色が私の部屋の壁のように真っ白になって息も切れるようになった。自宅近くにある大学病院を訪ねたことがきっかけで、ステージTの子宮がんと共に宣告された。紫斑病は血小板の異常な低下により出血の止まらなくなる病気だ。指定難病とされている。
ステロイドの服用と輸血で様子をみたが血小板の数値は回復しなかった。その後、医師の判断により脾臓を摘出することになる。子宮、卵巣、脾臓を一度に身体から取り出す手術は、想像を絶する痛みと苦しみを経験することになった。子宮全摘の影響でホルモンバランスが崩れ、その後うつ病を発症したために勤めていた会社を退職することになったが、ありがたいことに現在はいずれも寛解状態である。

3つ目の「全身性エリテマトーデス」は自分の細胞を攻撃する抗体が生じることにより、さまざまな臓器に炎症などが現れる病気だ。2017年2月、肺血栓塞栓症で緊急入院した際に発見され宣告された。治療法としては免疫抑制剤を服用する。

死についてはずっと考えていた。
3つある難病のせいで命の危機に瀕したとき。
肺血栓塞栓症で右肺自体が壊死してしまい、3分の1が永続的に機能を失われ一生回復はしないこと。酸素のカニューレ(やや太めの管状の医療器具)がないと息をすることもままならない時期があったこと。
そして、筋ジストロフィーの症状が進行して身体が動かなくなったとき。
どう生きるのか。

2022年、11月の筋疾患専門病院の検査入院で主治医より延命措置について問われた。
「お元気ですか?」
その時に(3つの難病はあるけれどな?)と考えはしたけれど、
「はい! 元気です!!」
威勢よく答えた。
「あなたが元気だと言っているのにこんな質問をするのは申し訳ないんだけれど」と前置きをされて、
「延命措置についてどう考えていますか?
あなたが急変した際、気管切開をするくらいなら死んだ方がマシとか、意識が戻らないままでも生きていたい、とか」
衝撃的な質問だった。 この時の私は夜間にHOT(在宅酸素療法)を使用しているだけで、自分としては至って元気に日常を過ごしていたつもりだ。HOTは酸素のカニューレを鼻に5ミリ程度差し込むだけの簡単なものなので面倒がない。
このような状況でこれまで(いつの日か)気管切開する日がくるのかなと想像はしていたけれど、決心がどうしてもつかなかった。意識ははっきりしているのに自身の声で思いを伝えられない状況をとてもつらく感じる。私にとって想像を絶する状況だ。
生きる選択をするのか、気管切開の選択をしないのか、主治医の問いから答えを出せずにいた。私にとって気管切開は人生の大きなテーマだった。

検査入院から間もない2022年12月18日、高熱を出した私はCOVID?19(新型コロナウイルス感染症 以下コロナ)と診断された。
その2日前、深夜にトイレに起きた際に異常な息苦しさを覚えた。部屋に戻りサチュレーション(血中の酸素濃度)を測ると数値は79を示している。
健康な人の平均数値は99から98とされている。極端に低い数値が衝撃的だった。私の身体で一体、何が起きているのか。ベッドに戻りHOTを使用すると数字は86まで回復したけれど、ホームドクターには日常生活において酸素の値が90を切った時点で救急に連絡をするように言われていた。
2日間様子を見たが低酸素が続いたため、さすがに契約している24時間訪問看護ステーションに連絡をした。真夜中の零時を過ぎて検査キットを持参して駆けつけてくれた看護師により、夫と共に正式にコロナと診断される。
ホームドクターには「入院した方が安心ではないですか?」と問われたけれど、頑なにお断りをした。
筋疾患専門病院の主治医からは「あなたがコロナに感染したら間違いなく重症化するでしょう」と告げられていたのだけれど。
3つの難病のせいでコロナが重篤化する危険が高かった。夫や友人たちは入院を強く勧めてくる。だが、どうしても私にはそれに添えない理由があった。

筋ジストロフィーであるために入院による筋力低下が目に見えている。TVのニュースでは健常者でも隔離期間中に足腰が弱って危険だと言っていた。それなら筋疾患の私たちはどうなるというのだろう。現在ですら自宅ではリビングの椅子からトイレまでを歩行器を使ってよたよたと歩き、外出時は電動車椅子を使用しているというのに。
現在の状態であれば、入院をしてベッドに寝たきりで過ごせば足の筋力低下は著しく進行するだろう。自宅でも車椅子を使うことになるかもしれないが、狭い家の中では困難なことに思われる。自宅改修も考えなければいけなくなるだろう。それは避けたかった。
今思えば自分のことしか考えていない、全く身勝手な理由だったが、私は自宅療養したいという意思を曲げなかった。歩くために。

現在ではコロナは5類とされているが、この頃は新型コロナ対策特措法により外出はもちろん許されなかったし、38度5分の高熱でひどい倦怠感のなか、ひたすら自宅療養期間が過ぎるのを待っていた。法律で定められた「自宅待機5日間」はとっくに過ぎて2週間が経過したが、サチュレーションは下がったままで咳も治まらずに症状は次第に重くなっていく。

2023年の正月を、高熱とどうにもだるくて最悪な気分のなか迎え、やっとお雑煮は口にしたけれど全くおめでたい気分にはならず、ただベッドに横になっていた。自分自身も「もう家にはいられない」と予感した。

元日が過ぎて2日が経過した1月3日、深夜3時のトイレでとうとう私は転倒した。一度床に倒れてしまうと二度と自力で立ち上がることができないために、夫が再び24時間訪問看護ステーションに連絡をしてくれる。コロナに罹患して17日が経とうとしていた。
冷たい廊下にだらしなく、どでんと寝たままの私は、もう1ミリも自分の力で動くことはできなかった。往診の看護師は衣服を整えてくれながら「お願いだから」と入院を勧めてくる。
私は「もはやこれまで」と覚悟を決めた。

いよいよ救急車を要請した。間もなく到着した救急隊員は、治療法の異なる3つの難病のために搬送先の病院選びに時間を要している。コロナの流行中ということもあり、世の中の病院のベッドはどこも満床で、119番通報をしてから2時間が経とうとしていた。ようやく特発性血小板減少性紫斑病と子宮がんのオペをしてくれた、かかりつけの大学病院が受け入れを認めてくれた。
この間「これで助かる」という安堵の思いとともに、とうとう迎えることとなる入院生活への恐れもあって、真冬で冷えた寝室で毛布にくるまりながらブルブルと震えていた。

病院に到着してすぐにサチュレーションを測ると、やっぱり数値は79と表示されている。何人かの看護師がそれぞれ左腕から点滴のルートを取ったり、血圧や体温を測り処置をしてくれている。
入院の手続きの際、救急の医師より「重症化した際は気管切開をすることになりますがよろしいですね」と確認をされた。ごくごく普通に当たり前のように。その衝撃的な言葉に「は?」と返すと、同様に彼も「は?」と困惑している。
お互いにしばらく顔を見つめていたが、何となく納得した。1日に2500人余りの患者を診る大学病院では、きっと当たり前の質問なのだ。いつかは来るであろうと感じていた「その日の選択」がこんなにもいきなりだとは。

気管切開とは、気管の上部の皮膚を切開してその部分から気管にカニューレを挿入する気道確保方法とされる。この処置を受けることで、より安定した呼吸の確保ができる。
ただ、私にはどうしても気がかりなことがあった。気管切開をしてしまうと、カニューレを通して呼吸するため、声帯を通らないがゆえに声が出にくくなるということだ。私はお喋りが生きがいなのだ。人とのコミュニケーションの中で喜びを感じている。声を失った生活が全く想像できずにいた。

普段通院しなれている外来の雰囲気とは異なる、緊迫感の漂うコロナ病棟に運ばれた。個室であるその部屋は10畳はあろうかという広さに1台だけ私のベッドが窓際に張り付くように置かれていて、不安と寂しさをかき立てるものだ。
防護服を着た医師と看護師たちが入れ代わり立ち代わりやってきては、採血、心電図、レントゲンの検査の指示をしている。ベッドに横になったまま検査が行われていくため、私はただ寝ていればよかった。「何かあれば呼んで下さい」とナースコールを渡されて誰もいなくなった。
21時の消灯後にのぞいた窓際の細いブラインドの隙間から見えた、真っ黒な高層ビルの最上部で点滅する航空障害灯の赤い瞬きが、不安と寂しさから救ってくれるような気がした。都心の夜景は慰めになる。
自宅療養中に足の筋力はすっかり衰えて、もはや立てなくなっていたために、私の世界はベージュのカーテンに仕切られたベッドの上の僅かな空間だけとなった。

その日から抗生剤の点滴とコロナに対応した薬剤の投与が続いた。絶飲食を言い渡されてどれだけの日にちが経ったのだろう。24時間、抗生剤と栄養の点滴のみで、喉の渇きに耐えられなくなった私は、何度も「水を」と懇願したが叶わなかった。看護師が僅かに水を含んだコットンを唇にのせてくれることが救いだった。
2週間が経ち点滴が外されて、ようやく「食べる」許可が出た。入院以来初めて口にしたおかゆがしみじみと身体にしみていく。「生きている」ことを実感した瞬間だった。

入院生活12日目、依然としてコロナは陽性のままだ。治療は続けられていたが翌日には肺炎を併発して重篤な状態に陥った。医師による懸命な治療によりその後(病棟主治医の言葉を借りれば)「奇跡的に」命を吹き返した。
状態が少し安定し始めた頃に、主治医と話をした。
「肺の状態が悪化したために気管挿管を考えたのだが、そのためには内視鏡を入れて検査をしなければならない。肺に水をジャブジャブ入れる検査となるために最悪の状況が危惧されて、結局のところ断念した。気管挿管をした後、気管切開をするケースもあるために、やむを得ず悪化した状態で様子を見ることになったが結局は回復をした」
この言葉を聞いて私は脱力した。神様がいるのであれば心から礼を言う。

その後、夫から「キミが入院すると夜中に電話がかかってくるのが恐怖なんだよ」と聞かされた。
ある深夜、主治医から電話で気管挿管に関して同意を求められた。
「命が失われるなら気管切開をして下さい」と答えたと言う。
私がハッキリと意思表明をしない限り、命の選択を夫に押し付けることになるのだ。
今なら分かる。
歩くことができなくなったとしたら車椅子を使えば良い。代替案は他にもあるだろう。歩くことにこだわって命よりも優先した私は何と愚かだったのだろう。
これまでは筋ジストロフィーの進行によって肉体と臓器がどのような変化をしていくのか想像すると「生きていく」決意が持てなかった。さまざまな機械を付けて、何本もの管を身体に這わせる。
明確な意識のなかで、身体の自由を奪われてベッドの上で死ぬまでの時間を過ごすこと。その勇気がどうしても持てなかった。

1月27日にようやく陰性となった。ただし受け入れ先の病院のベッドが満床だったために2月21日、ようやく筋疾患専門病院へ転院となった。
転院目的はリハビリテーションのためと考えていたのだが、部屋に通されるとベッドの横に人工呼吸器が設置されている。この1年の間、私の呼吸状態が悪くサチュレーションの数字も下がっていたために主治医から何度となく勧められてきたが再三お断りしてきた物だ。機器を使って呼吸の補助を行い、過剰に溜まった二酸化炭素を排出し酸素の取り込みを促す機械である。鼻や口をマスクで覆うタイプの物が多い。
人工呼吸器を実際に導入した友人たちは「メリットしかない」と言う。二酸化炭素の換気ができるので、朝目覚めた時に頭がすっきりしている、脳の働きが良くなった、記憶力が蘇った、など。
そんなにありがたいはずの機械なのだが、私はどうしても受け入れられずに検査入院を先延ばしにしていた。機械に繋がるホースの先をベルトで頭に締め付ける拘束感、そして一度導入したら一生使い続けなければならないといった誤った知識などが原因だった。
何より私は顔面肩甲上腕型筋ジストロフィーによって両腕が上がらないため、マスクの装着を自身でやれるとは考えていなかった。就寝前に夫に頼むつもりだったのだが、彼は一度眠りにつくと朝まで起きることはない。本人に確認してみたが「僕には無理だよ」とハッキリと断られた。となると、夜中に警告音が鳴った時の対処ができないのだ。
そうであればヘルパーさんをお願いするしかないのだけれど、23時から翌朝6時まで、寝室の隣の部屋で控えていて下さる「人」も「制度」も私の住む市にはなかった。ケアマネージャーからは「前例がありません」とぴしゃりと断られた。それなら一体どうするのだという思い。焦りに心が地団太を踏んでいた。

そうして先延ばしにしてきた人工呼吸器導入だけれど、「どうせしばらく病院に泊まるのだったら機械を試してみませんか?」との主治医の言葉に、私もとうとう抵抗するのを止めた。
退院をしたら一人で装着する以外の方法がないので、病院で練習を始めた。23時になると夜勤の看護師がベッドにやってくる。必ず二人体制で機械の数字の確認と、最後に「ナースコール」のチェックをしてくれる。慣れない手付きでマスクの装着に必死になる私に、彼女(彼)らは厳しくも優しかった。
機械が吐き出す酸素と私の呼吸を合わせるのに少し工夫が必要だったけれど、次第に慣れていく。実体験を通じて、人工呼吸器について持っていたネガティブなイメージも徐々に薄れていった。
主治医はこうも言っていた。
「急変した際にいきなり気管挿管をするのではなくて、普段から人工呼吸器を使用していれば、それでワンクッションおける場合もあります」
その言葉は人工呼吸器導入へ向けて私の背中を後押ししてくれた。自力で二酸化炭素を吐けない状態が続くと最悪の場合、自分で吐いた二酸化炭素で意識が朦朧とし、命が危うくなることもあると聞いたから。
こう書いていると、やっぱり私は死ぬことが恐いのではないか、と思う。

人工呼吸器を未体験の周りの友人たちには、「導入することが不安で決心がつかない」という声が多い。漠然としたマイナスなイメージを、過去の私のように持っている。もしこのイメージが払拭されれば私のような悩める患者は減るだろう。
現在は人工呼吸器を自宅に持ち帰り、夜間一人で機械と格闘中だが(まだまだ慣れない)この習慣を続けることに意味があるのだ。
医学は確実に進歩している。昨年、還暦を迎えた私は同病の友人から「奈津さんは私の中で筋ジストロフィー界のスターなんです」と評された。驚いて訳を尋ねた。
「60歳まで生きたいんです」
そうだ。今でもこうしてコロナを乗り越えて、立ったり座ったりしながら私は生きている。

今、
「重症化した際は気管切開をすることになりますが、よろしいですね」
と、あの時の大学病院の救急で改めて問われたとしたら。
「お願いします」
と答えるだろう。
私は生きる選択をする。

受賞のことば

16年前、佳作を頂いた私にとって、最優秀は夢でした。今回、その夢を叶えて下さり、感激しています。
お電話にて「最優秀です」と告げられた時、一瞬言葉を失いました。今年の始めはコロナで生命の危機にありましたが、2023年を締め括る今、達成感と充実感で一杯です。
「生きる選択」に関わって下さった全ての皆様に感謝申し上げます。有難うございました。

選評

重度の難病を三つも背負い、それだけでも大変な日々なのに、そこに怖れていた新型感染症コロナに罹患し重篤な状態に陥るとは!
かねて筋力低下=歩けなくなると思い込んで拒否していた気管切開と向き合わざるを得なくなる。生と死の境界線上で限界状況に直面しながらも、「生」に向かって自分の心と身体を必死にいわばトレーニングする野上さんの一刻一刻は、息を呑むばかりです。人間が生きるとは、大変な“事業”なのだなと、改めて学ばせて頂きました。野上さんの苦闘の日々は、手記を書いたことで、人が生きる凄さを万人が共に学べる永遠性を持つものになりました。(柳田 邦男)

以上