第57回NHK障害福祉賞 佳作作品
〜第1部門〜
「私、黙ります!」

著者 : 青戸 千明(あおと ちあき)  兵庫県

夫との出会いはSNS。二十七歳のとき同棲(どうせい)を始めた。その半年後に、場面緘黙(ばめんかんもく)症というものが、この世に存在することを知った。
学校では、両想いの人から話しかけられても、一言も話せなかった。職場では一対一であれば、ある程度は話せるまでに改善していて、好きな人からの好意で個人的な飲み会に誘われた。絶好のチャンスだったにもかかわらず、「三人以上の場が苦手なので」という簡単な説明をすることも無理だった。無愛想に断ることしかできなかった。
こんな調子で、実生活では恋人をつくることが不可能だったのである。
人生最初の記憶があるのは幼稚園の年少のとき。話せないうえに行動が鈍(のろ)い私は、男子にからかわれることが多かった。
「こいつ食べるのおせえ」
「遅いねえ!」
担任の女の先生は目が恐い。私のことが嫌いなようだ。私は人が怖かった。
年長になると新しい女の先生は、それまでの先生とは対照的に、穏やかで朗らかな笑顔を向けてくれる人だった。クラスメイトとは話せなくても、この先生にだけは懐いていて安心して話せた記憶がある。人が怖くても、世の中にはすごく温かい人もいると知ることができた。根底にこの体験があったおかげで、つらい人生でも希望を捨て去らずにいられたような気がする。幼い子どもにとって、一人の大人による影響力は甚大である。今でも私の思い出の中で、一番優しくて大きな存在だ。

小学校に入ると、しだいに自分の異常さを突きつけられることが多くなった。みんなは普通に話しているのに、なんで自分だけ話せないのだろう。自分自身でも、わけがわからないのに、他人ましてや子どもには理解できなくて気味悪がられて当然である。時々、話しかけてくれる子がいても、頷(うなず)いたり首を振ったりするだけで精一杯だった。
自主的な言動は何もできなかった。体育の時間は鈍いながらも、決められた最低限の行動はできるが、実力は出せない。やる気がないと評価される。授業中に当てられたときは緊張が強いながらも、かろうじて小さな声は出せた。中途半端に話せるからこそ理解されづらかったのだと思う。
給食の時間は食欲がなく、人目にさらされながら食べることが苦痛でしかなかった。完食指導により、昼休みや掃除の時間まで食べているのが日常だった。
休み時間は動けなかった。トイレには行けないし読書さえできないので、ひたすら固まっているしかない。
「みんなと遊びに行きなさい!」
怖い教師が担任だったこともある。私だって本当は遊びたい。にもかかわらず、喋(しゃべ)りたいのに喋れない。動きたいのに動けない。自分自身が意味不明、理解不能。これは本当の自分じゃないのに。「真面目」とよく言われた。不本意ながら誤解されやすい。私だって本当は不良になりたいのだ。
交換日記をしてくれる子がいても本心は書けず、友達と呼べるような人は一人もいなかった。
だんだん無気力になっていった。家では無難な話であれば話そうと思えば話せたが、学校での状態や本音はいっさい明かせなかった。
「一人だけ違う家の子みたい」
「一人だけ良いとこの子みたい」
妹は活発で両親も社交的。私だけが、親戚の前でも緊張していてほとんど話せなかったので、母や親戚からよく言われていた。
家にいるときも食欲はなかった。食べる楽しみなんて感じたことがなかった。学校ではトイレに行けなかったので、小食で水分もあまり取らないことは役に立った。
小五のとき視力が落ちていて、黒板がほとんど見えなくなっていることも、誰にも言えなかった。勉強はわからなかったとしても困る類(たぐい)のものではないので、この際どうでもよかった。しかし「持ち物」など、知らなければ困ることになるような場合には、ピンチだった。ぼやけた字を一生懸命、解読していたが、合っているのかどうか気が気でなかった。
父親は、私が家で勉強すると怒る人で、明るく喋ることしか求められなかった。本当は勉強が好きだった私とは、相性の悪さが甚だしかった。他人に対しても無口な人種には暴言を吐き、私への言葉の暴力がひどかった。数々の言葉を要約すると『話さないなら人間失格』。毎日のように言われていると、当然のように自分自身でも、そう思うようになる。障害があるわけじゃないのに、と自分を責めた。

中学生になっても症状は変わらないどころか、悪化していった。発表を強要されたときなどは、手や声が震えるようになっていたため、普段(ふだん)ならできるリコーダーさえ吹けなくなっていた。
部活はどこかに必ず入らなければならなかった。小さいころは走ることが好きだった。それなのに、動きたくても動けない私には美術部しか選択肢がなかった。絵や美術なんてまったく興味がないのに。強制されると嫌じゃないものでも嫌になる、禁止されるとやらなくて良いことでもやりたくなるものである。
話したいという気持ちが強ければ強いほど、意識しすぎて余計に緊張して話せない。それが周りからは頑張っていないように見えるので、余計に責められる。悪循環に陥っていた。
表情だけは、笑って誤魔化してしまうこともあった。話しかけられたときには笑顔を心がけていたので、外側から見れば、そんなに悩んでいるようには見えなかったと思う。
家の外では、こんな歳になっても母から
「ありがとうは!」
「あいさつは!」
などと言われていた。恥ずかしすぎて針のむしろのようで居たたまれない、死にたくなるような有様(ありさま)。親や学校とつながっていない赤の他人には言えた。親に見られる、知られるような状況では、怒られれば怒られるほど委縮し、どうしても声が出なくなるのだった。
同級生が病気で亡くなったとき、私は羨ましいとしか思えなかった。今思うと冷血人間のように感じるが、毎日のように死にたいとしか考えられなくなっていた子どもには、無理もなかったのかもしれない。
将来のことを考える余裕なんてなかった。

無気力で、ただ耐えるだけの日々を過ごしていると、同じ中学の人ばかりの高校に入学することになっていた。自分のことを誰も知らない場所なら、少しは話せるはずだった。なのに、それを誰にも伝えられなかった。
長期にわたって話せない状態がつづいていたため、話さない人というレッテルを壊すと驚かれることになり、注目される。その反応を想像すると恐怖で余計に話せない、という心理に陥っていたのだ。だから、高校進学は自分を変える一番のチャンスだったはずなのだが、無気力状態ではどうしようもなかった。人生で一番、脳が機能していなかったと思う。
また中学と同じような三年間になることを想像すると、確実に今以上に精神を病むだろうと感じ、入学してから三か月で不登校を選択した。それまでは、どんなにつらくても自主的な行動や選択ができなかった私にとっては、ある意味、初めの大きな一歩だった。
高校から転入を勧められた通信制高校に、次の年から通うことになった。その学校には知り合いが一人もいなかったため、今までほどには人目を気にすることがなくなった。話しかけられたときには、返事ができた。クラスメイトと会話をするという、初めての経験だった。登校日は週二日ほど。うまくは話せなかったので友達はできなかった。けれど、一人で過ごしている生徒も多かったので、孤独を感じずに過ごせた。不安と緊張に支配されつづけた毎日からは、やっと解放されたのだ。人生で初めて、食欲も少しずつ感じられるようになってきた。

経済的な事情と、話せるようになりたいという気持ちが強かったので、自分を変えるために高三からバイトを始めた。最初はおどおどしながら会話もままならない状態だったため、面接は何か所も落とされ、やっと受かったのが工場の流れ作業や倉庫での検品など。動作が遅いらしい私には向いていなかった。大の苦手である電話が、職場から家にかかってきたときには、緊張で声が裏返り、また自己嫌悪に陥った。人前で電話することが特に苦手だったため、自分の部屋がないことは最悪だった。高校卒業後も軽作業のバイトをつづけた。
少しは人に慣れてきた二十歳のとき、リラクゼーションサロン受付のバイトに思い切って挑戦した。静かなお店だったため、大きな声は求められないし、マニュアル通りのセリフならなんとか言えたので、訓練のためには良い仕事だった。普段、客として行く店などのレジでは手が震えるにもかかわらず、仕事のときは不思議とスイッチが入るのか、手も震えない。電話は恐怖だったが少しずつ慣れた。臨機応変な会話がうまくできなくて困ったことは何度もあるが、職員に恵まれたこともあり、一年つづけて経験を積み重ねることができた。
親が離婚し父親と絶縁したことで、精神的暴力がなくなったことも、自信回復や症状の改善に大きな追い風となった。
独学で医療事務の資格を取ったあと、クリニックの受付をしていたとき院長が
「あのおばあちゃんが『あの子すごく優しいのよ』って褒めてたで」
と教えてくれた。とくに何か行動などを起こしたわけではないので、話し方や表情などから何かを感じ取ってもらえたようだった。まだ苦手意識の強かった応対を、初めて褒めてもらえたので、すごく嬉(うれ)しくて自信につながったと思う。
総合病院に転職したときは大人数の職場のため、集団が苦手な私は、改善していた症状が軽症ながら、ぶり返した。四年つづけても悪化するばかりだったため、またクリニックの受付に転職した。このように何度か転職をくり返し、人間関係に悪戦苦闘しながらも、生活費のために二十七歳まで乗り切った。

夫とはSNSではもちろん、初めて会ったときから話しやすかった。人とフィーリングが合うとはどういうことなのか実感したことがなく、わからなかった私が、初めて合うと感じた。自然に気楽に話せて楽しかった。
付き合って三か月ほどで、実質専業主婦になった。実家暮らしのときは毎月十万円を五年間、五万円を二年間、家に入れていた。大袈裟(おおげさ)な表現ではなく、地獄から天国に来たようだった。時間的、金銭的、なによりも精神的に余裕ができた。中学生のとき死ななくて良かった。生きていて良かったと初めて思えた。
夫と知り合う前、職場で「結婚したら自由にお金使えなくなるから、今のうちにいろいろやっといたほうがいいよ」と助言されることや、親と仲が良い前提で話されることが時々あった。世間の常識なのかもしれないけれど、その度に軽く心が傷ついた。
私は、子供時代や独身時代には叶(かな)わなかった生活を、夫には満喫させてもらっている。たくさんいろんな場所に、旅行に連れていってもらっている。小説やドラマや映画などで、コミュニケーションを学んだりする時間も、たっぷりある。いまさらながら歯列矯正までさせてもらっている。普通は当たり前ではない。

あるとき、テレビで偶然見たことに人生最大の衝撃を受けた。
「場面緘黙とは、家などでは普通に話すことができるのに、学校のような『特定の状況』では、一か月以上声を出して話すことができないことが続く状態をいう。幼児期に発症することが多い。約五百人に一人の割合。性格によるものではない。本来持っているさまざまな能力を、人前で発揮することができなくなる。人見知りや恥ずかしがりやとの違いは、『話せない症状が何か月、何年と長く続く』『リラックスできる場面でも話せないことが続く』こと。動作が緩慢になる。身体が固まってしまう、思うように動かせないという『緘動(かんどう)』の症状が伴うこともある」
その後にネットで調べた情報も含め、自分そのものだった。
話せないことを自覚し始めた四歳から数えると、二十三年間に及ぶ長年の謎であり、最大の悩みが解明されたのだ。さまざまな感情が押し寄せてきて呆然(ぼうぜん)となった。学校でも職場でも、自分より話せない人なんて見たことがなかったけれど、自分だけじゃなかったのだ。ひとりで抱えてきた孤独感が少し、やわらいだような気がした。涙が止まらなかった。今まで悔しい思いをたくさんしてきたことの悲しみも強かったけれど、自分が悪いわけではなかったという安堵(あんど)が大きかった。

それまで親には、学校での状態や悩みなどを話したことがなかったが、場面緘黙を知ったのをきっかけに母に、思い切って話してみた。
二歳のころから私は、外出すると静かになっていたらしい。それから
「小学生のとき、先生があんたのことを確か『場面緘黙症なんじゃないか』って言ってたけど、聞いたことない言葉やし、どうしたらいいか、わからんかった」
と言っていた。あの時代には珍しく、知識だけは持っていてくれた貴重な教師だったらしいのだけれど、誰も何もしてくれなかった。支援法など広まっていない頃だったので仕方のないことだと思うが、放置されたことを知り正直、悲しかった。
少しでも理解を示して、気持ちを聞いてくれていたら。支援学級で過ごせていたとしたら、あんなにも不安と緊張に支配されつづけずに済んだかもしれない。少しは楽しい学生時代の思い出をつくることができたかもしれない。得意なことや好きな勉強に取り組めていたら、人生が大きく変わっていたかもしれない。
今が幸せでも、「ないものねだり」や「たられば」を思うことぐらいはある。

母は、言葉の暴力ではないが、人をけなすことが多かった。結婚後にも私がけなされていたとき、妹がそれをきっぱりと否定してくれた。情けないことだけれど、すごく心が救われた。普段はそうでもない妹だったが、実は優しいのだ。ひそかに泣いた。

私の場面緘黙が悪化したのは、周りから責められつづけることによって、自信を失いすぎていたことが一番の原因だったように思う。「話したいのに話せない」ばかりで脳内が占められていて、囚(とら)われすぎていた。
場面緘黙によって自信をなくしているような子に対しては、話せないことばかりに注目して責めたりせずに、得意なことや出来ることを伸ばして、まずは自信をつけてあげることが大事だと思う。ただでさえ話せないことで人に迷惑をかけてばかりで自己嫌悪にさいなまれているところに、追い打ちをかけるのは逆効果でしかない。
大人になれば環境は自分で選べるが、場面緘黙は長引けば長引くほど、改善が困難になる。たとえ高校入学から普通の生活をスタートできたとしても、併発しやすい社交不安障害、自己否定の癖、社会性や会話能力の欠如など、いろいろな問題が残る。十年の遅れを取り戻すのは、並大抵の努力では不可能である。
それほど頑張らなくても、声は出せるようになった今となっては、子供時代の自分がなんで、あんなにも話せなかったのか、自分でも不思議に思う。経験者でさえ改善してしまえば、たいした問題ではなかったかのような、思い違いを起こしそうになるのだ。だから経験したことのない人には、理解できなくても偏見があっても当然だと思う。でも記憶をしっかり呼び覚ませば、どんなに力を尽くそうとしても話せなかったことは明白。この少数派である感覚は忘れずにいたい。

同棲してから二年後に入籍し、今年で結婚九年目になる。おもしろい夫のおかげで大きな喧嘩(けんか)もなく、毎日を楽しく過ごしている。緊張せず気楽に喋れる人は、この世で唯一、夫だけだ。
不安と緊張を感じやすい性質は、今でも変わらない。自分比では、だいぶ話せるようになった最近でも、「おとなしいね」と言われることがあり、内心ショックを受ける。
「こういうタイプの人と接したことないから戸惑う」などと言われたりもした。申し訳なさに、身の縮む思いだった。自分では、普通の人と同じように話せているつもりのときでも、普通の学生時代を過ごしてきた人たちには、まだまだ及ばない、と落胆し失望することもある。友達(だと言ってくれる人)との雑談でも、うまく話せなくて誤解を生むこともあり、疲れてしまう。緊張が強いと、いつにも増して話すスピードが遅くなったり、とっさに言葉が出てこなかったり、頭の中でいろいろ考えすぎてフリーズしたり。
こんなふうなので、人から馬鹿にされることや、なめられていると感じることは多い。言動が緩慢なせいか、お嬢様育ちに見られたり、「苦労したことなさそう」などと言われたりしやすい。圧倒的経験不足であり未熟なことは自覚しているし、そう見えても仕方がない。だとしても、人にはそれぞれ見た目ではわからない、さまざまな背景や事情があるものなので、臆測で発言するのは失礼だと思う。外側から見えるものなんて、ほんの一部でしかないのに。
なにもかも、自分が悪いと思い込んでいた子供時代と違って、少しずつ自尊心を持てるようになってきている。

今でも、自分を入れて三人以上の場は苦手だが、数少ない相手と一対一でなら楽しく話したり、食事を楽しんだり、大笑いしたりもできるようになった。学生時代の自分と比べれば、別人である。自分を生きられるようになったと感じる。
テキパキと動き、ハキハキと話せる人にずっと憧れてきた。でも、私が無理してそういう人に、もしなれたとしても、深く考えることができなくなるなど、代わりに何かを失うことになるかもしれない。実際に無理して焦っていたとき、思ってもいないことを口走ったりしたこともあり、反省している。長所である丁寧さや慎重さを、失わないようにしたい。
人と交流するようになってから、「一緒にいると癒される」など時々、言ってもらえるようになった。どんな形でも人の役に立てているなら嬉しい。無理して普通になろうとしなくても、長所を伸ばすほうが良いのかもしれないと考えられるようにもなってきた。
優しい人が「話さなくてもいいよ」と言ってくれることもある。だけど、その言葉は、「話したいのに話せない」ことによって、困り果ててきた過去にコンプレックスのある私にとっては、やり場のない複雑な感情が入り混じるようだった。それが、劣等感が軽くなり、自分を肯定できるようになってきた今では、素直に受け入れられるようになった。うまく話せなくてもいい、無理に話さなくてもいいのだと思えるようになった。
私は、幼稚園年長のときの穏やかで朗らかな先生みたいに、人の人生に好影響を与えられるような人になることを目標に生きていきたい。
自分のことを大切に思ってくれる人を大切にしたい。表面や一部だけを見て判断して、わざわざ馬鹿にして攻撃してくるような人とは別に、無理して話す必要はないのだ。

今なら言える。
「私、黙ります!」

受賞のことば

この作品は一個人の経験でしかなく、症状や重症度、心の状態など個人差がありますが、場面緘黙症を知っていただくきっかけになれば嬉しいです。自分から意思表示することなど難しい場合が多いと思うのですが、理解はできなくても責めることはせず寄り添っていただけたらと思います。今現在苦しんでいる方々ができるだけ早期発見され、支援や治療に繋がることを願っています。
認知を広める機会をいただき、ありがとうございました。

選評

「場面緘黙症」がこの世に存在することを知り、「長年の謎であり、最大の悩みが解明された」。適切な情報や支援、信頼できる大人と出会えるかは子どもの成長や人格形成、その人の人生それ自体を変えますよね。状況は違いますが、似た経験があり強く共感しました。文章から感じた、青戸さんの優しさ、丁寧さ、慎重さ、視点の鋭さ、そして選択する力。最後の「私、黙ります!」が大好きです。(藤木 和子)

以上