第57回NHK障害福祉賞 優秀作品
〜第1部門〜
「私にできること」

著者 : 中条 歩 (なかじょう あゆみ)  大阪府

先天性白内障・緑内障で、今も左目の視力を頼りに生活をしている。
その中で、学生時代から続けていることがある。お箏(こと)を弾くことだ。お箏は十三本の弦があり、爪を使って音を出す楽器である。中学一年のときに友人が箏曲部(そうきょくぶ)へ誘ってくれたことがきっかけで始めた。
楽譜は音符ではなく、漢字で弾く弦が書かれている。オタマジャクシの楽譜は横に読んでいくが、お箏は縦に読む。一番前の席で黒板の字がようやく見えていた私は、楽譜も目を近づけて読んだ。見えていないところが多く、間違えて弾いてしまう。
「ごめん、ぼーっとしてた」
と笑う。お箏が弾けないことを、目の見えにくいせいにしたくなかった。できないことを認めることは、自分が弱視であることを認めてしまうことになる。
中学生になり、できないことが増えていた。板書を写すことが間に合わない。ボールが見えなくて球技ができない。できないことが一つ一つ増えていく。それが嫌で、不安で、お箏だけは皆と同じようにできることを望んだ。徐々に曲が長くなり、譜面も細かくなる。
弾けなくなった。
すると、先生が拡大した楽譜を用意してくださった。限界だと思っているのに、まだ自分はできると思うし、余計なお世話だと思った。だが拡大された楽譜は、一枚だけでなく何枚も用意されている。先生は
「使いたい人が使って」
と言う。ほかの部員も拡大されたものを手に取った。
(見えにくいのは私だけじゃないんだ)。手を伸ばす。拡大された楽譜で弾いてみた。音がよく響いて聴こえた。
「お箏ってなんて素敵な音なんだろう!」
深い呼吸をした。ようやく、皆で同じ曲を合わせることの一体感や、音の重なりを楽しめるようになった。練習にも身が入る。いつの間にか皆が大きい楽譜を差し出してくれるようになった。それが嫌だとも思わなくなっていた。お箏を弾き続けるためには、大きい楽譜が必要だとわかったからだ。
中学三年の時、顧問が変わり、箏曲指導の先生がボランティアで来てくださることになった。先生はジブリやJポップの曲を教えてくださり、知っている曲を演奏することで練習意欲も増した。知っている曲は、聴いている人もしっかり耳を傾ける。舞台に立ち、大きな拍手を受ける。
それまで舞台に立って何かをしようと思わなかった。ずっと目立たない存在であろうと思っていた。弱視用の眼鏡は牛乳瓶の底のようだとからかわれ、すごく嫌だった。ずっと背中を丸め、縮こまって生活をしていた。
お箏を演奏し、拍手をいただくことで、初めて、背筋を伸ばし、胸を張れた。弱視でも、お箏を通して人に元気を与えたり、感動してもらうことができるのだ。
「もっとお箏を弾きたい」
高校に入ってもお箏を続けた。

その後、視覚支援学校へ入り、あんま、マッサージ、指圧、鍼灸(しんきゅう)の勉強をした。三年間はお箏に触れておらず、国家試験対策での勉強や実技に追われた。
国家試験に合格し、就職した。お箏を弾きたいと思い、中学三年のときに教わった先生のところにお稽古へ通うことにした。
「この曲を弾こうと思う」
と、拡大された楽譜を先生に見せてもらう。紙の白が眩(まぶ)しくて、文字が委縮して読めない。以前ならそれが漢字だと認識していたものが、ぼやけて見える。見えていたものが見えなくなる。ショックはとても大きかった。
「学生時代はちゃんと読めていたのですけど」
手に取ってじっと近づけて、ようやくわかる。
「譜面台からですと、見えないと思います」
先生へ「続けられる気がしない」と伝えたかった。
「わかった。とりあえずやってみよう」
そうおっしゃったのは、先生だった。
「見えるかわかりません」
先生が
「読むから」
とおっしゃった。
読めないところを読み上げてくださる。一音一音出し、そして小節に分けて演奏する。おかげで音が出せた。演奏していると、一つ一つ思い出した。皆と同じようにできることを望んだ中学の前半のこと。それを越して、お箏を弾くことが楽しいと感じた瞬間のこと。少ない経験ながらも舞台で発表したこと。自信が持てて、お箏が好きになったこと……。
「先生。ここは、どうやって弾くのですか?」
質問をしていた。向かい合ってお箏を並べて座る先生の手は見えない。先生は私のところまできて、手を取って教えてくださった。普通に見えていたらその場で、「こうして」や「ああして」と指示語で言われてすぐにわかるであろうことも、何回触ってもらってもわからない。先生は何度も同じところを教えてくださった。
個人のお稽古なら続けられるかもしれない。だが三か月後には、二年に一度の社中(お稽古の仲間)の演奏会が迫っている。演奏曲をこれから練習する。楽譜を見返すと、もう以前のようには見えていないのだと自覚した。きっと演奏会で足を引っ張ってしまう。
でもお箏は弾きたい。お稽古へ通った。一年近くかけて練習を行う曲を、三か月で仕上げる。先生のご指導で手が動いていく。日が暮れるまで練習を続けた。
「あっ、暗くなってきた」
先生が窓を見て言う。私もようやく気付く。夜盲症で暗くなると帰りにくくなっていた。今日は終わりかと思っていると
「駅まで送るから、もう少しだけ練習しよう!」
お稽古ができるのは先生が読み上げてくださり、手を取って教えてくださるおかげだ。先生の手のぬくもりも、ご指導の熱意も感じる。この曲を合奏したらどんなに楽しいだろう。後ろ向きな気持ちは置いておいて、練習に集中した。ポイントもわかり、演奏についていくことができるようになった。
そして社中の合奏練習に合流した。社中の方は六十代以上の方が多い。背筋が伸びる。「何ページからもう一回合わせる」と言われても、楽譜を読むのに時間がかかる。先生も社中の方も、待っていてくださった。
練習後は世間話をする。マッサージの仕事をしていると話すと、「腰が痛くて」「肩が凝って」「私も揉(も)んで」という話で盛り上がる。打ち解けて、笑ってばかりだった。
「若い人が増えるとにぎやかね」
とかわいがってくださる。そして先生が演奏会の話をされる。会場のこと、服装のこと、当日の流れのこと。急に不安になった。
夜、先生にLINEを送った。見えていないことで、人の顔や会場の配置がほとんどわからないということ。社中や先生方には迷惑をかけてしまうかもしれないということ。でも、足を引っ張らないように出演したいと思っていること。できることを全力で取り組みたいということ。
先生は本当に、きちんと受け止めてくださった。それが分かったのは演奏会当日。普段のお稽古場へは白杖を持っていなかったが、会場へはついて向かう。先生にご挨拶をする。先生はびっくりすることもなく、
「ここは暗いけど、段差がないからね」
と教えてくださり、社中の方やスタッフにも、私が見えにくいということを伝えてくださった。社中の方が、先生に倣って段差があるところなど伝えてくださる。初めてのところで困るのはトイレの場所だが、社中の方が
「トイレ行く?」
と聞いてくださり、手引きをしてくださった。
開場まで準備は手分けして行う。調弦と言って、お箏の音を合わせたり、パネルを組んだり、椅子を並べる。私は積んでいる椅子を出すことやチラシをまとめることなどを行った。
リハーサルのとき初めて、曲の間は照明が消え、暗転することを知った。その中で自分のお箏の場所まで行かないといけない。今まで、見えにくくても一人で完結させることが目標だった。暗転したところを一人で向かうことも考える。普通に明るくても見えにくい中で、難易度が高かった。できないことは自分からお願いしないといけない。でも、迷惑をかけるのではないか。その時、
「緊張するね。でも歩ちゃんなら大丈夫よ」 明るく声をかけてくださる社中の方がいた。皆に頼ろう。
「暗転しているとき、見えにくいので手引きをお願いできませんか?」
「わかったわかった。そうだよね」
手を握ってくださった。
「若い人の手はきもちいいね」
緊張がほぐれ、笑っていた。暗転したところでふたたび手を握ってもらう。中学のころと同じだ。見えにくいという負担が減れば、演奏に集中できる。見えにくいことでの不安が一つ一つ無くなっていることに気づいた。失敗しないように演奏できるかどうかだけを考えられていることが、ありがたかった。三か月のお稽古の成果を発揮した。お稽古を続けることができたのは、先生、社中の方のおかげだ。軽くなった心で演奏を楽しみ、拍手を受ける。中学のころと同じように、胸を張れる。こんな自分でも、人に何かを与えることができるのだと思う。この瞬間が病みつきになって、より一層お箏を好きになるのだ。

お稽古に通うようになって一年が経ったころ、慣れた場所でも白杖を持ち歩くようになった。子供にぶつかってしまった。今まで気づいていた段差に眩しくて気づかなくなった。ぶつかって舌打ちをされるようになることが増えた。白杖を持つことでそれらは多少解消されるだろう。だが急に持つと動揺されないだろうか。親しい友人、家族は、初めて会う人以上に抵抗を覚える。お稽古の教室までの行き来もだ。
初めて杖を持って来た時、先生は
「白杖持ってきたの?」
とおっしゃった。すぐに折り畳みの白杖をたたむ。
次に来た時は、
「玄関に立てかけておいていいよ」
お言葉に甘えて立てかけておくことにした。また次に来たときは、
「この前滑りそうだったから。これ、傘立て。ここに白杖を立てかけて良いよ」
珪藻土(けいそうど)の三角形の傘立てだった。傘の下に敷くと先端が滑らずに安定して立てかけられる。ありがたく使うことにした。一番すんなり受け入れてもらえたのは先生だ。教室へは堂々と白杖をついて通えるようになった。
さまざまなことを受け入れてくださる先生だから、もっと目の見え方について伝えたいと思う。けれど自分でも見え方がわからないことがある。
弦に指をあてて離すタイミングで音を出すと、ハーモニクスの高い音がでる技法がある。それは、弾く弦の端と琴柱(ことじ)の間を触れないといけない。あてるところに、色鉛筆で塗って目印をつける。それが見えない。
「見えないから感覚で弾きます」
と話していると、先生は
「良い方法はないかな」
と考えてくださった。弦に糸をつるして浮き出るようにしたが、障害物となって反響しハーモニクスでない音も変わってしまう。
「見える色はほかにないかな」
先生の持っておられる色鉛筆ですべて試してくださった。最初は濃い色で印をつける。赤、紫、緑。どれも見えにくい。水色は薄いからと避けていたが、最終的に一番見えやすいことが分かった。先生にとっても、私にとっても意外だった。感覚は大事だが、印が見えるとハーモニクスを出せる確率が上がる。
いつも申し訳ないと感じる。見えにくいことで時間を取られてしまう。先生に伝えると
「歩ちゃんの見え方には発見があって、いつも勉強になる」
とおっしゃった。
先生はそこまで考えてくださっているのに、今まで見えないことばかり主張している。配慮を求めたいときも、どうすればいいのかわかっていないから、先生はいろいろな方法を試してくださる。私は頼ってばかりだ。何かできることはないのだろうか。
「私も、自分の見え方について勉強します」
相手にわかりやすく伝えるために、まず自分の見え方を知ろうと思った。視力や視野など、眼科で測るようなことではなく、普通の人がわかる内容で伝えたい。帰宅してから、ノートに「日常生活で困ったこと」と、「それについての対策」を書いていった。日常生活での見えにくさの対策を整理すれば、配慮を求めたいとき「こう対応してほしい」と伝えやすくなるのではないかと考えたのだ。
・学生時代にチョークの赤が見えなかったときは、黄色だったら見えたので使ってもらっていた
・パソコンは白地だと眩しいので、反転を教えてもらったら見えやすくなった
というように、次に同じようなことがあったら伝えられるように整理をしていく。次のページに、お箏のときの困ったことと対策を書いた。「楽譜が見えない」ときは「先生が読み上げてくださる」。「会場の配置がわからない」ときは、「社中の方が誘導してくださる」……。
途中で書けなくなった。ノートを見て、頭を下げることしかできなかった。
わかったことがある。皆が私のことを支えてくださっている。そんな当たり前のことを実感すると、涙が出てきた。学生時代も今も、見えにくいと言えば、「どうすればいいだろう」と考えてくださる方がそばにいる。中学一年の顧問の先生が、大きいサイズの楽譜をコピーしてくださったときのように。さりげなく部員たちが大きい楽譜を差し出してくれたように。私の見え方で勉強になると言う先生のように。私の知らないところで皆がたくさん考えて、生活できるようにしてくださっていた。
私にできることは、具体的な見え方を伝え、的確な配慮を求めることではない。私の見え方について一緒に考えてくださっている方へ、感謝の気持ちを伝えることだ。
今まで出会った人に、「ありがとう」と伝えたい。そしていつも考えてくださるお稽古の先生にも。先生は私ができるようになる方法を全力で探してくださる。私も、全力でできることをやろう。
ノートへ「私にできること」と書いた。すぐに「感謝をしてお箏を弾く」と書く。もう一つは「楽譜を覚える」。楽譜の見えないところを家の拡大読書器で太くなぞる。そして覚えるくらいまで練習をする。

現在、お稽古に通いだして三年経つ。演奏会では社中の方に毎回手引きをお願いしている。最初のように手を握られることはなく、肩を貸してもらえるようになった。社中の方も手引きの方法を勉強してくださっている。
回を重ねることに演奏も息が合ってくる。先生は
「思いやりを持って演奏しましょう」
と言う。それは、自分が主張するのではなく、相手の音をしっかり聞いて、相手が弾きやすいように配慮を行うこと。社中の方は、思いやりを持って私に接してくださる。その思いを受け止めて、演奏をする。
先日、おさらい会があった。二年に一度の演奏会の間に開催される。今回はほとんど楽譜を覚えて出演した。曲の間の司会と進行は先生が行う。先生が
「中条さんは視覚障害があります」
とお客さんの前で話を始めた。不意を突かれて立ち止まっていると
「楽譜はほとんど覚えているのですが、彼女の頑張りを見ていると、私たちも頑張ろうと思いますし、言い訳はできないなと思うのです」
「障害を乗り越えて頑張っている」と言われることが好きではない。障害は私にとってずっとあるもので、障害をカバーしないと生きていけないから乗り越えるも何も、とひねくれてしまう。それでも、先生の話には涙が出そうになった。障害があるから楽譜を覚える。それをあたり前にしたのは、先生である。「続けられない」と、一人だったら諦めていたことを、先生のおかげで乗り越えることができた。頑張ることができた。そして私の行動が、先生にとってプラスの方向へ向いている。世間のお荷物でしかないと思っていたから、そのように感じたことがなかった。先生へ頭を下げる。
先生、社中の方、演奏を聴いてくださる方、運営に携わるすべての方へ感謝を込めて、思いっきり演奏する。これも私にできることだ。
見えていたら、もっといろいろなことがわかって、迷惑をかけないのに、と思いそうになる。でもここは、目の見えにくいことは置いておいていい。迷惑をかけてもいい。いまの私を受け入れてくださる先生から、もっと学びたい。社中の方と、もっと演奏を楽しみたい。演奏を聴いてくださった方に、感動を与える、その一助になりたい。

ハーモニクスを用いる曲は、独奏曲だ。現在練習している。どのような指使いだと弾きやすいのか。どのように表現をしていくのか。先生のご指導から考えていく。
感謝していることがある。お箏を弾いている時間は、自分が弱視であるということを忘れている。不安が無くなったのだ。しがらみから解放され、本当に好きなことができているのだと感じる。
いつか、どのようなことも受け入れて指導をしてくださる先生のようになりたい。師範のお免状を取るまでにはお箏はもちろん、お三味線も弾けて、唄も歌えないといけない。お三味線も最近始めたばかりだ。時間をかけて、できることを行っていきたい。先生をはじめ、たくさんの方に手を取ってもらいながら。

受賞のことば

伝統ある障害福祉賞で、素晴らしい賞をいただき大変嬉しいです。趣味の場で、私を支えてくださっている方々のことを書きました。先生をはじめ社中の方の素敵なところを、思い出しながら書いている時が楽しかったです。今後も自分にできることを考え、行動していきたいです。

選評

障害の受容は簡単ではありません。仕事を持ち、日常生活でも自立して、皆と明るく交流している中条さんでも、心の奥底では受け容れ難かった。その苦しさが、周りへの過度な気遣いとして表れたのでしょう。それは通るべく道でもあり、障害の種類は違えども、私自身も同じ道を辿りました。中条さんの気遣いに痛みを感じながら頷いていました。中条さんの強さはその場で立ち止まらないことです。お箏の上達を自信として、心から障害と向き合いました。見えないことを隠さない、必要な援助を人に頼む勇気を持つ。その歩みの過程が周囲を引き付け、大好きになっていくのですね。あなたが奏でる音を私も聞いてみたいな。(鈴木 ひとみ)

以上