第56回NHK障害福祉賞 佳作
〜第1部門〜
「これが私の人生と言える様に 〜吃音と過ごした21年〜」

著者 : 和智 南生(わち みなみ)  東京都

「……名前は…、え、え、え、え、え、え」
教室に響き渡る私の声。言いたいことは頭の中にも、目の前のメモにも書いてある。しかし、私から発せられる言葉はこの一文字だけだ。
「キーンコーンカーンコーン……キーンコーンカーンコーン」
私の声をかき消すように、授業の終わりのチャイムが鳴った。今でも忘れることの出来ない、チャイムの後の静寂。自分の声がいつもより出ない不安。クラスの男の子の笑う声が混じる。その後、静寂が戻り、目から大粒の涙がこぼれた。
「わち……みなみ…です」
この言葉を言うのに何分かかったのだろう。その後も少しずつ話を始めた。言わなければならないことが言い終わった後、私はこう切り出した。
「今 みたいに、少しでも 緊張 すると 声が 出る までに 時間が かかります。言葉が 出るまで 待っていて くれると 嬉しいです」
言い切ると心に決めていたから、最後まで言い切ることができた。その後に起こる出来事を私は想像もしていなかった。
「さっきは知らなかったから笑ってしまってごめん」
と、笑った男の子達が謝りに来てくれたのだ。知らないことで起こってしまった「笑い」。しかし、自分で伝え「知って」もらうことで、理解が深まると、中学1年生の私は達成感に満ち溢れていた。
話は遡るが、私のこの「吃音」という症状が始まったのは3歳の時。もともとあまり話をする方では無かったようだったが、話し始めた頃、諦めたように話さなくなったそうだ。今考えると、うまく声が出ない自分に何らかの「思い」を抱いていたのかもしれない。吃音に対して自分の自覚が芽生えたのは小学2年生の頃。小学2年生の時に書かれた日記には、こう書かれている。
「歓迎の催しで声が出なくて悲しくなった。心の中で大丈夫と言いました」
この時、私は自分と周りのみんなの【違い】を感じ始めた。小学6年生までなるべくなるべく目立たないように、話さないように日常生活を送っていた。
小学6年生のある日、家族とあるテレビを見ていた。それは介護施設で働く吃音のあるお兄さんが、仕事の一つである施設内放送に奮闘するドキュメンタリー番組だった。
(「私の他にも、このことで悩み頑張っている人がいるなら会いたい」)
と私はこころに思い、母にこのことを伝えた気がする。そこから、小学校の先生等と連絡を取ってくれ、私は別の小学校にある通級指導教室の「きこえとことばの教室」に通えることとなった。通えたのはほんの数回だと思うが、本当に私にとって大切な時間となった。吃音の知識を学ぶ時間はあったが、決して吃音を治す勉強はしていなかったと思う。それは何故か。それよりも大切なことは
「自分が話したい話をする。自分が思ったことを、思ったままの単語を使用して伝える。時間を気にせずに沢山お話をすることが出来る機会が私には必要だったから」だ。
その当時の私はこのことを考えられていなかったが、今となっては、「自分の思い」を伝えられることがどんなに素敵なことかと改めて思い知らされた。
学校での生活や、日常での生活や家での生活の中で、皆さんは自分の話したいことのどのくらいの量を話すことが出来ているのだろうか。私は多分半分も話せていない。
「家で、学校でこんなことがあってね。だれだれちゃんとこんなことをしてね……」と小学校・中学校・高校・大学と私はこの様な話をあまりしてこなかった。正直、沢山沢山話をしている姉が羨ましいと思ってしまった日もある。言い返したいことがあっても、嫌なことがあっても、自分の心の中でその思いを押しつぶすしかなかった。そして、予定が出来た時も、直接母に伝えることは少ないと思う。自分や母が帰宅するまでにラインで伝えておく、この方法が大半である。コミュニケーションという物は「話す」ことだけがコミュニケーションに分類されるのだろうか。私は「話す」ことだけがコミュニケーションということではないと思う。
「きこえとことばの教室」に通い出した私は、積極的になっていた。水泳が好きだった私は「プール開き」で皆の前で、自分の目標を発表した。クラブ活動の副部長になった。
このころから、通い出した「小中高校生の吃音のつどい」というセルフヘルプグループがある。そこに参加してくださった、一人のきこえとことばの教師の先生がこんな質問を投げかけた。
「自分はことばの教室の先生をしているが、今私がしていることが子供たちの役に立てているのかわからない。このままでいいのか分からない」
文面は少し違うと思うがこの様な質問だった。私は次のように答えた。
「私は数回だけだったけれど、通級に通いました。今でも先生と2人で話をした時間はとても大切な時間だったと思っているから、今のままでいいと思います」
通級指導教室や小中高校生の吃音のつどいに出会えていなかったら、私は一体生きているのだろうか。20歳を迎えられていたのだろうかと、ふと疑問に思う。
中学生となった私は、いろいろなことに挑戦し、吃音の理解のために夏休みの課題であった人権作文に吃音のことについて書いていた。テーマは「私の相棒〜そして未来へ〜」。区の作文の大会で「区長賞」を頂くことが出来た。表彰式の時に区長さんにこう質問された。
「賞を取れた気持ちは?」
私はゆっくりとこう答えた。
「吃音のことを、多くの方に知ってもらえればいいなと思い、書きました」
中学生の私なりに、多くの人に吃音を広めるには? を考えた結果が、実った瞬間だった。
中学2年生となった私は、ある一人の言語聴覚士さんが【きっかけ】となり夢を見つけた。吃音を持ちながらも言語聴覚士として働かれている男性は、輝いて見えた。吃音のことで相談した際に、「こうしたら? ああしてみたら?」と声をかけて下さり、私も困っている方を支援できる言語聴覚士になりたいと思った。
高校受験は面接だったが、中学校の先生のおかげもあり、落ち着いて面接を受けることが出来た。行きたかった高校に合格出来た時はとても嬉しかったことを今でも覚えている。高校に入学後の自己紹介で吃音のことについてカミングアウトを行った。中学の時のような失敗をしないように
「自己紹介の前に皆さんに知ってほしいことがあります」
と切り出し、名前よりも前に、吃音のことを伝えた。医療・福祉に関わる高校だったこともあり、クラスのみんなも、先生もとても理解して、接してくださった。高校生活はとても楽しかった。部活は水泳部に入っていたが、2年生の終わりに、先生と先輩方の推薦で「副キャプテン」に推薦されて、とても嬉しかった。
高校3年生となった私。受験の話が出る時期となった。中学2年生からの夢は変わらず、同じ学科の専門学校か大学に進学するのかで迷ったが、学科で迷うことは一切なかった。悩んだ末に大学を受験、無事合格することが出来た。
大学に合格し、入学した私は夢に一歩近づくことが出来たと、とても嬉しかった。大学1年生では座っての勉強が多く、吃音を気にすることはあまり無かった。しかし、大学2年生の後期、とうとう「検査」の練習が始まった。検査をする際には、話す言葉は決まっており、言い換えをして、自分の言いやすい言葉に変換することが出来なかった。ここで、私は大きな壁にぶち当たった。周囲の皆と自分は【違う】と、日々感じる様になった。そんな思いを抱きながらも、無事に3年生に進級できることとなった。
3年生に進級し、時間割の半数以上が「話す」ことが必要な「演習」や「実習」の時間になった。その他の授業でも発表しなければならない時間が増えていった。新型コロナウイルスの影響で、オンライン授業が増え、オンラインで話す際に、どう声を出していいのか分からなくなるほど、声が出てこなかった。7月下旬頃だっただろうか、演習の授業で、オンラインでの構音訓練の練習が始まった。その際に、先生に言われた言葉を私は忘れない。
「和智さんは、自然に褒めることが出来ているし、お手本もしっかりと出来ている。和智さんは和智さんのやり方でいいと思うし、和智さんだからこそ出来る訓練があると思う」
とても嬉しかった。嬉しくて、涙がこぼれた。
オンラインでの授業から対面の授業に切り替わり始めた3年生の9月頃、発表や実技試験の毎日が始まっていた。ある授業で発表の順番が回ってきた。声が上手く出なくなる可能性を考え、Word(ワード)をプロジェクターに写すのではなく、PowerPoint(パワーポイント)に作り直し、PowerPointをプロジェクターに写した。いざ、マイクを持ち、声を出そうとするが全く声が出なかった。先生の配慮で代わりにPowerPointを読み上げて下さった。7月の構音訓練の時から、吃音の症状は悪くなり始めていたが、ここまで酷いことは今まで経験したことが無かった。どん底に落ちたように、怖くてたまらなかった。自分の力では這い上がれないと思った。先生と相談し、一度言語聴覚士さんの元に相談に行ってみることにした。先生の知り合いでもあり、私も知っていた言語聴覚士さんにメールで連絡した。そう、この言語聴覚士さんとは、私に夢を与えて下さった言語聴覚士さんだ。メールでのやりとりだけでも心を落ち着かせることが出来た。初回受診の日、診察の後に初回訓練について、言語聴覚士さんとお話させて頂く予定だったのだが、その日は連絡させて頂いた言語聴覚士さんはお休みだった。事前にご連絡頂いていた他の言語聴覚士さんがお話をして下さった。その時に、言語聴覚士さんが輝いて見えた。心はどん底に落ちていたが、私はやはり言語聴覚士になりたいのだと確信した。
初回訓練の日、その言語聴覚士さんとお会いするのは数年ぶりでとても緊張したが、顔を見た瞬間、安心した。お会いできただけで、とても安心した。「大丈夫」と声をかけて下さった。その【大丈夫】という言葉が、本当に【大丈夫】と思わせてくれた。
大学3年生の2月から4週間、臨床実習へ行った。とても大変ではあったが、新しい発見がある毎日でとても楽しかった。吃音がある自分を認めてくれるスタッフさんのいる施設で、安心感があった。
大学4年生に進級した。国家試験の勉強や普段の授業でとても忙しい日々が始まった。3年の時より発表や実技試験の頻度は少なくなったが、授業で当てられることが多くなった気がする。時間がかかる日もあれば、スラっと声が出る日もある。そんな日が交互に襲ってくる日々に嫌気を感じることもある。なぜ、自分は皆の様にスラスラ話せないのかと考えてしまうこともある。もちろん考えた所で何も変わらないことは自分が一番よく分かっている。考えた時には、泣くまで考える。何も変わらないと思っているからこそ、悔しくてたまらない。例えば「吃音があって良かったか、悪かったか」と聞かれたとして、率直に「良かった」とは答えられない。しかし、この二択は他人が決めることではない。自分が自分自身で決めることだ。
吃音があったからこそ、「人の気持ちを考えられる様になった」「自分自身を振り返れるようになった」「困っている人がいたら、手を差し出せる様になった」
そして「大切な大切な吃音の仲間に出会うことが出来た」「吃音に関するテレビやドラマや映画関係者の皆様やきこえとことばの教室の先生やお子さんや保護者の皆様に出会うことが出来た」「吃音に関することや、日常の会話でも何でも話せる大人の方や、親友が出来た」
一本の吃音のドラマの撮影に立ち会わせて頂いたことがある。こんなにも大勢の方が関わり、「吃音」という物を伝えようとしてくださっていることが嬉しかった。そして女優さんや俳優さんやドラマ関係者の皆様にもう一度お会いすることが出来るのであれば、もう一度お礼を伝えたい。
あるテレビの取材を受けたことがある。取材をしてくださった女性の方や、カメラマンさん、音声さん。他にも映画の関係でお世話になった監督さんや女優さん。
吃音があったからこそ、多くの人に出会い、多くの経験をすることが出来た。
関わって下さった皆様に、もう一度お礼を言いたい。この場をお借りして、お礼を言わせてください。
「本当にありがとうございました」
もちろん、からかいや吃音に対して理解の無い先生からの間違った対応をされたこともある。そして声が上手く出なくて悲しくて、悔しくて何度も泣いた。小学校の雨の日の帰り道、傘が頭につくようにさして、大泣きして帰ったことは今でも鮮明に覚えている。
最後に、吃音のお友達が近くにいた時、
「声が出ない時は待っていて欲しい? 推測して言葉をかけて欲しい? メモに書いたものを読んで欲しい?」
と声をかけてあげて欲しい。もしその子が
「待っていて欲しい」
というのであれば、うなずきながら待っていてあげてほしい。その一言で、吃音の人が安心して話せる環境作りが出来ると私は思っている。吃音について【分かってほしい】【理解してほしい】とは言わない。しかし、吃音を伝える子がいたら【知ろうとしてほしい】。
ここに書ききれないほどの経験をしてきた。私には夢がある。それは「話すこと」「聴くこと」「食べること」に関して支援の出来る言語聴覚士になること。吃音のあるものが言語聴覚士になることを反対する方もいると思う。しかし、障害があるからと言って、「夢」を諦める世界は違うと私は思う。
ある映画の舞台挨拶で脚本や指導を行っている方が仰っていた言葉をyoutubeで何度もきいた。
「挑戦する人に対して無理だって言うのは簡単ですよ。だって挑戦が大きければ大きいほど無理な確率あがるんだもん」
「挑戦する人を笑って、夢を語る人を笑って、行動する人を叩く。夢を語れば笑われる、この世界を終わらせに来ました」
「白旗を上げるのはまだ早すぎる」
「誰か見たのかよ、誰も見てないだろ。だったらまだわからないじゃないか」
私自身がこの様な言葉を大きな声で言える様にしたい。無謀な挑戦をしているのかもしれない。しかし、私は誰になんと言われようと、「吃音」で夢を諦めることは絶対にしない。
そして、挑戦を続けていける様に。
誰もが夢を語り、挑戦出来ると、私が証明したい。
そして、これが私の人生と言える様に。

受賞のことば

吃音のある人が10人いたら、10通りの症状や思い、考えがあります。この作品の内容は、吃音者の中の一つとして、目を通して頂けますと嬉しいです。物心ついたときから吃音と過ごしてきた今でも、「なぜ、自分に吃音があるのだろうか」と悩む日があります。しかし、私の人生や経験を作品にする事で、「誰かの何かになれたら」「吃音を知るきっかけとなれたら」、それは私の本望です。この度は、500を超える作品の中から、私の作品を選んで頂き、ありがとうございました。

選評

一見、不得意に思われる言語聴覚士という職業。それを目指して日々努力を重ねている和智さん。「通級指導教室や吃音の集いに出会っていなければ……20歳を迎えられていただろうか」と言うほど苦しみの中におられた。そのご本人が「誰もが夢を語り、挑戦出来ることを自分が証明したい」というほど前向きになられた理由は、応援してくれる人達との出会いが大きい。その人達が、吃音があることをひっくるめて和智さんという、一人の価値のある存在を認めてくれているからでしょう。私たちも期待しています。(鈴木 ひとみ)

以上