プロローグ
私の中で、ここ最近、大きな変化がありました。
私には、「15番染色体テトラソミー」という染色体異常に起因する重度知的障害の長男がいます。
私の長男・友ちゃん(幾谷友祐・いくたにゆうすけ)は、現在、兵庫県宝塚市にある障害者生活介護事業所に通う19歳の重度知的障害のある青年です。
早いもので、友ちゃんが産まれてから、19年が経ちました。
私は自分の中では、友ちゃんの障害を受け入れているつもりでした。
しかし、心の奥底では受け入れきれていない思いがあることに気付いたのです。
あるきっかけで知り合いになった、友ちゃんと同じ「15番染色体テトラソミー」の染色体異常を持つ2歳の娘さんのお母さん。
そのお母さんから「15番染色体テトラソミー」に関する話や今までの子育てに関し、いろんな質問を受けました。
その方との関わりを通じ、「自分の経験を発信するのが、俺の役目じゃないか」という思いになりました。
私は、自分の潜在的な気持ちとして、友ちゃんのことに触れられることや、障害者の方々に関する話から逃げていたと思います。
しかし、私は、自分の経験がお役に立つのなら、友ちゃんの生誕から生い立ちなどの成長の記録、そして私達夫婦の心の変化を文章として残しておこうと考えました。
私の経験や、親子の成長の記録がお役に立てるならばと思い、ペンを執った次第です。
生誕
友ちゃんが生まれたのは、2002年6月、日韓共催のサッカーワールドカップが開催された年でした。
出産の際は、予定日より少し遅れ、通常より難産でしたが、とりあえずは母子ともに健康でした。
私は、下に弟・妹や甥っ子・姪っ子もなく、近親者で出産に立ち会った経験が無かったため、何をしたら良いかもわからずに、ただ慌てていただけだったことを覚えています。
産婦人科からの退院後は首の据わりの遅いのが気にはなっていたのですが、順調に育っているように思っていました。
しかし、「3か月健診」で幼児玩具の音や人の声に対してあまりにも反応がなく、要経過観察を指摘されたのが最初でした。
しかし、私はというと呑気なもので
「友ちゃんは大器晩成型なのかな?」
などと思い、要経過観察の結果など、ほとんど気にしていませんでした。
兵庫県立西宮病院小児科へ
友ちゃんは「3か月健診」で、数週間の発達の遅れを指摘されたのですが、私達夫婦は、ある意味では至ってマイペースでした。
「この子は、ちょっと発達がゆっくりかもしれないけど、人間は呑気なくらいが丁度いいよ」
などといった感じで、この段階ではほとんど危機感はありませんでした。
最初に友ちゃんの成長に疑問を感じたのは、妻のお母さんでした。
妻のお母さんにとっては3人目の孫となる友ちゃんは、今までの孫と比較しても明らかに反応が鈍かったと言います。
妻のお母さんから言われたのは、
「この子は、なんだか目線があいにくい。ひょっとして自閉症ではないか……」
私は当時、「自閉症」という言葉の意味も正直言ってあまり知りませんでした。
しかし、妻のお母さんがあまりに心配するので、私も「確かにこの子、全然おもちゃに興味を示さないよな……」と少し心配になりました。
そして、とりあえずはお母さんから、知り合いの町医者に相談するように言われ、近くの町医者に行くことにしたのです。
その先生から、「この子は前頭葉が少し小さいかもしれない。うちみたいな町医者ではなく、兵庫県立西宮病院の小児科の発達相談を紹介するからすぐに行きなさい」と言われ、いくら呑気にしていた私もさすがに心配になってきました。
そして「兵庫県立西宮病院小児科」の発達相談の扉を叩くことになったのです。
垣間見えてくる障害
「友ちゃんが、病気だとか障害だとか、そんなのあり得ないよ」
私は、真剣にそう思っていました。しかし、一抹の不安があったことも確かです。
そして「兵庫県立西宮病院小児科」での発達相談の日を迎えることになりました。
私は、今でもそのときの事をよく覚えています。
今でもお世話になっている、主治医の先生との最初の出会いです。
診察室に入ると、先生は友ちゃんをベッドにうつ伏せに寝かせました。
そして、その後の先生の行動に驚きました。
先生は、友ちゃんの耳元でおもちゃの「でんでんだいこ」を鳴らし始めたのです。
いや、「でんでんだいこ」だけではありません。次はおもちゃのパトカーの車です。
おもちゃのパトカーのサイレンを友ちゃんの耳元で鳴らし始めました。
「えっ、先生、何を考えてるんだ!? 友ちゃんの鼓膜が破れるじゃないか!?」
しかし……
私は愕然としました。
友ちゃんは、その音にピクリとも反応しないのです。
先生が大音響でおもちゃの音を鳴らしている間、私は心の中で叫んでいました。
「友ちゃん、何をしてるんだ!? この音が聞こえないのか? どうして反応しないんだよ! 頼むから少しでもいいから動いてくれ!!」
しかし、友ちゃんはほとんど反応を見せませんでした。
主治医の先生からは、
現段階で考えられる原因は難聴か肢体不自由ではないか。知的障害の疑いもあるが、現段階では可能性は低い。前頭葉の件も、現段階ではなんとも言えないので、とりあえずは経過観察が必要である。
との旨を言われたと記憶しています。
その時、私が真っ先に思ったのは、
「良かった……。とりあえずは知的障害の心配はあまりなさそうだ。友ちゃんは大丈夫。今は遅れているけど、必ず普通の子に追いつくよ」
とにかく「知的障害」であるとは言われなかったのが唯一の救いでした。
しかし、今から思えば主治医の先生は、すでに友ちゃんに障害があることに気づいていたのかもしれません。それを告知することが私達夫婦にはまだ早すぎると考えてくれたのかも、と思います。
私達夫婦は、自分に言い聞かせるように「必ず、大丈夫。友ちゃんは、いつか必ず普通の子に追いつくから」と呪文のように毎日、唱えていました。
しかし、気分は暗い行先の見えないトンネルを歩いているような気分でした。
私達夫婦は、そのトンネルが、長く続くトンネルだということに、当時はまだ全く気付いていなかったのです。
今、思い返せば、悲しいくらいに自分をごまかしながら生きていました。
まさか、俺の子が……
しかし、その後も、周りの子達との成長の差は縮まるどころか、どんどんと差が開いていき、私も妻も、一体どうなるんだろう、と不安の日々を過ごすことになるのです。
今から考えると、この時期が一番つらかったのかもしれません。
そして、1歳半健診の際には、発達遅滞の原因は不明だが、友ちゃんには肢体不自由の可能性があるとのことで、当時宝塚市が運営していた「宝塚市立児童福祉療育センターすみれ園」という医療型児童発達支援センターへの外来での通院をすすめられたのです。
しかし、私はそのような事態にも一抹の不安はありながら、まだ現状を認められず、
「ちょっと遅れてるだけで大袈裟だな、友ちゃんは大丈夫だよ」などと思っていました。
友ちゃんと妻の「すみれ園」への週に2回くらいの通園が始まりました。
私も仕事が休暇の際には、「すみれ園」に顔を出すようにしていました。
なんだか久しぶりの教育施設への訪問だった為、私は半ば遠足にでも行くような気分でした。
しかし、その「すみれ園」は、私の想像とは全く違う場所でした。
初めて見る世界
友ちゃんの「すみれ園」での生活が始まりました。
「すみれ園」に関して私の勝手なイメージとして、「保育園」のようなイメージを持っていました。
もちろん「肢体不自由」の乳幼児さんの通う療育センターだということは伺っていましたが、正直言って「ちょっと発達の遅れたお子さん達が集まっているんだろうな」くらいに思っていました。
妻も、大体は私と同じようなイメージをいだいていたようです。
しかし、初めて訪れた「すみれ園」での光景は私達夫婦にとっては衝撃的でした。
ずっと、うめき声をあげている子。
歩くどころかほとんど立ち上がれずに寝たきりの子。
小型の酸素マスクのような機器を装着しているお子さんもいました。
私も妻も、近親者や知り合いに重度の障害のある方がいませんでした。
ですから、目の前の初めて見る世界に息を飲みました。
もちろんテレビ等で、身体障害のある方の映像などは見たことはあります。
しかしテレビで見るのと、間近で見るのとでははっきり言って大違いです。
誤解を招く言い方になるかもしれません。
しかし、私は正直言って
「なんだここは……? ほとんど病院と一緒じゃないか……? この子達が友ちゃんと同じ世界の子供達だというのか……? 外見的に見ても、友ちゃんとこの子達では全然違うじゃないか……? 保健師の先生は何を考えて、友ちゃんにすみれ園を紹介したんだろうか……?」
私は当時、初めて見るその「すみれ園」での世界を、完全に自分たち家族とは別世界だと思っていました。
友ちゃんを含め私達家族が、その目の前にある「障害の世界」の当事者であるなどとの認識は皆無だったのです。
「すみれ園は、どう考えても友ちゃんが来るべき場所ではないだろ? これは早々に退園させてもらった方がいいかも……」
当時の私は全く自分の置かれている立場を理解していませんでした。
早々に退園、どころか「すみれ園」と「すみれ園」に併設されている「やまびこ学園」に、その後約6年ぐらいお世話になるのですが、その時の私達家族は全く、そのような未来が待っているなどとは想像すらしていませんでした……。
かわいそうな子達
「すみれ園」への外来による通園が始まった当初は、「すみれ園は友ちゃんの療育には適していないのではないか?」と思い、早々に退園の相談をしようか、などと考えていました。
しかし、私は順応性が高いせいか、何回か通園の引率で園に顔を出しているうちに、すっかりと園の先生や園児のお母さん方とも打ち解けていきました。
「住めば都」とはよく言ったもので、「すみれ園」の雰囲気が私は好きになり、当時、私はスーパーに勤務していて平日が休みだったため、妻が留守番をして私と友ちゃんの2人で園に行く、ということが最初の頃は多かったと思います。
私は最初に「すみれ園」に来た時、目の前に広がる「障害の世界」に正直、息を飲む思いでした。
しかし、何回か通園し、その「障害のあるお子さん達」と触れ合ってくると、その子達にも当然ながら各々「個性」があることがわかってきます。
その子達の一人で、シンちゃん(仮名)という友ちゃんより年上の男の子がいました。
シンちゃんは、重い障害があるようで、寝たきりの状態でした。
ある時、シンちゃんが何か私に話しかけるような仕草をしてきました。
私は何を言っているのかがわからず、キョトンとしていると、シンちゃんを担当されている先生が
「トーマスのパパって言ってるんです。お父さんのことを呼んでるんですよ」
と言うのです。
「トーマス?」
あ、なるほどと思いました。
トーマスは、友ちゃんの鞄のデザインが機関車トーマスだから、私のことを「トーマスのパパ」と呼んでくれたのです。
私はなんだか涙が出ました。
私は最初、目の前に広がる「障害の世界」、そして「障害のある子達」を見て、「この子達、なんてかわいそうなんだ。親御さん達はこの子達を抱えて将来、一体どうするんだ……?」とただ「かわいそうな子達」「不遇な子達」と一括りに考えていました。
しかし、その子達にも、ちゃんとした「個性」があるのです。
「個性」に着目せずに「かわいそうだ」「不運だ」などと決めつけるのは、最も障害者のことを見下す差別的な考えだということに気付いた瞬間でした。
いや、ほとんどの健常の方々が、最初に「すみれ園」に行きだした頃の私と同じような考えだと思います。また、障害者の方のことを差別している特別な意識など無いと思うのです。
私にとって、シンちゃんから「トーマスのパパ」と呼ばれた日は、生涯忘れることのできない日。
なんだか音を立てて、自分の人生が変わったような気がするのです。
しかし、そのように自分の中で変化があった私でしたが、友ちゃんのことに関しては「友ちゃんはこの子達と同じ世界の子じゃないんだ」という思いが強く残っていました。
私は、友ちゃんを含め私達家族が、この目の前にある「障害の世界」の当事者になるなど、夢にも思いませんでしたし、思いたくありませんでした。
「すみれ園」で、私はあくまでも見学者かゲストのような振る舞いだったのです。
しかし、今から考えると、周りの親御さんや先生方は、こう思っていた、と思います。
「かわいそうに。このお父さん、何もわかってないんだな」と。
障害の告知
友ちゃんの成長はカメの歩みのスピードより遅いものでした。
原因もはっきりとせず、私達夫婦はまさに明かりのない長いトンネルを歩いてるかのような気分で悶々とした日々を過ごしていました。
それでも、いつか健常の子に追いつく日が来ると信じていろいろ試しました。音楽療法や、脳の成長にいいと聞けば、高額な保険外の東洋医学の治療で遠方の他府県にも足を運びました。
しかし、そんな私達夫婦の抵抗はむなしいくらい、友ちゃんに効果をもたらすことはありませんでした。
そして……
私達夫婦は、2004年9月の精密検査で、医師からつらい宣告を受けるのです。
医師のお話では、原因は不明だが、この子には一生涯に渡り知的な障害が残ります、とのことでした。
もう、この時は天地がひっくり返るくらいにショックでした。
一生涯って簡単に言うけど、私達夫婦が死んだら、この子はどうなるんだ……。
この時期には、さすがにある程度の覚悟はしていましたが、これから私達夫婦と友ちゃんを待ち受ける人生に、私はどん底の気分と不安しかありませんでした。
「世の中、おかしくないか? 子供を虐待するような奴のところに健康な子が生まれて、どうして俺の子に障害があるんだ……」
私の、偽らざる思いでした。
しかし、その後数々の出会いが、私達夫婦を変えていきます。
いろいろな人達に助けてもらい、私は普通ならば見えない景色を見ることになるのです。
数々の出会い、そして見える景色が変わった
医師から「友ちゃんは一生涯に渡り知的障害が残ります」との告知を受けて、どん底の私達夫婦でした。
しかし、人間って強いもんです。
人との絆が、私達夫婦を変えていきます。
友ちゃんは、最初は「すみれ園」の週2回の外来通園でしたが、その後は定期通園に変わり、そして2005年4月からは、「すみれ園」のお隣にある、宝塚市が運営する福祉型児童発達支援センターである「やまびこ学園」に通園することになるのです。
2つの学園の違いは、「すみれ園」が肢体不自由児童の施設なのに対して、「やまびこ学園」は知的障害児童の施設という感じです。
友ちゃんは、「やまびこ学園」には特別支援学校に入学するまでの4年間、お世話になることになります。
そして、その4年間、友ちゃんが発達支援の療育を受け充実した時間を送ることができたのはもちろんですが、それと共に、私達夫婦もたくさんの同じ境遇のご両親やお子さんと出会って、交流を深めるうちに、徐々にではありますが、どん底の気分から這い上がることが出来たのです。
「やまびこ学園」で知り合った、ご両親やお子さん達は、やはり同じ境遇ですから、仲間意識というか、同じ悩みを共有できる同士のような感じで連帯感が強く、ある意味では自分の親兄弟よりも強い絆を感じることがあります。
私も、学園で知り合ったお父さん方らと、時には深夜まで飲み明かし、このような方々と出会えたことを本当に感謝しました。
私は、このような仲間に出会うまで、心の奥では「障害者」や障害者を取り囲むイメージは暗く、家でじっとしているもの、だと思っていたのだと感じます。
別に悪い意味ではなく、そのように感じている方は、多いのではないでしょうか?
私は、医師から障害の告知を受けた時に比べて、随分とショックも癒えていました。そして、仲間と出会えたことで、自分の置かれたこの境遇を楽しむくらいになろう、と決意しました。
もう私は以前の私では、ありません。
それからの私には、数年前に「すみれ園」で見えた、「障害があってかわいそうな子供達」の姿は、もう見えません。
今の私には、この子達は、障害があっても負けない「勇者」にしか見えないからです。
15番染色体テトラソミーとは
友ちゃんの知的障害の原因は「15番染色体テトラソミー」という染色体異常です。
染色体異常に関しては、友ちゃんが3歳の時に下の妹の妊娠がわかった際に、友ちゃんの染色体検査をしてわかりました。
ダウン症が染色体異常の一種では症例としては多いと思いますが、「15番染色体異常」は非常に症例が少なく、医師の話では流産することが多いとのことでした。
「15番染色体異常」は遺伝より突然変異型が多いのが特色のようで、友ちゃんも突然変異型のようです。
この染色体異常の特徴として多いのは、点頭てんかんの発作です。3歳くらいから、医師の言うとおり発作が始まりました。発作はいつ起こるかわからないので、当時はいつもヒヤヒヤしていました。
しかし、8年前の2013年に近畿大学医学部付属病院で数時間に渡る脳の大手術を受け、今も薬は服用していますが、てんかんの発作は劇的に少なくなりました。
お世話になった皆さんには感謝の言葉しかありません。
友ちゃんって、こんな青年です
友ちゃんは、今年2021年の3月に長年お世話になった特別支援学校を卒業し、現在は、兵庫県宝塚市内にある障害者生活介護事業所に在籍しています。
事業所では、優しい方々に恵まれて毎日楽しく通所しています。
友ちゃんは重度の知的障害者であり、重度ではありませんが肢体不自由もあります。
歩いたりはできますが、どこへ行くかはわかりません。
また、食事も介添えがないと厳しいです。
スプーンは使えますが口元に行くまでに、まるでクレーンゲームを見ているようです。
友ちゃんは会話もできませんし、単語も言えません。
しかしケーキは大好きで、「ケーキ?」とも聞き取れる発声はします。
食べること以外では、動物も大好きです。
家族の一員ハムスターのゴンちゃんに、友ちゃんはいつも興味津々です。
趣味はテレビです。
テレビは、現在19歳でありながら? NHKの「おかあさんといっしょ」や「きかんしゃトーマス」が大のお気に入りです。
スタイルは、結構抜群。
無駄なものは食べず、何故か?よく爪先立ちをしているせいで、体脂肪率は10パーセント台ではないか、って感じでお腹の腹筋も割れています。
現在19歳ですが、顔はあどけなく、どう見ても19歳には見えません。
介護サービスや、生活支援のヘルパーさんから、「かわいい、かわいい」と大人気の友ちゃんです。
俺が、この子を選んだ
最後に……
お世話になった「やまびこ学園」の先生に、「先生、どうして、友ちゃんは僕たちのところに生まれたんですかね?」と聞いたことがあります。
すると、先生は、「お父さんのところだったら大丈夫だと、友ちゃんが思ったからですよ」と言ってくれました。
その時は、すごく励みになる言葉が嬉しかったのを覚えています。
最近よく私は、もう一度人生を送るとしたら、「自分の子供に友ちゃんを選ぶだろうか?」と自問します。
答えは、やっぱり選ぶと思います。
数年前、「やまびこ学園」の先生は、「友ちゃんが私たちを選んだ」と言ってくれましたが、私は思います。
「俺が、この子を選んだんですよ」
受賞のことば
息子、友祐(ゆうすけ)の「15番染色体テトラソミー」という染色体異常は非常に症例が少ないのが特徴です。同じ症例で情報を求める方々に、私の体験が少しでもお役に立てるならば幸いです。
今回の受賞を契機に私自身も将来を見つめ直しました。今後は、以前から保有している行政書士の資格を生かし、「障害者の方々の親なき後の支援」に尽力していきたいと思います。
最後に、素晴らしい賞をいただき本当にありがとうございました。
選評
お父さんの立場から、とても正直で率直すぎるくらいの言葉で書かれています。「逃げていた」、「障害の世界は別世界だと思っていた」も、最後の一文の「俺が、この子を選んだんですよ」も勇者の言葉です。19歳の息子さんと同じ障害の2歳のお子さんを育てるお母さんとの関わりからペンを執られたとのこと、「ある意味では自分の親兄弟よりも強い絆」でつながる大切な役目だと心から感じます。(藤木 和子)
以上