第56回NHK障害福祉賞 優秀作品
〜第1部門〜
「いつかきっと大丈夫になるので。」

著者 : 寺本 舞衣 (てらもと まい)  京都府

2014年高校2年生の夏、両親に兄とともに大学病院に連れていかれた。兄が自動車学校で視野が狭いことを指摘され、地元の眼科にいったところ、病気の疑いがあると言われたそうだ。そんなこんなで私も大学病院で検査を受けることになったが、理由もよく聞かず、「学校休んでまでしなきゃいけないことなの?」と腹を立てていた。長い待ち時間ずっとスマホで音楽を聴いていたのを覚えている。初めてする検査はとても長く苦痛で、さらに機嫌が悪くなった。そして最後に診察、「やっと帰れる」という軽い気持ちしか持っていなかったが、そこで障害等級2級だと言われた。病名は「網膜色素変性症」。その時は特に、いやむしろ全く悲しい気持ちにならなかった。まず信じられなかった。今までごく普通にみんなと同じように生活してきたのだから。「きっとこれからも今まで通りで大丈夫」という変な自信があった。まだ病気について、これからの将来についての想像がついてなかったのだ。
それからというもの母から、障害を理由に禁止される物事が増えた。それに対し反抗心が芽生え、母のことが鬱陶しくてたまらなかった。今まではその症状を病気とわかっていなかっただけの話で、急に症状が出るようになったわけではなかった。病名がついた。ただそれだけのことだった。だからこそ、みんなと同じようにさせてもらえないことがつらく、周りと違うと言い聞かせられているようで、当時の私にはその事実を受け止めることすらできなかった。

2015年高校3年生になり、進路を決める時期になった。私は就職を選び、障害のことは一切伝えない状態で志望する企業への就職がきまった。が、就職後、周りと同じようにできないという壁に何度もぶつかった。はじめは運転ができないということだ。視力の面では問題がないため、免許は何とか取得できた。車まで買ってもらったが、いくら練習しても危ない運転をしてしまう。そして視野が狭いこと、暗いところが見えない「夜盲症」という症状があることを考え、運転は控えることにした。障害を受け入れられていない私にはその説明を会社にも友人にもできることもなく、その場しのぎのごまかしをしていた。同級生たちは車を持ったことで、自由に行動するようになっていた。うらやましさを感じるとともに、劣等感を抱くようになった。それから障害者であることを自覚せざるを得ないことがたびたび起こった。病気であることを知らない周りから見れば、私の当時の症状はどんくさいやドジと言われ、「あほやろ」と笑って済まされるようなことだった。ガラス扉があることがわからず激突する、足元の物が見えず何度もつまずく、落とし物をしても見つけられない、人にぶつかる、など小さいことだが、たくさんあった。冗談で言われることでも、馬鹿にされたり怒られたり。人前でそういった症状が出るたびに私はそれを「失敗」として数え、「また失敗してしまった」と自分を責めるようになった。失敗をしないために外に出るときはとても注意を払っていたし、いつも気を張り詰めていた。それでも失敗をしてしまう。その瞬間に心臓がドクドク、冷や汗が出て、失敗をしたということで頭がいっぱいになる。他人からすれば、私の失敗なんて一日のごく僅かな時間で記憶にも残らないことだったのだろう。私にとってはその数分、数秒のことで一日の全てが「だめな日」になった。私はいつからか一人になると、「死にたい」と声に出してつぶやくようになった。初めは若者にありがちな軽い表現だったが、口ぐせになり、やがて本気でそう思うようになってしまった。失敗をすることが、人からの視線が集まることがとてつもなくこわい。みんなが敵のように見えた。気の許した友人でさえ、一緒にいることが苦しい。何気ない会話の中でも、将来の話題が出ると、「私はみんなのような将来が待っていない」と思った。「年を重ねていくとともに、さまざまな役割が増え、さまざまなことが出来るようになっていくのに、私はできることが減っていくんだ。まだ健常者のふりができるうちにもう人生をやめてしまいたい」という言葉が頭をよぎる。その気持ちをごまかすために、なるべく将来のことは考えず、「今」のことだけ考えた。

日常的にそんな気持ちを抱えていた私は、自分の心身の状態が徐々に悪化していくことに気付かずにいた。気付いた時には日常に支障をきたす症状が出ていた。疲労感はあるが眠れない、人前で笑えない、涙が止まらない、常に吐き気がする。会社では電話に出ることができなくなった。そして2019年の3月のある日、会社でも吐き気にも襲われ嘔吐してしまい、早退した。次の日、重たい気持ちでいつものように「死にたい」とつぶやきながら会社までの道を歩いていた。会社に到着し、従業員用の出入り口のドアを開けて中に入ろうとしたとき、過呼吸を起こした。立っていられず、近くにいた同僚に支えられ更衣室に移動した。初めてのことでパニックになり、さらに呼吸がうまくできない。酸素が全身に行かなくなり手足がこれまでにないくらい震えて、ビリビリとした感覚があった。足踏みをしているようなくらい震えた。それが怖くて涙も止まらない。その状態を知った上司から「今日は帰っていいから」と言われ、少し落ち着いてから母に迎えに来てもらい帰宅した。帰ってからも過呼吸を起こした時の感覚が消えず、恐怖でまた涙が止まらなかった。その後も過呼吸を繰り返すようになった。そしてその日以降、私は会社に行けなくなった。初めはその週だけ休むつもりだったが、休んでも重たくて苦しい気持ちがなくならず、母の提案で心療内科に行くことにした。「適応障害です。まずは3か月休養しましょう」と言われた。うつ病の一歩手前、その状況から離れればまた元のように戻れるとのこと。「このつらさ、重たさは病気だったんだ」という安心感があったが、休むことに対しては不安があった。私だけ逃げてしまう、人に迷惑をかけるのに私は楽な思いをしてしまう。そんな罪悪感があった。

休職中でも、心が休まらなかった。休んでいるのに頭の中が忙しく、ずっと不安と罪悪感と焦燥感に駆られた。初めは仕事のことが気になって仕方なかったが、休めば休むほど、いろいろなことを思い出した。普段は思い出しもしない、学生時代のつらかったことや数々な失敗。全く関係のないことのはずが、全てが繋がっていて、全てが私に原因があると思った。
休職してから数週間後、テレビをつけていると、ニュースで私と同じ網膜色素変性症の人がインタビューを受けていた。その時、初めて私の病気が難病指定されていることを知った。失明する可能性があると説明をしていて、見ないふりをしていた現実をつきつけられているかのようだった。怖くてたまらなくて、ふとんにくるまり、声を上げて泣いた。治療法もないからどうしようもない。こんなにもどうしようもないことってあるのかと病気を恨んだりもした。

2019年の9月、心療内科でカウンセリングを開始した。自分の内側にある気持ちや弱音を人に話すことは苦手だった。それを認めてしまうようにも思っていたし、人に話しても仕方がないことだとも思っていた。初めのうちは、ただひたすら今までの出来事や辛いことを吐き出すように話して、45分間のカウンセリングでずっと泣いていた。でも回を重ねる毎に、少しずつだが心がほぐれ、それに対する自分の考えや思いつく原因を口に出すようになった。先生は、私が仕事をやめたりするときにでも(結局半年後退職した)、「よく決断されましたね」と私には浮かばない言葉をかけてくれた。何かを途中でやめることは、恥ずかしいことだと思っていた私にとっては、衝撃が起きるくらいの言葉だった。自分のことを許してもいいと言われているようだった。その言葉に触れたことで、一つ一つの決断を「よく考えて出した答えだ」と認めることができた。いいことも悪いことも口に出してみると、頭の中にあるバラバラ、ごちゃごちゃした言葉たちが整理されていくような感覚があった。先生が引き出してくれるからこそ見つけられる自分もいた。気持ちが安定したときは、「なぜよくなったと思いますか?」や、「そう考えられるようになったきっかけは思いつきますか?」など、よくなった、悪くなっただけで終わらせずに、理由を考え自分の傾向を探していくこともできた。誰にでもなんでも言っていいというわけではないけれど、悪い感情でも人に話すと毒が抜けて、前向きな言葉だって出てくることもある。それを知ってからは先生だけでなく、母にも自分の考えや気持ちを言えるようになった。「こうしたい!」だけでなく、なぜそういう考えに至ったのかを話すことで、頭ごなしに否定されることもなく、私の考えに沿った答えを言ってくれるようになった。少しずつ、自分の気持ちを否定せず、寄り添って、整理して、答えを出せるようになっていった。

体調が安定してきた2020年2月。父の単身赴任先のアメリカへ遊びに行くことになった。疲れやすさは改善されてきていたが、しばらくの間、長時間の外出はしていなかったため不安もあった。アメリカは皆さんがご存じの通り人口が多い。そんな大勢の中にいると「こんな広い場所で私のことを見ている人なんていないんじゃないか」と思った。全く馴染みのない場所でましてや国も違うから当たり前かもしれないが、人の視線が怖かった私はそれに救われたような気がした。旅行中は休んでいることに対する罪悪感を忘れ、初めてみるものや景色に感動し、心から楽しんだ。それまでは、みんなと同じように働けない自分を否定して、何をしていても心から楽しめていなかった。何気なく行った旅行だったが、思いもしないところで大きな一歩を踏み出すことができていた。

帰国後、さまざまなことに興味が湧いた。将来に対して持っていた考えを実行することができた。初めにしたことは精神科のデイケアに通うことだった。しばらく大人数の中にいることもなく、人とのコミュニケーションもとれていなかったため、人に慣れる練習の場として通院を決めた。その頃はまだ一人で行動することに恐怖心を抱えていて、体験にいったときには不安で泣いてしまった。幸いにも、とても優しいスタッフの方々だったので「ここなら大丈夫かな」と思うことができた。新しい場所に一人で足を踏み入れるということは今後に大きな影響を与えた。デイケアでは午前と午後の2回、プログラムを選択し参加した。病気のことについて学んだり、軽いスポーツやトランプゲーム。座談会でテーマを決め話したりもした。それらを楽しめる日もあったし、もちろん楽しめない日もあった。そんな時でもスタッフさんは「ここではしたくないことはしなくていい」と言ってくれた。初めは、「こんなことになってしまった自分を甘やかしてはいけない」と思っていたが、我慢をしていると体調に出るようになっていた。自分が頑張ればできていたことは、無理をしなくてはできないことだったと気づいた。私は自分の体調や気持ちを理由にやめるということは、わがままや人の輪を乱すことだと思い込んでいた。そういう考えで自分のことを縛っていたのだ。それからは、自分の気持ちや体調に正直にいるようにした。決まった時間に決まった場所にいけることをほめた。心身が疲れた時や気分が乗らないときには、休むこともあったし、デイケアに行ってもソファで寝ていたりもした。そういったことを続けるうちに、デイケアにもいく頻度は増え、活動量も増えていった。自分のペースをつかむことができたからだ。休むや離れるということは逃げではなく、「自分を守ること」なのだろう。デイケアへの通院中も何度か体調が悪くなったが、「今は休む時期だ」と捉え、自分を責める時間は減っていった。その分ゆったりとした時間の流れによる安心感や新しいことへの興味も得ることができた。

同年の10月から大きく環境を変えた。実家を離れ、京都の福祉支援施設の寮に入ることにした。視覚障害の自立訓練と呼ばれるものを受けるためだ。以前からその施設のことは話には聞いていて、自分の将来のためにも入りたいと考えていた。半年間デイケアに通い、心身や生活リズムを整え、入所として行動に移すことができた。その頃にはもう「視覚障害者」として生きる決意があったように思う。そこでは視覚障害といってもさまざまな病名や症状を持った人がいた。今まで視覚障害を持つ人たちとの関わりがなかった私にとって、同じような悩みを、あるある話のように気軽に話せることが新鮮だった。共感してもらえることで「悩んでいるのは私だけじゃないんだ」と安心することもできた。もう障害があることを隠さず、ありのままの自分でいてもいいと思うこともできた。できないことを、できるふりで終わらせない。困っていることは主張する。私の中で大きかったことは、「人を頼る」ということだ。施設に入ってから、歩行訓練で「白杖」という名前の通り白い杖を持つようになった。そうすると、周りの人から配慮をしてもらうことが増えた。初めは正直に言うと「こんなにも楽になるんだ」と思った。今まで無理して何とかやってきたことを、人の手を借りることで気持ちにも余裕が生まれた。配慮してもらうととても気持ちがいい、人の目が怖かった私にとって、障害者と示すことでそれは優しい視線に変わったように感じた。もちろん全てが優しい視線なわけではない。スマホを見ていると、「見えてるじゃん」と言わんばかりに見られたり。不思議に思う人がいるのも当たり前だ。そんな時でも、これが私だ、と思える。「これは自分にも人にも危険が及ばないためだ」と心の中で唱える。これでいい。これでいいと。それくらいには開き直れるようになった。そうやって、少しの良かったことと悪かったことを繰り返して、「障害者でもなんか大丈夫かも」と思えるようになった。もちろん日によって、見えづらさに不安を抱く日もある。私もまだまだこれからなのだから。
日々訓練を受け、寮でも自分のことは自分でするようになり、少しずつ自信を持てるようになっていった。ぼんやりと思っていた「自立したい」という気持ちが明確にくっきりと浮かぶようになった。人によって「自立した人」の像は違うかもしれない。基本的には「自分のことは自分でする」だが、見えづらい私には全てを自分の力だけではすることは難しい。そのため、できることは自分で、できないことは人の手を借りて「自分の生活を維持」していく。きちんと自分の意志で決めて行動をしていく。それが私の自立に対する考えだった。
「一人暮らしを始めたい」と両親や先生に相談した。初めから賛成意見ばかりではなかった。精神状態の不安定による体調不良もあり、たくさん心配をかけていたからだ。何度も話し合いを重ねた。一人でさまざまな場所へでかけ、一人で家事をし、自分の見つけた方法で精神の乱れともうまく付き合っていく。経験を積み、多くのことを学び、改善していく。そうすることで、新しい問題が出てきた時でも、今持っている力以上のもので対抗できると考えていた。そう何度も主張し、互いに意見をすり合わせた結果、両親からの了承を得ることができた。そして今、一人暮らしを開始し、現時点で2か月ほど経った。私ってわがままかもしれない。けど、この選択はきっと間違っていない。今後の私にとって必要な、重要な経験なのだと信じているから。

今の私はまだ精神面での病も寛解していない。まだ薬も飲んでいるし、増えることだってある。前に比べて、基本的には穏やかに暮らしているが、急に落ち込んで1日をベッドで過ごすこともある。こういうものは本当に少しずつ良くなっていくのだろう。ずっと自分の中の考えに縛られてきたのだから、年を重ねるにつれ少しずつその縛りを解いていければいい。2年たっても働けていないが、こうやって振り返ると、一歩ずつ前に進んでいることを実感できる。
私にとって障害は、やはりコンプレックスだ。どうしようもないことだから、そんな自分を受け入れ、さまざまなことに挑戦している。でも障害者になったからこその「気づき」はたくさんあった。自分の弱さを認め、「自分を大事にすること」を学んだ。「自分を大事に」って意味がわからなかった。けど少しわかった気がする。というより今は、自分のことを「大事にしてもいいんだ」と思える。その時々の感情を否定せず尊重する。まずはこれでいいのだろう。たくさんの悩みを持ち、傷つき、苦しい思いをしたけれど、一つずつの解決策を探し、自立した将来に向けて歩いてきた。そんな自分を今は褒めたい。
これから病気が進行する可能性も大いにある。もっと大きな不安やどうにもならないことへのいら立ちや苦しみを味わうこともあるだろう。その時には今までの経験を盾にして、自分のことを守りながら少しずつ大丈夫になっていきたい(私は大丈夫という言葉が好き)。離職という意味では今も休んでいることになるが、「心の休息」という意味でこの先もたくさん休んでいこう。怠けるという意味でもなく、時に頑張り、時に自分を労わる。毎日たくさんのことを考えて、小さなことでも選択を繰り返しているのだから。たまにはやめたっていいじゃないか。私には辛いことを跳ねのける力はないので、とことん自分を労わって、気が済んだらまた日常生活に少しずつ戻していけばいい。休みすぎるなんてないのだろう。これは自分への言い聞かせでもあるが。しばらく休んでいても急に「あ、今これならできるかも」とか何かしらの変化が出てくることがある。出ないのならば、それはまだ休息が必要だということなのだろう。何かのタイミングで楽しみを見つけたり。どんなに小さな変化でも、今後の糧になる。ちょっとした興味とか、やってみようと思ったことを誰かに相談したり、少し調べてみたり。地道に繋げていけばいい。
もう最後になるが、これまでのことは私だけの力で進んできたのではない。家族や友人、先生などたくさんの人たちが寄り添い、支え、背中を押してくれた。何度言っても言い足りないけど、ありがとう。本当にありがとう。私にとって、私を救ってくれたのはやはり人であり、たくさんの言葉たちだった。みんなの一言一言が今の私を作ってくれている。
こんな私だけど、こんな私だからこそ伝えられることはあるのではないか。そう思い、今回筆を執ることにした。私は、私達はいつかきっと大丈夫になるので。気長にいきましょう。

受賞のことば

この度は素晴らしい賞をいただき誠にありがとうございます。私の経験がこのような賞の受賞に繋がったことに驚きましたし、同時にとてもうれしくもありました。今回の応募を通じて、自分の中で消化しつつある障害について振り返り、成長できている所にも目を向けられるきっかけとなりました。私の文章が誰かの心に寄り添ったり、背中を押すものになれば嬉しい限りです。本当にありがとうございました。

選評

視覚障害が、心の病につながっていく様子が悲しいくらいに克明に描かれている。高校2年生の夏、突然障がい者となった作者は「失敗することが、とてつもなくこわくなる」。しかし、精神科のデイケアに通って、自分の弱さを認め、気持ちや体調に正直に行動することを学び、施設で視覚障害の自立訓練を受け、ついには一人暮らしを始める。その時その時で、状況を冷静に分析し、対策を考え、前に進もうとする。寺本さん、あなたはもう大丈夫だと私は思います。(鈴木 賢一)

以上