はじめに
わたしは、この三月、大阪市立盲学校での仕事を全て終えることができました。約三十年にわたる社会科教員としての生活でした。わたし自身が全盲と両手切断という二重の障害をもっての勤務でしたから、さまざまな苦労がつきまとったことは言うまでもありませんが、多くの人に支えられながら、トータルに言えば大変楽しく働くことが出来、心から感謝しています。
わたしが盲学校で働いた期間は、一九七二年から二〇〇二年までの三十年間ですが、障害者の人権や福祉が、その当事者をはじめ、家族・関係者によって主張され、具体的に実現していった時代に当っています。戦後、新しい憲法が制定され、平和や民主主義を社会のバックボーンにしようとする努力が、障害者の生活の上にもやっと具体的に実現され始めた、丁度そういう時期に当っていたとも言えるでしょう。その意味で、わたしは時代に恵まれたと思います。
それから、もうひとつは、周りの人たちの応援と援助をたくさん受けることが出来たことです。それは、家族であったり、ボランティアであったり、友達であったり、また同僚であったり、いろいろな人間関係の中で、大きな力を与えてもらいました。その意味で人にも恵まれました。
視力と肢体の重い二重障害をもったことは、やはり大きな不幸だったけれども、一番やりたかった仕事、すなわち教職に就けたということは、何にもましてわたしの喜びであり、生きがいでしたから、わたしの人生は決して不幸なものではありませんでした。障害者にはたまたま、もっとはっきり言えば、いやいやなりました。しかし学校の先生には自ら志し、選びとってなりました。
わかしはかねがねこう思っています。自分の障害については、何の責任もない、それは、わたしの選択によっていないからです。一方、自らが選択した教職というものに対しては、大きな責任があると。
三十年に及ぶ教職生活があったからこそ、わたしの人生は「生きていてよかった」という実感を、わたしに与えてくれるのです。
不幸の始まりは不発弾の暴発
わたしは一九三八年十二月、九州福岡で生れました。父は大工、母は父よりは三つ若い働きもののごく普通の女性でした。わたしは五人兄弟の長男として生れました。
そのわたしが小学校(当時は国民学校)に入学したのが、一九四五年四月、まさしく戦時中、そして第二次世界大戦という大きな戦争が日本の敗戦で終結したのがこの年の八月十五日でした。小学一年生の眼には、敗戦・占領そして新しい時代の展開という変動期の社会は、何ともめまぐるしく、ある意味では非常に新鮮に映ったものでした。
白人や黒人の米兵の体の大きさや、背の高さにはびっくりしましたし、アメリカのマンガ映画の面白さには、すっかり心を奪われました。
わが家の不幸は突然やって来ました。
それは敗戦の翌年、一九四六年七月十八日の朝でした。前日、近所の小川の岸に捨ててあった、無数の金属製のパイプ状のものが爆発したのです。
わたしたちが、近所の子供たちと先を争うようにして拾い集めた、そのパイプ状のものは、実は危険な不発弾だったのです。長さが四、五センチ、直径一センチにも満たないような小さな管のようなものでした。それは金属で出来ていて、銀色に光っていました。わたしたち兄弟は前の晩寝る前に、きれいに水洗いして縁側に並べて干していました。だから、朝にはきれいに乾燥していました。
管は貫通しているのでなく、片方に口があり、底の方に砂のようなものがつまっている感じでした。わたしたちはそれを取り出してもっときれいにしようとしました。何しろ小さな管ですから、なかなか上手くいかない。そこで細い釘を探して来て、これを管の中に差し込んだのです。
すさまじい爆発は、釘と火薬の接触でおこりました。砂と思っていたのは実は火薬だったのです。この不発弾は、旧日本軍が使っていたものが、戦後民間人の手を経て不法に捨てられていたものらしいと考えられます。
真夏の朝の惨劇でした。一緒に遊んでいた弟は即死でした。わたしは、その時、両眼の視力と両手を一瞬に奪われてしまいました。
弟は五歳でした。わたしは小学二年生でした。両親の悲しみと無念さは、きっとわたしの想像を絶していると思います。五千万人にのぼる死者と、それに数倍する障害者をつくり出した、あの第二次世界大戦が終ったその直後にわが家を襲った不幸だけに、父や母の気持は一層やりきれないものであった筈です。
十三年間の不就学
それ以来、わたしは学校に行けなくなりました。重い障害はもったけれども、幸い、体は健康でした。あれ程の大怪我をしたにもかかわらず、体も心も成長していったように思います。丈夫な体を授かっていたのでしょう。両親に感謝しています。
わたしが通っていた福岡市立高宮小学校の隣には、福岡県立盲学校がありました。眼の不自由な子供たちが、そこで勉強していることはよく知っていましたから、父や母も何度か盲学校への入学をお願いに行きました。しかし、両手がないことを言うと、点字が読めない、按摩、鍼灸が出来ないとの理由で、全く問題にもしてもらえませんでした。
小学二年といえば七歳です。それから二十歳まで約十三年間、わたしは不就学の状態に捨ておかれました。日にちにすれば四千数百日です。その日々の明け暮れは、本人と家族にとって、如何に長く展望のみえない毎日であったか、今思い出しても残念でなりません。当時は「就学免除」という、こちらが決して望まない形で不就学が行政の都合で正当化されたのです。
わたしばかりでなく、より重度の障害児たちは、公教育から阻害され、教育を受ける権利と共に発達する可能性をも奪われてしまったのです。
七歳から二十歳に至るこの十三年は、人の一生のうちで最も重要な意味をもつ時代ではないでしょうか。身体が日々大きく成長するだけでなく、人の心と頭脳が外界からのさまざまな刺激に旺盛に反応し、また身体の内側からたぎりたちあふれてくるような多様な衝動にかりたてられるようにして、人間の魂が肥え太っていく時代。だからこそわたしたちには学校が、地域が、友達が、先生が、つまりは多様な人間関係と社会的つながりが幾重にも必要なのではないでしょうか。
十三年間の不就学は余りにも多くの時間と条件を奪ったように思います。
障害をもつだけでも多くの苦痛と不利益を受けるのに、まして社会的につくられた不就学という不利益まで強制されたのでは、障害児とその家族は浮かばれません。このような思いがわたしの教職への強い思いを後押ししていたように考えます。
人生を切り開いた点字との出会い
視覚障害者が使用する点字は、十九世紀前半、フランスのルイ・ブライユによって考案された、素晴しい文字です。視覚障害者は、それを指先で触読して知識や情報を獲得します。
だから盲学校の先生たちは、わたしをひと目みて、「手のない少年に点字は無理だ」と判断してしまったのです。なんと安直な、しかも無責任な結論の出しようでしょうか。
わたしが点字の触読に挑戦するきっかけになったのは、入院先の病院の看護婦さんに読んでもらった北条民雄の『いのちの初夜』でした。北条民雄自身、ハンセン病を病み、幾つかの作品を成した人ですが、重症のハンセン病患者の中には、視力と同時に手指をなくし、その為に唇や舌先を使って点字を読む人がいることを知るに及びました。わたしは、そのような壮絶な事実をなかなか信じることが出来ませんでした。しかし、やがてひょっとすると、このわたしも、それなら唇で点字が読めるようになるかも知れないと考えるようになりました。
点字は、病院で友達になった盲学校の生徒から習いました。点字そのものは極めてシンプルで、明解な仕組みをもった文字で、それを覚えるのに余り多くの時間はいりませんでした。問題は、それを唇をつかって読めるようになることでした。点字の書かれた紙を唇に当ててみるのですが、最初のうちはザラザラとツルツルが判別できるだけで、そのザラザラの中に綴られている文章を解読することなど全く出来ませんでした。しかし「継続は力」でした。何度も何度も試みているうち、ザラザラの中に幾つかの文字を読みとりました。そしてその文字の固まりが言葉になり、文章となって理解できるようになりました。
文字の獲得は光の獲得でした。時間は掛かりましたが、文字を読み、行を追って、そこに書かれていることを読み解いていく作業は、決して苦痛なものではありませんでした。わたしは、光を失った自らの世界に、一筋の光が差し込んでくるのを感じました。
点字を書くのには、また別の苦労が伴いました。かろうじて残った左右の前腕をつかって点筆をはさみつけるように持ち、背中をこごめて点字板にポツポツと穴をうがちました。根気強く続けているうちに、時間はかかっても、わりと正確な文字が書けるようになりました。今では、点字板でなく点字タイプライターで、もっと早く楽に、点字を打てるようになりました。
二十歳の中学二年生
点字が何とかマスターできると、わたしは猛然と学習意欲を感じました。それまで押さえつけられていたものが、一気に吹き出すように、勉強したい。友達が欲しい。外へ出たい。みんなと一緒に何かをしたい。そういうもろもろの思いが心を焦がしました。
ところが、学校に行きたいと思っても、小学二年の一学期までしか教育を受けていない事実に愕然としました。年齢は十九歳に達しているのに、総合的な基礎学力は当然ありませんでした。特に算数・数学それに英語など、ほとんど理解できませんでした。社会科や理科・国語に関する一定の知識は、ラジオを聴いたり、人に本を読んでもらうなどして少しは理解できました。
数学と英語は北条民雄を読んでくれた看護婦のKさんが本当に熱心に教えてくれました。視力は回復しなかったけれども、開眼手術のため入院した五年間の病院での生活が幸いしました。
点字の読み書きと、ある程度の基礎学力をつけたわたしは、地元福岡の盲学校への入学を願ったのですが、その時もまた、二重障害を理由に断られました。いったんは希望を失いかけましたが、福岡の盲学校の先生も如何にも気の毒に感じられたのでしょう。「大阪の盲学校だったら、音楽科もあるし」と言って住所を教えてくれました。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』にもすがる気持で、大阪の盲学校に思いを込めて手紙を書きました。そして、その一年後、やっとのことで大阪市立盲学校中学部二年生への編入がかないました。
多少の不安や寂しさはあったけれども、気持の上では背筋を伸ばし、さっそうとしていました。満二十歳の中学二年生でした。十四人の教室でした。クラスメートの多くは学齢相応の中学生でしたが、歳のいったわたしに敬意を払いつつも、仲間はずれにすることもなく、クラスに溶け込んでいきました。
学校は想像していた以上に楽しく、活気ある毎日をすごしました。以来五年間の盲学校での生活は、得がたい体験をたくさんもたらしました。
多くの友達が出来たこと。素晴らしい教師との出逢い。そして社会科や数学など、各教科の勉強ができたことなど、それらの全てがわたしの青春を充実させました。盲学校での生活が充実すればするほど、不就学のうちに過ぎ去ってしまった十三年が惜しまれ、悔しく感じました。このような悔しさを後輩たちには絶対あじあわせたくないとも考えました。
真夏の大学生
具体的に教職をめざすようになったのは、このような盲学校での生活を通じてでした。教員免許を手にするには、どうしても大学に行く必要がありました。しかし、当時(一九六〇年代)の日本の大学は、障害者の入学に関して、極めて否定的でした。
結局、わたしは自分の障害を故意に隠して、日本大学の通信教育部に入学しました。文理学部・史学専攻の学生として勉強することになりました。二十六歳の秋のことです。教科書やガイドブック、課題集などが次々に送られて来ました。
通信教育は実に孤独な学習です。教科書とガイドブックで勉強し、課題に添ったレポートを提出すると、採点された結果と短いコメントが戻って来ます。そして今度は地域で実施される科目取得試験に合格して、例えば「経済学・四単位」などというふうに初めて単位が認定されていくのです。そしてさらにスクーリングとよばれる面接授業を受けなければなりません。
しかし、わたしは七月から八月にかけて東京で行われる夏期スクーリングになかなか出かけてゆく決心が付きませんでした。それは障害に伴う不便さや、不自由さが苦になったからではありません。出かけられなかった本当の理由は、自分の障害を隠しての入学だったので、それが大学当局に分かってしまった後の結果が恐ろしかったからです。これもまた不合理な話です。何故自分の障害を、まるで後ろめたいことででもあるように、隠さなければならないのでしょうか。じくじたる思いがありました。しかし不安は的中しました。わたしの障害を知った大学の担当者は驚き、かつ慌てて数回にわたり、スクーリング受講を諦めて福岡に帰るよう執拗に迫りました。
今ここで大学の言いなりに帰郷してしまったら、もう二度と大学で学ぶことなどできなくなるという必死の思いで踏みとどまりました。それを支えてくれたのは同じ福岡から共に上京し、合宿しながら受講していた学友たちでした。
こうして、わたしは「真夏の大学生」としてスクーリングを受講できるようになりました。この季節は暑すぎて学業には全く向いていないからこそ、世間では夏休みをとって、一時学業を中断します。ところが通信教育の学生たちは、その季節に集中的に勉強するのですから、つくづく「偉いな」と、我ながら思いました。
通学途中の暑さは格別で、よく牛乳やジュースを買って友達と店先で立ち飲みしました。クーラーのない教室の講義は最悪でした。かろうじて用意された扇風機の風も慣れてくると暑い空気を巻き散らしているだけという感じになりました。
それでもやはり、大勢の仲間と共に学び合える真夏のキャンパスは最高でした。
最初の授業
大学は五年半かけて卒業しました。三十二歳の春でした。教員免許は手に入れましたが、実際に教壇に立つには、教員採用試験を受け、これに合格しなければなりません。
点字による採用試験はなかなか実施してもらえませんでした。やっと、それが大阪で実現したのが、一九七一年八月でした。
わたしは高校世界史で受験し、合格しました。しかし、重度の障害を理由に本採用が見送られ、春が過ぎ、夏が来る頃、非常勤講師ということで、大阪市立盲学校・高等部に勤務することになりました。多くの人達の激励と援助を受けながら、交渉を重ねての採用試験受験、合格を受けての非常勤講師の発令は、どう考えても「差別人事」ではないかという、怒りと不信感がつきまといました。応援してくれている人たちにも申し訳ない気持で一杯でした。
わたしは、非常勤講師としての採用を受けることにしました。わたしは、どんな形でもいいから早く教壇に立ちたいと思いました。本採用というホームベースに達する為には、たとえ振り逃げでもデッドボールでも何でもいいから、一塁べースに出たいと思いました。そして出た以上は最善を尽くして働きたいと考えました。授業を受ける生徒たちにとっては、教師が本採用であろうと、非常勤講師であろうと、そんなことはなんの関係もないと思ったからです。
一九七二年九月、普通科二年生の世界史の授業を初めて担当しました。弱視の女子三人のクラスでした。内容は古代ギリシアの民主政治についてでした。
三十三歳。新聞はその見出しに「青年教師」という一語を使いました。その一語は晴れがましいばかりに、わたしに大きな勇気を与えました。
教職。わが生きがい
教えることは学ぶことでした。教科書はもとより、参考書やいろいろな資料を点字テープを使ってよく勉強しました。歴史の進歩と社会の仕組み。それに人間の美しさや醜さを伝え、生徒たちと共にそれを確かめていく授業は本当に楽しいものでした。
本採用を勝ちとる運動と、たくさんの人の努力がようやく実って、正規の教諭としての辞令を受けとったのは、その翌年一九七三年九月二十九日でした。授業を担当していたクラスの生徒たちが、こちらがびっくりするような大きな拍手と歓声で、自分のことのように喜んでくれた時のことを、わたしは決して忘れません。
長い教員生活の中で、何もかも順調にいった訳ではありません。いろいろな事務処理や、試験問題に関する普通文字の読み書き、校外学習や修学旅行の引率、各種の出張、体育祭や文化祭など、学校行事の際の準備と後片付け。重度重複障害児の入学に関わる発言。これらの事柄はいつも悩みの種でした。
わたしのより所は担当教科の授業そのものでした。よく判かるいい授業をすることを心掛けました。障害を理由に割り引いた評価をされてはならないと強く考えました。
そして、もうひとつは「これならやれる」という分野を作ることでした。わたしは障害者の人権、更には卒業生の大学進学問題や、卒業後の進路開拓の面で力をつけようと努力しました。
悩みの種だった事柄については、副担任の配置や教師集団の役割分担などを含む、職場の人間関係の中で改善され、多くの点で解決されました。そのような職場の良好な人間関係ぬきに、わたしの教職生活は成り立ちませんでした。
また生徒たちとのさまざまな出会いと交流も、それぞれに忘れがたい思い出を残しています。
盲ろうのS君の世界史の授業は点字タイプライターを使って、すべて文字で伝えました。彼は言葉は発声できるので、わたしの点字と彼の声でやり取りしながら進めるマントゥーマンの授業は、とても楽しいものでした。
百八十キロの猛スピードを出し、単車で走っていて、事故を起こし、全盲になったA君は奇跡的に一命をとりとめ、二年間の休学を経て盲学校の普通科二年に編入して来ました。ネアカで生命力豊かな彼は、慣れない点字をマスターし、理療の道に進んで、今は大阪市内で働いています。
人の障害や運命はそれぞれに人に接近し、つきまといもします。しかし人は、それにあらがいつつも、仕方なく順応し、妥協しながら生きる術を知っているのだなアと思います。
障害はない方がいいに決まっています。障害をもつことはやはり不幸だと思います。しかし、障害があったとしても、人生に目標を持ち、それに向かって歩き続け、夢を実現することができたら、その人生は決して一面的に不幸だとは言えないでしょう。
わたしの場合も、人と時代に恵まれつつ、三十年の教職生活を送ることができ、不発弾の暴発がもたらした不幸を、かなりの程度克服できているのかもわかりません。