第55回NHK障害福祉賞 佳作
〜第1部門〜
「その先へ」

著者 : 西岡 奈緒子 (にしおか なおこ)  神奈川県

先のことなど、想像できない。
未来の想像なんて、したくない。

進行性の難病を抱える私にとって、時間の経過は、すなわち、今よりも身体が動かなくなることを意味する。誰でも老化により、年を重ねれば身体が動きにくくなるのだが、私の場合は、一般的な、いわゆる健康な人と比べて、その速度が速い。今は車椅子を使いながら生活している。
世界中が新型コロナウイルスの感染拡大による生活の変化と直面している今、先が見えない不安は、プレコロナの時代よりも、誰もが強く感じるものになっただろう。この大多数の人が直面する脅威は、難病という、ごく少数の人しか関わらないこととは、性質が異なるかもしれない。とはいえ、私の経験が少しは誰かの役に立つことがあると思う。不安や孤独を感じながら生きてきた私の記録を、ここに記すことにする。

私は、三歳のときに筋ジストロフィーと診断された。幼いころ、筋肉の病気ということは伝えられていたが、これ以上の情報を私は知らなかった。
思春期には、自分の病気の詳細を知りたくて、周囲の大人にせまり、困らせていた。なんで生きているのだろう、と悩んだ。同じような病気の人の存在を知らず、孤独だった。将来のことを考えると不安だった。
この病気の本質、すなわち進行性であることを知って私が絶望しないよう、両親は私が十八歳になるまで病気の告知をしないことを選択した。
十代までは成長と病気の進行が並行し、比較的、身体を動かしやすかった。階段の昇降に手すりが必要だったが、日常生活範囲での歩行はできた。
進行性ということを自覚したのは病気が告知されてからだ。先のことが不安になった。常に、動けなくなる恐怖が、じわりじわりと、心の底に渦巻いていた。けれど一方で、病名を知らないというモヤモヤは晴れた。難病で治療が確立されていないから、病名を知っても状況は変わらないのだが、私が立ち向かうもの、あるいは上手(うま)く付き合う必要があるものが見えて、自身の気構えが変わった。
先のことが不安だが、今できることまで諦めなくてもいい。今を楽しもう。そう思うことにした。実際には、一筋縄にいかないこともある。「チャレンジしたい」と言っても、「前例がない」と言われ、突破口を見つけるのに苦労したこともある。でも、今、楽しいことはないか、と考えるとワクワクできる。さらに、自分の想いを伝えて共感してもらえると、力が湧いてくる。結果として、やりたいと思ったことができなくても、やりたいと思えたこと、チャレンジしたことは、次の何かの肥やしになる。肥やしになるように経験を積みたい。

私は、子どものころから漠然と、大学を卒業して就職するものと考えていた。それしか道がないように感じていた。体力を使うことは難しいが、事務の仕事ならば、なんとかなりそうだ、と思っていた。振り返ってみると、限られた世界の中で、狭い視野しか持っていなかった。自分で可能性を狭めていた。将来の夢など、特になかった。やりたいと考える以前に、体力がないから無理だと諦めていた。このような想いを抱えながら、二十代を迎えた。
大学生活を過ごし、就職を考える年齢となったころのことだ。事務の仕事で就職するにせよ、歩くことや、腕の力に制限があることは、ハンディキャップになってしまうと強く認識した。そこで知ったのが障害者雇用枠の制度だ。障害者雇用枠とは、障害のある人が能力や適性に応じて就業できるようにするための採用枠のことである。国や地方公共団体、民間企業など、すべての事業に対して「一定の数の障害のある人を雇用する」義務が、法定雇用率によって決まっている。その制度を利用するには、障害者手帳の取得が必要だと、調べあげた。
私は障害者手帳を取得した。それを持って就職活動に挑んだ。ホームページで障害者雇用を行っている企業を探し、自宅の近くにオフィスがある企業に応募した。面談と筆記試験を経て、就職が決まった。
面談では病気のことを伝えていたが、上司や同僚に、どこまで自分の病気のことを伝えればよいか悩んだ。二十二歳ごろの私は、杖を使って歩いていて、見た目で、なんとなくハンディがありそうだ、ということは伝わった。しかし、具体的な症状は言葉にしなければわからない。筋力が弱い、というのは見た目だけではわからない。自分の病気のことを正しく理解してもらうために症状や必要な配慮を正確に伝えようとすると、たくさんの言葉を要する。二十二歳の当時の場合、次のようになる。

「私は筋ジストロフィーという病気で、生まれつき筋力が弱く、今は歩くのに杖が必要です。階段の昇降は最近難しくなってきていて、歩ける距離も、連続して十分くらいでしょうか(体調にもよるので自分でも自信をもって伝えられない)。手の力も弱くて、握力は数キロ程度で、重いものは持てません。座った状態から立つときには、何か支えが必要です。高めの椅子だと立ち上がりやすいです。今のところトイレは洋式なら大丈夫です。今後、どの程度のスピードで病気が進行するかはわからないです。通院は定期健診のみで、年に一回程度です。治療薬はないので薬は飲んでおらず、経過観察をしています」

これで足りているのか、自分でもわからない。「あ、そういえばこれもできない」と思い出すこともある。仕事に支障がなければ、これほど事細かに伝える必要がないだろうが、できないことは的確に伝えたい。周囲との距離感が難しいと感じた。

疲れてだるい、というのが症状のひとつであったとしても、傍(はた)から見たらサボっているように見えてしまうかもしれない。無理をしてしまうことを避け、加減して、きちんと休むというコントロールが難しい。特に仕事であればこそ、どこまでが必須で、どこからがプラスアルファの領域なのか、悩むことも多い。
入社したころは、「数年、働けたら、体力の限界を迎えて会社をやめるだろう」と思っていた。週五日、フルタイムで職場に出社。通勤は手動運転装置を使って、自分で運転した。徐々に、歩く負担が大きくなってきて、私は電動の車椅子を使うことを考え始めた。果たして車椅子でも仕事ができるものか。ドアが開けられるのか、コピー機は使えるのか、社員食堂の配膳はどうしようか、など、課題がある。課題があるから会社で車椅子を使うのをやめよう、というのは会社をやめるという選択につながる。在宅勤務ができないか、とも考えた。しかし、二〇〇〇年代の当時、在宅勤務の制度は育児、介護など一部の特別な事情の人しか利用できなくて、私の状況では難しいと人事の担当から言われた。
入社から三年がたち、徐々に仕事の醍醐(だいご)味を感じはじめ、できれば仕事を続けたかったので、上司や総務の担当に相談して、車椅子を導入した。
身体の負担は減った。しかし、周りの視線も気になった。どこまで配慮を求めてよいものか、悩んだ。
まだ、続けられるのだろうか。年を重ね、スキルアップしたいが、病気の進行による体力の低下も並行していく。病気により、できないということに目がいきがちだった。
自分のように、進行性の病気で会社勤めをしている女性が身近におらず、どのように仕事を続けていけばよいか、まったく想像がつかなかった。ただ、目の前のことをこなすのに精一杯(せいいっぱい)だった。

二〇〇八年、二十八歳を迎えた私は自分と同じ病気の女性と初めて対面した。「NHK障害福祉賞」を通じた出逢(あ)いだった。
孤独、不安、そして、「未来の想像なんて、したくない」ということ。症状による不都合への共感。語り始めたら、話は尽きなかった。自分たちと同じような人がいるのではないか、と考えるようになった。私たちは女性の筋疾患患者のための患者会を立ち上げるに至り、インターネットを通じて情報交換をし始めた。ブログなどを通じた出逢いがあり、会員数は百名を超えた。患者会を通じて、私は自分と同じように筋ジストロフィーで車椅子を使いながら、仕事を続けている女性と繋(つな)がることができた。彼女は私よりも少し年上で、同じような悩みを抱えながら、勤めていた。情報交換をしながら、一緒に課題の解決策を考えた。誰か、自分と同じような状況の人と話をできるということが、これほどまで心強いものなのか、と気付いた。孤独が薄れていくのを感じた。「あなたは一人ではありません」というのが私たちの患者会の合言葉なのだが、私はこの言葉を自分自身にも掛け続けている。

ひとつの課題がクリアできたように思えても、病気の進行により、次の課題が現れる。これが、進行性の病気と付き合うのが難しい点だ。繰り返し、何度も課題と向き合わなければならない。何度も課題と直面するうちに、ただ漠然と不安を抱えていては道が拓けない、ということを学んだ。患者会の仲間や福祉の相談員などに相談して、課題を解決するための方法を検討し、実現するための準備や交渉を進める。思い通りに進まないこともあるが、一人で悩まず、協力を得ながら進むことの大切さを知った。自分一人の力で解決できなくても、誰かの力を借りれば解決策が見つかることがある。不安になるのは、先が見えず、どうしたらよいか思い描けないからだ。とりあえず一歩、踏み出してみることで見えてくることがある。
私は自宅や外出先で、夫やヘルパーに介助をしてもらうことがある。しかし、通勤のための外出や業務中の介助については、経済活動に対する介助という扱いになるため、介助者の費用は公的補助の対象外とされ、全額自己負担か雇用主負担を求められるのが現状だ。ヘルパーを頼むにしても、人材確保や時間調整を都度(つど)行う必要がある。このようなことから、会社では介助を受けるのが難しいが、働きやすいように環境の整備をしていただいた。感謝の限りである。

難病を抱えていると、困難ばかりが溢(あふ)れてくるように見えるが、たまには希望も現れる。そのひとつが科学技術の進化だ。車椅子を使っている人でも、ロボットスーツを装着した歩行訓練ができるようになり、二〇一四年に私の街にもトレーニング施設がオープンした。ロボットスーツの装着には、身長や体重、著しい関節障害がないことなど、一定の条件があるが、私はその条件を満たしていたので、早速、トレーニングに通い始めた。電極を皮膚に貼り付け、皮膚表面から漏れ出る微弱な信号(生体電位信号)をロボットが読み取り、私の意思に従って、ロボットスーツが歩行をアシストする。歩けた、という感覚が心地よい。ロボットスーツをはずした後も、多少、足の動きがよくなる。劇的に歩行が改善するというわけではないが、ロボットスーツを装着することで「できなかったことが、できる」という快感は、何とも言えない。二〇一六年には筋ジストロフィーを含む八疾患に対し、保険適用が認められ、リハビリテーションに導入する病院も出始めた。今も、私は定期的にロボットスーツを使って歩行をするトレーニングを続けている。免荷装置の助けを借りて立位をとって、ロボットスーツに私の意思を伝えて歩くことで、普段できない動きをして血流の改善ができている。これからも可能な限り続けていきたい。
「できなかったことが、できる」という体験をしたことで、未来にあるのは大変なことばかりとは限らないのかもしれない、と思えるようになった。
もうひとつ、私の生活を変えたのが、ICT(情報通信技術)の急速な進化である。会社では、二〇一〇年代半ばからWeb会議が徐々に浸透してきた。Web会議は遠隔地にいる人とオンラインで行う会議である。インターネットを通じて、遠方の相手と映像や音声、会議資料などの情報をその場で共有できる。それまで会議と言えば、会議室に集まることが主流で、離れた場所の場合は出向くか、会議室に設置されたテレビ会議システムを用いていた。それが、自分の席でも、パソコンとヘッドセットを使って会議ができるようになったのだ。今ではWeb会議を行うことが当たり前になってきた。移動が困難な私も、遠隔地の人と一緒に仕事をしやすくなった。Web会議の普及により、会議を行う際に、開催場所という制約が減った。
二〇一八年には働き方改革法案が成立したことを受け、ワーク・ライフ・バランスを確立することを目指すという方向へ世の中がシフトした。テレワーク(ICTを利用し、時間や場所を有効に活用できる柔軟な働き方)の導入を政府が後押しするようになった。私の会社でも、テレワークの制度が拡充された。仕事を少しでも長く続けていくための道筋ができた。私は月に何度かテレワークを取り入れた。テレワークであっても、自宅から会議に参加することができ、必要に応じて、上司や同僚とチャット、音声通話を活用してコミュニケーションが可能だ。オフィスにいるのと同様に仕事ができることを体感した。
徐々に通勤の負担が大きくなってきたため、私は関係者と相談して、二〇一九年の秋から、テレワーク中心の勤務に切り替えた。出勤とテレワークの頻度が、それまでと逆になり、体力の維持がしやすくなった。テレワークでの業務における課題を洗い出し、業務手順の見直しや、自宅の環境の整備を進めた。例えば、書類を扱う作業は出社した日にまとめて実施し、テレワークの際にはパソコンのみで実施できる作業に集中するようにした。環境整備に関しては、ノートパソコンを使っていると肩こりがひどくなるので、机の上にパソコンを置くための小さな台を設置して、視線を調整しやすくした。昼食のときや仕事の後は、台ごと移動できるので、オンとオフの切り替えもしやすい。また、ワイヤレスのキーボードを用意して、画面とキーボードの距離を離すことにより、タイピングの姿勢をとる際の負担も減らした。自宅用のマウスや会議用のマイクスピーカーも重宝している。
徐々に新しい生活に慣れてきた二〇二〇年三月、新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、大企業では、多くの社員に対してテレワークが求められるようになった。出勤人数を制限することで、通勤やオフィスでの感染リスクの低減がされ始めた。私の職場も、原則在宅勤務となった。私は現在、常時在宅勤務で仕事を続けている。障害ゆえに進めてきたテレワーク導入の経験が、同僚の役に立つことがあった。多様性を重視している会社だからこそ、私がこんなときに役立てたのだ、と感じた。会社全体で在宅勤務が進むなかで、書類を扱う業務がオンラインで実施できるよう見直しがされ、テレワークの制約が減った。また、社会全体が気軽に外出しにくい状況となり、オンラインという言葉があちこちで聞かれるようになった。これまで私が、移動が難しいから、と諦めていたイベント(セミナーや、ライブなど)にも、オンラインで参加できるようになりつつある。社会の環境の変化によって、障害による制約を減らすことができるケースもあると実感した。
今、私は、できる限り仕事を続けていきたいと考えている。今年、四十歳を迎えたので、六十歳の定年までは後二十年。どこまで続けていかれるか、わからないが、自分で可能性を狭めてしまわないようにしたい。無理のない範囲で、都度、課題を解決していきたい。ともすれば、不安に襲われそうになる。自分の気持ちを声に出して伝えるのは、なかなか難しく、言葉を選び、伝えようと試みて、やめてしまうこともある。けれど、自分は一人ではない。今までの経験から、そっと寄り添ってくれる誰かがいるはずだと、思うことができるようになった。
この先も不安になることがあるだろう。けれど、「あなたは一人ではありません」と、自分に、そして誰かに声を掛けたい。

先のことなど、想像できない。
未来には、想像できないような、医療技術や科学技術の進化が起きる可能性だって、あるのだから。
たまには未来のことを想像するのも楽しいかもしれない。
その先へ。あなたとともに、未来を築きたい。

これまで出逢った あなたへ
これから出逢う あなたへ
ともに生きていかれることに、感謝申し上げます。

以上