第55回NHK障害福祉賞 佳作
〜第1部門〜
「「彩加! 生きるんだよ、生きるんだからね」〜二十五キロの心体(からだ)で見た世界〜」

著者 : 鎌田 彩加 (かまた あやか)  埼玉県

〇発症

「食べることが、怖いかもしれない」
私が摂食障害を発症したのは、高校二年生十七歳の春。
「何日までに何キロ減らそう!」
友だちとの何気ない興味本位の会話の中の一言が始まりだった。当時身長一六一センチ、体重四十六キロほどで健康体、体重や自分の体型など、気にしたこともなく、食べることも大好きだった。
そんな私に「身体が軽い」という今までにない感覚があったのは、胃腸炎で何日も食べることができなかったとき。これが人生で初めて自分の体重を意識するきっかけとなった。体重を量ると自分の記憶していた数字より三キロほど軽く、なんだか嬉(うれ)しかった。私はきっとこのときに何かのスイッチが入ってしまったのだ。この日からお菓子はいつもの半分の量、ご飯は必ず一杯だけで、おかずはなるべく少なくするというルールを決めた。お風呂の前は必ず裸で体重を量り、前日の数字と比較することも徹底していた。この頃は数字が減っていくことが、とにかく素直に嬉しかった。ただその気持ちだけだった。
しばらくすると、
「どうして最近半分しか食べないの? ダイエットはする必要ないんだからね」
と母から言われ、「どうしよう、このままでは母にやめさせられてしまう」と、隠れて行動するようになった。半分食べた残りを隠したり、体重を量っていることを気づかれないよう母の目を気にしながら行ったり、徐々に自分が何か悪いことをしているような気持ちが生まれ始めた。母が毎日欠かさず作ってくれていたお弁当も、食べたふりをして、学校のトイレに流してしまうこともあった。罪悪感でいっぱいだった。泣きながらご飯を口に入れ、食べられない分をトイレに流し、何をしているのだろうと自分をたくさん責めた。しかし、やめることは自分の中で許されなかった。やめる恐怖より、食べないことの安心感の方が強かった。誰にも相談できない。母に言えば、やめさせられてしまう、母の悲しむ顔を想像すればするほど相談することはできなかった。
また、母の「食べることが怖くなったらもう病気だからね」という一言をきっかけに、症状を調べ始め、「摂食障害」の存在を知った。目を瞑(つむ)りたくなるほど怖かった。歯止めがきかない、一人で抱えることは限界だった。「何日までに何キロ減らそう!」と約束した親友。この子になら話せる。そう思い、
「食べることが怖くなってしまったかもしれない」
と泣きながら言葉にならない感情を一生懸命伝えた。嫌われてしまうかもしれないと不安もあったが、この子なら信じられた。すると、私の言葉を聞いた親友の口から、
「私も同じだよ」
と。
親友も同じ時期に同じ症状で苦しんでいた。驚きよりも安心感があった。二人で泣きながら保健室に駆け込んだ。自分たちなりに症状を伝えると先生はすぐに親に電話をかけてくださった。私が直接伝えられなかった気持ちや状況を保健の先生を介して母に伝えてもらうことができた。私は正直、母に怒られてしまうかもしれないという恐怖が強かった。しかし、家に帰ると母は、
「自分から話に行けたのね」
と優しい声と表情で言ってくれた。母の顔を見てどれほど安心したか。ものすごく心が軽くなった。自分の行動を隠している罪悪感に押しつぶされそうだった気持ちがすうっと体から消えていった。この日からお弁当を自分で詰めるなどをし、母にはものすごく申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、何かに縛られず自分のペースでいられることで気持ち的にものすごく楽だった。
ただ、同時に行動は悪化していった。体重はどんどん減っていく。高校は制服で、スカートを履くため、身体のラインが周りには見える。体重が身体に現れると周りから
「どうしたの? 痩せた? 食べてる? 大丈夫?」
と声をかけられることも増えていく。心配かけてしまっているのは心では分かっていても、
「胃腸炎で食べれなくって!」
と笑顔で応えることしかできなかった。自分にも周りにも嘘(うそ)をつくことの罪悪感から、声をかけられないよう人がいる所を避けて行動するようになった。
夏が明けた頃には体重は三十五キロほどに。当たり前に、スカートのウエストもぶかぶかに。自分の行動がおかしいと気づいていても、自分の限界を超えられている、そんな嬉しさや達成感のほうが大きかった。徐々に、食べるものへのこだわりだけでなく、食べる時間へのこだわりも強くなる。何時までに家に帰宅し、何時にご飯、何時にこれをしなければならないという強迫観念が自分への負担をより大きくさせた。周りに迷惑をかけるたび、本当に情けない、ごめんなさいでいっぱいだった。この気持ちがあるはずなのに、自分の強迫観念にはどうしても勝てない。悔しくてたまらなかった。学校の帰り道、時間を気にして全力で走っている自分。なぜこんなに必死なのだろうと自然に涙が溢(あふ)れることもあった。辞めたい、普通がいい、普通になりたい。その気持ちで食べるんだ自分、食べてよ自分と言い聞かせていたが、もうこのときには食べることの恐怖に勝てるものはなかった。食べたら、食べてしまったら、と頭によぎる体重計の数字。何かに取り憑(つ)かれているような何かにコントロールされているような、自分では自分をもうどうしようもできなかった。

〇回復……?

高校生三年生になると、クラス替えなどの環境の変化もあり、自然と症状が和らいでいった。大学受験もあり、自分以外のことに目を向ける時間が増えたからだろう。食べるものはサラダやスープ、ヨーグルトやフルーツなど、限られてはいたが、以前に比べ、時間の強迫観念や、食べる量へのこだわりは減り、気持ち的にも楽になった。母の作った煮物が全部食べられたとき、お風呂に入っている母にわざわざ報告しに行ったこともあった。私にとって食べられる喜びはそのくらい大きいものだった。そして、無事高校を卒業し、小さい頃からの夢であった小学校教諭、幼稚園教諭、保育士の免許が取得できる大学に入学した。大学三年生までは、自分について深く考える時間がないほど、授業、課題、実習、そして、アルバイトの日々で、忙しかったが病気のことを忘れるくらい毎日が充実していた。

〇眠っていただけだったね、私の中のわたし

自分への違和感を感じ始めたのは、大学四年生。七月の教員採用試験に向けて講義を受け、勉強に取り組み始めた頃だった。この頃は、大学三年生までの分刻みで大学内を駆けずり回るあの忙しさはなかった。自身のペースで勉強に取り組み、自分で自分の時間をコントロールできるようになる。
こうなった瞬間、何かの糸が切れたかのように私は食べ物に走った。縛られていた紐(ひも)をほどいてもらったときのような勢いで、食べ物を買い込む日々が始まった。朝、家族が仕事や学校に向かったことを確認し、家を出る時間ぎりぎりまで、食べ物を口に詰め込む。お腹は苦しい。やめたいのにやめられない。自然と流れる涙も口に運ぶ手も止まらない。そんな毎日が繰り返された。この状況の中でも、教員採用試験には無事に合格し、四月からは念願の小学校の教員になることが決まっていた。念願の夢が叶(かな)った瞬間、喜びでいっぱいのはずだった。
だが、私は、十月の合格発表から、四月の小学校への着任までの約半年、自分を見失ってしまった。今までは決まった授業を受け、課題をこなし、目の前にこなすべきものが明確に見えていた。だがこの半年は違う。自分自身で先生になるための準備をする、そういう自分自身への時間。私にはそれが見つけられなかった。その不安を埋めるように生まれた「マイルール」。これが、これまで以上に自分の症状を悪化させることに繋(つな)がった。起床し、親、兄弟が家を出たあと一人になるとそこからマイルールは始まる。自分で決めた時間まで食べ物をチューイング。飲み込むことが許されたのはフルーツ、ヨーグルト、酵素、炭酸水、大根おろしのみ。それも、自身で決めた量が絶対。時間になると、決まった駅の決まったトイレの中の決まった個室に入り、食べてから起こる腹痛で排泄(はいせつ)をする。排泄が終わると駅の周りを決まった時間歩く。ひたすら歩く。そして、決めた時間が来ると同じトイレの同じ個室でまた排泄をする。決まった時間までこのルーティーンをこなす。朝食べたもので膨らんだお腹が、朝起きたときと同じ状態(ぺたんこ)になることを自分で確かめなければ、家には帰れない。帰ってはいけないという強迫観念が襲ってくる。親の帰宅する時間に間に合うように細かく計算し、間に合わなければ浣腸をつかって排出することまでしていた。ボロボロになっていく体。心は言うことを聞いてくれない。もう感情がぐちゃぐちゃだった。
三月まで一日も休まずこれを繰り返した。自分のルールをこなさなければ、パニックを起こす。友だちにも会うことはできなくなった。何かに自分は支配され、自分の中のもう一人の自分がいるようだった。心配する周りの声も入ってこない。三月の時点で体重はすでに二十五キロほどだった。毎日乗る体重計の数字を見ても、体重が減りすぎて怖い感覚はなかった。それよりも、マイルールを破ることへの恐怖のほうが何倍も何倍も大きかった。
四月、私の体を思っての周りからの心配の声もあったが、諦める決心ができず、この身体で、小学校へ着任した。二十五キロにもなると、両足は鉛をつけているかのように重く、自身の手で足を持ち上げなければ階段を上がることもできない。顔は、骨がくっきりと浮き上がるほどこけ、耳にも酸素が回らず、水の中にいるように周りの声や自分の声がこもって聞こえるようになっていた。自分でも感じていた。もう体は限界なんだと。それなのに心は食べることを許してはくれなかった。右も左も分からず、とにかく必死だった初めての教員生活は、座ることも、トイレに行く時間も自分の中で作れないほど多忙であった。ただ、子どもたちといる時間だけは自然と笑顔でいられる、何もかも幸せで楽しかった。その一心で全てを頑張れた。

〇二十五キロの心体(からだ)でみた世界

教員になり、二週間ほど経った頃、ついにベッドから起き上がることができない状態になってしまった。すぐに地元の病院に向かったが、そこでは対応できる体の状態ではなく、都内の大学病院へ移された。ここでも私は、
「入院はしたくないです。自分で治せます」
と大泣きをして先生や親に訴えた。それくらい「マイルール」が命よりも自分を支配していたのだ。
大学病院で様々(さまざま)な検査を受け知った体の状態。体温三十二度、血圧上が六十、脈拍四十、すぐにICU(集中治療室)での治療が始まった。あとから知ったのだが、このとき、両親には生きるか死ぬかのハーフハーフ、あと二日遅ければ命はなかったと医師から伝えられていた。人工呼吸器をつけ、足と手に何本も点滴を打ち、尿を出すための管を入れ、首には中心静脈カテーテル、自分の状況が把握しきれないほどの姿になっていた。ここまで来てやっと、休んでいいんだと思えるようになった。ここから約四か月間の治療の中で、肺炎、肺気腫、肺気胸、中心静脈カテーテルの感染症で三十九度近くの発熱、肝臓の数値が基準の四倍に、ヘモグロビンの数値の低下で輸血を二回、栄養を入れるため腸まで挿管……などとさまざまな症状を繰り返した。ただこれらはほとんど記憶はなく、昏睡(こんすい)状態だった一か月の間で起こった出来事だった。
そんな中でも聞こえた
「彩加! 生きるんだよ。生きるんだからね」
と毎日欠かさず面会に来てくれていた母の声ははっきりと覚えている。この後、大きな山場を三回ほど経験する。それはどれも人工呼吸器をつけたり外したりする中でできた、気管内の傷が原因だった。通常なら傷ができても自然と治るが、私は免疫力、治癒力が極端に減っていたため、治ることなく傷が肉芽に変わってしまった。その肉芽が空気の通り道である気管を塞ぎ、呼吸困難を起こしてしまったのだ。医師から告げられたのは、「気管切開」。呼吸の道を確保するための穴を、首、のどの辺りに開ける手術だった。目の前には、手術への同意書。
「いずれ塞げる可能性はもちろんあるが、場合によっては、一生そのままの可能性も、最悪、一生声が出せなくなることもあります。どうしますか」
と伝えられた。私は目の前が真っ暗になり、どんな強い鎮痛剤も効かないほどのパニックを起こした。手術後、自分の顔を鏡で初めて見たときも、現実を受け入れることができなかった。自分の体に大きな穴が空いている。自分だと受け入れたくなかった。過呼吸を起こすほど怖かった。なんで自分が……と。
気管切開後は、治療が順調に進み、寝返りから、座る、立つ、歩く、走るのリハビリ、発声の練習も行った。ご飯は退院前には残さず食べられる状態で、精神状態も安定していた。初めて完食できたときは、母や父に喜んで報告し、食べても大丈夫という安心感と、食べられたことへの自信を得た。約四か月間の入院を経て退院が決まったとき、もうこれで大丈夫、もう治るまで遠くない、そう感じていた。だが、私の中でなによりも苦しくて辛(つら)い日々はここからだった。
退院してまもない頃は入院時と同じような生活を送ることができていた。次第に、症状が再発しないよう私の行動を細かくチェックする母と、母の思いも理解できるが、それがものすごくストレスに感じる自分との間ですれ違いが起き、ぶつかることがものすごく増えた。一日中チューイング、過食嘔吐(おうと)する日が当たり前になり、お金も時間も食べ物も無駄にする。そこに声が上手(うま)く出せないストレスも重なり、自分の価値がどんどん分からなくなっていった。もう何のために生きているのか分からなかった。私は生きているだけで迷惑をかけている。そう自分を塞ぎ込み、家族に顔を合わせることも、友だちとも会うこともできなくなってしまった。「こんなに苦しいのにどうして生きていなければならないの」と。
そんな日々が三年ほど続いた二〇一九年の春。「世界摂食障害アクションデイ」というイベントに二回目の参加をした。そこで、展示されていた摂食障害のマンガを読んでいた私にNHKの記者の方がインタビューをしてくださった。この様子が後日テレビで放送され、視聴者の方からたくさんの感想が寄せられたことを知った。
「あやかさんのインタビューに勇気づけられました……」
こんな私でも誰かのためになることができたのだと。病気が治っていなくてもこのままの姿でありのままで生きていていいのだと。このとき強く強く実感することができた。この出来事が塞ぎ込んでいた私の心の扉を徐々に開かせてくれた。
この日を境に、友だちに自分から連絡したり、家族に挨拶ができるようになったり、行動が前向きになった。通院も週に一度が二週に一度、一か月に一度と間隔を開けてもよい状態になった。通院中には、同じように気管切開をしている高齢の方に声を掛けてもらうことが多くなり、笑顔で明るく声を出せているあなたの姿をみて希望を貰(もら)えましたと伝えてくださる方もいた。素敵な出会いがたくさん見つかった。大好きな友だちにも会えるようになり、一緒にご飯を食べられるようにもなった。私の失った時間を取り戻してくれているかのように、会いたくても会えなかった友だちと過ごせる時間は本当に幸せを注いでくれる。

〇憎いけどそれ以上のありがとう

摂食障害という病を経験してよかったと言えば嘘になるが、私はこの経験を経て失ったものを遥(はる)かに超える沢山(たくさん)の愛を受け取ることができたと思っている。病気を発症し、死ぬ瀬戸際を乗り越えられたのは、支えてくれる温かい人たちがいてくれたから。その人たちが今の私を作ってくれた。同じ病を一緒に闘ってきた子、何かあるたびに連絡をくれる子、外に出られない私をドライブに連れ出してくれる子、私の食べられそうなお店を探して連れて行ってくれる子、辛い辛いと弱音を吐く私に優しい言葉だけでなく、厳しい言葉をくれる子、「鎌田はもう幸せの上に乗っかってるから絶対大丈夫」と私を自分のことのように信じてくれる子、数えきれないほどの愛が前を向くための言動力に変わっていた。
そして、何よりも一番近くで支えてくれている家族。母とは退院後も何度も何度もぶつかった。小さい頃から母の近くでないと何もできない、母が大好きな子どもだった。そんな母と病気をきっかけに、ものすごく距離ができ、母を嫌いになりそうなことが数えきれないほどあった。理解してもらえないことが苦しくて悔しかった。ただ、今は家族として母としての距離でではなく、人と人としての距離が近すぎてしまったのかなと考えられるようになった。母も摂食障害の経験者で、性格も似ている部分が多くお互いに受け入れられないことがきっとあるのだと。どんなにぶつかっても心の中での大好きな母は変わらない。すれ違うことが多い反面、苦しいときにかけてくれる母の言葉はいつも一番の原動力であると自信を持って言える。私の状態が悪化したとき、地方の出張から抜け出し駆けつけてくれた父。お見舞いにきたときは必ず手を握ってくれた。いつも涙を浮かべて元気になってお家に帰ろうと伝えてくれた。歩行器を使い歩けるようになったとき、出なかった声が出るようになったとき、涙を流しながら一緒に喜んでくれた。腕を組んで歩く練習をしたことは一生の思い出だなと思う。私と母がぶつかるたびに父にはたくさん迷惑をかけた。どんなに迷惑をかけても「彩加はパパの大事な娘だよ」と見捨てないで見守ってくれている。意識が朦朧(もうろう)としていた中、遠くからお見舞いにきてくれた弟二人の顔と、かけてくれた「負けるなよ」の言葉は一生忘れられない。私の病気をきっかけに家族がばらばらになりそうなときも、弟たちの存在にとても助けられた。振り返るたびに、苦しかったときに感じた摂食障害への憎さは、その分たくさんの愛を届けてくれていたのかもしれないという、ありがとうへ変わっていく。

〇摂食障害、それは自分を見つける旅

小さい頃の私は、洋服、髪型、行動、親に決めてもらった「ルール」の中で生きてきた。運動も勉強も得意なほうで、目の前の決められた課題は、良くも悪くも最後まで全力を注いでやり抜くことができた。ただ、目の前のレールがなくなり、やるべきことが分からなくなると私は自分を保てなくなる。また、一つ何かで手応えを覚えると、これでないといけないという強迫的な極端な考えが生まれてしまう。これは、摂食障害のきっかけを作った自分でもあるかもしれない。だが、この自分がいたからこそ、見ることのできた道が今はある。
私は現在、症状がゼロになったわけではない。チューイングや、気管切開の後遺症に悩むこともある。ただ、症状ゼロを目指し、自分を縛り付けて生きるより、自分の好きなことに目を向け、気づいたら良くなっていたくらいでいいじゃないかと自分を許せるようになった。症状がゼロになることだけが克服と決めつけるのではなく、マイナスがプラスになるその喜びがある、それ自体が私の中の克服の一つとなっているのかもしれない。ゼロか百かの間にワンクッション考え方を挟むことができるようになり、何倍も何倍も生きやすくなった。
摂食障害という経験は、見失ったレールの一つ目を教えてくれた。自分を見つけるために、自分の幸せを大好きな人と共有するために生きようと。これから私は自分というレールを探し続け、自分の人生(みち)を自分の足で歩んでいこう。そして、いつか必ずあのとき応えることのできなかった「生きるんだよ、生きるんだからね」の声に自信を持って
「生きてるよ! 自分で自分を生きれてる!」
と応えよう。こう自分を信じて歩み続けたい。

以上