第55回NHK障害福祉賞 優秀作品
〜第2部門〜
「ひとりごと 〜高次脳なオットとコロナと今を生きる〜」

著者 : 白井 京子 (しらい きょうこ) 大阪府

あっ〜、凄(すご)い白髪や〜
鏡の中の自分にハッとする
それに寝不足で目の下にクマが出来てる
鏡の中の私をまじまじと見つめる
年とったなぁ〜
いつからこんなおばさんになったんやろう?
おばさん通り越しておばあちゃんや
めちゃ苦労してる人みたいやん
あ〜っ、いやや! いやや!!

となりでオットのいっちゃんが
歯磨きしようとして
髪の毛用の大きなブラシに歯磨き粉を
つけようとしてる

あっ、いっちゃん
歯ブラシはそれちゃうで!!
こっちこっち
こんな大きなブラシ、口が裂けてまうやんか
冗談言ったつもりはないのに
いっちゃんはプッと吹き出し
それと共に鼻から鼻水が飛び出す
ついでによだれも……
あ〜あっ、
えらい事なってるで……
歯磨きはな、こうするねん
私はあっちこっちを拭きながら
歯磨きをする方法をオットにやって見せる
それをじーっと見たオットは
わかったのかわからんのか
何となく歯磨きを始める
毎日の朝の光景

そう、私のオットは、超重度な高次脳機能障害のいっちゃんだ。

十四年前、全国でもただ一人という珍しい脳の症例で、ドクターたちを驚かせた張本人。こんな症例でよく生きてるなって、口には出さへんけど思ったに違いない。
当時の事思い出すだけでもドラマすぎる。私四十三歳の冬の出来事。
あれよあれよと体調が悪くなり、職場の事務所で倒れたのが年の瀬も押し迫った十二月二十八日。
もう今まさに死ぬやろうってそんな状態で送り込まれた国立循環器病研究センターのドクターに呼ばれた私は、命の選択をしなければならなかった。
白井さんは全国でも珍しいというか、ただ一人の症例で、このままでは命の継続は難しい。手術は前例がない。手立てがない。
そんな事をドクターは私に言っていたような気がする。要は、いっちゃんは死ぬっちゅう事やな。あまりの衝撃で受け入れられず、どのドクターと話したかすら覚えてない。その時の記憶がないのだ。
ただ、決められへんなと、いっちゃんの命を私が決めるなんて出来へんと、そう思いながら涙が滝のように。ほんまにようあんなに泣けるなってぐらい泣きながら家に帰ったのは覚えてる。どうしていいか頭がフリーズしたのも覚えてる。そのほかは全部忘れた。
次に覚えているのは住道(すみのどう)駅のロータリー。車の中で予備校から帰ってくる息子を待ち構えて、堰(せき)を切ったように、遼君パパがな、パパがこのままやったら死んでしまうらしい。そやけどな、手術の前例がないって先生が言わはってな、しかも手術中に死んでしまう可能性が高いっていわはるねん。九九・九%がダメでもし奇跡的に手術が成功して助かったとしても、全盲寝たきりの、自分では息も出来ない植物状態になるらしい。遼君どないしょう? ママに決めるなんてできへん。植物人間なんて嫌やし死ぬのはもっと嫌や。どっちも嫌や。どうしたらええの?
息子はずーっと黙って私の話を聞いた。
沈黙が続いた。十分やったか十五分やったか長い沈黙やった。そもそもなんでこんなに重い決断を十八歳の息子に相談してんねん。私あかんたれママやなと、いつも当時を振り返る。
息子はフロントガラス越しに空を見上げ、深く息をして、ママ手術をしよう。このままやったらパパは冷たくなるんやろ。もし目が見えへんかったら僕が目になる。歩かれへんかったら僕が車いすを押す。僕はな、そこに行けば温かいパパがいる、それだけでいいねん。だからママ、手術をしよう。

今、私の横で櫛(くし)に歯磨き粉をつけようとしてる超重度の高次脳機能障害のオットは、まさに当時十八歳だった息子のこの決断のお陰で、今奇跡的にここでこうして生きている。

そこから介護生活が始まり、今十四年目になる。
二十四歳でいっちゃんと結婚したから、あと数年したら介護状態のいっちゃんと暮らす方が長なるやん。そら白髪にもなるわなぁ〜なんてため息つく間もなく、このオットは次から次に色々(いろいろ)やらかしてくれる。
特にこのコロナ騒動、白髪はしゃあないなぁ〜と往生際が悪いねん、私。
白髪が増えた事相当ショックや!! 色々思う。
コロナが言われ出して怖い怖いと言いながらも、ほんまに自覚したのは三月三十日の息子からの一本のLINEやった。芸能人がコロナで亡くなってみんなが驚いた。普段(ふだん)LINEなんか送ってけーへん息子も随分慌てたようで、そのLINEには「色々本気で自粛せなあかんな」と書かれていた。自分もジムも休んで大人しく割り切って勉強するから、ママも外に出るのは全部ストップやなって送ってきた。
その日仕事から帰ってきた息子と家族会議をして、絶対いっちゃんをコロナに罹(かか)らすわけにいかん、となる。心臓の持病があるいっちゃんはコロナなんかに罹ったら重症化間違いナシや。
しかもこの混乱している医療現場の方に「うちの主人、重度高次脳機能障害で……」なんて頼めるはずもない。水すら自分で飲みたいと意思表示できないいっちゃんは、きっとすぐ死んでしまう。
そんないっちゃんの看病すらできへんし、お別れも見送りも出来ないなんてありえへん。
あんな決断をして繋(つな)いだ命やのに絶対守らなあかん。息子と私の意見は一致した。
だから国の緊急事態宣言より前に全ての事をストップして自粛すると決めた。
白井家緊急事態宣言や。
全てとは、毎日朝晩お手伝いに入ってもらってるヘルパーさんも、そして毎日行っているデイサービスも。
とにかく人との接触を全てストップや。
もちろん私の仕事もストップ、いっちゃんは私が全面的に面倒みるってそんな形に決めた。
自信はないけどしゃあない。
しっかりいっちゃんに向き合おう。
十四年間いつも誰かの手を借りて、介護と親代表と仕事を乗り切ってきた。
ここいらでいっちゃんだけに集中して向き合うのも悪くないかな?
そんなポジテイブな考えで、またまたお得意のお家デイサービスとかKYOKOデイサービスとか適当な名前を付けて、いっちゃん明日からKYOKOデイサービスやで!! なんて笑って見せた。
いつも甘いねん私。
四月一日から始めたKYOKOデイサービス、おちゃらけて適当な名前で始めたけど、こんなにしんどいとは思ってもみなかったよなぁ〜。

朝起きてから夜寝るまで、何なら夜中の生存確認まで入れると二十四時間体制や。
三食の食事におやつ 脱水にならんように水分補給。
目が回った。
KYOKOデイで最初考えたのは、歩こう!! って事。
いっちゃん歩く事少なくなって、全然上手に歩けてない事知ってる。でも仕事を理由に後回しになってた。
よし!! しっかりいっちゃんと歩こう。
最初は地元の神社まで三百メートルぐらいから始めた。
いっちゃん全然歩けない。
歩幅が狭くてちょこちょこ歩きで、そして前傾姿勢で胸が全然張れてない。あかんわこんな姿勢じゃ。
いっちゃんってこんなに歩けなくなってるのか。
ちょっと衝撃だった。
去年三か月だけだったけど、歩く事に重点を置いたデイに通い、すごく上手に楽しそうに歩けるようになって、それと共に廃用症候群が改善され、鼻歌まで歌って人間らしくなってたはずやのに。あかんやんこんなんじゃ。こんなにすぐに後退するんや〜。
私のスパルタ魂に火が付いた。
そこから午前一回午後一回と、一日二回
距離も三百メートルから一キロ、そして二キロと増やしていって、最終は三キロずつ歩けるようになった。コースも西コース・東コース・おっきい公園コース・お墓参りコース、なんてネーミングだけはいっちょ前につけて、いっちゃんに選んでもらって毎日歩いた。
六十四歳の主人と毎日手をつないで自分の住んでる地域をあちこち歩いてみたら、色んな発見があってそれはそれで楽しかった。
自粛のこの時間が何だかプレゼントのような、そんな気持ちさえ湧いてきた。
たいがい私一人がベラベラ喋(しゃべ)りもって歩き、いっちゃんはにこにこそれを聞いて歩く。そのうち色んな家の庭先の花を色々見て回り、きれいやなぁ〜って一人で喋っていても、うんうんと頷(うなず)くいっちゃんの反応が良くなっている事に気が付いて嬉(うれ)しくなる。
散歩のほかに音楽療法と称して大きな声で歌を歌った。きっと近所迷惑だったと思う。
でも音楽が大好きないっちゃん、懐かしの昭和な歌やそして今はやりのアイドルの歌まで、何でも来いのいっちゃんと毎日大きな声で歌を歌った。その辺りからいっちゃんのいつもぼんやりした表情が変わっていった。
良く笑う。笑いのツボに入ったら何がそんなにおかしいの? というぐらい、しまいには泣いてるのか笑ってるのかわからなくなるぐらい笑う。その泣き笑いにこちらまでつられて笑い出して、いっちゃん皺(しわ)増えるやん、と突っ込む。二人で泣き笑いや〜。
晩ご飯は一緒に作った。
料理療法と称して、なんか手伝ってもらおうと決めた。
多分その方が効率も悪く時間もかかるのはわかっていたが、いっちゃん料理作りたいんちゃうかなって思って聞いてみたら、にこにこしながら、うん!! とお返事が返ってきたからしゃあなしで始めた。
ゆで卵の殻をむいてもらったり、野菜を洗ってもらったり。そやけどどうも野菜を切ったり炒めたりしたそうなのがわかったので、どんどんやってもらった。忙しくも充実したいっちゃんとの時間。
そんな調子で最初から全力疾走したもんやから、四月の終わりごろ、私の右耳がキーンと痛くなったけど、病院に行くのは、はばかられたので、二、三日ほっといたら聞こえなくなってきた。
やばっ、あかんやつちゃうん?
私無理してるんかも?
手抜くとこは手抜きにしようって、また息子と家族会議をした。
そのころぼんやりと頭をかすめたのは、誰とも会わへんって孤独やなぁ〜って気持ちやった。
みぞおちのあたりがキリキリして、そして喉の奥に何か詰まっているような感じに襲われた。そして自分がどんどんしゅんとなるのがわかった。そのうち、これ私以前に体験済みの気持ちやんって事にも気が付いた。
体験済みの孤独?
それは主人が倒れて障害者に変身して帰ってきたあの頃。命が助かってほんまは大喜び、温かいパパが帰ってきて嬉しいはずやのに、なんで毎日毎日がしんどくて出るのは涙とため息ばかりやねんって思っていたあの頃。
誰に何言ってもわかってもらえなくて、同じ高次脳機能障害の家族会ですら苦痛やったあの頃。
いっちゃん重度すぎてどの話も私のそれとは違った。
ケアマネなんて敵やぐらい思ってた。
どれだけ説明しても話通じへん外国人みたい。
いっちゃんは年寄りちゃうねん。認知症ちゃうねん、高次脳機能障害やねん。リハビリしたら少しずつでもよくなるねんって何回も何回も説明してもわかってもらえなくて、挙句(あげく)奥さんは口うるさいやかましい人とか介護鬱(うつ)やとか言われ始めて、そんな状態やから頼りのケアマネにすらもう何も言わんと決めた。

わたしひとりやん。誰もわかってくれる人おらん。
そう思って心のシャッターを全部閉めて、口を閉ざして誰とも喋らへん。友達とランチも行かへんし、私はもう前の私とは違う。
いっちゃんが重度高次脳機能障害になったあの日からみんなとは違うんやってそう思っていた時期、いつも白井京子暗黒の時代とよんでいるあの時と一緒ちゃうんかな?
家族だけで息をひそめて生きていたあの頃と一緒の気持ちやわぁ、って胸がキリキリ痛くなって、おまけに右耳聞こえへんようになってもた。

孤独って怖いな。
全国の高次脳の人大丈夫やろうか?
高次脳の作業所をしてるゆきちゃんに、みんな大丈夫やろうかって電話してみた。
私は自分の事で精一杯で何にも出来へん。無力やって、口から悔しい気持ちがあふれ出てた。
ゆきちゃんは私よりずっと若いのにすごく落ち着いていて、京子さんは宇宙一ポジテイブ発言が上手な人やから、今まで通り京子さんのブログ頑張って書いて!! 京子さんのブログで元気もらう人いっぱいいるからって言ってくれた。
私のブログ? いつも悩みながら書いてる私のブログが?
そうか、ゆきちゃんありがとう。私頑張るわって我ながら単純やなぁ〜って思ったけれど、私は今私に出来る事しかできへんねんから焦らずコツコツポジティブブログ書こう。そう思えた。
そんなこんなしてたら、地域のヨガの先生のオンラインヨガの体験がある事を知り、申し込んでみた。森美鈴先生、いっちゃんも何度か地域の行事で顔を合わせた事がある先生。美鈴先生は高次脳ないっちゃんでもやりやすいように工夫してレッスンしてくれた。
携帯の画面見て、私といっちゃんがヨガをする。
楽しかった!! 十五分やけど身体がポカポカしてきて、何より私が嬉しかった。
画面越しではあるけれど、いっちゃんや息子以外の人と話す事。繋がる事。これ、精神衛生上絶対ええわ、直感で思っていたら、美鈴先生からオンラインでいっちゃん教室しましょうって言ってくれはって、私はこんなええ事一人占めしたらあかんって思って何人かの方にお声をかけ、美鈴先生のオンラインde高次脳ヨガが始まった。
それがもう楽しくて楽しくて!!
月水金の十五分が楽しみになったのはいっちゃんも同じ。どんなに散歩で疲れていてもヨガって聞いただけでしゃっきりする。いっちゃんヨガやで〜っていうと自分から椅子にスタンバイする。
不思議や。何一つ自分からする事はないのに。
いっちゃんヨガ好きやねんなぁ〜。
私は最初は、いっちゃんのそばで手を持ったり身体をひねったり、色々お手伝いしていた。でもちょっと待てよ。これ私がそばにいなくても、いっちゃん画面の美鈴先生と出来るんちゃうかな? 一回やってみよう。そう思って、そーっとその場を離れて見守る事にした。案外出来る。いっちゃん集中出来るやんか。すごい発見や!!
こんな事もあった。
道行く美鈴先生を車の中から発見。いっちゃんわかる? って聞いたら、はっきりと美鈴先生って大きな声で呼んだ。それには私も美鈴先生も鳥肌もんやった。
いっちゃんわかるんやね!!
重度高次脳機能障害やけど大事な事ちゃんとわかるやん。記憶は続かないって言われているけど新しい事も覚えられるし、ちゃんと記憶出来てる!! 可能性は無限大やな!!
月水金のオンラインヨガと毎日の散歩、繰り返し繰り返し時間が流れていく。
ある時いっちゃんと散歩をしていた時の事。国道の向こう側から何かジェスチャーで言ってるご婦人が視界に入ってくる。
どうやら私たちを見つけて引き返してきたらしい。私もマスク、ご婦人もマスク越し。知り合いかな? う〜ん知らん人やな。なんか私、物落としたりしたんかな、きょろきょろ見回すけどなんも落としてへん。
そのうちご婦人がマスクをずらして、口笛のいっちゃんやね? 私新聞で読んだよ。いっちゃんと奥さんから元気もらってんねん。こんなコロナの世の中やけど、頑張ろうねってガッツポーズをしてくれた。
車がビュンビュン行きかう国道越しに。
めっちゃ嬉しい。
口笛のいっちゃんというのは障害者になってからの主人の新しい顔。言葉が喋れないいっちゃんの数少ない自己表現の一つが口笛で、その口笛をCDにして残そうと、プロジェクトSという仲間がいっちゃんに出来、そこからあれよあれよといっちゃんは口笛奏者としての新しい顔を持つ事になったのだ。大きなステージに立たせてもらったその活動を取り上げてくれた新聞記事を見た地元のそのご婦人。いっちゃんも私も、初対面のそのご婦人にちぎれるぐらい手を振った。ありがとうも何回も言った。ほんまに嬉しい出来事やった。

コロナになって誰とも会わへんって
孤独でしんどいって思たけど
私今は違うやん
そうや、いっちゃんの事誰もわかってくれへんって
心のシャッターを下ろしてた頃とは全然違うやん
そのうち
いっちゃんと散歩をしてると
いっちゃんの幼馴染(なじみ)や同級生が
おっ! いさおちゃん頑張って歩いてるか?
とか、暑なったさかい、水しっかり飲めよ
とか声かけてくれる

六月からは園芸療法と称して畑を始めた。
虫も土いじりも絶対嫌い、嫌やと思ってたけど、なんでか畑をやってる人に声かけてしまった。全然知らん人やのに聞いてみるとえらく親切。
あとからわかったけど、白井さんには自治会でえらいお世話になったんや〜、僕癌(がん)を患ってもう八年になるけど今こうして元気にいられるのは畑仕事のお陰やから、白井さんもぜったいええと思うよってわざわざ家まで言いに来てくれはった。
私は知らん人って思ってたけどそうやったんか。そんな繋がりあってんねって何だか心がほっこりして、畑を始める事になった。
そうしたらこれまた不思議、畑を任されている人はいっちゃんが昔、大東青年会議所時代一緒に活動した方やった。
白井さんやろ。いさおさん!! 僕の事わかりますか? って真っ黒に日に焼けたその人は言ってくれた。
実は去年たまたま市役所に用事で行ったら、白井さんの議会講演やってて驚きましたんや〜。こんな形でまたご一緒できるとは、白井さん野菜作り頑張りましょうねっていっちゃんに話しかけてくれて、ここにも孤独はなかった。
シャベルもスコップも持った事ない私が野菜作り出来ているのは畑の皆さんのお陰で、いろんな人が色々教えてくれて助けてくれる。
苗を植える時は六、七人で手伝ってくれて、蚊取り線香炊いてくれる人からいっちゃんに椅子持ってきてくれる人から、みんなでワイワイ言いながら、あっという間にいさお農園が出来上がり。畑の水まきと収穫がいっちゃんの日課になった。そしてそこに来てる人たちと冗談言いながら笑う。
ここにはコロナも孤独もないな。孤独ちゃうな。
私はそう思うと、しょぼぼ〜んとなっていた心がムクムク元気が湧いてきて笑顔に戻った。聞こえなくなっていた右耳は、知らん間に聞こえるようになっていた。
人のつながりが私を元気にしてくれる。
人が人を助ける。
どんな薬よりどんなリハビリより強力なような気がした。
そこには障害者も健常者もあらへん。
そんな言葉はいらんな。
地域で生きるってほんまにこの事やな。

いっちゃんが元気な時に一生懸命真面目に生きてきたから、障害者になってもみんなが声かけてくれる。
私またいっちゃんに守られてるやんって感じる事が多かった、このコロナ自粛期間。
当たり前は当たり前じゃなくて、それは全て感謝やねん。そうやな、いっちゃん。

コロナ自粛は緩くまだ続いている。
いつまでも働かないでいるわけにはいかないし、経済も回して行かなあかんけど、お金より大事なもの、それは命やと思ってる。
だからKYOKOデイは継続中や。

この間わかった事が一つある。
私は夫が重度障害者になってから、私が頑張っていっちゃんの分も頑張ってとか、親代表やからしっかりせんととか、一家の大黒柱やから働かんととか思ってきた。肩パンパンに力入れて走り続けてきた。

散歩に行く時もグイグイいっちゃんの手を引っ張って歩いていた。
だからいつも肩が抜けそうに痛くなる。疲労困憊(こんぱい)になる。
ある時ふと、これ、一緒に並んで歩いたらどうやろう、早くなくてもいいやん、私がいっちゃんのペースに合わせて、歩いてみようって思った。
決して引っ張るでもなく押すでもなく、いっちゃんのペースに合わせて、歩幅を合わせて、ありんこちゃんみたいにゆっくり過ぎるぐらいゆっくりやけど、肩も痛くないし楽やった。
いっちゃんがこけたらとか気を張るでもなく、のんびりのんびり、たまに空を見上げたりしながら。
そうか、これやったんや。
いっちゃんに聞いてみた。
なぁいっちゃん、私がもし散歩の途中でこけそうになったら、いっちゃんどうする?
いっちゃんは普段は一言もしゃべらへんのに、力づよく「ささえる」って答えた。
そうか、私には支えてくれる人が今まさに横にいるんやね。
私はずっとこの手を離さないって思ってきたけれどそれは間違いで、この手を離されないようにしないとあかんのはもしかしたら私の方かもしれないな、なんて思った。

重度高次脳機能障害のオット 六十四歳
ツマ 五十六歳
生きる事がリハビリ
何があっても仲良く手をつないで
地域で生きていく
これからも

以上