私が「網膜色素変性症」という病名を医師に告げられたのは三十六歳の時でした。
たまたま、目にゴミが入り受診した眼科で「あなたは目の奥に重大な病気があります。この病気は視野が徐々に狭くなり、いずれは失明します」と言われたのです。初めて聞く病名でした。何の異常も感じていなかった私には信じがたいことでした。今こんなに見えているのに、見えなくなる日が来ると言われても、すぐに信じることはできませんでした。でも、「失明します」という言葉はショックでした。私はいずれは暗闇の中で生きなければならなくなるのだろうか…数日間は落ち込みました。
夫は、「そんな病気でなくとも、年を取ったらみんな見えにくくなるんだから」と慰めてくれました。中一だった長男は「見えなくなったら、僕がお母さんの目になってあげらい」と優しいことを言ってくれました。
しかし、その日のことは今も鮮やかに思い出すことができます。その日から私の頭の中には「失明」という言葉がすみついてなにかのおりに回り始めるのです。
忘れていたい「失明」はいつも心の中にありました。
菊焚(た)くやひとつ心を持て余し
これは、正岡子規生誕百年の記念行事で子規記念博物館が募集した百人一句に選ばれた私の俳句です。
見えなくなったら仕事ができなくなる。好きな本も読めない。旅行にも行けない。子供たちの顔も見えない。ああ、私は何もできなくなるのだ、と時折そんなことを思い出していました。
しかし、当時三人の子は中一、小四、小一で、私自身家業と子供のことで精いっぱいだったので落ち込む暇はありませんでした。また、ミカン農家のわがやは年中忙しく、そのうえいろんな組織があり、順番に回ってくる役から、推されて仕方なく引き受けた役など、私の四十代は役づけの日々でした。
しかし、それは充実した日々でもありました。もともとミカン作りがしたくてミカン農家の長男と結婚した私は、ただお手伝いする農業ではなく夫とともに栽培技術も習得し、経営にも参画したいといろんな勉強会にも出席し、パソコンによる青色申告にも取り組みました。
役をしていることで、同じミカン産地への視察旅行や、消費の動向を知るために東京の市場視察や販売促進などもしました。スーパーや量販店で店頭に立って試食をすすめ産地をアピールし、消費者との交流もしました。日頃は体験したこともない消費者とじかに接して意見を聞くことは大変勉強になりました。また、市場関係者との懇談で消費者ニーズにあった品種を模索して夫といろいろ話し合ったものです。
ちょうど時代は高度成長期も下り坂にさしかかり、ミカン産業も斜陽の一途をたどり始めた時期でした。オレンジ果汁の輸入やウルグアイラウンドの締結、ミカンの過剰生産等による価格の大暴落…ミカン農家はみんな生き残りをかけて、園地の若返り、高品質のミカン作り、品種の更新、温室栽培、園地全体にタイべックマルチを敷き詰め糖度をあげるというマルチ栽培など、さまざまな取り組みもしました。ミカン農家の仲間はそれぞれ助け合い、温室のビニールかけの作業などは共同で行ったり、キウイフルーツの収穫に人手がいるという所にはみんなで手伝いに行きました。私はそんな村の共同体のような集まりが好きでした。
しかし、価格は低迷し、先の見えないミカン作りに終止符を打つ農家も増えていきました。大学の先生は「農家は淘汰(とうた)されるべきだ。これからは生き残った農家だけが日本の農業を支えるのだ」と講演されました。私はみんな生き残ることをねがいました。
その頃は子供たちも成長し、大学や専門学校、高校へと進学し、家計は火の車でした。今振り返ると、苦しいけれどそれはそれで夢もあり、楽しい時代だったように思います。そしてあの頃は面白かったねと思い出します。
そんな中、病気は緩やかではありましたが徐々に進行していきました。四十代後半から五十代にかけて私自身病気を自覚するようになったのです。
「落としたものがなかなか見つけられない」「あちこちよくぶつかる」「テーブルの上のコップなどよくひっくり返す」「段差がわかりにくく階段を降りるときとても怖い」「光がとても眩しく、反対にトンネル内は暗くて運転が怖い」「夜見えにくい」などなど、異常を感じて「ああ、やっぱり失明するんだな」と思いました。
晴眼者の中にいて見えていないにもかかわらず、見えているふりをして話を合わせる自分が惨めでした。受けていた役も任期が終わり、あとはどんなにすすめられても病気を理由に断りました。高校を卒業した娘は進学をあきらめ地元の舗装会社に勤め始め、私がどこへでも連れて行ってあげるから車の運転はもうやめたらいいよと言います。その時にはもう運転をしたくても免許証の更新はできませんでした。私の病気を知った近所の人は、「目の調子はどう?」と親切心からでしょうが尋ねます。そう尋ねられるのはとてもいやでした。「どう?」ときかれても答えようがありません。当時の私は半分ウツ状態で人に出会うのを避けて生活をしていたように思います。いよいよ闇の中に生きなければならない日が来るのかと、この頃が一番苦しい時でした。
そんなある日、「どこかに私と同じ病気の人はいるはずだ。その人と出会って話がしたい」とネット検索をして、日本網膜色素変性症協会、通称JRPSを知りました。私は即、入会手続きを取り会員になったのです。そして、同じ病気のメーリング仲間に出会いました。このことは、その後の私の人生を大きく変えました。二十年近くどこからも情報が入らず、一人もんもんとしていた私に、一度にいろんな情報が入ってきました。この病気が難病であり特定疾患に認定されていることも初めて知ったし、不自由な視覚を補う便利な機器やデイジー図書があることも知りました。そして、障碍者手帳の申請をしてみたら?とアドバイスをくださったのもこの仲間でした。教えられた通り障碍者の申請をして二級の身障者手帳が交付され、行政のサービスも受けられるようになりました。これは、見えにくくなった私にとっては大きな福音でした。
そして私は思いました。県内には私のようにどこからも情報が入らず一人悶々としている網膜色素変性症患者はもっといるはずだ。だから、同じ病気の患者同士出会える場所を作りたいと…。
それから私はJRPSの組織を愛媛県に作ろうと行動を起こしました。まずは仲間集めからと、地元新聞に私のことを記事にしてくださいともうしこみをして、写真入りの記事を掲載してもらいました。それによって県内のあちこちから十人あまりの方が連絡をくださり、小さいながらもネットワークができました。本部理事さんの協力も得、交流会をしました。大学病院のロービジョンケア外来を受診して眼科医に協力を求めたのはこの頃です。二年近くたったとき、「松浦さん、組織を作るなら協力します。やりましょう」と言ってくださる方がいて、設立に踏み切りました。
友人に協力を願ったり、愛媛県健康増進課へ行ったり、眼科医会への協力要請をしたり、組織作りを進めていきました。私があちこちと出かけるとき、娘は運転とサポートを受け持ってくれ、私を助けてくれました。
紆余(うよ)曲折はあったけれど、愛媛県内に網膜色素変性症の患者会ができたときは喜びよりもなんだかほっとした気分でした。悩み苦しんでいる仲間が、困っていることや悩みを語り合う場所ができたという思いでした。
「一日でも早い治療法の確立とQOLの向上」を大きな柱とし、活動を始めたのです。
それから十四年が過ぎました。設立当初は四十人足らずのスタートでしたが、役員さんたちの努力もあり、現在は会員数も百人を超えました。私の役目は終わったと思い、役員はひかせてもらいました。
十年前はまだ白杖一本で単独歩行も何とかなっていた私ですが、今はもう介助者なしでは歩けなくなりました。病気が進行するということは暗闇になるのだと思っていましたが、私の場合は白い世界でした。深い深い霧の中に一人取り残されたような感じで、周りは何も見えません。時には白い霧の中にぼんやり影が浮かびます。誰かいる、何かある、ということはわかります。でも、右を向いて左を向いて、と次はどこを向いているのか方角が全くわからなくなるというありさまです。
慣れているはずの家の中でも、ごくたまには、 「あれ?どっちへいけばいいのかな?」ということもあります。
ミカン作りはリタイアしてもう十年以上になります。夫がひとりで頑張っている姿を見ていると何もできない自分が腹立たしくもあり、夫には申しわけないと思うのです。ミカン作りがなによりも好きな夫です。夫には夫なりに、まだまだミカン作りに情熱も夢もあっただろうに、と思うと夫の人生設計を狂わせてしまった私の病気を恨めしく思います。何もできない私はただ夫がいつまでも健康でいてくれますようにと祈るだけです。
見えないことでの失敗は数々ありますが、今はもう落ち込んだりしないで笑い飛ばしています。「目の調子はどう?」と尋ねられたら、「うん。順調に進行しているよ」と笑って答えられるようになりました。
そりゃあ、時には落ち込むこともありますが、それは長くは続きません。
見えなくてかわいそう…とおっしゃる方には、ちっともかわいそうなことはないんだから心配しないでね、と言います。これは決して強がりでもなんでもなく、心の底からそう思うからです。
健常者は障碍者にたいして、よく「かわいそうに…」と言われることがあります。
私たちは決してかわいそうな人間ではありません。確かに不自由ではあるけれど、そのことでかわいそうな人と思われるのは心外です。
障碍を仕方なく受け入れ、仕方なく諦め、そしてあるがままで生きているだけです。
誰も望んで障碍者になるのではありません。自分の病気が治らないと知った日からもがき苦しんでそして達観するよりないのです。こんな自分と上手に付き合って生きて行こうと前を向いて生きています。こうなるまでに私たちが乗り越えてきた葛藤を考えることなく、かわいそうとは言わないでほしいと思っています。
わが家は大家族です。二世帯同居で、長男家族は二人の娘との四人家族です。階下の私たちは娘と息子の四人です。ふだんはお互い干渉しないでそれぞれ自由に生活していますが、時には八人がそろって食事をしたり、孫たちと旅行をしたりもします。孫が小学校や中学校へ進級したときは、お祝いに東京ディズニーランドへ行きました。そんな時、孫は私の手を引いてくれ、「段差があるよ」とか「ばあちゃんミッキーがいるよ」とか、いろいろ気配りをしてくれて、私も共に楽しめるよう声をかけてくれました。
現在中三の孫娘が中一の時、愛媛県の人権作文で南海放送賞をいただいた文章に、
「そんな前向きな祖母の姿から、私はいつも元気をもらいます。どんなに嫌なことがあっても、いつも明るく楽しく過ごしています。『目が見えないから、毎日が楽しくない』ということには、全くなりません。目が見えないから気付いた、目が見える人には分からない『楽しみ』を見つけて過ごしています。
私は、白杖を使われている方と出会っても助けようとは思いません。でも、助けを求められた時、助けが必要だと感じた時は、すぐにサポートしたいと考えています。
祖母を見ていて分かりました。目が見えないから何もできないのではない、できない少しの部分を手助けすればよいのだということを」
とありました。私との生活で障碍を持つ人にさりげない手助けができる人間に育ってくれたことをうれしく思いました。
私は七、八年前から地元の小学校や中学校に福祉教育のお手伝いに行っております。
見えない、見えにくい私たちがどのような日常生活を送っているのか、どんな工夫をして不自由な視覚をおぎなっているのか。また、街中でどんな時に困るか?どのような手助けが嬉しいのかなどお話をします。子供たちは、見えない人は何もできないかと思っていたと感想を漏らします。そして見えなくてもたいていのことはできるのだということを理解してくれます。そんな子供たちに、視覚障碍者を多少でも理解して、障碍のある人も健常者もともに生きる社会であればよいと話します。また、どんな逆境に出会っても、決してあきらめないでと話しかけます。どこかに出口はあるはずだし、助けてくれる人は必ずいますからね、というのです。
そして、困った時どうすれば解決できるかを考えて工夫してほしいといいます。
見えなくなったら何もできないと思っていた私ですが、見えなくなった今でもこんなに元気に生きています。できなくなったこともたくさんあるけれど、できることもいっぱいあります。
こんな風に思えるようになったのは、私を支えてくれた家族や励ましてくれた友人、知人がいたことです。見えなくなった私を特別扱いをせず、変わらぬ友情で接してくれる友人のありがたさをしみじみ感じます。
小学生が、「病気になってよかったことはありますか?」と質問をしてきました。それは日本中にお友達がいっぱいできたことです、と答えました。この病気にならなかったなら決して出会うことはなかったであろう多くの友人、知人に、私はいろいろ教えられ、支えられてきました。
昨年、私の町は豪雨災害に見舞われました。
目の前のミカン山が頂上付近から崩れ落ち、右隣の家の男性がその土砂に巻き込まれて命を落とされました。ものすごい轟音(ごうおん)と共になだれ落ちた土砂を見て、避難を考えました。どこへ逃げようかと言ったとき、家の前の道路は夫の腰くらいまでに冠水し、通れなくなっていました。私は夫の腕にすがりつくようにして、横のみかん畑の中を通って左隣のお宅へ避難をさせてもらいました。
浄水場が破壊され、一か月近くも断水が続き、私たちは水の怖さと水のありがたさを体験しました。災害を知った全国の仲間からは、励ましやお見舞いのメールをいただき、元気づけられました。また、水や即席の食料品、紙コップや紙皿など支援物資を送ってくださいました。多くの仲間に心から感謝をして、私もどこかで災害が起こったなら、このお返しをきっとしなければと思いました。人と人とのつながりの大切さを身を持って感じた豪雨災害です。
三十五年前、失明すると聞かされ何もできなくなると失望した私が、ささやかでも誰かのお役に立つことを見つけて、自分が生かされている喜びを感じることができるようになったのは、同じ悩みと苦しみを共有できる仲間に出会ったからです。
一度きりの人生で、私は二通りの違った人生を歩んできました。それをラッキーと思っています。前半は晴眼者としてしたいことを精一杯やり、後半に障碍者として障碍を持つ人の苦しみやつらさ、そしてそれだけではない幸せも知った喜びは、まさにラッキーな人生だと思うのです。障碍をもたなければ、私は「謙虚」も「感謝」の言葉も知らずに生きていたかもしれません。
障碍を持ったことで、謙虚に生きることの大切さや周りの人たちへの感謝を忘れないようにと心掛けるようになりました。
古希は過ぎたけれど、もう少し生きていればまた面白いことに出会えるかもしれない。そんな期待を持ちながら生きていくのは楽しいものです。
社会は様々な人たちがいて、障碍者に対して心無い言葉や行動をする人もいますが、私がこれまでに出会った人たちはみんな親切で優しい人たちでした。こんな優しい人たちばかりの社会であればいいと、いつも願っている私です。最後の日にいい人生だったと心から思いたいと、これからの日々を大切に生きて行こうと思います。
松浦 常子プロフィール
一九四八年生まれ 主婦 愛媛県在住
受賞のことば
初めて応募した作品が入選というご連絡をいただき、最初は信じられない気持ちでした。でも時間がたつに従い、嬉しさがわいてきました。「いずれは失明します」と告げられた日からの三十五年間を振り返ってみましたが、障碍を持った私が私らしく生きてこられたのは、家族や友人、知人の支えがあったことと、同じ障碍を持つ仲間に出会って情報をもらったり、励まされたおかげだと思います。皆さんに感謝したいと思います。
選評
子育てと仕事に追われるさなかの三十六歳のある日、作者は将来の失明を宣告される。以来、三十五年余り、徐々に視野が狭くなっていく中、難病を受け入れ、アグレッシブに行動する。文章の中に境遇を嘆いたり、同情を誘ったりする言葉は一言もない。前向きな、謙虚な、そして周囲への感謝の言葉であふれている。一度きりの人生で晴眼者と視覚障碍者の二通りの人生を歩むことをラッキーと思う、誇り高き人のすがすがしい作品である。(鈴木 賢一)
以上