二〇一八年七月六日、金曜日、それは、私が真備(まび)町に暮らして二十年目の夏だった。「西日本最大級の豪雨!土砂崩れの起きやすい地域は厳重な警戒を!」、二日前のヤフー通知は私を一瞬不安にさせたが、我が家は山沿いではないから土砂崩れの心配はないと独りごちて、すぐに不安を拭い去った。激しく降り続く雨は未だ止む気配はなく、朝から家の裏手の防災無線放送とスマホの緊急アラートがしきりに警戒を呼び掛(か)けていた。夫は午前中からインターネットで高梁川(たかはしがわ)の水位を調べていた。本来は小田川(おだがわ)の水位を調べたかったのだが、それが出来なかった。小田川は広島県の中東部に源を発し、真備町を東進して高梁川に合流している。この小田川には、真備町の西隣の矢掛(やかげ)町分までは水位計が設置されているが、真備町分は水位計がないというのだ。なんとずさんなことか!「真備は小田川の水がはけんようになったらおえんのじゃ」と近所の人がよく話していたことを私は思い出した。夕方、高梁川上流の総社(そうじゃ)市日羽(ひわ)地区の水位が欠測値表示になったと夫が告げた。日羽が浸かったってこと?日羽は遠いから真備町には関係ないと私は思った。
息子は家にいた。大雨で高校が休校となり、前日から予定されていた期末試験は翌週に延期になっていた。奇しくも、その日は彼の十八歳の誕生日だった。私はと言えば、治療院に患者さんは来そうにもないので、次の日の朝食用のイングリッシュ・マフィンを焼いたりインターネットで医療に関する通信講座の課題に取り組んだりしていた。
午後、倉敷市全域に山沿いの地域を対象に早めの避難を呼びかける通知や放送がしきりにあった。それはやがて真備町の山沿いの地域を対象とした避難勧告に変わった。雨は夜遅くなっても降り続き、午後十時に真備町全域に避難勧告が発令された。この時の放送の声はそれまでにはない緊迫感を帯びていた。それで私には避難指示に聞こえた。視覚障害のある私は、避難所に行ったら大変だから自宅にいるしかないと思った。寝室で激しい雨音を聞いていた私のところへ夫がやってきて、逃げようと言って押し入れからリュックを取りだすのが分かった。それで、私も慌てて準備をした。貴重品、お菓子、スマホとキーボードそれに浮き輪、思いつくものを持って三人で車に乗り込んだ。避難場所は、自宅から一キロほどのところにある岡田(おかだ)小学校で十時二十分頃には着いた。避難が早かったので道はすいていた。運動場にはまだ二、三十台しか駐車していないとのことだった。夫に手引きされて体育館の入り口で靴を脱いで靴の列を一跨ぎして上がった。入り口近くの壁際に場所を確保した夫は受付へ手続きにいった。息子の手引きでそこに腰を下ろすと、私はなんだかほっとした。激しい雨音に混じって人のざわめきと足音が絶え間なく続いた。夫がアルミシート二枚と毛布一枚を貰(もら)って戻って来た。物資が足りていないとのことだった。時折、何十台もの携帯電話の緊急アラートが一斉に鳴るとそのときだけ空気が緊張する。それでも私はそこに気ぜわしさよりも安心感を覚えていた。だから、白杖を家に忘れてきてしまったことも、一人でトイレに行けないことも、さして気にはならなかった。夫は、その場の雰囲気に馴染(なじ)んで隣の先客の老夫婦と会話を交わしていた。
突然、ドーン、ドーンと打ち上げ花火のような大きな音がして、開け放された体育館の入り口から風が吹き込んだ。続いて右のほうでガラスが割れる音がした。時刻は十一時三十六分。「わあ、ほこりがすげえー!」と息子が言った。館内は大きくどよめいて「雷?」と言う声が飛び交い、しばらくは雨音が聞こえないほどだった。
「落ち着いてください!パニックは禁物です」
マイクの男の声がその場を制した。後になって、それは隣町の総社市にあるアルミ再生工場で起きた水蒸気爆発によるものであるとわかった。
それから一時間もしないうちに、体育館は避難してくる人でいっぱいになってきた。家の雨戸が吹き飛んだとか窓ガラスが割れて怖くなって逃げてきたという話を聞いて、私も夫も自宅への爆発の影響が心配になった。雨が止みさえすれば家に帰れる。その時私は、まだ、そう思っていた。
「お誕生日おめでとう!」
息子の言葉で、日付が七月七日に変わったことを知った。私の四十八回目の誕生日は記念すべき日となった。
しばらくして夫がトイレに行っておくことを勧めた。私はそれに従った。人に頼らずして移動できない状況下では、行けるときに行っておくのが最善なのだ。体育館奥のトイレはひどい臭気がしてトイレ用スリッパを履く前に吐き気を催した。気をつかって夫が校舎内の職員室近くのトイレに誘導してくれた。体育館の入り口は靴で埋まっており、それらを踏まずに外に出ることはできなかった。
トイレから戻ると、することもなく体育館の壁際に座って雨音を聞いていた。時折、入り口の方で毛布を運ぶ手伝いを求める声がした。それで物資が運ばれてきていることがわかって安心した。それからまもない午前一時半ごろ、「新道がおえんようになった」と入り口で叫ぶ声がした。私は避難してきて初めて不安になった。私たちはこの新道を通ってここへ来たのだ。「大丈夫よ。もうすぐ雨が止んで家に帰れる」、私は心の中で自分にそう言いきかせた。しばらくして、「小田川の南が浸かった」とまた声がした。
「うちは小田川のどっち側?」
私は夫に尋ねた。視覚障害者が利用できるような岡山県の市町村の位置関係や地形を学べる地図がなかったので、私は真備町の地理をあまり知らなかった。
「うちは小田川の北」
よし、まだ大丈夫。
午前三時ごろ、くたびれてアルミシートの上に横になった。とたんに足音が不快な振動に変わった。どんどんと人の歩く衝撃で背中の筋肉が固くなっていく。これは二度としたくない不快な体験だった。それでもくたびれて午前五時過ぎから一時間ほど眠った。起きたころには、誰もがその日のうちには帰れないであろう自宅のことを心配している様子だった。
「テレビでもありゃあいいのに。外がどんなになっとるかさっぱりわからんわ」
隣のおじいさんが情報のないことを嘆いていた。
「ジュンテンドー(ホームセンター)が屋根まで浸かった」
入り口の方で声があがった。
「うちから西に行ったところに川があったろう」
夫が説明する。
「うん。末政(すえまさ)川」
「小田川に水がはけずにあふれたんだろう。それで、水が西へ行ってジュンテンドーが浸かったんじゃないか」
「ああ、なるほど。じゃあ、川の東は、うちの家がある方はまだ大丈夫なんだ」
「小田川は手入れを全然しよらんかったもんなあ。木をぜんぜん切っとらんかった」
さっきのおじいさんが言った。穏やかなのはこのおじいさんの口調ぐらいで周囲は動揺のざわめきで満ちていた。電話したり、SNSに投稿される画像を検索したり、はたまた、それらを見て回ったりと人の動きがあわただしくなっていた。
また、声が聞こえた。
「真備東中学、十五センチ」
いよいよ水が末政川の東に来た。中学校から我が家までは数百メートルの距離だ。夫も息子も「ちょっと様子を見に行ってくる」と言い残してどこかへ行ってしまった。
「ああ、ウチだけ何とか助からないかしら」
私は一人壁際に座って万に一つの奇跡を願った。と同時に、阪神大震災の時の体育館での避難状況のニュースを思い出し、あの時は冬だったが、今は夏なのでまだましだと自分を励ました。
やがて朝食配付を知らせるマイクの声が聞こえてきた。高齢者から順に配るという。私の腹時計はそれなりに反応した。四十代の番がきた時、私は足音や係の人のマイクの声を頼りに歩いて行った。
「すみません。あのー、私、朝食をもらいに来たんですけど、目が不自由なので、どこでもらえばいいのかわからないんです。朝食はどこですか?」
「あ、あー、そう、そうなの。ああ、ごめんなさい、ごめんなさい……はい、これです」
係の男性は戸惑いながら私に袋入りのものを手渡してくれた。元の場所へは、「こっちこっち」という隣のおじいさんの声でうまく戻れた。さあ食べようというとき係の男性がやってきた。
「あの、お姉さん、お姉さん、これ、視覚障害って書いてあるゼッケンなんですけど、嫌かもしれないが付けといてください」
倉敷市にしてはやるじゃない!と感心した出来事だった。戻ってきた息子が、私が食べているのはレスキューライスの炊き込みご飯だと教えてくれた。ひどくまずい代物だった。袋の中のご飯はすくいにくいうえに、調味料が混ざっていなかった。食べ終えたころにはすっかり希望をなくしていた。その後、私はほとんど車の中に引きこもっていた。午前十一時ごろ雨はようやく上がった。外は数日ぶりの日ざしの中を飛ぶヘリコプターが騒がしかった。そこへ息子がやってきて、「校門前の坂道を水がどんどん上がってきよる」と言った。それは岡田小学校の水位が、雨が上がった後もなお上昇し続けていることを意味していた。自分が今いる避難場所さえも浸水するかもしれないと、私はいよいよ恐怖を覚えた。正午過ぎ、遠くで炊き出しのアナウンスが聞こえたが、もう、音を頼りに一人で昼食をもらいに行く元気はなかった。私のその日の食事は、レスキューライスと夫が知り合いのSさんからもらったと言って持ってきた菓子パンだけだった。
息子は校門近くで、夫は三階の理科室でそれぞれ水位の上昇を見守っていて、時折私のところにきて、いろいろなものが流れて行ったことを教えてくれた。息子から聞いたのは、便器のふたにサッカーボール、それに優雅に泳いでいく蛇で、夫から聞いたのは、ワイパーが動き続けている人の乗っていない軽四自動車だった。午後三時すぎ、水は坂の半分のところまで来てようやく引き始めた。
午後遅く、私はトイレに行きたくなった。夫に電話して助けてもらう手はずになっていたが、スマホは既に電池が切れていた。車の外へ出ると、近くでたくさん人の話し声がする。けれど、私はこの雑踏の中にどうやって助けを求めていいのかわからず再び車に引きこもった。いよいよ我慢できなくなった私は車を降りて校舎のある方角へ歩き出した。その時、白杖を持っていなかったせいか、視覚障害のゼッケンを付けている私に声をかける人は誰もいなかった。だんだん心細くなってきたが、私はさらに歩き続けた。そして手を挙げて大きく振りながら叫んだ。
「だれか助けて。私は目が不自由なんです。トイレに連れて行ってくださーい」
「はい、はい。助けたげる、助けたげる」
と女性の声がして私の腕をとった。
七月八日朝、まだ、水が完全に引かないので新道は自宅まで開通していなかった。
体育館で一日分のパンをもらうと私はまた車の中に一人でいた。前夜から充電コーナーで充電することができたスマホには友人、知人たちから安否を気遣うメールが数通届いていた。そこへ夫が前日理科室で一緒だったSさん夫婦を伴ってやってきた。それで一緒に周辺を散歩することになった。数日間あまり動けなかったので気がまぎれた。他にも何人もの人が散歩していたが、皆話し声に屈託がなかった。私は一九四五年の敗戦直後の日本を追体験しているような気がした。散歩の後、Sさん夫婦の勧めで居場所を体育館からトイレがすぐ隣にある理科室へ移した。
私はお風呂に入りたかったが避難所からは何も情報がなかった。さいわい岡田小学校の北側の道を通って隣町の総社市へ行くことができた。とりあえず、必要な日用品に窮していた私たちは、午前十時過ぎ、そこへ買い出しに出かけた。女性用の使い捨て下着が欲しくて、お店を二軒まわってもらったが全部売り切れていた。お風呂をどうするか考えていた時、タイミングよく夫の知人のK君から電話があった。それで、その日の午後、彼のお母さんの家で二日ぶりにシャワーを浴びることができた。洗濯機を借り、畳の部屋で休ませてもらった上に帰りには夕食にと手作りのお弁当までいただいた。真備町からわずか数キロのところに平穏な日常があることが不思議だった。
洗濯物をコインランドリーで乾かした後、午後六時過ぎに避難所へ戻った。運動場を歩いていると浅口市の温泉施設へのバスツアーの申し込みのアナウンスが聞こえてきた。続いて焼きそばとおにぎりの炊き出しのアナウンスがあった。
「おお!大勢、並んどる、並んどる」
夫がすっとんきょうな声を上げた。今年の真備町の夏祭りは中止になったと息子が言っていたのを思い出した。その代わり今年は真備町避難所夏祭り!非日常の喧噪(けんそう)が私にそんな思いをもたらした。
七月九日、朝六時過ぎ、私たちは自宅を見に行った。門の前で夫が言ったのは、
「思ったより漂流物は少ないな。離れのオーニング(日よけ)の上に木箱が乗ってる」
だった。私は敷地内を数歩行ったところで立ち尽くしてしまった。辺りは異様な静寂に包まれ泥とミネラルの臭いがしていた。川底の泥の臭いだと私は思った。その間、夫と息子は広い前庭を探索していた。
「わあ!木の泥がすげえ!洗濯もの、まっ茶色!」
息子の言葉に続いて、ドサッ!という落下音がした。それは、夫が離れの上の木箱を落とした音だった。私は、それで浸水の深さを実感した。
木箱の中身はジャガイモと玉ねぎで、もう暑さで腐りはじめていた。
「いちごの苗がプランターごと流れて来てる、すごい食糧援助だ!」
「おお!石臼の中にわら細工の亀が入っとる!こりゃ、縁起がいいぞ!」
私は夫のユーモアで気持ちが明るくなった。敷地の奥にある母屋の玄関まで歩いたとき、地面が田んぼみたいにべちゃべちゃしていることに私は気が付いた。引き戸を開けると、湿っぽいカビの臭いがした。
「わあ!……天井までは行っとらんわ!」
平屋建ての母屋は天井下二十センチまで浸水した痕跡があり、夫が私の手を取ってその箇所を触らせた。
「ほら、克っちゃん」
玄関は土壁がはがれ落ちて木舞(こまい)がほとんどむき出しになり、床には湿った壁土の山ができていた。日本の家の土壁って、こうなってるのか!驚きと新発見で私は水害で住む家を失ったことを一瞬忘れてしまった。見回りを終えて車に乗り込むと漢文が好きな息子が会話の口火を切った。
「人間は万事塞翁(さいおう)が馬だね」
「うん、ほんと、そうだよ」
息子と私は二人で「春望(しゅんぼう)」の即興パロディーを作った。
水流れて家残る。庭、夏にして草木泥だらけ
「ぜんぜん韻を踏んでないじゃないか!」
夫の指摘に三人で大笑いした。
「あんたは目が見えないからいいよ。このひどい状態がわからないんだから」
車のエンジンをかけながら夫が捨て鉢(ばち)に言った。目が見えなくったってそれぐらいわかるわよ。そう言いたかったがぐっと言葉を飲みこんだ。彼の感情をこれ以上刺激したくはなかったからだ。
一時間後、私たちは家の片づけに必要な道具類を買うために倉敷駅近くのホームセンターにいた。夫がYさんを見つけて声をかけた。彼女はフィリピンから真備町にお嫁にきて、被災した人だった。私も彼女に話しかけた。
「Happiness and mishappiness are next door neighbor」(幸せと不幸せは隣どうし)
次の瞬間、Yさんが私の体に腕をまわしていた。とたんに、心の奥のものがほとばしり出るように涙があふれた。夫も息子もYさんと抱き合った。
家の中の片づけは夫と息子がやることになった。私も自分自身で必要な物を取捨選択して取り出したかったが、それは夫が許してくれなかった。
「あんたにけがをさせたくないんや。俺が守り切れんから」
彼の愛情が重荷だった。夕方、夫と息子が家の片づけから避難所に帰ってきた。
「裏の市営住宅のNさんとKさんの夫婦が亡くなったって」
私は頭を殴られたような衝撃を受けた。近所の知り合いだけにただただ無念でならなかった。どちらも老夫婦で、Nさんのご主人は体が不自由で車は持っていなかった。Kさんは車を持っていたが避難しなかったのか。少なくともNさんは緊急時の要支援者として登録されていたのではなかったのか。私のところへも何も連絡はなかったから登録はおそらく用をなさなかったのだろう。
翌朝、ぼんやりした気分で理科室にいると、窓からの風に交じってその年初めてのクマゼミの鳴き声が聞こえた。生命力あふれる夏がそこにあった。
八月二日 友人宛のメール
今日は、久しぶりにゆっくりした気分でメールを書いています。先日の台風が水害後のすさまじい粉塵(ふんじん)の掃除をかなりしてくれたようで、わさわさした避難所の空気も少しはきれいになった気がします。クマゼミの声と窓からの風にも心地よさを感じます。でも、被災直後の健忘症と倦怠(けんたい)感はまだまだ健在で、自分の持ち物をどこに置いたかわからなくなる症状はしょっちゅうだし、何もない時は横になっていることが多いです。
早いもので、三階にある理科室に起居して、もう、三週間が過ぎました。場所取りをしてくれたSさん夫婦は、浸水を免れた自宅の二階で生活しているので、私たち家族の他には老夫婦が毎日朝食を食べに来るだけです。その点は、人の多い体育館に比べると気楽なのですが、毎日何度も、三階と一階を往復しなければなりません。食事の配給場所、援助物資のコーナー、洗濯機、自衛隊のお風呂など生活に必要な機能は全て下にあるからです。
ここに暮らして思うのは、被災者というのはまるで工事中の動物園にいる動物のようだということです。生活空間は外から丸見えだし、いつも連絡事項の放送が鳴っていて休息の邪魔になる(これは情報を音に依存する私にとってはもろ刃の剣なのですが)。ほこりっぽい炎天下で一時間以上食事をもらうために並ばされ、しかも、配給場所が数日ごとになんだかんだの理由でコロコロ変わる。午前中、五、六人群れを成して見回りに来るスタッフの連中の中には、私の視覚障害をもの珍しがる輩(やから)や、部屋に許可なくずかずか入ってくる礼儀知らずもいて、私の疲れた神経を逆なでするばかり。突然の大きな変化に遭遇してショック状態にある被災者は喪失感や、これからどうしようという不安感にさいなまれていて、いわば半病人みたいなものだということが、運営側の連中には理解できないようなのです。避難所にはもっと快適性や安心感、それに信頼感が必要なのだと実感します。救われるのは、自衛隊の仮設のお風呂とAMDA(アムダ)の提供する鍼(はり)治療、それに被災者仲間との交流ぐらいのものです。来週初めにはここを出て倉敷駅近くのアパートに移る予定です。
私は、先週の土曜日から午後だけAMDAの避難所内の仮設治療室でマッサージの支援活動をしています。AMDAは国内外の災害や紛争発生地域に種々の医療支援を行っている岡山市に本部があるNPOです。AMDAには資格を持ったマッサージ師がいなかったので私が鍼治療を受けたのが縁で正式にスカウトされたわけです。新住居移転後も夫に送迎してもらって支援活動を続けたいと思っています。被災者仲間と話ができるのは楽しいし、私の技術で患者さんの体調を改善できるし、実践でいろいろ学べるからです。
真備の家は、七月中に必要なものを取り出す作業を終えて現在、解体工事中です。倉敷市は被災した家屋の公費解体について未だ何一つ公表していませんが、家を残したまま嫌な気持ちを引きずりたくないからと、夫が早々に自費解体を決めました。家はなくなっても土地は夫の所有なので、そこに行くことはできますが、二十年間慣れ親しんだ空間は、もう、存在しないのです。だけど、身体感覚も時間も被災前の真備の家にとどまったまま。現実に戻るときはいつも、「真備の家はもうない、もうない」と、呪文のように心の中でつぶやいています。
これから少し休んで昼食配給の列に並びに行ってきます。また、落ち着いたら連絡します。
ではまた。
山崎 克枝プロフィール
一九七〇年生まれ あんま・マッサージ・指圧師 岡山県在住
受賞のことば
優秀賞という栄えある賞をいただきたいへんうれしいです。障害福祉賞への応募の機会を得たおかげで、西日本豪雨の体験を書き残したいという被災直後からの思いを実現できました。また、書く作業を通じて被災後の気持ちが整理され、喪失感からずいぶん解放されたことにも感謝しています。どうもありがとうございました。
選評
去年の西日本豪雨の最中、視覚障害のある人がどう命をつなぎ、どんな避難生活を送ったのか?発生当日から時系列での記録は緊迫感にあふれ、音や匂い、手の感触などのリアリティ豊かな描写で、読者が我がこととして災害を追体験できる貴重な証言となりました。そして今年は台風十九号の被害。災害が広域化・激甚化する今、私達はこの作品から、避難所の運営や情報伝達のあり方など、様々な教訓を読み取り、改善する必要があると思います。(佐藤 高彰)
以上