「ふうにゅうたいきんえん」
この聞いたこともない、どんな漢字を書くのかもわからない病名を大学病院の主治医から告げられたのは、ちょうど五十歳になったばかりの頃(ころ)だった。
「封入体筋炎」と書くこの病気は、筋肉細胞内に空胞が出来て筋肉が手足から徐々に壊れ、いずれ寝たきりになってしまう、原因も治療方法もわからない進行性の難病だ。
最初に体の異変に気付いたのは、深夜まで残業して終電に遅れそうになり慌てて会社から駆け出した時のことだ。
「あれ? べた足でしか走れない」
しかしその時は「最近運動不足だしな」と思っただけで、とんでもない病気を発症しているなどとは夢にも思わなかった。
そのうち、歩く際にもべた足になってきて健保の診療所で相談したところ、大学病院を紹介され受診することにした。
主治医からは、筋力が普通より弱いので原因を特定するため二週間ほど入院して筋生検〈筋肉の一部を切り取って調べる検査〉を受けるよう言われたが、会社が合併前で仕事が忙しかったので、当面は定期的に受診して経過を見ることにした。この頃はまだ大した病気ではないだろうと思っていた。
ところが、一年もしないうちに大きな段差(踏み台やバスのステップ)を上がれなくなり、その後、社内でわずかなスロープにつまずいて転倒しメガネで顔面をけが。その数か月後にも犬の散歩中に段差につまずいて前のめりに転倒し顔面を大けが。それでも周囲には「不注意で転んだだけ」と言って休まず会社に行っていた。まだ「気をつけて歩けば大丈夫」と思っていたし、体の異常を周囲に知られたくもなかった。
しかし、そのうち駅の階段を上がることが困難になり始め、またまた転倒し顔面を怪我し、周りからも「歩き方がおかしい」と言われ始めた。さすがに体の異常を隠し通せなくなり、また、自分でも不安になってきて筋生検を決断し入院。「封入体筋炎」と診断された。
検査後に出社して上司に自分が筋肉の病気であることを告げたが、それでもまだ「今までどおり働けますから大丈夫です」と言っていた。三十年近く頑張って働いてきたのに、ここで健康上の問題で他人に劣後したくないという思いが強くあった。
病名は分かったものの、確立された治療方法はなかった。有効かもしれないという治療も受けてはみたが効果はなかった。わらにもすがる思いだったので失望感も大きかった。
筋力はますます弱くなってきて、通勤途中や会社、自宅でも転倒を繰り返すようになり、何度も救急車のお世話になった。そのたびに妻は突然呼び出され、病院に駆けつけなければならなかった。私はいつも自分のことに必死で、家族の生活を顧みることはなかった。
こうなってもまだ私は「まだがんばれる」「まだ大丈夫」と今までどおり頑張ろうとしていた。病気に負けたくなかった。妻や子供もいる。会社への未練もあった。今、会社を辞めるわけにはいかない。健常者であることへのこだわりもあった。
しかし、病気は情け容赦なく、精神力とがんばりだけではどうにもならない。すぐに歩くこと自体が困難になっていった。
妻の勧めもあり、ついに障害者手帳を取得することになった。私は名実ともに健常者ではなくなった。私はついに障害者になった。何とも言えない気分だった。大切なものを失ってしまったような喪失感があった。
しかしその一方で、自分はこれから障害者として生きてゆくという決意のようなものもこみあげてきた。開き直りのようなものだ。健常者であろうと無理して頑張る障害者から、健常者に負けないよう前向きに頑張る障害者になろうと思った。
障害者に認定されたので、公的な制度やサービスを受けられるようになった。
これは大きな変化だった。困っていた私たちを支援してくれる行政の窓口ができたのだ。
さっそく妻は私が惨めな思いをせず従来通り仕事や生活を維持できるようにと、必要な手続きや介護器具、リフォームなどを区の窓口と相談して適宜対応してくれた。
一方私はと言えば、そうした妻の助けもあって従来通り会社に通っていたが、そのうち立っているのも大変になってきて杖を使い始めた。
出社時は駅までの三百メートル程の道を妻や子供に付き添ってもらい、二度ほど休憩しながら歩く。より不調なときは妻が会社まで送り迎えしてくれた。雨の日は傘がさせないのでタクシーで通勤した。
しかし、杖をついてもあまり楽にならなかった。相変わらず転倒もした。足が思うように動かず何度も休みながら必死で歩く。風が少し吹いても歩けない。常に転倒しそうな恐怖と戦っていた。それでも歩くことをやめなかった。歩くことを失いたくなかった。
しかしそれも限界を超えた。会社帰りにエスカレーターに乗ろうとして足がうまく前に出ず、前のめりに転げ落ちた。居合わせた人が助けてくれ救急車で搬送された。
これ以上自力で歩くのは無理だし危険だった。今までも怪我で済んでいたのが不思議なくらいだ。転んで周りの人を巻き込む恐れもあった。
私はついに自分の足で歩くことを断念した。
会社を二か月ほど休み、車いす生活に移行した。
車いすも妻が一生懸命探してくれた。
妻が選んでくれたのは、ヘッドレスト付きの背もたれのある前輪駆動のがっしりした大型の電動車いすだった。座席は自動車のシートのようだ。最初はこんな大きなものに乗るのは目立つから嫌だという気もしていたが、実際に乗ってみるとすこぶる座り心地がよく小回りもきき快適だった。加えて、周りの人たちが「すごい車いすですね」とほめてくれる。小さな子供たちは興味津々で「僕も乗ってみたい」とつぶやく子もいれば、「すげぇー」とうらやましそうに見る子もいる。どっしりとした目立つ車いすで大正解だった。
妻のおかげで、私は車いすに乗ることで引け目を感じたりすることはなかった。それどころか、一人乗りのEV(電気自動車)に乗っている気分で時代の最先端を行っているような優越感さえあった。
毎日、朝起きてから夜寝るまでずっと車いすに座っていたが褥瘡(じょくそう)もできず、長年通勤できたのもこれのおかげだ(余談だが、東日本大震災の時は会社でこの車いすに乗ったまま一晩明かした)。
車いす生活は快適だった。それまで必死の思いで体にむち打ちながら頑張って歩いていたことがばかみたいだった。
まず、転ぶ心配がなくなった。そして、レバーの操作だけで自由にスイスイ動き回れた。
歩くことの苦痛と転倒の恐怖から解放された。会社へも以前より数段楽に安心して通えるようになった。
会社でも働きやすいよう配慮してもらった。車いすで仕事ができるよう机や配置を考えてくれた。みんな優しかった。いろいろ気遣ってくれたし、頼めば快く助けてくれた。今まで通りの態度で接してくれた。
私は恩返しの気持ちも込めて一生懸命仕事に取り組んだ。
幸い、仕事はパソコンでのデスクワークだった。障害のハンディはあまり感じなかった。異動もなく人事評価も下げられることはなかった。上司は「手足が動かなくてもその頭と口で意見や提案をしてもらえればいい」と言ってくれていた。
こうしてみんなに助けられながら、何とか一人で車いす通勤ができていた。
ところが、今度は腕が上がらなくなり、そのうち手首までも上がらなくなった。これには困った。足の代わりは車いすで何とかなったが、両手両腕の代替はどうにもならなかった。他人にお願いするしかなかった。一人でできることが少しずつなくなり、その分だけ他人の手が必要になった。そのうち自分では顔一つかくこともできなくなる。
私が一人でできないことが増えるにつれ、一手に介護を担っていた妻の体力と時間は次々と奪われていく。私の介護はどんどん大変になり、ついに妻は腰やひざを痛めてしまい、入浴と朝晩の着替えはヘルパーさんを頼むことになった。ヘルパーさんが介護してくれる分だけは妻の負担が軽減された。ありがたかった。
ただ、このヘルパーさんの支援も、一歩外へ出て働こうとすると同様の公的支援が受けられなかった。「そんなばかな」と思ったが、公的な支援はあくまで在宅時の介護のみで、移動支援も通勤は対象外とのことだった。在宅で受けている介護は勤務先でも必要だ。ヘルパーさんに勤務先へ介護に来てもらえるような公的支援の制度があれば助かるのにと思ったが、そうはいかなかった。自宅ではヘルパーさんに介護してもらえるのに、働きに出ると一人だった。障害者が会社勤めするのは大変だと思った。
それでも大抵のことはその場に居合わせた人に頼めば何とかなった。だが、頼みづらいこともある。例えば、雨がっぱの着脱やトイレ介助だ。
雨の日は妻が自宅の最寄り駅まで送り迎えをして雨合羽の着脱をしてくれたが、問題は勤務先の駅だった。周囲の人に頼むわけにもいかず、結局、同じ部署の社員にお願いせざるを得なかった。
しかし、会社の人には仕事上必要な助けはお願いできても、私的でかつ業務外の身体介護は頼みづらかった。そこで、有償でお願いしようとしたら、みんなから「水くさいことを言わないでください」と断られ、雨のつど、快く無償で駅まで送り迎えをして合羽を着脱してくれた。本当にいい人たちに恵まれていた。
一方、会社でのトイレ介助はさすがに会社の人には頼みづらかった。最初は一人で何とか頑張っていたが毎回悪戦苦闘していた。ついに在職中の最後の頃はにっちもさっちもいかなくなり、紙おむつでの対応も考えたが、結局、会社近辺の介護事業所に保険適用外のヘルパーさんを頼んだ。おかげでトイレは短時間で楽に済むようになり助かったが、費用は全額自己負担なので大変だった。
せめて仕事とは関係のない勤務先でのトイレ介助だけは公的にヘルパーさんの支援を認めてもらえれば、多くの人が助かる(働きやすくなる)のにと思う。
いろいろ困ることも、なんとかかんとか乗り越えながら元気に過ごしていた。
ところが進行性のこの病気は厄介だ。四肢の次は首に来た。うなだれると自力で頭を戻せなくなった。同時に、嚥下(えんげ)機能が低下して就寝中やうたた寝で唾液を誤嚥(ごえん)するようになった。痰(たん)が絡む咳(せき)がだんだんひどくなり、頻度も増してくるようになった。それでも痰さえ吐ければ何事もなかったように落ち着くので会社に行っていた。本当はお医者に行かなければならなかったのに。
そしてついに肺炎を起こし救急搬送される。
「肺が真っ白でもう少しで命が危なかった」と主治医に言われ、心がぐらついた。
今までは「それでもなんとかなる。なんとかできる」と思っていたのに。
子供も大学を卒業していた。定年まで働こうと思っていた(あと二年だった)が、これ以上無理して働く意味もわからなくなってしまった。
退院後、職場復帰したものの結局定年前に職場に別れを告げた。
定年まで働いたら体は今よりもっと弱っているのは明らかだった。元気なうちに辞めよう。もう潮時だと思った。
こうして車いす通勤は五年ほどで終わった。
朝、五時半ごろに起き、ラッシュ前の七時ごろの電車に乗り(この時間の女性専用車両であれば何とか乗れた)、八時半ごろ会社に到着。パソコンに向かって仕事をし、たまに会議に出て、十七時半ごろ退社し自宅に十九時過ぎに到着。毎日スーツにネクタイ姿だった。
今振り返ってもよくやっていたなあと思う。
もちろん、元気に就業できたのは妻とヘルパーさんと会社の人たちのおかげだ。だが、それ以外の人たちのやさしさや親切にもたくさん出会った。
さりげなく先回りしてドアやエレベーターを開けてくれる人、「何かお手伝いできることがありますか」と声をかけてくれる人、乗降をサポートしてくれる駅員さんや警備員さん、バスの運転手さん、公共施設や商業施設でやさしく対応してくれる案内係の人などなど、とても書ききれない。
ところが、私の退職は妻に一層の大きな負担をかけることになる。
退職に妻は同意してくれたものの、妻も勤めを辞めなければならなかった。私が平日の日中も家にいるからだ。私を見守る必要があった。今までは通勤していたので誰かの目が必ず周囲にあり、私に何かあっても誰かにすぐ気づいてもらえたが、自宅内は妻と二人きり。妻がいなければ誰にも助けてもらえなかった。
退職により私は通勤と仕事から解放され体が楽になったうえに自由な時間を手に入れたが、妻の自由は私の退職で大幅に制限されてしまった。
そこで助けられたのが介護施設への短期入所やデイサービスだ。
その施設は同じ区内にあり、マンツーマンで常にヘルパーさんがそばについてくれる。
宿泊時も二十四時間ヘルパーさんが同じ部屋にいてくれるので安心だった。食事も職員やボランティアの人が交代で手作りしてくれおいしかった。妻が用事のある時などに一日または数日利用させてもらった(ただし利用は抽選で、数か月に一回程度しか無理だった)。
ここは私が障害者になってから唯一の安心して外泊できる場所だった。外泊はプチ旅行気分だった。妻もこの時だけは少し自分の自由を取り戻すことができた。
もうひとつ助けになったのが肺炎入院を機にお願いした訪問医だ。月に二回診察に来てもらい、医療的な相談にも乗ってもらえる。調子が悪くなれば緊急で来てもらえる。私と妻にとって心強いと同時に、調子が悪い時にこちらから出向かなくていいのでありがたい。
退職して二年。なんとなく体調も生活も落ち着いてきた気がしてきていた。
妻と二人で(たまに子供と三人で)日帰りで時々出かけたりもした。
歌舞伎や映画、美術館、観光地などなど。外食もした。家族で出かけられることがうれしかった。
ところが現実は厳しい。
去年の夏、夜中の二時半ごろ。心肺停止になった。突然だった。
直前の夜中零時ごろまで妻と録画したテレビドラマを見てから就寝。少し痰の絡む咳が出ていたが、そのうちひどくなり呼吸が苦しくなる。妻を起こしベッド上で座位の姿勢をとらせてもらった。いつもならこれで呼吸が楽になるはずだった。ところがその時は違った。咳き込みながら「苦しい。呼吸ができない」と言ったまでは覚えているが、その後の記憶はない。妻は私が白目をむいて体が冷たくなっていくのを感じて、口を開けて気道を確保し心臓マッサージを行った。救急車を呼び到着まで救急隊員の電話での指示に従い心臓マッサージを続けた。救急医療センターに搬送され、幸い集中治療室で蘇生した。後遺症もなかった。妻の適切な対応のおかげだった。先生や看護師さんも絶賛だった。ついに妻に命まで救ってもらった。
蘇生した私はいつも通りの睡眠から目覚めた感じだった。大変だったと後で話を聞いてびっくりした。と同時に、こんなに簡単に死んでしまうんだということに驚いた。死を初めて身近に感じた。
主治医のいる病院に転院後、痰を吐き出す力が弱っているので気管切開をすすめられた。声を失うと言われた。すぐには決断できなかった。手足が動かないうえに声まで失ってしまうことは耐えられなかった。切らなくてすむ方法はないのかと先生たちに何度も訴えた。二週間ほど妻と悩んだ。そして、切開部に声が出せる器具をつけてもらえるとのことで、やっと決断した。私は気管切開をした(おかげさまで今も昔通りの声で普通にしゃべることができている)。
気管切開したので切開部からの痰の吸引が必要になった。
従来の介護体制を白紙に戻し、一から組み立て直さなければならなくなった。
家のリフォームも必要だった。妻の負担はより増えることは簡単に予想できた。
妻の頭髪は今までの疲労とストレスで抜け落ちはげ上がっていった。
しかし、妻は施設よりも在宅での介護を選んでくれた。
私はリハビリ病院に転院し、妻は在宅介護に向けた準備をした。
ところが問題があった。
ヘルパーさんの吸引資格はテストや書類のやり取りなどの手続きが必要で、一人目が取得できたのは退院から三か月以上たってのことだ(この資格はどうやれば入院中に取得することができたのか、いまだにわからない)。
資格が全員とれるまで妻一人で対応せざるを得なかった。この間、妻は常に吸引に備えてヘルパーさんがいても家で待機していなければならなかった。夜間就寝中でも病気で寝込んでいても、起きてこなければいけなかった。
吸引の体制が当初の予定通りに整ったのは、退院から半年以上が経過した最近のことだ。新しい介護体制もやっとスムーズに回り始めた。
私は妻をはじめ、いろいろな人と制度に助けられ支えられて生きている。
おかげで私は元気でいられるが、私を支えてくれる側は大変だ。特に、介護を担っている妻とヘルパーさんの負担は大きい。私を助けるために妻やヘルパーさんが体を壊してしまっては元も子もない。
それなのに、妻はヘルパーさんがいない時間帯は、疲れていようが体調を崩し寝込んでいようが、私の見守りと介護をしなければならない。病気になっても誰にも看護してもらえず、病院にも自由に行けない。結局、自分を犠牲にして私の面倒を見てくれているのが現状だ。
こうした妻の介護負担を少しでも肩代わりできるのは、ヘルパーさんと外泊施設だ。
幸い、気管切開を機にヘルパーさんによる介護時間を大幅に増やしてもらうことができ、夜間の見守りもしてもらえるようになった。その分だけ妻は介護時間が短くなり、夜も寝ることができるようになった。
今後は、妻がもう少し長く介護から解放されるよう、外泊できる手段を手に入れたい(残念ながら吸引が必要になったため、以前利用していた施設は使えなくなった)。障害が重度になるほど受け入れ施設はなくなる。レスパイト入院という制度もあるがなかなか利用しづらい。私のような肢体不自由で吸引も必要な者でもマンツーマンで二十四時間見守ってくれる短期入所施設ができてほしい。
一方、ヘルパーさんも大変だ。体ひとつでの介護だ。何か装着しているわけでもない。身体介護は本当に体を張っての力仕事だ。
重度障害に対応してくれる事業所は限られる。我が家に来てもらえるヘルパーさんは吸引資格も取得しており貴重な存在だ。彼らがいてくれなければ在宅介護は続けることはできない。
ところが、腰や手首を痛めたり不安を抱えているヘルパーさんも多い。新聞でヘルパーさんの八割は腰を痛めるか腰に不安を抱えながら働いているという記事を読んだ記憶がある。そうであればヘルパーさんの腰をサポートする装具の装着を事業所に義務付け、費用を補助するような制度はできないものか。彼らに元気で介護を続けてもらえるように、そうした施策もお願いしたい。
利用者も負担軽減に努める必要がある。我が家も妻がリフトを寝室と浴室に設置してくれている。移乗と入浴時の私の安全と介護負担軽減のためだ。これ以外にもみんなが介護しやすいようにヘルパーさんの意見も聞きながら体制や方法を改善できるよう心掛けている。
障害者の支援は、支援する側も支援されるものであって欲しい。
毎日私は助けてもらうばかりで、感謝と申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
今後も迷惑をかけるだけで何もお返しすることはできないだろうが、せめてみんなに介護の甲斐があったと思ってもらえるよう生きていきたいと思う。
体はこれからも弱っていく一方だろうが、気持ちだけは病気に負けず元気でありたい。
最後になったが、妻に一言。
「いつもありがとう。感謝しきれないほど感謝している」
おかげさまで「私は障害者ですよ」と胸を張ってさっそうとした気分で生活している。
余談だが、この応募も妻に「書いてみたら」と勧められたものだ。退職後、何をするでもなく日々過ごしていた私にとっていいチャレンジになった。本当に感謝してもしきれない。
山成 由起プロフィール
一九五六年生まれ 東京都在住
受賞のことば
今回の応募で、私が障害者になってからの思いや経緯を形ある作品(記録)として残すことができ大変うれしく思っています。
そのうえ賞までいただく名誉にあずかり、とても良い記念になりました。
作品にも書きましたが、私がこうして今あるのも家族や支援いただいている皆さんの支えのおかげです。あらためて感謝するとともに、これからも皆さんの助けを借りながら一日一日を大切に生きていきたいと思います。
選評
他人事ではない。それまで仕事に打ち込んできた人生が突然の難病によって崩れていく。身につまされる作品だ。作者もその時その時の病状によって考えうる最善の策を講じるが、進行性の病魔は、少しずつ作者から生活の自由を奪ってゆく。しかし、作者はあらゆる人的、制度的支援を活用して生き抜こうとする。そして、支援してくれる妻、ヘルパー、会社の同僚、周りのすべての人々への感謝をあらゆる場面で述べる。最後に「何もお返しすることはできないだろうが、せめて介護の甲斐があったと思えるように生きていきたい」と結ぶ。淡々とした文章で難病支援の課題と人間愛を考えさせる作品だ。(鈴木 賢一)
以上