その日、予想していたこととはいえ、現実を目の前に突きつけられると、昨日までの暮らしと今日以降のそれとがまるで違う色に感じられた。
「自閉症です」
「CTに映った影は、クモ膜下脳腫です。これが大きくなると大変ですから、気を付けてあげて下さい」
「自閉症の子の指導は、ここでもやっていますし、いろいろありますよ」
大学病院からの帰り道、私たち夫婦は先生から言われたことをそれぞれの頭の中で復唱しながら、無言で歩いていた。二歳になる次男佳彦の診断が出た日だった。もう今から二十六年も前のことだ。
佳彦は、ちょうど一歳の誕生日に歩き始めた。その頃(ころ)に、言葉も出てきていた。ところが誕生日を過ぎてから、逆に言葉が出ないようになったのである。その時期に何かがあったのかもしれないが、今となってはわからない。
子どもによって話し始める時期には差があるから、当時、私はあまり気にしていなかった。むしろこの子は大器晩成なのだと思ったりしたものだ。しかし、妻は一歳を過ぎた頃から佳彦と視線が合いにくいことも気がかりだったらしい。そんな折、保健所の定期健診で、大学病院での詳しい検査を勧められた。その結果を聞きに行ったのが、この日だったのである。
バスを降りてから家までは百メートルほどである。途中、佳彦を抱き上げている時に近所の方とすれ違い、視線を合わさずに挨拶だけを交わした。そして家までの道すがら、いろいろなことが心に浮かんだ。これから大変だということ。どのようなことをしていけば良いのかという漠然とした不安。祖父母四人にも説明して、協力してもらう必要があるとも思った。ただ、それと同時に、これが自分たちに与えられた使命なのだとも思った。私たち家族は選ばれたのだから、佳彦とともに生きていかなければならないし、また立派にやっていけるはずだ。そんな思いも、家に着く頃には胸に去来してきた。
障害と付き合っていく日々が始まった。障害のあることがわかってから、何を考えてやってきただろうか。思い返すと無我夢中で、手当たりしだいに様々(さまざま)なことをやってきたように思う。本を読んで、参考になる方策はすべて取り入れた。身辺自立のために、できるだけ自分で何事もやるように見守った。より多く話しかけるように心掛けたし、字を覚えられるようにカードも作った。数がわかるようにと考えて、コルクでできた小さな立方体を二十個買い、それらを数えながらはめられる棚を手作りしたりもした。良いと聞いて、気功の先生の所へ通わせたこともあった。とにかく話すことができるようになって欲しかったのだ。
「よっちゃん、おじいちゃんはどこ?」
佳彦が三歳のとき、遊びに来ていた私の父が青いカーテンの影に隠れて、佳彦に問いかけた。その直前には、同じようにテーブルの下に体を入れて佳彦とかくれんぼをしていた。体の一部が見えていたので、テーブルの下の祖父を見つけることはできた。しかし、カーテンの影になった祖父は、体が完全に隠れてどこも見えていない。カーテンが大きく膨らんでいるのでわかるはずなのだが、佳彦は結局見つけられなかった。父は
「こういうのが、わからないのだな」
と、しみじみ言ったものである。自閉症は、こういった周辺の認識能力にも影響しているようだった。
三歳になる年の四月から、私立の『つつじ学園』に通園することになった。言葉の遅れた子どもたちを保育・指導してくれる母子通園の施設である。小さい背中にやや大きめのリュックを背負って、妻と一緒に出かけていく。その後ろ姿は何とも健気(けなげ)であった。
佳彦は六歳で、市立の幼稚園に入園した。ここで初めて健常の子どもたちと一緒に過ごす経験が始まった。この頃から、周りの人たちに『よっちゃん』と、呼ばれるようになった。佳彦の頭文字をとって、よっちゃんだ。
そして、小学校と中学校はプレイ室(養護学級)に在籍して、音楽・体育・美術の授業とホームルームだけ、他の子どもたちと同じクラスで受けるようにさせてもらった。
小学校一年生の秋のこと。学校から佳彦が一人で帰ってきたことがある。妻が長男の来るのを途中で待っていたため
「家にお父さんがいるから、ここから一人で行ってごらん」
とよく言い聞かせて、目で追いながら帰したのだ。途中に、お隣の奥さんがいた。一人で帰ってきた佳彦を見て
「よっちゃん、今日は一人なのね。お母さんはどうしたの?」
と声をかけてくれた。佳彦は後方の曲がり角を指さしながら
「あっち」
と答えたそうである。後で、この奥さんが
「あ、わかるのだと思いました」
と教えてくれた。
少しずつ会話ができるようになり、佳彦も表情豊かになってきた。ただ、年齢が上がるとともに健常な子どもたちとの違いが明瞭になってくるのがわかった。
五年生の夏休み、私は佳彦と二人で市営のプールに行った。そこには幅も長さも四メートルほどのコンクリートでできた子ども用の滑り台がある。子どもならば、七、八人が一緒に滑れるほどの幅である。この日も子どもたちで混雑していた。
「あ! よっちゃん、あぶないよ。早く滑りなさい」
私は、思わず大声をあげた。佳彦は何度も繰り返し滑っていたが、何回目かのこと、何を思ったか、上から一メートルほど滑ってから途中で止まり、立ち上がったのだ。どこか遠くを見ているようだった。後ろには一年生くらいの女の子が『早く!』と言わんばかりの表情で順番を待っている。ひょっとすると危ないと思って、私は大声を出したのだ。
その直後、後ろにいた女の子が佳彦の両足をすくうように滑って来たのである。あっという間もなく、佳彦はひっくり返り後頭部を強く打った。泣き出した佳彦の後頭部をさすりながら、もっと早くに自分が動けばよかったと後悔した記憶がある。その女の子は知らぬ間にどこかへ行ってしまった。親がいたのかどうかもわからない。佳彦を医務室で休ませてもらってから、車で帰宅した。途中で吐いたので心配になり病院に行くと、幸いに軽い脳震盪(のうしんとう)ということだった。しかし、この日は障害のある子とない子の何ともやるせない違いを感じる一日だった。
六年生の秋に佳彦は初めて、てんかん発作を起こした。十月最初の日曜日。家から二キロほど離れた公園に、弁当を持って家族で出かけた時のことだ。
「あ、お父さん、佳彦が」
佳彦の様子がおかしいことに気が付いて、妻が叫んだ。驚いて横にいた佳彦に顔を向けると、右目だけが上に引っ張られる感じで顔が引きつっていたのだ。明らかにおかしい。少しすると、もどしそうになったのだろう、今にも吐きそうに体をくねらせ始めた。おそらく食べたもの全部だろう。吐いてしまった。そしてやがて両目とも白眼になり、全身が痙攣(けいれん)し始めた。顔も血の気が失せて真っ白だ。
「救急車、呼ぼうか」
妻にこう言われたが、動揺していたためか、決断ができなかった。幸い、痙攣はすぐにおさまり、顔にも赤味(あかみ)がさして元に戻ってきた。それとともに佳彦は、すやすやと寝息を立てて、眠りに落ちた。
自閉症の子は大抵、てんかん発作があるとは聞いていた。だがそれまでは一度もなかったので、この子は健康面の心配はないと思い込んでいた。それだけにこの日は、自閉症と分かった時以来の衝撃だった。このあと病院で脳波の検査を受けると、脳波に異常はなかった。しかし、症状からみて明らかにてんかん発作だということで、抗てんかん薬を服用することになった。幸い六年生以降、発作は起きていない。
小学校卒業まで、こうしていろいろなことがあったが、学校では先生方に本当によく指導していただいた。ひらがなとカタカナ、それに小学校四年生くらいまでの漢字は、読み書きできるようになった。計算も九九は覚えたし、筆算での割り算もできるようになった。何度も繰り返し手作りのプリントで、丁寧に教え込んでもらったおかげだ。とても感謝している。
卒業式は、夫婦そろって式に参加した。終わってから教室に戻り、そこで担任の先生のお話があった。我々夫婦も他の保護者の方たちと一緒に、教室の後ろで見守っていた。
「中学校に行ったら、どんなお勉強をするのかな? よっちゃん」
担任の先生がたずねた。
「中学校に行ったら……、いいお勉強する」
「ああ、そう。そうだね」
この会話で先生も生徒たちも、そして保護者の人たちも全員がほほ笑んだ。佳彦がクラスの中で、こういう役回りをこなしていたのかと思うと、誇らしかった。
こうして小学校を卒業し、中学校へ。中学ではいじめもあり、夫婦で中学校に話をしに行ったこともある。佳彦にはつらい三年間だったかもしれないが、弱音を口にすることもなく卒業した。
そして特別支援学校の高等部で三年間、同じように障害のある子どもたちと学んだ。将来の進路を決めるにあたって、いろいろ考えることはあった。だが佳彦には今の作業所が良かったと思っている。毎日そこに通い、帰宅後は家でくつろぐというのが今の生活だ。この生活が、佳彦の安定した気持ちと屈託の無い笑顔を生み出してくれている。
佳彦は今、きわめて規則正しく毎日の生活を送っている。二つバスを乗り継いで作業所に通っているのだが、まず起床は朝六時で、身の回りのことは全部自分でする。
「七時二十六分です。ぼく行ってきます」
テレビに表示されている時間を見て、こう言ってから、いよいよ出発。近くのバスの停留所までは、一緒に行く。私の妻がずっと付き添っていたのだが、仕事を辞めたので、最近は私が付き添うことも増えた。
停留所までリュックを背負い帽子をかぶって、トコトコと小さめの歩幅で佳彦は進む。迷いなく我が道を行くという風情で、まっしぐらである。
「おはようございます。……一回ね」
「ああ、おはようございます。行ってらっしゃい」
途中にマンションがあり、そこの管理人さんへの挨拶だ。ゴミの片付けをされているところにちょうど出会うことがある。『一回ね』は私に対して言ったものだ。佳彦は同じことを何度も繰り返して言ってしまうので、繰り返さないように妻が叩(たた)き込んだ。停留所には、たいてい定刻の七分前には到着する。
「あれが電気屋さん、あっちが小学校の体育館、ここが市バスのバス停です」
「そうだね」
停留所から見える看板と、通った小学校の体育館を確認する。それから背中に手を伸ばしリュックのポケットへ手を入れる。市バスの無料乗車券だ。ケースの片面に一人で乗るときの青い分、反対側に付添人も一緒に乗るときの赤い無料乗車券が入れてある。
「乗るときはこうね」
運転手さんに青い方の乗車券を見せるときの仕草をしながらの確認である。
バスを待っていると、ほぼ毎日、南の方から一台の自転車がやってくる。やや前かがみで勢いよくこいで来られるショートカットがよく似合う年配の女性だ。
「園長先生、おはようございます」
「おはようございます、よっちゃん。行ってらっしゃい」
「はーい、行ってきます」
私も挨拶をするのだが、この女性は、佳彦が通った『つつじ学園』でお世話になった先生だ。園長先生が北へ通り過ぎて、その背中がほとんど点になった頃に三十五番のバスがやって来る。
「三十五番です。これだよ」
「そうだね。間違いないね。行ってらっしゃい」
番号に特に注意しているのは、一度間違えて三十三番のバスに乗り、途中から作業所と正反対の方向に行って大変な目に遭ったことがあるからだ。
バスの前の扉が開き、佳彦は乗っていく。運転手さんに無料乗車券を見せ、妻が教え込んだ通り、運転手さんにも挨拶をする。
「おはようございます。お願いします」
「はい、おはようございます」
大抵の運転手さんが、応えてくれる。時にはあまり対応してくれない方もいるが、佳彦はそんなことは気にも留めていないようだ。こうして一人でバスに乗り、途中で別なバスに乗り換えて作業所へ通っている。
作業所では、午前中に製菓店から依頼された菓子箱を作ったり、ビーズを使った装飾品を製作したりしているらしい。午後はだいたい市内にある特別養護老人ホームへ行って、そこの清掃作業をしている。また週に一日は作業所近くのスーパーの前で、ダンボールや空き缶、それに牛乳などの空きパックの回収を手伝っている。
作業所は四時に退所。佳彦は二つのバスを乗り継いで帰ってくる。停留所から家までニコッとしながら、トコトコと例の足取りで戻ってくる。その姿を家のベランダから見ていると、こちらの心が浄化される気がする。
夕食を食べ、お風呂に入り、その後はゆったり時間が流れる。
「お父さん、スペインは?」
佳彦にほぼ毎日といって良いくらいに、こう聞かれる。これに対する正解は『エル・マタドーラ』である。
「お父さん、フランスは?」
「フランスはドラパンです」
「そうです」
佳彦は、我が意を得たり、という感じで続きを自分で言っていく。
「ロシアはドラニコフ、サウジアラビアはドラメッド三世、中国はワンドラさん、アメリカはドラ・ザ・キッド、ブラジルはドラリーニョです」
「日本は?」
私が逆に問いかけると
「日本はドラえもんとドラミちゃんです」
となって、一連の会話が終了する。これは、ドラえもんに出てくる『ドラえもんズ』のメンバーたちである。
ときには、テレビの天気予報を一緒に見ながら、都道府県名とそれぞれの特産品を言い合いっこしたりもする。
「あれは岡山県だよ」
「岡山県やね」
「岡山県はぶどうと桃がおいしいし、桃太郎さんがいるよ」
「そうやね。じゃあ鳥取県は?」
「鳥取県は、梨がおいしいし、ゲゲゲの鬼太郎がいるよ」
「そうそう」
こんな調子で、いろいろな都道府県のことを覚えるのが楽しいようだ。そしてだいたい九時半に床に就く。これが佳彦の一日である。
佳彦の毎日の様子を見ていて、最近私はある絵本のことを考える。『せきたんやのくまさん』というイギリスの絵本だ。私は佳彦が小さいときに、この本を何度も読み聞かせたことがある。これは、一人暮らしをしているせきたんやのくまさんの平凡な一日を描いたものだ。
……くまさんは朝ごはんを食べると、馬が引っ張る荷馬車に、石炭の入った袋をたくさん積んで仕事に出る。そして何軒かの家でその石炭の入った袋をおろして、代金をもらう。それが、くまさんの仕事なのである。石炭がすっかりなくなると、くまさんは馬に声をかけて帰路につく。そして家に戻ってお茶を飲み、暖炉の前で絵本を読む。やがて眠くなると、二階に上がってベッドでぐっすり眠り、一日が終わる。……
こういうお話である。私はストーリーの面白さを感じ取れなかったので、おそらく子どもも興味を持たないと思ったが、何度もせがまれて読んだ記憶がある。淡々とした日常と何気ない温かさ、そして平凡さの中にある使命感に満ちた力強さ。そのようなところが魅力だろうか。佳彦の一日とせきたんやのくまさんの一日が、私には重なって見えてくるのである。
佳彦の一日もくまさんの一日も、平凡といえば平凡、何の変化もないといえば確かにそうかも知れない。佳彦は普通の人たちのようには仕事をすることができないし、できることを確実にやり上げているだけである。
しかし、本人と一緒にいて感じるのは、その『はんぱない』満ち足りた様子である。周りを気にすることなく、一日の流れに沿って為すべきことを淡々と果たしていく。そのようにして、自分らしさを貫いている。私は、自分自身が仕事で行き詰まりを感じたときなどに、佳彦から教えられることが多かった。周囲のことなど気にせずにやるべきことをやれば良い。そう思わせてくれた。
そんな日々を送る佳彦と暮らしていて、最近私は二つのことを心配している。一つは、この平穏な日々はずっと続いていくだろうかということだ。世の中の変化は非常に速い。その荒波の影響をもろに受けるのは、いわゆる社会の底辺にいる人々や障害のある人たちである。たとえば、不況は作業所の仕事にすぐに影響する。今まで仕事をくれていた企業も真っ先に作業所から切っていく場合が多いようだ。
二つ目の心配は、社会全体で価値観が偏ってきていることだ。多様性と言いながら一方向にのみ流れて、それが障害のある人たちを圧迫していくのではないかと気になってきている。具体的には、『創造力』や『発想力』を重視しすぎではないかということである。新しい商品や発想のユニークさなどが称(たた)えられる。そのすばらしさを否定はしないが、それらがすべてではない。新商品もそれを買う大衆がいて初めて価値が出る。携帯電話の発明は本当にすばらしいが、使う人々がいなければ意味はないだろう。『創造力』や『発想力』を重視しすぎる人は、せきたんやのくまさんの生き方を否定するに違いない。心豊かで平和な生き方なのに。
よっちゃんは、せきたんやのくまさんのように暮らしている。障害のある人たちの中に同じように生きている人々は多いし、障害のない人々の中にもそういう人々は大勢いる。実は、そうした人々が社会を支えているのである。
私はこれからも、佳彦とともに現在の暮らしを生きていきたい。また、佳彦だけでなく他の障害のある人たち全員が、せきたんやのくまさんのように暮らしていけることを願っている。そして、そのための方策を全力で考えていくつもりだ。
水上 勉プロフィール
一九五六年生まれ 兵庫県在住
受賞のことば
「留守中にNHKさんから電話があったよ」と、長男が教えてくれました。ひょっとしたらと思い、折り返しかけてみると最終選考に残っているとのこと。そして数日後に佳作の連絡です。有難うございました。
自閉症の次男とともに生きてきて、抱いてきた思い。何とか書き残したいと、ずっと胸に温めていました。今回それが佳作に選ばれ喜びでいっぱいです。今は、このことを佳彦にどう伝えようかと考えているところです。
選評
自閉症の息子さんと共に歩んだ水上さんの手記を読み進むうちに、石炭を配達しては各戸からお金を貰うだけの平凡な日々を送るくまさんの絵本に、幼き日の息子さんが予想外の興味を示したことに、成長した息子さんの日常を重ね合わせて思いをめぐらす文章に出会い、静かな感銘を受けました。「仕事をすることができなくても、満ち足りた様子。一日の流れに沿って為すべきことを果たしていく。そのようにして、自分らしさを貫いている」と。この息子さんと父親の静謐(せいひつ)な存在を知っただけで、私は光を感じました。(柳田 邦男)
以上