第53回NHK障害福祉賞 佳作
〜第1部門〜
「はたらきに ときめきがあれば いきいきできる」

著者 : 西村 祐亮 (にしむら ゆうすけ)  石川県

一.“大人の”発達障害

子どものころから「臨機応変」という言葉が何より嫌いでした。「決まりきったやり方にこだわらずに、その時その場に応じて適切な手段を講じること」が、僕にはパッとすぐにできないからです。初めてのことや予期せぬこと、一気にたくさんのことが舞い込むと、頭が真っ白になり動きが止まってしまうことがあるのです。慣れない人や場所も苦手で、言葉がうまく発せなくなったり、きつ音(どもり)が出たりします。また“こそあど言葉”での指示や、社交辞令・暗黙の了解がよくわかりません。
また、感覚に過敏なところがあり、香水や柔軟剤などの“付けたようなにおい”のするものはほとんどダメで、頭痛や吐き気がしてしまいます。耳の聞こえ方も、目の前の人がしゃべっている声と、少し離れた人の声や物音・BGMなどが、ほとんど同じ音量で聞こえて聞き取りづらいときがあり、何回か聞き返すこともあります。
そんな症状がある僕は、「広汎性発達障害(自閉スペクトラム症)」と診断されており、精神障害者手帳二級を持っています。その名の通り「発達」の障害ですから、子どもの時に症状が出る障害だと思われがちですが、近年、大人になってから発達障害だとわかる人が増えていると言われています。僕も三十五歳の時に診断されました。
それまで自他共に全く気づきませんでしたから、診断を受けたときは「まさか自分が障害者になるなんて」という驚きとショックから、まるで普通(定型発達)の人たちとの間に大きな段差ができたような気持ちで、悲しかったです。

二.ちょっと変だけど「まじめないい子」

子どもの頃は、明るくて言うことをよくきく「まじめないい子」でしたし、学校の勉強では、授業中クラスの中で一人だけ反対意見を言う機会が多かったものの、体育と図工以外は上の方の成績を収めていました。自動車や電車についての知識は「まるで博士みたい」と言われるくらいでしたし、児童会代表などみんなのリーダーとなる機会もたくさんありました。
小学四年生くらいからずっと、悪口を言われたり、ばい菌扱いされたりするいじめに遭っています。同級生だけでなく一部の先生などからも「変な子」と言われていましたし、高校生になるとそれがエスカレートして、毎日学校へは行っていたものの、授業以外は相談室にこもりきりでした。それでも吹奏楽部の活動が楽しく、トロンボーンの練習を頑張っていました。中学一年生から大人になった今でもずっと続けている、僕にとって大切なものの一つです。
高校時代に、「人を支援する仕事」に憧れ、その中でも小学校時代にお世話になった複式学級の先生のような、障害のある子どもを教育する先生になるのが夢でした。そこで、大学の社会福祉学部を受験しましたが、残念ながらどこも不合格。しかし、地元の大学の法律学部で学ぶ傍ら、教職課程を専攻し、中学校と高等学校の教員免許を取得。無事卒業し、知的障害者入所施設の生活支援員になることができました。
「さあ、社会人生活頑張るぞ!」と意気込んだのですが、大変なのはここからでした。

三.それはうつから始まった〜十の転職と主な挫折〜

その知的障害者施設は、家から遠い所にあったので、一人暮らしをしていました。変則勤務があるので大変でしたが、僕のことを応援してくれる優しい先輩が何人もいました。
ところが三年目、体がだるくて朝起きられなくなったりして、遅刻や欠勤する日が増えていきました。仲が良かった先輩の異動で寂しくなったことや、好きだった音楽療法ができなくなるなど担当業務が大きく変わったことによって、思うように仕事がこなせなかったことがきっかけだろうと思います。精神科に受診すると「うつ病」との診断を受け、二週間の休職を取るよう言われました。
復帰した際には、仕事が日勤のみに減らされていたのですが、当時は世の中も含め、うつからの復職に対する理解がまだ少なかった頃。当時の上司からは、
「日勤なんて仕事じゃない。男は当直ができないと話にならない」
と言われたり、うつ病の薬を飲んでいながら利用者さんのお世話をすることを、変な色眼鏡で見られたりしていました。
さらに、
「君はうつ病どころか『統合失調症』じゃないのかね」
と心ないことまで言われ、
(自分は変なんだ。狂っているんだ。誰からも必要とされていないんだ)
と感じた僕は、アパートの自室で、大量服薬による自殺未遂をしてしまい、気が付いたらもうろうとしたまま車道をはだしで歩いていました。自分で救急車を呼んで一命を取り留めました。
すぐにその仕事を辞めて実家に戻り、「これからは高齢者介護の時代だ!」と訪問介護員二級の資格を取得。さらに、公用車の運転に役に立てばと、職業訓練で普通自動車二種運転免許の資格を取得してから、介護付有料老人ホームに就職。前職からの三年の実務経験で介護福祉士の受験資格を得た後、一発合格で取得し、「福祉こそ僕の天職だ」と思って頑張っていましたが、そこでもミスを繰り返したり、上司との人間関係がうまくいかなかったりで、うつ症状がぶり返してきました。
ある日、利用者の面前で厳しく注意されたことをきっかけに、誰もいないスタッフルームにあった包丁でリストカットをして、十六針縫う大けがをしてしまいました。その職場もしばらくして辞めてしまいました。
それから三十五歳まで、仕事が長続きしない年月が続きました。ふりかえってみると大学卒業の二十二歳から十三年間で十回も転職しています。仕事内容は高齢者介護だけでなく、福祉有償運送の運行管理者、学童保育指導員、さらには代行運転手、書店店員、葬祭業スタッフまでやってみましたが、就業期間は平均して一年程度、長くて三年、短いもので三か月も働けずに解雇されたこともありますから、あまりにも低すぎる定着率です。
せっかく採用されても「他の人より成長が遅い」という理由などから、試用期間が終わる頃に辞めさせられた職場。マニュアル等がなく「頭と体で覚えなさい」と言われて、なかなか業務が身につかなかったり、手先が不器用だったり動きが鈍かったりしたため、何回も叱られた職場。さらに先輩社員のいじめやパワーハラスメントを受けたことによって辞めた職場もあります。
それでも「早く仕事を探さなきゃ」と、辞めた会社を出てすぐに、泣きながらハローワークに行ったことも。その時声をかけてくれた障害者専用窓口の職員さんが「君のパフォーマンスを発揮できる仕事は必ずあるよ、力になってあげる」と元気づけてくれて、その人と一緒に「福祉の仕事の正社員」にこだわって仕事を探し続けました。
引きこもりには一度もなりませんでした。僕はどちらかというと打たれ弱い方ですが、心のどこかに「なにくそ根性」というか、負けん気の強い部分があったのかもしれません。
しかし、三十歳になった頃のある日、ふと弟から、
「なあ、なんとなく思うんやけど、兄ちゃんって福祉の仕事とか人助けの仕事って向いてないんじゃない?」
と言われたことがあります。
今でこそ弟の言っていたことはわかりますが、自己肯定感の低い自分にとって人に感謝される仕事はやっていて気持ちがいいですし、その時の自分には「これしかできる仕事がないんだ」という思いしかありませんでした。
それならば、と福祉以外の業種の会社に面接に行っても、
「資格があるのにもったいない」「そのまま介護の仕事をやっていればいいんじゃない?」
と言われてしまうのです。
一つの会社に長く勤めてさえいられればいいのに、どうして自分はこうもうまくいかないんだろう? と途方に暮れるばかりでした。
うつ病との付き合いはずっと続きました。仕事が決まると喜び、元気に働くのですが、仕事がうまくいかなくなるとうつ症状をぶり返してしまう、といった具合です。あまりのつらさから自殺願望は何回も出てきました。
平成二十四年に、介護福祉士を持っていることですぐに採用された高齢者施設で、うつ症状に苦しみながらもなんとか仕事を続けていましたが、ある日の通院で転機が訪れるのです。

四.発達障害とわかった僕

翌年の一月、長年通っていた病院の精神科で、当時の主治医に、
「君はうつ病じゃないかもね。仕事以外は元気なんだもの。もしかして発達障害の傾向があるかもしれない」
と、専門の医師への受診を勧められました。「発達障害」という言葉を耳にしたのはそのときが初めてでした。
不安ながらも、県の発達障害支援センターに相談に行き、成人知能検査(WAISV)の結果と共に、現在の主治医である嘱託医の先生に診てもらったところ、広汎性発達障害と診断されました。とはいえ、発達障害とはどういうものかすぐにはピンと来なかったので、インターネットや本で調べてみました。すると、特徴や症状についての記載と、自分の身の回りに起こっていることが一致してきて、「今まで悩んでいた原因はここからくるものだったのか!」という発見がありました。
子どもの頃は「あいつ変わっているな」という程度で特に大きな問題にならなかったのが、社会に出ると徐々に人間関係が築けない・ミスが多い・仕事ができないことなどから発達障害と診断されるケースがあること。うつ病になるのは、変わり者・自分勝手などと言われ続け、努力しても相応の結果が出ないことが多く、加えてストレスやトラウマへの抵抗力が弱く自分を責めてしまうことからくる、発達障害の二次障害であることなどがわかりました。
診断を受けてしばらくは、支援センターの相談員の方と面談を重ねていきました。病院で受けていたカウンセリングと違い、困ったことや悩みごとがあると「そういう時は、こうしてみたらどうかな?」など、具体的な策をアドバイスしてくださるので、コミュニケーション面で相手の心情を汲くみ取りにくい特徴のある僕にはとても助かりました。
また、主治医から注意欠陥を抑える薬(ストラテラ)を処方してもらったところ、特徴や症状を自分で意識できるようになり、そこからくるイライラが徐々に減ってきました。服用する前と現在では、状態が全然違うと自分でも思います。
しかし、今まで普通だと思っていたのに、発達障害と診断されたことで、ちまたの「キモい」「ウザい」「困った特徴ばかり持っている人」などというマイナスイメージが先行して、自分も“そういう人”になってしまったんだと感じ、低かった自尊心はさらに低くなりました。そして、
(もっと早くにわかれば対処できたのに……)(今までのつらかった人生を返して!)
とやり場のないつらさにさいなまれました。
やがて相談員と主治医から、
「生きやすさのために、障害者手帳を取得して障害をオープンにして働いてみてはどうか?」
というお話を頂き、平成二十五年十月に精神障害者手帳を交付してもらいました。
僕の両親は最初、世間体や就職口の少なさを気にしてか、
「あんたこれからどうするつもりなの? 仕事は? 将来のことは?!」
とすごい剣幕で反対しました。幼い頃からしつけが厳しく、世の中の普通とされていることや常識からはみ出すことを極端に嫌う人でした。
仕事を辞めて実家に帰ってきたときも、
「もう嫌な仕事辞めてきたんだし、病院なんか行かなくていいでしょ、薬も捨ててしまいなさい」
と言いました。うつ病の服薬は量を徐々に減らしていって治していくものなのに。
ですが、日が経つにつれ、少しずつ情報を得ることで僕が発達障害であることを認めてくれるようになり、
「親はいつか先に死ぬんだし、あなたが生きやすいという道を自分で切り開いていきなさい、それがあなたにとっていいことだと思う」
と言ってくれました。
平成二十六年六月。ハローワークの障害者専用窓口の方、以前からお世話になっていた産業カウンセラー、障害者就労支援センターのジョブコーチとで面談をして、過去に受けた職業興味適性検査の結果も踏まえて、「エントリーは障害者枠で、職種は事務職で探すこと」を決めて就職活動を開始しました。
介護福祉士は今まさに求められている人材なのにもったいない、というおもいもありましたが、まずは自分が無理することなく仕事をこなし、心身ともに穏やかでいられることを優先しました。
福祉業界ばかりの経歴と、退職歴の多い履歴書にとても不安でしたが、面接にこぎつけただけでもありがたいのに、うれしいことに二社目の面接で採用が決まりました。
それはわずか五か月の就職活動でした。

五.現在の僕の仕事とあたたかな周りの人たち

僕は現在、大手損害保険会社で障害者枠の契約社員として働いています。任されているのは、主に社内の郵便・荷物の授受発送を中心とした事務・総務です。
初めのうちは、仕事を一つ教わったら、その場で書いたメモを自分でわかりやすくノートに清書して自分流のマニュアルを作る時間をいただけました。そのノートを片手に、ルーティンワークになるまで仕事を覚えるのに半年かかりました。慣れないうちはイージーミスを何度も繰り返しましたが、徐々に減っていき、今ではその部分の仕事を全部任せてもらえるまでになっています。
勤めて半年が経った頃、電話応対を任されました。何を言われるかわからない緊張感、さらには感覚過敏のせいで通話が聴きとりにくいこともあるので、正直僕にとっては苦手な分野ですが、会社にはわかりやすい対応マニュアルがあり、僕の部署はお客様からなどの電話が少ないので、徐々に慣れていき、ゆっくり落ち着いて応対できています。感覚過敏から通話が聴きとりにくいという点は、耳栓の使用を許可していただくことで解消できました。
業務の指示は、段階を踏んで少しずつしてくれたり、口頭だけでなく紙などに書いてくれたり、「もうちょっと」「時間のあるとき」というあいまいな表現ではなく、「これが終わったら」「○月○日・○曜日まで」と具体的な表現の声かけをしてくれたりと、わかりやすくしていただけて助かっています。
予期せぬことを言われたり、瞬時に優先順位がつけられなかったりしてパニックになることは、今でも時々あるのですが、最近では社員さんの方から「大丈夫、この人を先に対応して。私は待っているから」などと声をかけてくれます。ひどいパニックになったりした時はぐったりして、その後の仕事が思うようにできなくなってしまうことがありますが、その時は静かなところで落ち着くまで休ませてくれます。
現在勤続四年目に入り、少しずつ仕事の裾野が広がってきています。これだけ長く働けているのは、採用された部署の業務が自分にぴったり合っていることもありますが、会社全体が障害者雇用に対してとても積極的であること、ジョブコーチの方が会社と僕の間に入って面談を重ねてくださっていること。そして僕の特性、仕事のアピールポイント、配慮していただきたいことなどが書かれた「私の特徴説明」を部署リーダーの方に提出させていただいたことで、周りから配慮が得られていること、などが大きいです。
「出来ることと出来ないことの差が激しい障害」とも言える発達障害者が働く現実は、正直まだまだ厳しいと思います。配慮や理解がすべてにおいて得られるわけではないですし、自分の根気と努力も必要だと思います。あと、障害をオープンにすることのデメリットをあえてあげるとすれば、収入は低め、キャリアアップも厳しいというのが現実だということでしょうか。
人が働く理由はいくつもあります。「収入のため」「自己実現のため」そして「社会に役立つため」などさまざまで、それは障害がある人もない人も変わらないと思います。僕は長年のつらい経験から、就労することがゴールではなく長く働き続けることが大事であり、同じ働くなら「目的を持って」できれば「楽しく働く」ほうがいいと思っています。わずかな収入であっても昼間の決まりきった時間に働いて、土日祝日が休みという勤務のおかげで体内リズムもよく、自分の趣味などの時間も充実していますから、今の働き方を選んで本当によかったと思っています。
これを「運がいい」といっていいのだろうか、どうして自分はどん底からこんな恵まれた環境にいられるのか、ある日同じ部署内にいらっしゃる障害者求人担当の上司に聞いてみました。すると、
「かの松下幸之助氏が、就職の面接で必ず学生に『あなたは運がいいですか?』って聞いていたそうよ。就職にはね、運もあれば縁もあるの。それにね、運がいい人はどこかで必ずコツコツ努力をしているものよ」
という答えが返ってきました。
また、社外では、生きづらさの問題を明るく語ることができる「ハートキーパーの会」という場に行き、参加者の皆さんにつらい気持ちを受け止めてもらう中で、自分が持っていないものではなく、今手にしているものを大切にして生きることを考えるようにすることで、仕事だけでなく、生活やコミュニケーションなどが、少しずつ希望に満ちたものになっていきました。

六.発達障害への想い

今から二年前、ADHDの発達障害ユーチューバー・みっとさんが主催する「大人の発達障害を明るく語る会『ここらぼ』」に誘われ、彼の話を聴きました。
アニメ「天才バカボン」内のバカボンのパパの決めぜりふ「これでいいのだ!」を座右の銘としているみっとさんは、ご自身の障害の特徴をきちんと把握・理解し、苦手なこと・できないことを乗り越えるためのさまざまな工夫や道具の発明をして、明るく前向きに生きていらっしゃいます。その姿にとても好感を持ちました。
そこからは毎月の定例会にできるだけ参加して、当事者や支援者など、多くの方々と出会って学んでいくにつれ、僕自身もマイナスだったイメージを修正して自分を責めることもなくなっていき、生きることが少しずつ楽になりました。
NHKの番組で発達障害の特集が組まれたり、ウェブサイト「発達障害プロジェクト(現:発達障害って何だろう)」で、困りごとのトリセツ(取扱説明書)がたくさんの投稿によってできていたりと、発達障害のことが身近になり、わかりやすくなってきているのはとてもいいことだと思います。でも、当事者がどれだけ「発達障害のことをわかって!」と訴え、テレビが情報を発信しても、「そういうものなんだ」というある程度の“理解”はしてもらえるかもしれませんが、一人ひとりの症状に対する“配慮”はそれぞれ違います。わかってもらえないことにいらだったり、配慮してもらうことだけに甘えていたりしてはだめで、自分の得手不得手を知り、「自分には何ができるだろう?」「どうしたら症状・特徴を出さないようにできるだろう?」という自分なりの行動が必要だと思うようになっていきました。
僕は、「この人とは長い付き合いになる」と思う人には、
「すみません、僕こういうところがあるので気をつけます、何かあったら言ってくださいね」
と柔らかい表現で、特徴を少しずつカミングアウトするようにしています。日常生活や会社で、できないことや忘れがちなことが出てきたら、自分から気をつけるようにしています。
また、ちょっと他人と違っただけで「発達障害かも」ということを気軽に言ってしまう人や、その話を不吉なものに触れるかのようにする人が、ここ最近増えているように感じ、軽い気持ちで人を発達障害だと決め付けるのは危険だなと思うようにもなりました。

おわりに

発達障害の理解と配慮への学びを続ける中で、こんな言葉をくれた方がいました。
「相手に寄り添う心がある人が増えれば、世の中からいじめもパワハラも差別もテロもなくなるんだよ」
僕はその言葉に心を動かされ、
「今度は自分が働く上で悩んでいる人に寄り添う番だ」
と、「いきいきと働き、ひとに寄りそえる仲間の会『Alive』」というコミュニティーを作りました。そのキャッチコピーがこの作文の題にもなっている「はたらきに、ときめきを」です。
障害の有無問わず、働く上で抱えている悩みを参加者同士でシェアし、解決の糸口を見出すことで、少しでも気持ちが楽にならないかと始めたのですが、ゆくゆくは就労支援の方などサポートする側の人たちの力を合わせて、地域全体をあげて誰もがもっと働きやすい社会を作っていけないかと考えています。
これからも多くの方に、自分の特徴とうまく付き合っていけば普通の人たちと変わらない領域でいきいきと働けること、人生にときめきを感じながら生きていけるということを、発達障害の一人として伝えていきたいと思っています。

西村 祐亮プロフィール

一九七八年生まれ 会社員 石川県在住

受賞のことば

NHK障害福祉賞のことは、NHK総合テレビのお知らせコーナーで知りました。締め切りが迫っており、自分に書けるのだろうかと不安でしたが、「エピソードトーク」として自分の障害や就労のことを講演する機会があり、それをまとめる形で、一気に書き上げました。受賞のお知らせをいただいたとき、喜びと共に、私の紆余曲折の日々や、今では明るく元気に働けていることをつづったこの作文を皆様に読んでいただけることで、発達障害の当事者や関係者の方、働くことに何かしらの悩みを抱えている方の力になれればいいと思いました。それは文中にある「Alive」をたち上げたきっかけの一つでもあるので、その夢が叶い、大変嬉しく思っています。素晴らしい機会をいただけたこと、本当に感謝申し上げます。ありがとうございました。

選評

発達障害という言葉は、すっかり定着したように思われています。しかし、西村さんの作品は、本人が、自分と向き合うための診断にたどりつく道のりがどれほど苦しいものなのか教えてくれます。「私の特徴説明」によって、自分にも周囲の人にも「ウィン・ウィン」の関係を創り出し、今は人生のときめきを伝えるための活動にまで手を広げようとしている西村さんの「遍歴」に接すると、あらためて発達障害という言葉に安易に向き合ってはならないと感じさせられます。(玉井 邦夫)

以上