第53回NHK障害福祉賞 佳作
〜第1部門〜
「鍵盤に指を置く時―トゥレットは僕の個性―」

著者 : 長田 雄資 (おさだ ゆうすけ)  ドイツ

何故(なぜ)か太陽が気になる、釣り竿(ざお)で顔をつりあげられるように太陽を見上げたくなる、直視しないと気が済まない。この何気ない仕草がトゥレット症候群という病気の始まりだとは思いもしなかった。
この病気は一八八五年にフランスの神経科医のトゥレット教授によって報告され、トゥレット症候群と名付けられた。突発的に声が出る、意思に反して手足が動き、肩回し、まばたきなどを繰り返すなどのチック症状があり、チックの中で最も重症のものである。
父の二年毎(ごと)の転勤で、僕は言語の違いを伴う転校を繰り返し、その度に症状を悪化させた。そして、病気のみならず学校や社会との壮絶な闘いを強いられることになった。
僕は日本で生まれてすぐに父の転勤でロンドンに引っ越した。イギリスでは四歳から小学校に入学する制度で、シャツにネクタイ、ブレザーの典型的なイギリスの制服で通学した。
何がきっかけだったかは覚えていないが、四歳半からピアノを習い始めて結構好きだった。上達が速いと言われて六歳で十歳くらいのピアノ曲が弾けるようになり、校長先生が全校生徒の前で弾かせたりした。
こうして僕はピアノが大好きなごく普通の子供としてロンドンで七年間を過ごした。
太陽を見ないと気が済まないという変な癖が出始めたのを除いて。

〈ジュネーブで〉

父の転勤でスイスのジュネーブに引っ越した。ここではインターナショナルスクールに空きがなく現地校に入学した。授業はフランス語なので、何を言っているのか解(わか)らず全くついていけなかったが、唯一の得意科目は語学を必要としない算数だった。算数のテストだけは、いつも誰よりも早く書き終えて校庭で遊んだ。
次の年、イギリスのカリキュラムに沿って授業をするジュネーブ・イングリッシュスクールに空席が出たので転校した。やはり英語が話せるから友達もすぐに出来て、勉強も人並みについていけた。
しかし、トゥレットはジュネーブに転校してから、少しずつ症状を現し始めた。ときどき
「ン?? ン??」
という低い声が出て、たまに太陽を見上げ、時には片目をつむったりして、友達に初めて「何やってるの?」と指摘されたのを覚えている。当時は僕もちょっとした癖としか思っていなかった。しかし声が出る回数が少しずつ増えたので母は小児科へ連れて行ったが、「お母さんの気にしすぎですよ」と言われたそうだ。
学校でオリバー・ツイストのミュージカルをやった時のビデオが家にあるのだが、皆で歌う場面で僕だけが首を捻(ね)じ曲げた様にして歌っているのがひときわ目立っていた。

ピアノは自分から好んで弾いていて、毎朝欠かさず三十分間練習をしてから学校へ行った。
車の中にはモーツァルトのバイオリンコンチェルトのカセットテープがあり、外出するたびにそのテープを何十回も繰り返し聴くほど、八歳ながらクラシック音楽が大好きだった。
この学校でも校長先生が全校生徒の前でピアノを弾かせてくれた。ジュネーブではマダム・タボーという先生に出会った。厳しい先生だったが本当に親身になって教えてくれた。
何よりもピアノを弾く楽しさをこの先生から僕は教わった。

〈日本で〉

二年後、今度は東京へ引っ越した。九年間の海外生活の後でヨーロッパとは文化が全く異なる日本で、果たして僕がコミュニティーに上手(う ま)く馴染(な じ)めるかどうか親は心配だったに違いない。帰国子女クラスのある学校を探して小学四年生のクラスに編入した。このクラスでは日記を毎日書いて、先生が間違いを訂正してくれるなどの丁寧な指導があり、九か月後、僕の学力は一般クラスに編入できるまでになった。
しかし一般クラスでは雰囲気がガラッと変わった。まずクラスの人数が三倍になり、同じ日本人でも何か違和感を感じる。まるでサッカーのアウェー戦のような重圧を感じた。
この一般クラスに移った頃から
「ん、ん?」
という声がチックの様に理由もなく出始めた。算数の授業中に、この音声チックが出ていて、黒板を向いていた先生が振り返って
「変な声出してるやつ誰だ?」
と言った。この時がチックが理由で先生に初めて注意されたので、今でも鮮明に記憶に残っている。先生は授業中生徒が話を聞かずにふざけているのだと思っていた様だった。
授業中など静かな場所で声がちょっとでも出てしまうと先生や生徒に気づかれるので必死でこらえたが、少しでも気を抜くと声が出てしまった。たちまち別のクラスの生徒にまで知れ渡ってしまった。同じ組の生徒には
「ちょっとした癖なんだよね」
と言ってわかってもらえたが、他の組からは容赦なくいじめの対象になっていった。講堂で声が出たら隣の生徒に
「なに変な声出してんだよ」
と足を強くつねられ、下校中五人分のランドセルを学校の最寄り駅まで持って行かされる、靴をゴミ箱に捨てられる、バスケットのボールを顔面に投げつけられる、難しい四字熟語を言って
「お前知ってるか?」
と皆の前で笑いものにされたりときりがなかった。

叔父の看病で母の実家の九州の小学校に五か月だけ転校した事があったが、そこでのイジメも忘れられない。田舎の小学校だから帰国子女がクラスに一人いるだけでも珍しい。その上、音声チックが出ていた僕は格好のターゲットだった。掃除の時に男子生徒に床に押し倒され、一人ずつ乗っかってきて下敷きにされて苦しくて息も出来ない位だった。八人の男子に圧迫されている僕を見てクラスの女の子が
「そういうことするのやめなよ」
と止めてくれた。自分が惨めに思えて悔しかったのか、死なないで良かったと思ったのか、こらえていた気持ちが一気に緩んでその場で大泣きしてしまった。暴力沙汰での喧嘩(けん か)なら僕は絶対に勝つ自信はあったのだが……。

学校生活に支障をきたし始めた事に気づいた母は、僕の心を落ち着かせようとお寺に連れて行った。そこでは朝六時半から座禅が行われていた。座敷で四十五分間ひたすら座禅をしなければならない。最も大変なのが常に背中を真っ直ぐにして良い姿勢を保つことだった。だがそんな座禅も徐々に慣れてきて最後には四十五分間、心を無にして精神統一をこなす事ができた。このお寺に毎週末に五時起きして父の運転で家族で通った。また早起きを続けるために近くの公園で毎朝ラジオ体操をした。数か月して少しずつチックの頻度も減ってきて普通の生活に戻ることができた。

ピアノは日本の先生には全く見込んでもらえず、楽器を変えたら? と言われる始末だった。ジュネーブを発つ時に「才能があるから日本でも必ず続ける様に」と念を押されたのだが、日本ではこんなにも評価が違った。こうしてロンドンやジュネーブで培った音楽への熱意を日本で一気に後退させていった。

〈ニューヨークでの悪夢〉

また二年後、今度はニューヨークだった。アメリカでは九月から新学期が始まるので日本で小学六年の一学期を終えて引っ越した。ニューヨークには日本人学校もあったが、母はいじめを避けるために現地校を選んだ。夏休みは英語に慣れるために現地のサマーキャンプに参加したが、英語で困る事はなかったので現地校でもやって行けそうだった。
しかし、転校だけでも大変なのに二年毎にフランス語、英語、日本語、また英語と頻繁に変わり、日本でのいじめもあったりで、中学校の入学日はかなり緊張していた。
日本ではまだ小学六年生だが、アメリカでは中学一年生になる。
アメリカの中学校は授業科目が変わるたびに教室を移動し、同時に生徒も少し変わるので、転校生の僕にとってはその一日が初日というよりは、次の一時間目も初日だった。

そのストレスが限界を超したのか僕の手が勝手に動き出して、チックの発作の様なものを起こしてしまった。手足が痙攣(けいれん)の様に動き、声も
「アッアッアーッ」
と怒涛(どとう)の様に出始めた。学校からの電話で母が駆けつけた時には、足は地面を打ちつけ、手は太ももを拳で叩(たた)き、大声が運動場にまできこえる程になっていた。
すぐに精神科に行ったが、僕のひどい症状にドクターの驚いている様子が見て取れた。問診が中心だったが薬もくれた。ところが薬をのんだら体がだるくて、朝起きることも出来なくなった。現地の人が精神科よりも神経科を受診した方が良いと言って、ドクターも紹介してくれた。
アメリカではこのトゥレット症候群が既に一般の人にも知られていた事は本当に幸いだった。神経科のドクターは僕が診察室に入ったらすぐにトゥレット症候群と診断した。しかし僕の症状は無惨(む ざん)と言える程にひどく、十万人に一人の難病で一生治らないと母は告げられたそうだ。(注:現在は千人に一人、軽いチックまで含めると百人に一人と言われている)

薬が処方されたが、服用して数日後、急にとてつもない不安に見舞われた。何者かに見張られていて今にも襲われそうでじっとしていられず、家の中をウロチョロ歩き回った。
自分でも何が起こっているか解らず気が狂ってしまったのかと思い、この感覚がいつまで続くのか考えるのも恐ろしかった。まだ十一歳だった僕にはどうにも対処できず、もう寝る事でこの状態が過ぎ去るのを待つしかなかった。ベッドで横になり目を閉じて、平常心を保つ事だけに集中して、症状が消えるまで数時間、冷凍人間の様にピクリとも動かず『一人応急処置』をした。そう考えると座禅をしている時と同じような気の落ち着かせ方に似ている。

しかし、薬は毎日服用していたので数日後、同じような羽目になってしまった。今度は悲しくないのに泣きたくなって涙が出てきて、まるで身体が何者かに乗っ取られ、裏で勝手に操作されているみたいだった。ベッドに頭をぶっつけて早く気絶したくなり、母にそばにずっと居てくれと頼んだ。そして、やっとこれが薬の副作用だと気がついたのだった。
僕はコーヒーを飲むと胃がムカムカしてくるし、空き腹に牛乳やリンゴジュースを飲むとお腹がシクシク痛くなる。だからきっと薬にも敏感なのだろう。
「俺は薬は絶対に飲まない、トゥレットのままでいた方がまだマシだ」
と母に断言した。

毎日チックに翻弄される日が続いてピアノどころではなかった。運動チックは太もも以外に、なんと拳で鼻を叩くという症状が新たに出てきた。
ある日、母が外出をして、いつものように一人で寂しく留守番をしていた日だった。
突拍子もなく拳が鼻を攻撃し始め、鼻血はもちろんの事このままいけば鼻が潰れるのではないかと思う位に鼻の柔らかいところを叩き始め、その姿が自分の部屋の鏡に映ったのを見て
「何でこんな思いをしなきゃならないんだよ!」
と鼻を叩き続け号泣した。チックが原因で泣いたのはこの一度だけだった。

僕のチックは暇にしている時が一番頻繁に出る。何かに没頭していないとてきめんに出てしまう。だからピアノを弾いている時は奇跡の様に全く症状が出ない。余りにも極端にチックが出ないので
「それなら一日中ピアノを弾いたらどう?」
と先生に冗談交じりに言われたりした。
「ピアノを弾く最中にチックが出たりしないの?」
「チック症状の強い、弱いはどう演奏に影響するの?」
とよく人に聞かれるのだが、全く同じレベルで集中して演奏ができる。これが本当に不思議で指がピアノの鍵盤に触れた瞬間チックがピタッと止まり、そして指が鍵盤を離れた瞬間にスイッチが切れたようにチックが出始める。
これは僕がサッカーをしている時も同じだ。ボールを追って走っている時はチックは出ない。ボールを持っている時も出ない。しかしボールが手を離れたらすぐにチックが出る。
アメリカにはトゥレットの外科医もいるが、メスを持った瞬間にチックが消えて完璧な手術ができるそうだ。

チックはしゃっくりみたいに何の予兆もなく不意に出てしまうと思われがちだが、僕の場合は、チックが出る前に何らかの感覚がある。例えば、プールに潜って少し苦しくなり、もうちょっといけるだろうと頑張るが酸欠して肺や脳がパニックを起こし始める。最後にはまるで水に負けを認めるかの様に我慢が出来ずに水から顔を出す。チックが出てしまう時はまさにこの《我慢しきれない》感覚なのだ。
だから暇にしている時はチックを《我慢しきれない》が、演奏中や競技に集中しているとチックを考える《暇などない》のだ。

僕が薬を飲まないので、母は食事改善を試みた。防腐剤・着色料・保存料の入った食品を避け、カフェインの入った飲み物・健康ドリンクを禁止した。そして朝は六時に起床、夜は九時に就寝、また、チックが酷(ひど)くてもピアノを弾くようにし、座禅も取り入れて生活にリズムをつけた。症状が少しずつ改善し始めてきた。やっとスクールバスで通学が出来る様になり、友達も出来はじめた。ところが一人で出歩ける様になると友達の家で遊びはじめて遅くまで帰らず、そのまま反抗期に突入した。

僕の反抗期は尋常なものではなかった。何かで母に叱られると、その仕返しとして予定があるのに車の鍵、財布、必需品の入ったバッグ、そして住所録まで隠して平気で母を困らせていた。当時家にあった四輪駆動のアメ車を一人で運転して違う場所に駐車した事もあった。母の言う事など一切無視して自分の主張が一番だった。母を困らせる事がその頃は生き甲斐(が い)だった気がする。そして全くケロッと平気だったのが今考えると、当時の僕はまるで「哀れを感じる事の出来ない殺人犯」の様で、思い出すだけでも恐ろしい。気がつけばニューヨークでの最後の一か月は登校拒否になっていた。
僕にとっても母にとっても相当に辛(つら)い時期だった。

〈再びロンドンへ〉

そんな悪夢のようなアメリカ生活も二年で終わり、またロンドンに引っ越すことになった。登校拒否のままロンドンに来たので、親はどんな学校でも良いから行ってほしいとの心境だったと思うが、現地校、日本人学校、音楽学校を提示して、行きたい学校を自分で選ぶようにと言った。
最初の受験校は、ロンドンから電車で北に三時間半のマンチェスターにある全寮制の音楽学校だった。ハリー・ポッターの映画でも分かるように、イギリスは全寮制の学校が多い。ピアノは半年前に弾かなくなっていたので音楽学校は自信がなかったが、素直に受験したのはやっぱりピアノが捨てきれなかったのだと思う。実技試験と校長先生の面接を終えた後で寮を案内してくれた。部屋では制服の生徒たちが笑顔で挨拶をしてくれて、皆で楽しそうに団体生活をしているのを目の当たりにして僕は「この寮できっと楽しい学校生活が送れる!」と直感的に確信した。昼食後すぐに合格を知らされた。
僕はもう即座に
「この学校に決めた。ほかの二校は受けない」
と言ったのだった。

寮生活が始まり夕食時に皆で食堂へ向かう階段を降りているその時だった。突然大声が出てしまった。すると階段を上って来ていた生徒の一人が
「超変なやつが入学してきたな!」
とボソッと通りすがりに言うのが聞こえてしまった。普段ならそんな事を言われたら思いっきり傷つくのだが、その子の言い方が面白かったのか、僕も「確かにな」と思って笑えた。
この学校でもまたチックが大声で出始めて、校内の演奏会などでは自主的に会場を出て窓際で聴いていたが、悲壮感や屈辱感はなかった。

この学校での五年間でトゥレットのせいで受けた嫌な思い出や、いじめを思い出そうと頭から絞り出そうとしても全く出てこない。僕が思うに、生徒達はチックに触れない様に気を遣うという事ではなく、全く気にしてもいない、気にする対象にもなっていないという感じで、僕にはこの環境が本当に有難(あり がた)かった。お陰で僕は自分がトゥレットの患者だという事を忘れてしまう位にこの学校のコミュニティーに馴染むことができた。みんながチックを僕の個性として何の偏見もなく受け入れてくれていた。チックが僕の性格の一部となって僕キャラを作り上げ、それを友達の中でも確立できて、正直かなりの人気者だった。

ある日、全校生徒の集会で校長先生が「今週は〇〇の試験がある」と生徒に報告をしていた時、友達がふざけて耳元で
「今がチャンスだ、言え!」
と言うので、僕もチックが出たふりをして
「うるせーアッ、試験なんかアッ、やりたくねーよアッアーッ」
と言ったら、生徒たちに大ウケしてホール内が爆笑に包まれた。あまりにもありえないシチュエーションで、先生に怒られて当たり前だが、先生もユーモアがありトゥレットへの理解があるので笑いながら
「そうだな、やりたくないのは分かるけど、君が何と言おうとテストを逃れることはできんぞ」
とまた面白く返してくれた。トゥレットを障害として捉えない僕のポジティブな生き方だった。
もちろん一歩学校の外へ出るとそうはいかない。ロンドンに帰る列車の中で大声が出て乗客に
「何で変な声出してんだ、静かにしろ!」
と怒鳴(どな)られたりすると一緒にいたクラスメートが 「わざとじゃないんだ、どうしろって言うんだ、あんたの方がうるさいんだよ!」
とよく助け船を出してくれた。
この学校で僕は本格的にピアノに目覚め、地域のコンクールに始まり次第に全国のコンクールで入賞したり優勝するレベルに達し、しまいには首席で卒業することが出来た。

〈ドイツでの挫折と再起〉

僕はイギリスの王立音楽院に奨学金付きですでに合格していたが、ピアノの先生の勧めでドイツの芸術大学も受験し、トップで合格を果たした事でここに入学を決めた。しかし大学生活は最初からチックとの闘いだった。
まずドイツ語は、一年で習得して中級の単位を取らないと退学になってしまう。最初のドイツ語の授業で、音声チックがクラスの迷惑になっている事を感じて相当に居心地が悪く、学校外で高額な個人レッスンを受けざるを得なかった。ところが他の科目となるとそういう訳には行かず、気力を振り絞り合唱の最初の授業に出た後、教授に事情を説明した方が良いと思って
「授業中声が出てしまいますが、来週も出席していいですか?」
と尋ねると
「僕の授業ではなく、他の授業に出てくれないか」
とあっさりと追い払われてしまった。まだ十八歳の生徒にこの様なあしらい方をする大人の非情な世界を痛感した瞬間だった。

「きっと教授全員に疎まれているんだろうな」と思うと今後の学校生活にも自分の将来にも希望を見い出せなくなった。廊下を歩いていて他の教授にも「静かに出来ないのか」と怒鳴られ、バスや電車の中でも「うるさいんだよ!」と声高に言われる日が続くと更に落ち込んでしまった。大学の授業にもだんだん出づらくなり五年間在籍して退学を余儀なくされた。言葉にしたくない程の辛酸をなめた。母は奮起を促したが気力など出なかった。

しかし、これからこの病気を持って生きて行く事を考えると、僕にはピアノしかなかった。
やっと一念発起、音楽大学として更に評価の高いハノーバー音楽大学を二十三歳で受験して合格することが出来た。この大学には音楽家医学研究所が併設されていて教授もトゥレットに理解があった。この研究所が僕の体調が悪い時の『駆け込み寺』になった。
この大学で高校の時の様な環境に恵まれ、人前でチックをコントロール出来るまでに症状が改善された。大学卒業にはトータルで十年を要したが、修士課程の二年間も終えた。
現在はここで非常勤講師をしている。

僕は七年前からトゥレット症候群の啓発も兼ねて東京で毎年ピアノリサイタルを開催している。コンサートを通してこの病気への理解が患者への救いである事を伝えたいと思っている。
英米では三十年前からマスコミもトゥレット症候群の広報を担っているが、トゥレットの人がいつも他人の視線を気にする事なく普通の学校生活を送り、社会の受け入れが進む様に当事者としてこれからも関わっていきたい。

長田 雄資プロフィール

一九八二年生まれ 音楽大学非常勤講師・ピアニスト ドイツ在住

受賞のことば

受賞の知らせを受けて、「日本でもトゥレット症候群の認知が進むかも……」との思いが最初でした。僕の体験談が選ばれた事で、これまで支援して下さった皆様へ少しでもご恩返しが出来るのではないかと大変嬉しく思っています。この病気は自分で症状をコントロールできないので、未だに教育の分野でも誤解が多く、身内にさえも理解されず孤立している患者が数多くいます。この受賞でトゥレット症という難病がある事、そしてこれは重度チック症であることの理解のきっかけになるように、そしてこの患者への就労支援が進む事を願っています。

選評

「トゥレット症候群」は、軽度のものも含めると決して珍しい疾病ではないという。にもかかわらず、他の障害と比べ、現実にはあまり認知が進んでいない。障害に対する周囲の理解が、その症状を軽くも重くもするし、本人に合った適切な環境が、その人の持つ才能・能力を十分に開花させる。現在、長田さんは素晴らしいピアニストとなり、同じ障害を持つ人に「苦しみから解放されて充実した人生を送ることができる」という希望のメッセージを示してくれている。また、周囲に居る私達が意識を変えることが、より良い環境作りの第一歩である、ということも彼から教えられた。(鈴木 ひとみ)

以上