夫、五十一歳。愛知県警刑事課に勤務する刑事。身長百七十センチ、体重九十キロ。職業上、眼光鋭く、こわいものなしの迫力のある男だった。趣味は、絵を描くこと、篆刻(てんこく)、パイプを彫ること、ゴジラをつくること、読書、カラオケと数多く、どれもプロ級の腕前だった。
二〇一三年十一月十八日、朝六時、
「今日はなんだか頭が痛い。でもスーツができ上がってくる日なので楽しみだ」
と言って家を出た。
十五分もしないうちに、乱暴に玄関が開き、頭痛を訴え、ひどく嘔吐(おうと)している夫が戻って来た。
「マンションの人の車にぶつけた。誰の車かわからんで、すぐマンションに行ってくれ」
と言い、倒れこんだ。家から五十メートル程離れたマンションの駐車場に止めてあった車にぶつけていた。気づいた人が、警察に連絡をしてくれていた。私は、すぐ名のり事情を話した。
警察の見分があるので、私は横になっていた夫を起こし、ひきずるように現場へ連れて行った。見分を受けている時、家から息子が飛んで来た。
「救急車呼んだ? お父さん普通じゃないよ」
と言われ、私は、エッ、と思った。警察官である夫が事故を起こして、不誠実な対応をしたら、とんでもないことになると、気が動転して無理矢理連れて来てしまった。そこへ、救急車も到着した。見分を終え、救急車に乗ると、脳に異常が起きていることを知らされた。
七時二十分、病院に到着。検査を受け、くも膜下出血だと告げられた。そこでくも膜下出血は、半分は即死、それから二週間以内に脳梗塞が起きやすく、三分の一は死亡すると聞かされた。
手術は、十時半から始まった。午後七時頃、先生から手術の行き詰まりを告げられた。
「クリップが止められない。違う方向からもう一度やってみる」
との説明を受けた。お任せするしかなかった。
翌午前五時手術終了。十八時間半の大手術だった。そのままICU(集中治療室)に入った。眠っている夫の顔は、大きく腫れあがりバスケットボールのようだった。先生の説明は、脳の血管を損傷しているので、今後の様子を見守っていくとのことだった。翌日、脳梗塞が起きていることを伝えられ、死を覚悟した。
ICUに入っている間は、面会時間が決まっているので、いろいろな手続きに走りまわった。お互いの職場、保険の手続き、診断書の申請等、書類も多く労力もいった。この時の私は、まだ何の実感もなく、先のことは何も想像できていなかった。が、手続きを進めていくと労災にならずとても不安になった。夜中に、いいようもない不安に襲われ、目が覚めては泣けてくる日が続いた。
ICU十日目に、また新たに脳梗塞が始まっていることがわかった。助かっても、後遺症が残ることを告げられた。私は、倒れた日から記録をつけ始めていた。本人の様子、先生の話、私の行動等、その日のことをノート一ページにメモした。
十二日目に一般病棟へ移った。夫は、発語もなく左半身マヒ、目をたまに開けているだけだった。病院のリハビリもすでに始まっていたので、私たち家族も思いつく限りのリハビリを始めた。毎日顔をみせ、五感を刺激しようと、いつも聴いていたクレイジーケンバンドの曲を聴かせた。今何が起こっているかの情報も伝えた。大好きなコーヒーをいれ、香りを嗅がせた。自分の自慢の作品を病室に持ち込み触らせた。時間があれば手足を摩(さす)り、ツボを刺激した。思いつくまま何でもしてきた。
十五日目に、娘の問いかけに四語発声したが、頭の中も大混乱だった。自分や子どもの年齢、職業もわからなかった。今の季節も、どこにいるのかもわからなかった。私は、こんな夫を想像していなかった。記憶に障害がでると聞いてはいたが、まさか……だった。声が聞けたのはうれしかったが、崖から突き落とされた気分だった。
一か月間、鼻から栄養を取っていたので糖尿病を発症し、インシュリンを打つことにもなった。口から食事を取るようにするために嚥下(えんげ)のリハビリも始まったが、時間がかかった。五十日目でさえ、一口ゼリーを食べるのに、三十分以上もかかった。
五十日間入院した急性期病院から、リハビリ期病院に転院した。転院先の病院で、事前に面接があった。私はこの時
「介護休暇をとろうと思う」
と告げたが
「介護休暇がとれるなら、退院した後に使うといい」
とアドバイスされた。そして、仕事を辞めて夫を介護しようか悩んでいた私に、
「仕事は絶対に辞めてはだめだ」
と強く言ってくれた。私は、このアドバイスに本当に感謝している。こう言ってくれたおかげで今があるような気がする。
仕事をしながら、時間が許す限り夫の側(そば)にいた。リハビリの様子をみては、一喜一憂の日々だった。夕食の時は必ず付き添った。飲み込むことができず、一口をずっと噛(か)み続けていた。どろどろになっても飲み込めず、吐き出していた。九十キロあった体重は、七十五キロになっていた。腕や足についていた筋肉は全てなくなり皮がプルプルしていた。栄養失調に近くなり、リハビリも休止された。
(食べて! 食べて!)と願う毎日だった。
下宿先から帰って来た息子は、
「お父さん二か月で二十歳くらい年とった。おじいちゃんになっちゃった」
とつぶやいた。今まであった貫禄は、どこにもなくなってしまっていた。病院で倒れる前の写真をみせたら
「別人だ」
と言われてしまった。
四か月の入院生活で、車イスから自力で歩けるようになった。歩行訓練は比較的順調に進んだ。が、トイレができるようになるまでには、相当な努力と忍耐が必要だった。車イスでトイレに連れて行ってもらうのだが、トイレに座わるまでにも、すんなりではなく一歩一歩に時間がかかるし、排尿排便には、さらに時間がかかり一時間くらい座わっていることもあった。でたら立ち上がらせてもらうためブザーで知らせるので、ずっと一緒にトイレにこもっていた。リハビリのおかげで、半年かかって、見守りは必要だがひとりで排せつができるようになった。おむつからの脱却は本当にうれしかった。
頭の方は、依然として季節や日にち、場所等わからなかったが、言語のリハビリでカードをみせられ、絵の名前を答えるのは全て完璧だった。“牛”と答えればいいものを、
「これは、ホルスタインです」
と答えていた。以前に得た知識は、ほとんど消えていなかった。それだけでも安堵(あんど)した。
鉛筆をもたせ
「何か書いて」
と言っても、最初は何も書けなかったが、やがて弱い筆圧で、名前が書けるようになった。しばらくたってからだが、絵が得意だったので、
「りんごを描いて」
とお願いしたら、上半分だけのりんごを描いた。
「これでいいの?」
と聞いたら
「これでいい」
と言っていた。半分、なんで半分? と疑問に感じていたら“半側空間無視(はんそくくうかんむし)”という聞いたこともない言葉を聞かされた。この時期、脳の不思議を感じることが多々あった。
私は、夫が倒れてから、この社会からの脱落者になったような、普通の人だったのに、普通以下になったような、いいようもない疎外感を感じてきていた。日々進化する社会に乗り遅れ、見放されてしまったような、もう普通にはもどれないという気持ちは残っていて、今もその感じはぬぐいきれない。が、こうなったおかげで、かけがえのない出会いや励ましがたくさんあった。職場の人たち、友人、親戚の人、病院の方々、ケアマネージャーさんや相談員の方、施設の方々に御近所さん、こんなに温かく見守り助けていただいたことは、生涯初めての経験だったように思う。家族の絆も再確認できた。私は、この試練で本当に大切なものはなにか、人であり、健康であることと、気づかせてもらったように思う。だから、今は夫がこうなってしまったことに悲観してばかりではない。五十年、のほほんと暮らしてきた私を、ひとまわり成長させるための出来事だったと受け入れることができるようになった。
退院一か月前に、いろいろな説明を受けるようになり、私はそこで初めて“高次脳機能障害”という言葉を知った。いろいろある症状のなかで、夫は注意障害、遂行機能障害、病識の欠如、記憶障害、地誌的障害、意識と感情の障害があると言われた。こんなにも障害があるのか……またハンマーで叩(たた)かれたような衝撃があった。
その日以降、症状やサインをくみとり、声かけのポイント、対応法を学び夫のリハビリとなるよう前向きに取り組んだ。そしていろいろ調べていくと、高次脳機能障害者を専門に受け入れている施設が近くにあることを知った。そして近々、その施設で桜まつりが行われることを知り、当日ひとりで出かけて行った。
桜まつりは大盛況であった。偶然友人に会い、友人もまたそこでお世話になっていることを聞いた。夫のことを話すと、すぐに相談員の方と会わせてくれ、退院後の生活のアドバイスを受けた。
私は、この日本当に恵まれていることを実感した。ケアマネージャーさんを探す時も、友人が紹介してくれ、全面的に信頼できるケアマネージャーさんに出会えた。そしてまた、こちらの施設でも、全てお任せできるような力強い相談員さんに出会えた。私が、徐々に不安を取り除いてこれたのは、このおふたりの力が、すごく大きいものであったと本当に感謝している。
百六十八日間の入院生活を終え、家に帰って来た。昼夜関係のない生活が始まった。想像していたより過酷なものだった。私は、退院日から三か月介護休暇をいただいた。私の職場では、初めてのことだった。許してくださった園長、大変なのに支えてくれた同僚のおかげで、私は今もこの職場に勤めていられる。本当に感謝している。あの時辞めていたら、生活に困っていただろうと思う。そんなことがわからなかったほど、あの時は先のことまで考える余裕がなかった。
夫は、復職を目標に、介護施設でデイサービス、高次脳機能障害者施設での生活支援の二本立てで、リハビリ生活が始まった。退院後、両方にすぐ通えたわけではなく、手続き等時間がかかった。夫は、本当は施設になど行きたくないのであるが、ケアマネージャーさんに、
「家族を助けるためだと思って、行ってあげてね」
と言われ従ってくれた。通所は、さらなる回復を願ってと、夫に社会とのかかわりを断ってほしくないためと、私が働き続けるためにだ。
施設では、体や脳のリハビリはもちろんだが、家と協力し“できること探し”を始めた。まず絵を描いてみようと、パステルや紙を用意した。ところが、構図が浮かばなかった。絵手紙も難しかった。大好きだった絵を描いてもらおうとすると、イライラが強くなったので絵はあきらめた。一年以上おいて、「施設新聞のイラストを描いてほしい」と頼まれ、そこから季節のイラストを描くようになった。そして今は、似顔絵を描いている。それが、楽しみにもなり本人の自信にも繋(つな)がっているようだ。倒れて以来、数多くあった趣味も思うようにできなくなってしまっている。篆刻やパイプ作りは、左手にうまく力がはいらないため製作が難しくなった。読書も、字が読めないわけではないが内容が頭に入っていかないようだ。それでも、また楽しめるものとなるよう強く望んでいる。
病院を離れ、心細くなっている私に、高次脳機能障害者施設での勉強会が、いろいろな情報を得る手段として、とても役に立っている。大学教授による“高次脳機能障害とは? 症候性(しょうこうせい)てんかんとは?”の講義であったりパネルディスカッションであったり、社会保険労務士による障害者手帳や障害年金の話等、全く無知であった私に、こと細かに教えてくれる勉強会は本当に役立った。さらに、家族会の結びつきが、私の心を強くした。同じ障害をもつ家族同士、心を開き悩みを聞いてもらえたことが、私の心を軽くした。
それでも、職場のタイムリミットは容赦なくやってくる。障害者枠での復職を望むも、職業が職業なので無理なのは容易に理解できた。いよいよ、同期の上司から依願退職の打診があった。今までしっかり支えてくれた彼からの言葉に、夫は
「覚悟しとったよ」
と一言。その言葉に涙がこぼれた。退職の手続きも大変だった。いよいよ当日、倒れた日に受け取る予定だったスーツに、はじめてそでを通し、退職の辞令式に臨んだ。天職だった。
これから七十まで働く時代がこようとしているのに、こういう人はどうしたらいいのだろう。もう少し、当事者の立場に立って考えていただきたい。生活を守るために、私は働けるまで働く覚悟でいるが自信はない。使うことを控える生活に切りかえていくしかないのだろうか。寂しい気もするが、それももう始まっている様に思う。
退職後は、
「もうリハビリする意味がない」
と言うようになった。施設の方からも
「やる気が落ちたね」
との連絡が多くなった。
「現状を維持するために、リハビリは必要なんだよ」
と言い続けたが、効果がなかった。
このままではいけない、と思い、犬を飼うことにした。以前夫は、柴犬を飼いたがっていた。心の癒しにもなり、散歩で歩くリハビリにもなる。犬の世話をするという役割もできる。でも、今でも大変なのに、犬の世話まで増え、経済的にも負担が増える。大丈夫かな? かなり悩んだが、飼うことを選んだ。
犬を買うのも、ワクチン等の病院代も夫のサイフからにした。お金を管理できるわけではないが、自分が犬を養っていくことを自覚して、喜びを得てもらうためにそういうことにした。名前も夫が決めた。これから、よいことが増えますようにと“大吉”にした。大吉は、夫ばかりでなく、家族皆に、癒しを運んできてくれた。
発症して、五年近く経ち、みた目では、障害者とわからないほどに回復した。記憶障害は、今も残り精神障害二級である。年々できることも増え、お手伝いをしてくれることが増えた。犬のエサやり、庭の水まき、お風呂掃除、ゴミだし等、夫が自ら役割を増やしてくれ、少しでも私を助けようとしてくれている。優しい夫だ。
私がここまでがんばってこれたのは、急性期の病院でのことがきっかけだった。歩けない夫が、リハビリで足を蹴る動作をやってみるように言われた時、夫の前にいた私を、両親が、
「まあちゃんを蹴ってやれ!」
とけしかけた。すかさず
「蹴る理由なんて、ひとつもない!」
と言ってくれたことが、私は本当にうれしかった。(この人のために、できる限りのことをしよう)と思った瞬間だった。あれから、無我夢中でやってきた。
今も施設通いは続いている。外見も中身も変わってしまった夫だが、夫は、あの日に生まれ変わったと思っている。できないことがあっても、まだ五歳と思えば、仕方ないか……と思える。
私は、高次脳機能障害の啓発活動に協力したいと思うようになった。私も夫がこうなるまでは知らなかったし、当時、私の周りの人も、
「聞いたことない。何、それ?」
という人が多かった。関係者の人たちも複雑すぎて、中身まではよくわからない、という人が多数だった。
最近、歌手のKEIKOさんのおかげで、メディアにとり上げられるようになったが、個人個人みんな症状が違うので、理解されることが非常に難しいようだ。みた目が普通にみえてしまうので、それもトラブルの原因となる難しい障害だ。
私たち夫婦は、今まで数多くの方々から支援していただいた。五年経つのを機会に、少しでもこの経験を、同じ障害で困っている人、悩んでいる人の役に立てればと思い、ふり返りこれをまとめてみた。
あっという間の五年間だったが、一日が長い日もあった。ただ一日過ぎてくれればいい、と思っていた時もあったが、そろそろ一日一日を大切に過ごしたいと思えるようになってきた。
今は、何もかもあきらめるのではなく、笑顔を忘れず、感動することも忘れずに、共にまた社会に役立つような生き方をしていきたいと思っている。
近藤 まさ江プロフィール
一九六二年生まれ 団体職員 愛知県在住
受賞のことば
五年という節目を迎え、生活も気持ちも一変してしまったことを、何かの形で残しておきたいと思いこの作文を書きました。
この賞をいただけたことで、無我夢中でやってきたことが、何か報われたような気持ちになりました。
これから先も、また二人で前向きに歩いていきたいと思います。
本当にありがとうございました。
選評
障害の受容は、その当事者のみならず、支える人にとっても簡単なことではない。社会から置いてきぼりにされたような疎外感。それは今もぬぐいきれていないと言う筆者。その反面「自身を一回り成長させる出来事だった」と、前向きに受け入れようとする気持ちとのせめぎ合いで五年間を過ごされた。文中で私が大好きな箇所は、リハビリ中、目の前に居る奥様を蹴るようにけしかけられた障害当事者のご主人の言葉。「蹴る理由なんて、ひとつもない!」甘いささやきでこそないが、凛々しい愛のメッセージである。辛い出来事を絆に変えることも可能なのだ。(鈴木 ひとみ)
以上