二〇〇一年八月、この年二十歳を迎えた僕は、日常生活訓練を受けるため、七沢ライトホームへ入所しました。
点字やパソコンの音声操作は既に習得し、家事も普段(ふだん)から行っていたこともあり、施設では歩行訓練を重点的に行いました。
視覚障害者が使う白杖の取り扱いから始まり、室内・施設内の単独歩行を経て、いよいよ人が行き交う街への外出訓練初日を迎えました。
コースはまず厚木駅までバスで行き、そこから電車で二つ隣の愛甲石田駅へ、そして再びバスで施設へ帰ってくる。
もちろん訓練士の方が離れた所で見守っていてくれますが、やはり緊張で鼓動は高鳴りました。
施設を出る前によしっと気合を入れ、いざ杖を左右に振り、一歩、二歩、そして三歩と歩き出しました。
外に出ると、ピリッとした空気の冷たさが頬をさし、本格的な冬の到来を感じました。
すると
「大丈夫ですか?」
と、声から察するに五十代ぐらいの女性から声をかけられ、私も駅まで向かうから誘導してあげると、僕の手をとりバスの乗降口へ歩き出しました。
僕は小さい頃から人を笑わせることが大好きだったので、車中では会話はとても弾み、バスを降りると、
「あなたほんと面白い、また見かけたら声をかけるわね」
と、とても喜んでいただけました。
女性とお別れをした後、今度は電車に乗ろうと駅の構内を歩き始めました。
ホームに上がる階段の手すりには列車の番線の案内が点字で示されています。
それを指で一文字一文字なぞって確認していると、背後から再び
「大丈夫ですか?」
と、今度は七十代くらいの男性に声をかけられ誘導していただき、また終始二人で笑いっぱなしで別れ際には
「頑張れよ」
と、背中を二度叩(たた)かれ見送られました。
気が付いたらあとはバスに乗って施設へ帰るのみ……。
訓練士がチェックしていることを忘れていた僕は、こりゃまずいと、次に声をかけられても必ず断らなくてはと心に誓い歩き始めました。
するとまた
「大丈夫ですか?」
と僕の入所している施設へお見舞いへ向かう二十歳ぐらいの女性に声をかけられました。
最初は断らなくてはと思いましたが、せっかく頂いたご厚意、しかもとても可愛(かわい)らしい声だったということもあって? お願いしてしまいました。
そして案の定、バスの中で二人は大盛り上がり!
笑いつかれ、爽快な気分で施設へ戻って来ることが出来ました。
結局、外出訓練初日は一人で歩くことなく終わり、そのまま訓練後の反省会となりました。
訓練士と机をはさみ向かい合って座っていましたが、なかなか口を開いてくれません。
その沈黙の時間がなんだか睨(にら)みつけられているようで、二人だけの部屋は寒さとはまた違うピリッとした空気が漂っていました。
僕は恐ろしさのあまり身震いしていると、
「色々(いろいろ)な人に声をかけていただき誘導してもらえるのは、それは菱沼さんの強みやからそれはそれでえぇことや」
と前置きしながらも、
「菱沼さんの口先のスキルはもう満点、これ以上磨く必要のないぐらいまでのレベルに達している。だから今度は口先じゃなく、白杖の杖先のスキルを磨くことに専念せえ」
と注意を受けました。
それからのこと、口先を一切封印した甲斐(かい)もあって、予定通り翌年の三月には退所し、翌月にはあん摩マッサージ指圧師・鍼(はり)師・灸(きゅう)師を目指すべく、盲学校専攻科理療科へ入学しました。
現在僕は三十七歳。
中学生の時に難病ベーチェットを発症、十九歳で失明しましたが、早いものでもうあれから十八年が経ちました。
当時は、自分の将来を考えると不安で押し潰されそうになり、一晩中泣いて眠れない日さえありました。
でも今はマッサージ師として働くことができ、今思えばあんな頃もあったなぁと懐かしく思い返すことが出来るくらい充実した日々を楽しく過ごしています。
さて、冒頭でも触れたように、これまで「大丈夫ですか?」と、たくさんの人に誘導していただきました。その数は五百人はゆうに超えると思います。
一期一会の方ばかりですが、失明したからこそ繋(つな)がることができた人達で、その一人一人にエピソードがあります。
今回はその中でも最も印象に残っている九つのお話を紹介したいと思います。
登校途中、
「おい、兄ちゃんどこまで行くんだ?」
と明らかに酔っ払っている六十歳ぐらいの男性に声をかけられました。
行き先を告げると
「通り道だから一緒に行ってやるよ」
と言ってくれました。
酔って足元がおぼつかない様子だったので少し心配でしたが、せっかくのご厚意なので誘導してもらうことにしました。
しばらく警戒して無言で歩いていましたが、問題なさそうなので
「朝まで飲んでいたんですか?」
とからかい半分に聞いてみました。
すると、
「そうなんだよ、気がついたら朝でな」
とガハハと豪快に笑いました。
このまま和やかに会話を続けていこうと思い、再度同じのりで話しかけてみましたが、男性からは返事がありません。
暫(しばら)く沈黙があり、まずかったかな……と考えていると、
「実は姉が亡くなってな……」
と男性は号泣しはじめました。
急な涙に僕は動揺しましたが、まずは全部話を聞こうと思いました。
しかし、男性はばつが悪くなったのか苦笑いし、
「俺の名前はゲンだからゲンちゃんて呼んでくれよ」
と突然話題を変えました。
父親よりも年が離れている男性をそんな風に呼ぶのは抵抗がありましたが、最後までじっくり話を聞いてあげられなかった後悔もあり、あえて親しみをこめて「ゲンちゃん」と呼んでみました。
するとやはりゲンちゃんは嬉(うれ)しそうな様子。
その後の会話は大盛り上がり、あっという間に学校の校門前に着きました。
「ゲンちゃんありがとう、とても楽しかった」
と手を差し出すと、
「俺も楽しかった、ありがとう」
と両手で強くギュッと握ってくれました。そして、
「じゃあねぇ、ゲンちゃん」
と手を振ると、
「おーう」
とゲンちゃんは背中を向け二歩三歩と歩き出し、僕は徐々に遠ざかる足音を見送りました。
暫くして僕も学校へ入ろうと校門をくぐりかけましたが、少し名残惜しくなってしまい、振り返りもう一度大きな声で
「ゲンちゃんじゃあねぇ」
と叫んでみると、遠くの方から微(かす)かなゲンちゃんの「おーう」という声が聞こえました。
下校途中でぱらぱらと雨が降り出しました。
しかしその日は雨の予報ではなかったので、傘は持っていませんでした。
視覚障害者は健常者と違い、コンビニなどで簡単に傘を買うことはできません。
困ったなと思いながら早歩きで帰ろうとすると、突然雨が当たらなくなりました。
屋根があるようなところではなかったので、不思議に思い立ち止まると、傘に当たる雨音が。
誰かが黙って傘に入れてくれてるのだと気づきました。
慌ててお礼を伝えると、
「は、はぁはい」
と、急に声をかけられ驚いたのか男性はどもってしまいました。
それから肩をかり数歩一緒に歩いたのですが、
「傘どうぞ。僕家近いので大丈夫です」
と首振る僕の手に傘を握らせ急に走っていきました。
突然の展開に僕はその場に呆然(ぼうぜん)と立ち竦(すく)み、ただただ男性の走る足音を見送りました。
会社へ向かうため最寄りの駅ホームを歩いていると、
「どこまで行くの?」
と、五十代ぐらいの女性に誘導してもらいました。
案内がとても上手なので話を聞くと、息子さんも目が不自由とのことで、下車するまでの間、その息子さんの子供の頃のある出来事を話してくれました。
現在息子さんは三十代で全盲。子供の頃は弱視でコンタクトレンズをしていましたが、よく外れてしまうことがあったため、
「泣くと涙でコンタクトがとれちゃうから、何があっても男は泣くな」
と注意をしていました。
ある日の夕方、晩御飯の準備が出来たので、息子さんは公園で遊んでいる姉を迎えに行きました。
しかし姉の姿はなく、よく遊んでいた山へも行きましたがそこにもいませんでした。
気付いてみれば辺りはもう薄暗く、日が暮れる前には山を出なきゃと焦り急いで引き返しました。
しかし弱視で暗い不安定な山道を下山するのはとても難しく、バランスを崩し数メートル下の崖下に滑り落ちてしまいました。
その頃、お母さんはいつまでも帰ってこない息子を心配し捜索願を出していました。
息子のことを考えると気が気でなく、気を紛らわそうとつけたテレビも全く頭に入りません。
重い空気が流れること数時間、二十三時を回った頃にプルルとリビングの電話が鳴りました。
祈る思いで受話器を取ると、警察が興奮した様子で息子の保護を伝えてくれました。
その瞬間涙が溢(あふ)れ、泣きながら何度も電話口にお礼を言いました。
そして家のチャイムが鳴ると、お母さんは一目散(いちもくさん)に玄関を開け、送り届けられた息子を抱き寄せました。
しかし息子さんは泣くどころか、
「お腹が空いた、卵かけご飯が食べたい」
と、ぼそりと言っただけでした。
翌日、署へ出向き発見時の様子を聞くと、その際も息子さんは泣くこともなく、その場でじっと静かに座っていたとのこと。
それを聞いた時、二人の約束「何があっても男は泣くな」を守っていたのだと気づき、皆で感心しました。
僕もそれを聞いて感心していると、
「後日一連の話を担任の先生にしたらね、子供なんだから泣きたいときには泣かせてあげて下さいって、怒られちゃったわ」
と苦笑いしていました。
会社からの帰宅途中、乗り換えのため相鉄線横浜駅からJRの改札へ向かって歩いていると、突然無言で手を取り案内してくれた方がいました。
改札に着いたのでお礼を伝えると、男性はにこやかに笑いながら、
「私は中国人だから日本語分からないよ」
と言うので、僕も頷(うなず)く意味で笑い返しました。
すると再び手を取り、中国語で何やら話しかけてきました。
当然何と言っているか分かりませんでしたが、何となく何番線へ行きたいのかと聞かれていると思ったので、指で数字を表すと、ちゃんと目的のホームまで連れて行ってくれました。
その間もまた幾度も意思疎通を取ろうと試みましたが、お互い母国語で通じ合えるわけもなく、最後に僅かな望みをかけ
「Do you speak English?」
と聞いてみると
「No」
と……。
話が通じないことが確定でしたが、それが逆に「これはどうしようもない」という意思疎通になり二人で大爆笑。
電車もホームに入ってきたので、
「シェイシェイ」
と、唯一分かる中国語で感謝を伝えると共に、言葉や文化の違う異国の地で暮らす男性にエールを込めてギュッと握手をすると、向こうもギュッと。
やはり最後もいうまでもなく、お互い満面の笑みでお別れをしました。
結局一度も会話することは出来なかったけれど、なんだか心はじんわりと温かくなり、たくさんお喋(しゃべ)りが弾んだように思えました。
会社からの帰宅途中、JR横浜駅はラッシュで混雑しており、ぶつからないよう周りの足音を聞きながら改札へ向かって歩いていました。
すると
「何線に乗られますか?」
と、三十代後半ぐらいの女性に乗車口まで誘導してもらいました。
階段を上り、ホームへ着くと僕の乗る方面の電車は発車ベルが鳴っているところでした。
急いでもいなかったので、次の電車でもいいかなと思っていると、
「駅員さんにまだドアを閉めるの待って下さいと言ってきて!」
と女性は突然大声で急き立てて指示を出し、
「うん、分かった」
と走って行く足音が聞こえました。
そこで僕は初めて子供がいたことに気が付きました。
これで間に合ったかなと安心していると、一度遠ざかったはずの足音が何故(なぜ)かUターンするようにこちらに戻ってきます。
どうしたんだろ? と不思議に思っていると、その子供はお母さんに向かって一言
「駅員さんて何?」
僕は思わず吹き出してしまいました。
お母さんのあまりの勢いに圧倒され、思わず咄嗟(とっさ)に走り出してしまったのでしょう。
電車には間に合わなかったけれど、とても微笑(ほほえ)ましい光景でした。
会社からの帰宅途中、東京メトロ日比谷線恵比寿駅へ向かって歩いていると、後ろから優しくポンと肩を叩(たた)かれ
「駅ですか?」
と声をかけられました。
それはもう妖艶な色気のある声で、一瞬にしてその女性に引き込まれ思わずうっとりしてしまいました。
再度聞き返されていることに気がついた僕は、はっと我に返り慌てて返事をすると、女性は僕の手を自分の腕へ回し歩き始めました。
「お兄さんの目は病気?」
僕らの会話はこんな質問から始まりました。
病名を伝えると、
「口内炎は出来ちゃう? 関節は痛まない?」
と、僕の病気のことを知っているようでした。
「目以外は大丈夫ですけど……」
と答えると、
「私、昔看護師をやっていたの。今は都内でキャバクラを開いて店長をやっているんだけどね。昔からお店を開くのが夢で、看護師をやりながらキャバクラでバイトしてお金を貯めてたのよ。そしてようやく二年前にお店を開けたの」
と教えてくれました。
改札に着いたのでお礼を伝えると、
「今度お店来てね」
と、いたずらっぽい口調で言われました。
僕はお姉さんに心を奪われていたので即答で
「必ず行きます!」
と約束を交わし、お別れしました。
別れた後、一人でニヤニヤしながらお姉さんとの会話を思い返し、いつお店に行こうか考えていると、店名を聞き忘れたことに気づきました。
もうお姉さんに会ってときめけない……いや、改めてお礼を言えないと思うと、さっきと打って変わって足取りが重くなりました。
会社へ向かうため東京メトロ日比谷線恵比寿駅を下車すると、明るく元気な声で
「おっはよ!」
と肩を叩かれました。
誰かと思えば、今まで何度も誘導してもらった非常にキャピキャピしている二十歳ぐらいの女の子でした。
もう友達のようになっていたので少し立ち話をし、
「そろそろ向かいましょうか、肩貸して下さい」
とお願いすると、女の子はニヤリとして
「え? 肩でいいの?」
と聞いてきました。
想定外の返答に困り黙っていると、今度は
「手つなごうよ!」
と、またも思いもよらぬことを。
「ぜひお願いします!」
と今なら即答できますが、当時はまだピュアだった僕がそんなことを言える訳もなく、顔を真っ赤にして再び沈黙するばかり……。
女の子はそんな僕を見て「カワイイ」とイタズラっぽく笑うのでした。
東京メトロ日比谷線恵比寿駅を降り会社へ向っていました。
いつもの道なので気が緩んだのか、つい考え事をしてしまい、気付いたら自分が何処(どこ)にいるのか分からなくなってしまいました。
周囲の音から現在地を把握しようと立ち止まると、
「お手伝いしましょうか?」
と、六十代ぐらいの女性が誘導してくれました。
暫くたわいもない話で盛り上がり、笑い合っていたのですが、突然女性は会話の途中で黙ってしまいました。
不思議に思っていると、今度はシクシクと泣き声が。
僕は目を丸くして
「ど、どうしたんですか?」
と聞くと、声を詰まらせながら、
「ごめんねぇ、急に泣きだしたりして。実は私、今月いっぱいで定年退職なの。私は働くことが生きがいでね、だからここ最近ずっと暗い気持ちでいたの。でもあなたが一人で一生懸命歩いている姿を見たらなんか勇気もらったわ!」
と鼻声ながらも力が込もった声で言いました。
別れ際には握手を求められ、周囲の人が振り向くくらい大きな声で、
「ありがとう! 本当にありがとう!」
と言われ、少し驚きましたがとても嬉しかった。
これがいつも援助してもらい感謝をする立場だった僕が、逆に感謝された初めてのエピソードです。
今は何か新しいことを見つけ、充実した第二の人生を送られていることを願っています。
最後のエピソードのご紹介です。
その日は忘年会シーズンの金曜ということもあり、JR恵比寿駅周辺はとても混雑していました。
あまりの人の多さに戸惑い立ち止まっていると、
「駅ですか?」
と、三十代半ばぐらいの男性が誘導してくれました。
どうぞと掴(つか)ませてもらった腕が驚くほど筋肉質でした。
一体何をしている方なんだろうと聞いてみると、元キックボクシング世界チャンピオンで、引退した現在は恵比寿でジムを経営されているとのことでした。
常々体を動かしたいと考えていましたが、視覚障害がある関係でどうしたら良いのか悩んでいたので、無理を承知で通ってよいかお願いしてみると、快く承諾してくれ、名刺を頂きました。
男性の名前は新田明臣(にった あけおみ)さん、ジムはバンゲリングベイ恵比寿という名前でした。
そして翌週早速入会しに行きました。
ジムに入ると中はとても賑(にぎ)わっており、間近で聞く「ビシ、バシ」と打ち合う音はとても迫力がありました。
準備体操を終え、僕も生まれて初めてボクシンググローブをはめることに。
格闘技はまだ目が見えていた頃にテレビでよく見ていたので、その記憶を辿(たど)りながら新田さんの構えるミットにキックやパンチを打ちました。
すぐにバテバテになりましたが、とても気分が爽快ですぐにジムの虜(とりこ)になりました。
それから頻繁にジムに通うようになると、新田さんやその他のジムの方ととても仲良くなり、飲み会や全盲キックボクシングトレーナーとしてイベントに参加したり、芸能人の方とのお食事会にもご一緒させていただきました。
また、奄美大島やカナダなど沢山(たくさん)の旅行にも連れて行ってもらいました。
新田さんに出会えたおかげでそれまででは想像もつかない経験が沢山できました。
そして気がついたら多くの仲間に囲まれ、常に楽しく笑いの絶えない日々を送ることが出来ています。
以上のように、これまで年齢・国籍問わず様々(さまざま)な方に誘導していただき、それぞれにエピソードがありました。
紹介した以外にも、アトピーで痒(かゆ)くて困っている話をしたら、わざわざアトピーに効く入浴剤を持ってきてくれた職場近くで働く六十代ぐらいの女性。
誘導がきっかけで飲み仲間になった甲子園出場経験がある七十代男性には、同世代とは違う視点の意見にいつも感嘆させられっぱなしです。
失明してからのこの十八年間、まだまだ視覚障害者には危険な街の造りや、路上駐車などモラルの問題に憤りを覚えたりもしました。
でもそれ以上に、「大丈夫ですか?」と手を差し伸べてくれる人の多さに僕は喜びを感じました。
失明した当初、それは不幸なこととしか思えませんでした。
遠方からわざわざお見舞いに来てくれたのにもかかわらず、楽しそうな友人に嫉妬し、
「どうして自分だけ?」
と距離をとり、病室で一人寂しく辛(つら)い毎日を過ごしたこともありました。
それから直ぐには立ち直れなかったけど、沢山の人が優しさを与えてくれ、支え続けてくれたから以前の僕に戻ることができました。
今では失明があったからこそ、今の幸せがあるのだと確信しています。
世の中には障害を負ってしまい、絶望で毎日辛い日々を送っている人がいます。
そんな人に、笑顔が溢(あふ)れた楽しい毎日が必ず来るということを分かってもらいたい。
僕がそう証明しているのですから。
このエッセイが少しでもそんな人達の勇気になってくれたら嬉しいです。
最後になりましたが、この場をお借りし誘導して下さった皆様に改めてお礼を申し上げたいと思います。
ありがとうございました!
菱沼 亮プロフィール
一九八一年生まれ 会社員 神奈川県在住
受賞のことば
まさかこのような素晴らしい賞をいただけるとは思わなかったので、とてもうれしいです。
しかし、誘導者あってのこのエッセイですので、「大丈夫ですか?」と、これまでやさしく一声かけてきてくれた皆様に、心より感謝申し上げます。ありがとうごさいました。
選評
何と愉(たの)しく温(ぬく)もりのあるエピソードの数々でしょう。菱沼さんが歩くと、どうして毎日のようにこんな素晴らしい出会いが生まれるのでしょう。人は物語を生きている存在です。物語ることで、その人が生きている意味が、炙(あぶ)り絵のように浮かび上がってきます。菱沼さんに声をかけ手を取ってくれる人たちも、それぞれの物語を生きている。支える・支えられるという図式ではなく、菱沼さんとの出会いがそれらの人々の秘めた物語までも浮き上がらせる。ふれ合い繋がることで、人は明日も生きられるという人間の真実が、理屈でなく体温で伝わってくる手記です。感動!(柳田 邦男)
以上