わが家には、高校二年生の長男マオと、中学三年生の次男ユウという、知的な発達の遅れを伴う自閉症の息子が二人います。私のモットーは、「子どもたちのありのままを受け止めよう」「マオはマオらしく、ユウはユウらしく」「そして、私は私らしい子育てを」。現在も子育て絶賛奮闘中です。
二人の息子は、診断名は同じですがタイプが全く違います。マオは、コミュニケーション力が極端に弱くて、ことばでのやり取りが難しいタイプ。例えば「あれ、とってきて!!」などのあいまいなことばでの指示は苦手です。また、聴覚も過敏で、特に上手(うま)くない歌が大嫌い。テレビから音の外れた歌が聞こえてくると、小さい体でテレビを押しのけ、二台ほど壊した事もありました。私がマオの前で鼻歌なんかを歌おうものなら、すごい勢いで口を塞がれました。
一方、ユウは、マオに比べると表情も豊かで、一見すると深刻な障害を抱えているようには見えませんが、独特なこだわりや思い込みが強く、日々の暮らしは結構面倒です。そして、アンパンマンが大好きな、愛と勇気に満ち溢(あふ)れた子です。
買い物先のスーパーで赤ちゃんが泣いていると
「誰かが泣いている!!」
と、すかさず駆け寄り
「大丈夫かい?」
と正義のヒーローばりに声をかけます。その真剣すぎる表情に、若いママさんは苦笑いです。また、マグロ解体ショーの会場では
「ギャーッ、お魚さんが殺されている!! やめて〜!!」
と大泣きし、集まった人たちを凍りつかせたこともありました。
マオが自閉症と診断されたのは三歳の頃。自閉症ゆえの彼の特性が理解できず、振り回されてばかりの毎日でした。マオはいつもと同じにこだわります。いつもと同じ道、いつもと同じ店……。自転車の後ろに乗せていて、急に行き先を変えると、背中を小さな足で何度も蹴られました。
私は障害特性について学び、彼らが暮らしやすい方法を無我夢中で探しました。そこで、耳で聞くより、目で見るほうが、彼らにわかりやすいという事を知り、行き先の写真を見せたり、絵カードを示したり、イラスト入りの予定表を書いて伝えたりするようになりました。予定がわかるようになってからはパニックも少なくなり、背中を蹴られる事もなくなりました。
こうして、ようやくマオの特性と向き合えるようになった頃、ユウも自閉症である事がわかりました。今でこそ、自閉症の息子が二人でジーショック!! なんて冗談を話せるようになりましたが、ユウの診断は、さすがにショックでした。一人でもこんなに大変なのに、本当に育てていけるのかと悩みましたが、幸い、わが家は父ちゃんが子育てに大きく関わってくれます。どんなにしんどくても父ちゃんは話を聞いてくれました。ユウにもマオと同じ障害があるとわかった時も、
「こ〜なったら自閉症を育てるプロになるしかないな」
と明るく言ってくれました。そのことばにどれほど救われたことか!! 今も、どんな事も話し合いながら育児に奮闘する名パートナーです。
公園に行っても、友達と関われないマオは、鳩(はと)や砂とたわむれてばかり。みんなの輪に入らず、不思議な動きをしている私たちに、周りのお母さんたちから冷たい視線が向けられるようになりました。ある日、
「公園に行くのやめようかな」
とボソッと父ちゃんに愚痴ったところ、
「嫌やったら、行けへんかったらええやん。そもそも何のために公園にいくの?」
との返事。「そうや、公園って、子どもを遊ばせるため、喜ばすために行くところやん……。私、何してるんやろ」と、遊ばせる=楽しませるになっていない現状に気づかされました。マオやユウが楽しむために、どうするか。「よーし、人がいない時間に行くようにしよう!」と、朝の七時頃に公園へ行きました。さすがに誰もいません。鳩を追いかけても、砂をばら撒(ま)いても、誰にも迷惑をかけない。自由に走り回り、何よりマオが楽しそう!! 肩身狭く遊んでいた頃より、私もマオも笑顔が増えました。そんな朝の公園で仲良くなったのは、ブルーテントの住人のおじさん。
「鳩、集めといたったで〜」
と優しく話しかけてくれました。ちょっと年の離れたお友達ではありましたが、私たち親子に公園仲間ができたわけです。
それ以来、遊びに行く場所、出かける先も、「何のために? 誰のために行くの?」との視点を大事にするようになりました。
マオが四歳くらいの時に通っていた病院での出来事です。病院に到着し私が靴を脱いでいる間に、マオはス〜っと人の間をぬって走り出しました。体の不自由な方を転倒させては大変です。慌てて後を追うと、あるお母さんがマオを抱いて私のところへ連れてきてくださいました。私が
「すみません、本当に一瞬でいいからじっとしてほしい……」
とつい口にするとその方は
「元気で、かわいいお子さんね。私はね、この子に一瞬でいいから歩いてほしいと思って訓練にきているのよ」
と話されました……。横を見ると車いすに乗った息子さん。透き通るように色の白い、きれいな青年でした。酸素ボンベもついていて脳性麻痺(まひ)のお子さんのようでした。私は、自分の発したことばが情けなく、日頃から張りつめていた気持ちがあふれて、初対面の方と病院の入り口でワンワン泣きました。そこへ、訓練士の先生がやってきて
「どっちのお母さんも大変や、そして、どっちの子もかわいいね」
と言ってくださいました。名前も聞かなかった出会いです。そう、大変なのは私だけじゃない!! この世にはいろんな大変があって、それぞれに頑張っている!! と教えられました。今でも、誰かをうらやましく思ったり、子育てに行き詰まったりしたときは、この日のことを思い出しています。
その後、発達に遅れのある子どもたちが通う施設や、療育先に通う事になり、自閉症や、ダウン症、ADHD、脳性麻痺や、てんかんなど、発達に遅れのある、たくさんの子どもたちとふれあう機会ができました。そして、同じ悩みを抱えるママたちともたくさん出会いました。それぞれの立場で頑張っている親子がいる!! それを知るだけで前向きになれました。
仲間と呼べる友人はできたものの、病院や買い物など人の集まる場所へ行くと、やはり怒られてばかりの毎日。謝っても許してくれない人もいました。大阪名物、ヒョウ柄の服を着たおばちゃんに
「なんやのこの子」
「口あるのに喋(しゃべ)られへんの?」
と大きな声で怒鳴(どな)られたり、子どもたちに障害がある事を話すと
「かわいそうに、お祓(はら)いに行った方がいいんちゃう」
と言われたりしました。そんな時私は「私たちの子育ては大変だけど、かわいそうじゃないっ!!」と心の中で叫んでいました。
場の空気を読めないのは、自閉症の特徴のひとつです。そんな息子たちとの行動は、ハラハラしっぱなしの毎日でした。ある日、マオと電車に乗っていた時のことです。そこは大阪の中でも、なかなかファンキーな路線。ヒョウ柄のおばちゃんだけでなく、難しい顔のサラリーマン、耳だけじゃなく口にも瞼(まぶた)にもピアスをつけているお姉さん、ドア前に座り込んでメイクをする女子高生。その車内は、私たちからすると、獣の集まるジャングルに匹敵しました。ある日、見た目の怖いおじさんに遭遇。大股開きでデーンと座席に座って、車両全体に聞こえるような大きな声で、携帯電話で話しています。もちろん、怖い顔のおじさんに近寄ってはいけません……なんて大人の暗黙のルールはマオには通じません。どうしても座席に座りたかったようで、みんなが避けて座らないおじさんの横の席を指差し、
「ここに座りたいです」
とそのおじさんに話しかけました。何にも動じないマオ。どうなることかと息を飲む私。すると……意外にも
「おっちゃんの横に座るか?」
と言ってマオを座らせ、私にも
「この子、男前やな〜。お母さんも座りぃや」
と。おじさんの大きな声に、マオが耳ふさぎをすると
「大きい声で堪忍やで」
と謝ってもくれました。この人、めっちゃ、ええ人や〜ん!!! と安堵(あんど)するとともに、マオのまっすぐな心から、「人を見かけで判断してはいけない」と、学ばせてもらった出来事でした。
そんな、幼少期のてんやわんやを乗り越え、いよいよ小学校へ入学。私たち家族は、マオの小学校就学を機に、大阪から、私の実家近くの奈良へ引っ越すことを決めていました。色々(いろいろ)な学校を見学し、家族の状況を考えての決断でした。実はそれまでにも、マオが誕生してから住んでいたマンションを売却し、賃貸住宅に引っ越した経歴もあります。当時住んでいたマンションは便利な場所にはあったものの大きな国道沿い。多動全開だったマオは何度か、窓枠に登ったり、ドアを開けた途端エレベーターでそのまま下へ行ってしまったり……。マオを追いかけようとすると、ユウが反対方向へ駆け出す。マンション中、何度二人を探し回ったことか……。そんな危険と背中合わせの日々から脱却するために、購入したマンションを手放す選択をしました。
住まいでもこんな苦労をしていた私たちは、学校選びも、ランドセルを買ってウキウキ準備という訳にはいきません。就学前の相談では、
「こんな落ち着きのない子、検査になりませんでした。まさか、地域の学校に行くつもりじゃないでしょうね。こんな鉛筆の持ち方じゃ、名前も書けないですよ」
と言われました。悔しくて、悲しくて、これのどこが相談なのか!! と思いました。
同じ相談でも、心の指針をくださった先生もいました。専門性の高い支援が受けられる特別支援学校か、地域の子どもたちとの交流がある、地域の学校の特別支援学級か……。どちらの学校にも、長所、短所があり、どうしたものかと迷っていました。そんな中で受けた教育相談。担当の先生は、マオの家での様子やこれまでの暮らしなど、ゆっくりと聞いてくださいました。最後に
「お母さんから何か質問はありますか?」
と言われたので
「小学校入学までに、これだけはやらせておいたほうがいいという事はありますか?」
と聞きました。その頃のマオは単語がいくつか話せる程度、睡眠も不安定、偏食だらけ、多動全開。集団生活には困難な事だらけでしたので、何とかしないと……と母ちゃんなりに必死でした。すると先生は穏やかな声で
「お母さんが、ここがいいと決めた学校なら、どちらでもきっと大丈夫ですよ。春までに準備することなんて、何にもありません。今のままのお母さんで、元気に明るく笑顔いっぱいに、マオくんを送り出してください。そして、美味(おい)しいご飯を作って、毎日お風呂に入れて、温かいお布団で寝かせてあげてください。それだけで十分です。今のまんまのマオくんとお母さんを受け止めてもらいましょう」
と言ってくださいました。私は、泣きじゃくって、このままでいいんや! と、不思議な力が湧いてきたことを覚えています。この時の先生のことばは、今も母ちゃんを支えてくれています。
マオが小学校へ入学してからは、慣れない環境で、次から次へといろんなことが起こりました。自己表現の乏しい子どもたちです。先生との信頼関係なくしては、学校へは通えません。
学校の中にも、いろんな先生がいます。理解のある、ないだけではなく、「自閉症ってこんな子でしょ」と目の前にいるマオやユウを見てくれない先生には悩まされました。喋るのが苦手なマオに「おはよう、は?」「お返事、は?」と挨拶を強要してくる先生もいました。
聴覚が過敏なマオの音楽の授業への参加や、大勢の中での活動への参加は長く苦戦しました。音感が良すぎるのか、マオは少しの音のズレも気になり、お友達の歌声や演奏にも耳をふさぎます。
「無理して授業に参加しなくてもいいよ」
と言われたこともありました。このことばは優しくも聞こえますが、「一緒には無理だよ」と拒絶されているようにも受け取れます。そんな中、「苦手なこともたくさんあるけれど、音感やリズム感は優れているところもあります。マオくんや、ユウくんの素敵なところを理解してもらったら、きっとうまくいくはず」と、支援学級の先生が奮起。学年主任とお話ししてくださり、誰も使っていない時に興味のある楽器を触らせてもらったり、音楽の時間以外でドラムを叩(たた)かせてもらったり、音楽の先生に支援学級に入ってもらったりして、少しずつ交流を深めてもらいました。
そんな細やかな関わりが功を奏し、マオは五年生になったころから、クラスの子たちとの音楽の時間を楽しめるようなりました。ヘンテコなところで大笑いしたり、楽しくなりすぎてジャンプしたりしても
「みんな見て〜! マオくん、今日は耳ふさぎしてへんよ〜! みんなの声がハーモニーになってたんやで〜」
と、先生のナイスな一言で
「ホンマや! マオくん嬉(うれ)しそうや!!」
とムードが一変しました。
六年生最後の音楽会は、なんと木琴を担当しました。耳ふさぎをして、一番端に立っているのがやっとだったマオが!! 笑顔で周囲のリズムに合わせて演奏しています。
マオの演奏をみて、たくさんの先生が涙ぐんでおられました。私は、もちろんぐしゃぐしゃでした。近くにいたママさんたちも泣いていました。一緒に演奏したクラスメイトは大喜びしてくれました。六年かかって、マオはお友達と音を楽しむことができたのです。
運動会も、遠足も、修学旅行も、「どうしたら参加できる?」を合言葉に、マオとユウの気持ちに寄り添ってくださいました。運動会では、グラウンドにマオやユウ専用のテントを設置。仮設支援学級の出来上がりです。これには賛否両論ありましたが、大勢の人の歓声や大音量のBGMの中で座っていられない息子たちにとっては最善策でした。また、冬の耐寒駆け足では、学年中のお友達がいつまでたっても帰ってこないユウを全員で待ってくれ、二十四時間テレビさながらの感動のゴールを迎えることができました。最下位のユウが
「ボク、一番でしょ?」
とおとぼけ発言をしても、
「ユウくんが一番頑張ったよ」
とクラスのみんながたたえてくれました。
もちろん、子どもたちや保護者の中には、温かい眼差(まなざ)しだけでなく、冷めた視線があることも事実です。泣いたり笑ったり、反応の大きいユウはターゲットにされ、からかわれたこともあります。それでも、そんな時はいつだって、私たち家族より本気で怒り、悲しみ、解決に向けて動いてくださった先生たちがいました。
会話の通じない、不思議な行動をする息子たちを理解してもらうため、私は彼らの特性を説明することを大切にしてきました。母親の私だって、マオたちと出会うまでは何も知らなかったのですから、知らなくて当然です。説明を聞いてくださり、一人、また一人、理解しサポートしてくださる方が私たちの周りに増えていきました。公園で誰一人友達のできなかった私たち家族ですが、今はたくさんの人たちに囲まれています。
そんな支えてくださる皆さんに何かお礼がしたいとの気持ちから、マオの絵をコミュニケーションツールとして使う事を思いつきました。マオは小さい頃から、面白い絵をたくさん描いています。お気に入りの色鉛筆が一週間で無くなる事もありました。絵の中のキャラクターはなんともユニークで、どれも表情豊かです。学校で描いていると、自然と子どもたちが集まってきます。
私はマオの絵をハガキやカレンダーにして、同じクラスになったお友達や、お世話になった人たちに渡すことにしました。すると、思いがけず反響が大きく、ある大学の教授の目にとまり、「マオくんの絵をもっとたくさんの人にみてもらおう」と、福祉や教育を学ぶ学生たちと一緒に展示会を開催できるようになりました。展示会は出会いの場です。いろんな方たちとのつながりが広がり、体験談を話す機会をいただいたりもする中で、あの京都大学にも家族で行かせていただくことに。私は学生さんたちの前でお話をし、その横でマオは楽しそうにホワイトボードに絵を描いていました。京大のキャンパスを笑顔で歩くマオとユウの姿を、スーパーで意地悪を言ったおばちゃんに見せてあげたいです。「この子たちかわいそうな子に見えますか?」って。
悩んで決めた地域の中学校への進学。みんなと同じ学生服に身を包み、兄弟仲良く手をつないで通いました。中学校でも、先生のサポートを受けながら、お友達の中で笑っています。思ってもなかった人生初(!?)のテストも体験し、マオ、ユウともに奇跡の好成績。数学という名の算数は、通知表で五段階中五をもらっています。質問も解答の仕方も全部がオーダーメイド。マオやユウのためだけの、世界でひとつのテストです。先生たちの思いが詰まったテストは、母ちゃんの宝物になりました。
ある朝、ひょっこりと嬉しい出会いがありました。子どもたちを送り届けた帰り道、庭に出ていたご婦人から
「息子さん、大きくなったわね」
と声をかけられました。朝の挨拶はした事はあるけど、初めて話す方です。はて? と思っていたら……
「私、ずっと庭から見ていたのよ。あなたが、お二人の息子さんを連れて登校してはるのを……。毎朝ね、楽しそうに手を繋(つな)いで歩いてはる姿がなんとも素敵で、いつも見惚(みと)れていたのよ」
と。いやぁ〜驚きました。大きな息子たちと手を繋いで歩いて、二度見されたりすることはあっても、そんな見惚れるなんて!!
「最近はあんまり手を繋いでくれないんですよ」
と私が言うと
「それもまた成長だものね〜」
とにっこり。私たちの日々の頑張りを見てくださっている人がいる。こんな日常のふとしたことばが生きていく力になります。
地震や大雨が続き、自然災害の怖さを実感する中で、こんな話を聞きました。障害のある子を持つお母さんが、障害のない兄弟に「もし二人でお留守番している時に地震がきたら、この子(障害のある子)は置いて避難所に逃げなさい」と伝えた、と……。胸が張り裂けそうになりました。こだわりが強くて避難所に連れて行く事がとても大変だったり、避難所に行けたとしても落ち着けなかったり。だからこそ、うちにはこんな子がいますと、知っておいてもらう事が大切だと思うのです。家庭だけで抱えこまずに地域の方に「手伝ってください」が言える環境になれば、こんな悲しい会話を親子でしなくてもいいはずです。
私たち夫婦は、“普通”ということばがあまり好きではありません。なんでも出来て当たり前なんていう暮らし、私たちには無縁です。すんなり出来ないからこそ、出来たら嬉しいんですから。偏食のマオが初めてハンバーガーを食べきった時に、夫婦で大泣きしたこと。家族で初めて回転寿司に行った時も、店内を走り回ったりすることなく落ち着いて座っている二人を見て、またしても涙。お店の人が「ワサビぬきも注文できますよ……」と、とんできたこともありました。
また、私は、自分の産んだ子どもたちが「自閉症であって良かった」と思えるほど人間が出来ていません。障害がない子をうらやましいと思った事もあります。もし、仏様が目の前にあらわれて、「何かひとつ願いを叶(かな)えてあげよう」と言われたら……。障害に理解のなかった昔の私だったら「息子たちの自閉症を治してください!!」とお願いしていたと思うのです。でも、今は違います。「息子たちが自閉症のままで、楽しく愉快に生きていける世界にしてください」と願います。自閉症という不思議な世界観を持つ、マオやユウの親になれた事を、他の家庭とはひと味違った生活を、今は楽しく思っています。息子たちの障害は、パッと見てもわかりません。それでも、色(いろ)んな刺激や感覚に戸惑いながら暮らしています。彼らを理解し、彼らの心に寄り添ってくださる人が、これからも増えていってくれることを願っています。
私たちは、今日も朝からてんやわんやと奮闘しながら笑顔いっぱいに生きています!! 十年後も二十年後も、たくさんの人の中で笑って暮らせる未来を信じて。