第52回NHK障害福祉賞 佳作
〜第1部門〜
「障害と視線、個性と夢」

著者 : 佐々木 杏夏 (ささき きょうか)  愛知県

他者の視線は、障害者、健常者に関わらず、意識するものだと思う。一口に視線と言っても、色々(いろいろ)と種類があり、興味や好奇の目、差別や心配する気持ちのまなざしなど、良い意味でも悪い意味でも、たくさんの種類がある。緊張する場や初めての場所など、他者の視線を多く意識する場面では、自分に注がれる視線の全てが好奇の目であり、人から過度の期待をされているように感じてしまうことがある。それがどうしても多くなってしまうのが、「障害者」だと、私は思う。
私は、先天性の脳性まひによって足が不自由なため、車椅子で生活している。私自身、多くの視線を感じながら過ごしてきた。
私は、誰よりも、相手の気持ちを感じ取るのが得意だと自負しているが、それによる欠点が一つある。私は、自分に向けられる視線の多くが、好奇や差別の部類のものだと感じ、信じて疑わなかった。すなわち、思い込みで、周りからの視線の意味を決めつけていたのだ。この文章を書いている今となっては、そのことがすごくもったいなかったと感じている。
どうしてそのように考え方が変わったのか、もう一度小学生時代から振り返ってみた。
私は元々、地元の小学校で特別支援学級に在籍していた。その頃は、担任の前以外では猫をかぶっていた。いつも黙っていて、時々愛想笑いをしながら、「自分だって普通の体に生まれたかった。何不自由なく動き回ることができて、うらやましい」なんて考えて。ただひたすら、交流級の子たちの会話を眺めていたのを覚えている。
小学校では、何かにつけやってもらうのが当たり前。理科の実験はもちろん、教室移動も車椅子を押してもらうことがほとんど。私は私で何の努力もせず、「もっと色々自分でやりたい」なんてぼやくだけで、何も言わなくても助けてもらえる状況に甘えていた。
結局、楽してばかりだった小学生時代は、目先の楽しみを選んで適当に過ごしていたのだと思う。
「特別扱いされるのは嫌だ」なんて言いながら、自分で自分を、特別で可哀想(かわいそう)な人間だと思っていたのだ。周りに年が近い肢体不自由の子がいなかったため、歩ける子たちに嫉妬して、自分は特別で可哀想なのだと言い聞かせてしまっていたのだと思う。
中一から今の学校〈肢体不自由特別支援学校〉で過ごして、一年と少し。人数は少ないけれど、いろんな友達ができた。この学校は、私の家から遠い。元々広い学区の中でも、一番の遠さだ。通い始めの頃は、「登下校のスクールバスで寝ている子がいる」なんて、密(ひそ)かに先生方の間で話題になっていたらしい。中学入学に合わせて今の学校に来た私は、最初こそ「地元の学校の子がいない」と不安がっていたが、今では、同じ中学部の男子たちを言い負かし、「怖い」なんて言われながら二期連続で生徒会長をやっている。そうして、色々な子たちと関わって、様々(さまざま)な障害にも触れていった。
初めは、すごく驚いた。でも今は、そのとき思い違いをしていたように感じる。私は、「障害者」に対する世間の目や意見に「偏見だ」なんて騒いでおきながら、別の障害を持っている人に偏見の目を持っていたかもしれないと思った。私の中で考え方が変わったのは、そこからだと思う。
最初から人間には「特別」なんて無かったのだ。皆、感情を持っていて、心がある。意見や考え方、伝え方は違えど、皆同じように、一生懸命、今を生きているのだ。とはいえ、皆それぞれ得意不得意がある。それをあえて言葉にするのであれば、「個性」だと思う。
少し前まで、「障害」を「個性」と言い換えるなんて、きれい事だとかたくなに言い張っていたが、よく考えれば、私たち障害者の不得意なことが、実際に毎日の生活の中で、非常に重要なことであるため、生活の「障害」となる。「障害者」という言葉はそこから来ているのだと思う。反対に、障害のない「健常者」と呼ばれる人たちでも、苦手なことはあるだろう。例えば、地図を見るのが苦手でナビをよく使っている人や、音程がよく分からず音痴と呼ばれるような人などだ。障害者・健常者関係なく、皆それぞれ得意不得意という名前の「個性」があるのだ。
そう考えれば、他者の視線のとらえ方も変わってくる。障害者である私たちのことをよく知らない人にとっては、私たちはもの珍しく目に映る。個性の強い服を身に付けている人を、つい目で追ってしまうのと同じ原理だ。そんな人たちの中にも、「自分でやりたいのでは」と見守ってくれる人や、どう手伝えばいいのか尋ねてくれる人もいる。私は、そんな人たちを、すごく尊敬する。自ら、相手の不得意な部分を補ってあげようと考え、それを行動に移せるなんて、とてもすごい人だと思う。私は、そんな人になりたい。そして、人から尊敬されるような、正しいことができるようになりたいと思った。
私には元々、「人の役に立てる仕事に就きたい」という、漠然とした夢があった。学校の授業で、以前から知っていた職業や、少し興味のあった職業を、色々な面から調べてみた。その中で気になったものを、もう一度家で調べてみたりした。そしてついに、具体的な夢を見つけることができた。
それが、今抱く将来の夢、「言語聴覚士」だ。
言語聴覚士について、調べる以前は、名称だけ知っている程度だった。言語訓練を受けている友達がいたため、言語訓練をとり行うことは知っていたが、食事の訓練までとり行うことは知らなかったため、調べてそれを知ったときはとても驚いた。
意思疎通に必要な言葉に関する部分と、生きるために必要な食事に関する部分が不得意な人たちと一緒に訓練していくのだから、簡単ではないだろう。でも、だからこそ少しずつ克服していくときの達成感は計り知れない。一緒に頑張っていけるから、喜びを分かち合える。その面に強くひかれた。もちろん、その部分が苦手な人全員を、サポートできる訳ではないが、私は、どんなに苦労してでも、自分のできる範囲で、一緒に頑張っていけるこの職業に就きたい。
しかし、言語聴覚士になるためには、国家資格なども必要であり、勉強はもちろんのこと、何の職業に就くにしても、自分でできることを増やしていけるよう、努力を重ねていかなくてはならない。困難なことも、今よりずっと、何倍も多くなっていくだろう。でも、せっかく見つけることができ、実現したいと思えたこの夢を、しっかりと実現することができるよう、頑張っていきたい。
ここまで、自分を見つめて色々と書いてきたが、正直なところ、まだ、小学生時代の考え方を完全にぬぐい取り、「この体に生まれて良かった」と、考えることはできていない。この作文は、自分自身の意志を明確にするためのものでもあるのだ。だが、やはり、家族や友達、これまでに出会えた周りの人たちに恵まれたのは、この体のおかげだとも言える。
ここまで恵まれ、大切なことにも気が付けた私は、すごく幸せなのだと思う。

佐々木 杏夏プロフィール

二〇〇三年生まれ 学生 愛知県在住

受賞のことば

受賞の連絡を受け、電話を切った後も、いまいち実感がわかず「え?本当に?」とくり返していたのを覚えています。この文が書けたのも、周りにいるたくさんの方々のおかげです。これからも、色々な出会いに感謝しながら、夢に向かって少しずつ、進んでいきたいと思います。
このような評価を頂けて、とても大きな自信になりました。本当にありがとうございました。

選評

十四歳の先天性の脳性まひの少女がこのようにしっかりと自分を見つめる手記を書けるのを知り、私は驚きと深い感動を覚えました。小学生の時、他者の目線を差別の目ととらえていたのは誤りで、それは自分自身が持つ偏見が投影されたものだと自覚したというのだから凄い。人は皆、それぞれに「今を生きる」存在として同じであり、障害は個性の一つだと受け止めて、将来は人の役に立つ仕事として言語聴覚士を目指す。自我確立へ歩み出した杏夏さんに拍手を送りたい。(柳田 邦男)

以上