一 歩く喜び
私の一日は、雨の日以外はたいてい朝の散歩から始まる。
自宅から通勤で利用していた近鉄尼ケ辻(あまがつじ)駅までの片道二キロ弱の道を、三、四十分かけて往復するのである。
このコースは溝や電柱等も多く、微妙に曲がっている道なので安全な散歩コースとはいえないが、通い慣れた道であり考え事をしながら歩ける道なので、毎朝同じコースを歩いているのである。
このコースには垂仁(すいにん)天皇陵などもあり自然にも恵まれた道で、朝の新鮮な空気を胸一杯(いっぱい)吸って、二日酔いの頭をリフレッシュするとともに、四季折々の鳥の声や虫の声、水鳥の羽音、花の香り等を味わわせてくれるのである。
私は三十年以上朝の散歩を続けているが、白杖をついて朝散歩するのは珍しいこともあってか、多くの人が「おはようございます」と声をかけてくれる。その声は私をすがすがしい気持ちにさせてくれるとともに、その日一日の活力を与えてくれるのである。また、ランニングをしている人が追い越しざまに「おはよう」と言ってくれたり、体の麻痺(まひ)のリハビリに散歩中のお年寄りが声をかけてくれることもある。
また、私にとって一人で歩くことは自分の世界に浸れる一時(ひととき)であり、その日の予定を考えたり、短歌や俳句等の短詩文芸を耕作したり、思い出せない言葉を思い出したりなど、心身共に老化防止に役立っているのである。
散歩を終えて六時半のラジオ体操を行い、朝食をとって勤めに出るのが、四十数年の朝の日課となっていた。
学校に勤めていた頃は通勤の往復で九千歩以上は歩き、お酒を飲み過ぎる私の肝臓を守ってくれる働きもしてくれていたようである。
二 私の単独歩行
私は昭和二十四(一九四九)年の九月に、福島県のいわき市で温泉旅館を営む両親の長男として生まれた。
私の眼疾は網膜芽細胞腫という小児癌(がん)で、二歳の時に両眼を摘出したことによる。
網膜芽細胞腫とは先天的に癌抑制遺伝子が欠損している疾患で、両眼同時発症であれば優性遺伝によるものと考えられるが、片眼別々に発症したものは突然変異によることが多く、出生十万人に約一人の割合で発生する疾患である。
私が二歳であった昭和二十六年頃は、福島県いわき市という地方の眼科では発見が遅れ、東京の東大病院等で片眼ずつ摘出することになったのである。
遺伝が疑われるということで肩身の狭い立ち場に置かれた母は、見えるうちに色々(いろいろ)なものを見せてやろうと、上野動物園などに連れていってくれたそうであるが、私の記憶には残っていない。
幼児期の私はけっこう腕白な子であったらしく、白杖がわりに棒切れ等を持って近所の子と遊び回り、意地の悪い子に「めくら」などと言われても、
「お前こそめくらじゃないか」
などと言い返していたそうで、光の感覚の記憶がなかったことがうかがわれる。
私は昭和三十一年四月に当時の福島県立平盲学校に入学したのであるが、小学部の一、二年時は校区外進学で平にある中学校に進学してくれた長女と一緒に路線バスを利用して通うことになった。ところが三年生の四月から校舎の老朽化などに伴い平盲学校が郊外に移転することになり、昭和三十三年の四月から、バスを乗り継ぎ一時間余をかけて単独通学を行うことになったのである。
当時の盲学校では体系的な歩行指導は行われておらず、長めの白杖を持ち、後ろから家族に見守られながら家の近所で歩く練習をしたことを今でも微(かす)かに覚えている。
私達(たち)視覚障害者が単独歩行を行う際に周囲の状況を知る方法には、白杖を使って知る溝や段差等の触覚、地面を叩(たた)く白杖の音や、額などで感じる障害物や曲がり角等との距離を知る圧迫感、靴底に感じる地面の感覚、そして頭に思い描くメンタルマップなどがある。
一般に勘が良いといわれるのは、聴覚の確かさと、障害物や曲がり角等を知る額などで感じる圧迫感の感覚が優れていることであり、これらは一般に先天盲に近いほど発達しているといわれる。
私も歩く方の勘は良かった方であり、そのため両親も私の単独通学を認めてくれたのであろう。実社会の中で小三の子が一人で行動すると色々な経験をするものであり、同じ年頃の子に「めくらの子供が歩いている」とか、お年寄りからは「あんまさん、大変だねえ」などと言われ、幼い心を傷付けられたことも何回かあったが、バスの中で聞く健常な学生の話や温かく差しのべられる援助の手など、幼心(おさなごころ)にも社会的意識を高める経験も多く、家庭では味わえない経験を積むことができた。これらの経験が私の独立心や積極性等を育て、その後の生き方に役立ったように思う。
現在盲学校で行われている歩行指導では、小学生の単独歩行を認めている所は少ないと思うが、ある程度安全性が保障されれば、なるべく早期に単独歩行をさせたほうが、その子の将来のために役立つように思う。
統合教育(現在のインクルーシブ教育)の観点からいえば、集団登校を行う児童の中に白杖を持つ全盲児が含まれていることが理想ではないだろうか。
三 白杖片手に東から西へ
昭和四十年三月に平盲学校の中学部を卒業した私は、東京教育大学教育学部附属盲学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校)の高等部理療科に進学することになった。通称東盲(とうもう)と言われていたこの学校の入試に合格した時の母の喜びようは尋常なものではなかった。「よかった!よかった!」と泣きながら家の中を一時間以上歩き回っていたのである。それまで母を苦しめていた呪縛がやっと解かれたような感じであった。
私は東盲の寄宿舎に入舎したのであったが、当時の東盲は自由な校風の中にばんからな雰囲気もあり、休日などは下駄(げた)をはいて白杖を持ち近くの江戸川公園や早稲田通りまで散歩したり、夜は新宿にあった歌声喫茶「ともしび」や銀座のシャンソン喫茶「銀巴里(ぱり)」等に友達と連れ立って通ったものである。
また、クラブ活動で行っていた柔道の技をみがくために、寄宿舎の夕食後に水道橋の近くにある講道館へ通ったものである。
昭和四十五年三月に高等部専攻科理療科を卒業した私は、学校の近くにアパートを借りて一人暮らしをし、西川口にあった整形外科医院にマッサージのアルバイトに通いながら大学受験のために新宿のマンモス予備校に通った時期もあった。しかし、マンモス予備校の授業では英語等の実力が身に付かず、親の薦めもあって筑波大学附属理療科教員養成施設に進むことになった。
昭和四十八年三月に理療科教員養成施設を卒業したのであるが、その当時は第一次オイルショックの時期で就職先がなく、一年間臨床研修生として研究室に残ることになった。その一年間は私にとって最も忙しい時代で、週のうち月曜・水曜・金曜の三日間は臨床室に出て患者さんの治療を行い、火曜と土曜の午前は近隣の盲学校で時間講師として勤めた。夜は生活費を稼ぐために、茗荷谷駅の近くにあったサウナで指圧のアルバイトをするという日々であった。サウナの仕事が終わるのは午前〇時を過ぎるため、茗荷谷からアパートのある大塚五丁目まで夜の街を歩いて帰った。
翌年の昭和四十九年四月から奈良県立盲学校(以下、奈良盲)に赴任させて頂くことになるのであるが、関西には知り合いがいない私は、大きな荷物をかついで人に尋ねながら奈良に向かった。
奈良にきて最初のハプニングは、奈良駅で校長先生と待ち合わせて県庁に面接にいくことになっていて、奈良駅と聞いて私は旧国鉄の奈良駅と思いJR奈良駅で待っていたのであるが、校長先生は近鉄奈良駅で待って頂いていたらしく、最初から校長先生には迷惑をかけてしまった。
学校に初めて行った時も「人に尋ねながらいけば何とかなるだろう」という私の考えは甘かったようで、舗装されていない田んぼ道を二十分以上歩くなかであぜ道などで転んでしまい、新調したばかりの背広を泥だらけにして登校したのであった。白杖一本で東京から奈良盲まで一人で歩いてきたという話は、奈良盲の語り草となっている。
もう一つ困ったのは、急に決まった就職であったため、住む家の手配は学校にお願いしていたのであるが、学校で用意してくれた家は学校の近くにある農家の隠居屋で、トイレ・風呂・炊事場もない六畳間の離れで、食事と風呂は寄宿舎でとらせてもらうにしても、トイレは屋外に置かれたバケツにして欲しいとの話にはまいってしまった。
東京で単身でアパートを捜すのにも一苦労したが、地方で単身の全盲が家を見つけるのは大変困難な時代であった。
一学期も終わる頃に先輩の先生の御人力もあって、都市部に近い大和西大寺(やまとさいだいじ)駅の近くにアパートを見つけることができ、私の奈良の生活が始まったのである。
四 単独歩行における社会的バリアー
奈良盲に就職してからも、学校の出張や研究会などの出席は多くは単独で行動した。また夏・冬の年二回のいわきへの帰省は、結婚するまでは単独で移動した。交通機関を利用して私達視覚障害者が長い距離を移動する際の問題点として、トイレ、食事、乗り換え時のホーム上の移動等があげられる。
私の場合、トイレについては街中や駅等では見つけにくいため、なるべく列車内ですませることにしており、そのためキップを予約する際にトイレや喫煙ルームに近い席を取るようにしている。列車内のトイレで困ることは、水を流すレバーやトイレットペーパーの位置が一定していないことである。東海道新幹線では最近は統一されたものになってきているが、私の失敗談として常磐線ひたち号のトイレで緊急列車停止ボタンを押してしまい乗客に迷惑をかけてしまった経験がある。
食事については、座席という狭い空間でそつなく食事をとることはけっこう周りに気を使うものである。ある時学校の出張で北陸線を利用し、車内販売で鱒ずしを購入した時のことであるが、寿司といえば食べやすいものと思い購入したものの、プラスチックでできた寿司用カッターで切って食べることを知らず、大きな鱒ずしにかぶりつき飯粒と格闘する姿を、隣りに座っていた小学生にみせてしまい、彼にはずかしい思いをさせてしまったことがあった。
列車の乗り継ぎの際のホーム間の移動は、私が若い頃は大変苦労したもので、いわきに帰省する際など東京駅や上野駅で大きな荷物をかかえ、命がけの気持ちで歩いたものである。現在はあらかじめお願いしておけば駅員さんにドアトゥードアで誘導して頂け、東京駅等の大都市圏の乗り換えでは昔に比べると隔世の感がある。しかし、視覚障害者の利用が少ないローカル線ではまだ徹底されていないようである。
各地を単独で歩いてみて感じることは、盲学校などの視覚障害者の施設が街の中にある都市では、私達に対するサポートや気配りがゆきとどいているように感じることである。
私達が単独歩行を行う際に感じる社会的バリアーには、ハード面のバリアーとソフト面のバリアーがあると思う。ハード面のバリアーは私達の身に危険を与えるバリアーで、駅ホームでの移動、駅構内の柱や道路沿いの立て看板や電柱、点字ブロック上に置かれたバイクや自転車等である。
特にホーム上の移動は「欄干のない橋を渡るようなもの」と例えられるように、一歩間違えば命にかかわるものである。私も点字ブロックが敷かれていない時代に、ホーム上に置かれていた大きな荷物を避けそこなって線路上に落ちた経験がある。駅の柱や道路沿いの立て看板や電柱はよく頭や顔等をぶつけるバリアーで、年とともに勘が衰えてきた私は生傷の絶えたことがないほどである。電信柱のギザギザもよく手をすって怪我(けが)をすることが多く、手を保護するために暑い夏でも白杖を持つ手には薄い手袋をするようにしている。
ソフト面のバリアーは、総括的にいえば社会的共生感の稀薄(きはく)さに起因するものである。私達が道で迷っていても見て見ぬふりをして通り過ぎる人、母親に連れられた子供が私達をみて「白い杖を持っている」、「目をつぶって歩いている」などと興味を示しても、「そんなことを言ってはいけません」、「あんまり見ちゃだめ」などと母親が子供に注意する場面によく出くわす。この辺が欧米諸国と我が国との障害者に対する社会的意識の違いであるように思う。また、言葉や態度によるバリアーも感じることがあり、私達が誤ってぶつかった時などに「わー怖い」などという中年女性、舌打ちを残して立ち去る若者、また、医療機関などでは幼児語で指示されることもある。病院等でそのような扱いを受けると腹立たしいが、最近は暴走老人と誤解されるのも嫌なのでだまって指示に従うようにしている。
このようにバリアーの大変多い単独歩行であるが、私にとって単独歩行は社会の有り様を知るうえで得ることの多いものなのである。
五 突然に起こった運命の悪戯(いたずら)
私は平成二十二(二〇一〇)年三月に、三十六年間勤めさせて頂いた奈良県立盲学校を無事に退職することができた。
その後は卒業生の治療院を手伝ったり奈良盲の時間講師などを勤め、平成二十五年度は育休教員の補助講師として正式に奈良盲に勤めていた年であった。
十一月初旬の連休に奈良で私達兄弟四人の夫婦会を行い無事に終わり、お世話になった寿司屋さん等にお礼に寄り、帰宅する途中の十一月六日の夜のことであった。
いつも歩いている道とは違う場所で二メートル以上もある側溝に転落し、救急隊によって病院に運ばれたのであった。頭部と右下腿部を七針ずつ縫い、腰椎圧迫骨折で一か月の安静・治療という診断であった。その側溝にはガードレールがあり、故意に入り込まなければ落ちない場所であり、いくら酒に酔っていたとはいえ、今でも私には超常現象としか考えられない事故であった。
偶然かもしれないが、その日は普段よく歩いている私に声をかけてくれていた、八十二歳で急逝された近所の御婦人の告別式の日であった。また考えようによっては、この程度の怪我で助かったのは平成三年に七十歳で他界した母の意思が働いていたように思えてならない。
一か月の安静が必要という診断であったが、補助講師の身である私にとって学校には迷惑をかけられないという気持ちが強く、事故後二、三日は休んだものの、鎮痛薬の服用とコルセットの着用で登校し、痛みに耐えながら外来臨床室の治療などの授業を継続した。
以後歩くことは腰痛との戦いとなったが、三十五キロ過ぎのマラソンを走るような気持ちで学校に通い続け、平成二十八年の三月まで勤め、何とか責任を果たすことができた。
二十七年度の按摩(あんま)・鍼灸の国家試験が二月末で終わり、校内の模範解答を作り終えた三月一日の夜に、右脚に強烈な痛みとしびれが起こり歩けなくなってしまった。転落事故後、安静を取らなかったつけが腰部脊柱管狭窄症を併発したための症状であり、国家試験が終わった次の日に張りつめていた糸がきれたように歩けなくなったことも、人知の及ばない現象と感じられるできごとであった。
六 共生社会の実現に私達視覚障害者ができること
へレンケラー女史が残した言葉に、「目が見えないことは物の認知ができない障害であり、耳が聞こえないことは他者とのコミュニケーションの障害である」といった内容のものがある。マイノリティーである障害者の中でも最も数が少ない視覚障害者ではあるが、白杖を持っていれば最も分かりやすい障害であり、他者とのコミュニケーションも最も取りやすい障害である。
私が昭和五十五(一九八○)年の二月に行われた青梅マラソンを強引に走って、その後社会的認知を得るようになった視覚障害者マラソンも、共生社会を実感できる競技である。伴走して頂く健常者には心身共に大変お世話になるのであるが、走っている間の会話や走り終えた後の達成感は、私達はもちろん、走って頂いた伴走者も「困っている人のために役に立てた」という満足感を感じてくれているようなのである。
このような経験から、互いに思いやることが共生社会を育てていくためには最も大切なことだと思う。
私も歩車道が分離されていない道を歩く時は、車が来た時はいったん道の端に寄り、立ち止まるようにしている。そんな時軽くクラクションをならして感謝の気持ちを示す車や、わざわざ車の窓を開けて「ありがとうございます」と言ってくれる人も増えてきている。
もう一つ最近感じることは、若い人の中に「何かお手伝いしましょうか?」、「駅まで御一緒しましょうか?」などとスマートに的確なサポートをしてくれる人が多くなってきたように感じることである。私はできるだけ自然に御好意を受けることにしているが、私達視覚障害者が健常者と真摯に接することで、共生社会の基盤が少しずつでも進むのではないだろうか。
現在朝の散歩のおりの挨拶は続いており、曲がった腰でゆっくり歩く私に「だいじょうぶですか」、「気を付けて帰って下さい」などと声をかけてくれる人が増えたように思う。「俺もいいおじいちゃんに見られているのか」と苦笑しながら、多少かっこうの悪い歩きでもできるだけ外出して社会との接点を増やして行かなければならないと思う昨今である。
※ご本人の子供のころの会話は、当時の様子を再現するため、当時の表現のまま使っています。
片寄 健司プロフィール
一九四九年生まれ 無職 奈良県在住
受賞のことば
今回のコンクールに佳作として入賞させて頂きありがとうございました。
今回の作品は一人歩きしながら感じた社会模様を私の人生に沿って書かせて頂いたものです。
この作品が共生社会の実現に少しでもお役に立てれば幸いです。
他人を思いやる社会を目指して今後も微力を尽くしていきたいと思います。
選評
バリアフリーの言葉すら無かった六十年前。今では考えられない視覚障害者の境遇を私達に教えてくれました。辛い出来事より、温かな人の援助を大きく捉えて自身の力に変えていく。バスでの単独通学をはじめ数々の困難なエピソードですら悲壮さを感じさせない。これは苦しみを乗り越えた人の強さではないかと想像します。不自由な環境の中に自由を獲得していく姿は、後進に希望を与えてくれます。“暴走老人”には誤解されません!忌憚なくご指導ください。(鈴木 ひとみ)
以上