第52回NHK障害福祉賞 佳作
〜第1部門〜
「私の名前」

著者 : 牛若 孝治 (うしわか こうじ)  京都府

一 始めに

私は子どものころから視覚に障碍(がい)がある。両眼とも光が分かる程度で、外出時は白杖を持っている。使用文字は点字またはパソコンに音声読み上げソフトを入れて読み書きしている。
それに加えて私は子どものころから、体の性別と心の性別が一致していなかった。体の性別は女性・心の性別は男性である。二〇〇八年、「性同一性障碍」の診断を受け、男性名に改名した。
体の性別が女性であることに違和感を覚えていた私は、親から名付けられた女性名を三十数年間嫌悪し続けてきた。今回は、体の性別が女性・心の性別が男性という性の不一致の中で、私がどのようにして女性名を嫌悪し、男性名に改名したのかについて書いてみたい。

二 女性名への激しい嫌悪

私は一九七一年、兵庫県姫路市で、牛若家の長女として出生した。両親は私の体の性別に従って、「治子(はるこ)」という女性名を名付けた。父の名前が「寛治(かんじ)」であるから、将来結婚して、牛若家から嫁ぐことを想定して名付けたそうだ。出生時、まだ、自分の意思を表せないころから、両親は既にこのような人生設計図を描いていたのかと思うと、私はなんとなく恐ろしい気がした。ところが、出生後しばらくして、私の目が見えないことが判(わか)ったとき、両親は私の将来を悲観したようだ。
自分が男の子ではないかと意識し始めたのは、三歳から四歳ぐらいと記憶している。当時私は、男性の演歌歌手の歌が好きだった。なかでも男性の声で、女性の失恋した気持ちを歌っている声や、ダークダックスやボニージャックスなどの男声合唱の中で、テノールパートの声を聞くと興奮して、目が見えていなくても、無性に家の廊下を走り回ったり、二つ年上の兄とおもちゃの取り合いをして兄を泣かせるなど、粗暴な行動に出ることが多かった。その度に、両親や父方の祖母から
「治子、女の子なんやからそんなことしたらあかん、おとなしくしなさい」
と言われたのだが、私はそのとき、「女の子」という意味がよく分からなかった。また、あるとき、ふとしたきっかけで、兄のペニスを触った記憶がある。
「お兄ちゃんにはあって、なんで私にはないのか」
と両親に聞いてみると、こともなげに
「あんたは女の子やから」
と言われた。納得がいかなかった私は、
「お兄ちゃんにはあるんやから、そのうち私にも生えてくるんやろ?」
と食い下がる。しかし、またしても両親から
「女の子やから」
と説得される。そんなことを繰り返している間に、私は自分が男の子であると思うようになった。このころ、既に「治子」という名前が女の子の名前であることに気づいていたので、両親に、
「こんな名前嫌や。お兄ちゃんのような男らしい名前がいい」
と言うようになった。だから、両親や父方の祖母から「治子」と呼ばれると、なんともいえない居心地の悪さを感じていた。
私は幼稚園から盲学校に行っていた。盲学校では、先生や友達からは「治子ちゃん」、「治(はる)ちゃん」などと呼ばれていたが、その度にあまりよい返事をしなかったか、よい返事をしてもその場限りで居心地が悪かった。また、人前で名前を名乗るときも、「治子」という名前を言いよどみ、すっきりしなかった。小学部に入学し、点字を習い始めたときも、「治子」という名前を書こうとすると手が止まり、点筆を握っている手に汗が滲(にじ)む。また、点字を読んでいて、自分の名前が書かれた部分や、物語などの登場人物で「はるこ」と書かれた部分を読むと動悸(どうき)がして息苦しくなる。二年生のとき、レーズライター(視覚障碍者が一般の文字(墨字)の読み書きや図形を勉強するときの作図器と作図用紙。ボールペンで書くと点線で文字や図形の形が浮き上がるので触って分かる)を使って、カタカナ・ひらがな・漢字の勉強をしていたときも、(「治める」の字の形はかっこええけど、「子」の形は嫌やなあ)と思い、なかなか上達しなかった。(友達はみんな喜んで自分の名前を呼ばれたり名乗ったり書いたり読んだりしてるのに、何で俺はこんな名前を付けられて、嫌な思いをしなければならないのか)私は、自分の名前を自由に名乗ったり書いたりすることができない自分が悲しかった。
小学部も高学年になると、私にとっては悪夢の「第二次性徴」が始まった。すると、私の「男」の心と、変容していく「女」の身体の不一致がいよいよ鮮明化し、ますます「治子」という名前を嫌悪するようになった。中学で初潮を迎えたころからは、テストのとき以外は、たとえば友達や当時付き合っていた交際相手に手紙を書いたときなどは、「牛若」の姓だけ書くか、ちょっと妥協して「はるちゃん」と書くなどして、「治子」という名前を極力書かないようにしていた。

三 「性同一性障碍」という障碍名を知って

盲学校で鍼灸マッサージ師の免許取得後、初めて京都の治療院に勤め、一人暮らしを始めた一九九五年のある日、たまたま行きつけの喫茶店で心理カウンセラーと名乗る女性と会った。彼女と話をしていたとき、私はそれまで誰にも言わなかったことを言った。生理があり、胸があり、華奢(きゃしゃ)な体が嫌、努力して低めの声を出しても、所詮は女性の声であることが嫌、そして、「治子」という女性名が嫌。私の心は男なのに、マッサージの実技では、男子より体力が劣っていることをまざまざと見せ付けられて悔しかったから、水泳やマラソンで体を鍛えていること、スカートよりズボンの方が好きで、一時は髪の毛を伸ばしていたけど、やっぱり短髪がいいこと。私は男だから、ばりばり仕事して稼ぐ方に回りたいのに、両親や周囲の大人は、結婚して家事をするなどの「女らしさ」を押し付けてくるのが嫌、など。彼女は、私の話を親身になって聞いてくれた。そして後日、私が彼女に電話したとき、彼女から思いがけない「障碍名」を聞いた。
「あなた、もしかしたら『性同一性障碍』じゃないの?」
(そうか、この違和感は「障碍」か!)彼女から、その障碍名の具体的な説明を聞いたとき、ほとんどすべてが当てはまるような気がした。そして、これまで感じてきた違和感の正体が分かったことで気が楽になり、彼女と一緒に性同一性障碍に関する情報を集め、議論するようになった。
二〇〇〇年より私は音声読み上げソフトを入れてパソコンを使用するようになり、母とメールのやり取りをした。そのとき私は母のメールの最後に、「治(おさむ)ちゃん」と書いた。母は、何も言わずに見逃してくれていたようだったが、あるとき実家に帰省し、兄の甥(おい)に、
「治(おさむ)叔母ちゃんが帰ってきたよ」
と冗談で言うと、母は
「『治子』叔母ちゃんって言いなさい!」
と猛烈に怒った。そのとき私は母に、子どものころからの体の性別違和感と、性同一性障碍かもしれないから病院に行きたい旨を、どうしても言えなかった。また、このころ既に私は、男物の服を着用し、短髪にしていた。そんなかっこうで実家に帰省したとき、父から
「男物の服を着て、短髪で帰ってくるな!」
と、半ば家から追い出されそうな勢いで怒られた。その度に私は、京都に戻る電車の中で、自死することを考えた。しかし、私が自死したところで、視覚障碍を理由に自死したと思われるのが嫌だったので、ここはぐっと我慢した。その代わり私は、次のように決心した。(両親のどちらかが亡くなったら、性同一性障碍の治療を受ける)と。

四 男性名への改名

私は一九九五年から約十年間で、五か所もの治療院を転々とした。一か所の治療院で長続きしなかった理由は、女性として雇用されたことによるトラブルだった。学生のころは、華奢で体力がなかった私が、水泳やマラソンで体力づくりをしていると、いつしかマッサージの技術も向上し、お客さん・患者さんからも評判がよかった。その一方で、特に男性の同僚たちから、「女やのに仕事をばりばりする」ということで嫉妬され、退職を余儀なくされたことが多かった。そんな治療院の体質に嫌気が差したこと、体の性別への違和感は、私が盲学校しか知らないことからくる対人コミュニケーション不足なのか、と思った私は二〇〇六年、大学に進学した。一回生のころ、早くも私と同じく、体の性別は女性・心の性別は男性で、男性名で学び、研究している人と出会った。(確かに俺と同じような人がいることは分かった。でも、俺はパソコンを使っているけど、普段はかな文字ばっかりの点字を読み書きすることが多いから、漢字の知識が乏しいし、自分の名前を男性名にするなんて)と思い、このときは、まだ男性名への改名を考えていなかった。
ちょうどそのころ、母に大腸癌(がん)が見つかり、一度は手術をしたものの、再発していた。このとき私は密(ひそ)かに「母の死」を予感していたので、基礎ゼミのクラスなどで、ぽつぽつと体の性別と、心の性別の不一致について話し始めていた。二〇〇七年のある日、社会学の授業で、たまたま「性同一性障碍」の話題が取り上げられた。
「自分は男だと思っている人」
と先生から聞かれたとき、迷わず私は手を上げた。授業終了後、私は先生にこう言い放った。
「私は、女として生まれてきてよかったと思ったことは一度としてありません」
その授業から約一か月後、母が亡くなった。葬儀に参列したとき、私は前に決心したとおり、近いうちに、性同一性障碍の治療を受けることにした。
二〇〇八年二月、学部のテストが終わり、大学の休みを利用して、某大学病院のジェンダークリニック(性同一性障碍を診療する精神科)を訪れた。看護師に問診票を代筆して頂き、待合室で待っているとき、看護師から次のようなことを聞かれた。
「通称名は決まっていますか?」
(なに?通称名?「治子」という戸籍上の名前を使わなくてもええ場所あるんか?)とルンルン気分になったのもつかの間、またしても視覚障碍で、かな文字の点字を使用しているから、漢字の知識が乏しいことを理由に、なかなか「通称名」が決まらなかった。そして、やっとの思いで、母とメールしていたころに冗談で使用していた「治(おさむ)」で、その日一日診察を受けた。先生からは、生育歴やどの程度体の性別に違和感があるのかなどについて聞かれたが、「治さん」と言われたとき、なんだかしっくりこなかった。「牛若」という男性的なイメージの姓に、「おさむ」という一字名前がなんとなく弱々しく「お寒い」感じだった。一か月後の診察を予約し、今度来院するときまでに、通称名を決めたいと思い、ジェンダークリニックを後にした。
ジェンダークリニックから帰宅後、「通称名は決まっていますか?」という看護師の質問によって、「自分はいったいどんな名前で呼ばれたいのか?」という重要な問いを突きつけられた。そこにはもはや、視覚障碍で、かな文字ばかりの点字を使っているから、漢字の知識に乏しいなんて理由は通用しない、神聖で厳格な性質を持つ問いだった。とりあえず、「治(おさむ)」という名前はしっくりこないことは分かったとして、次は……。そのとき私は、なぜか一字名前に拘(こだわ)っていた。運よく、学部の授業のレポートで、「儒教文化」について調べて書いたパソコンのデータを見つけた。儒教思想の中核になっているのは「孝(コウ)」で、親や年長者を敬う、という意味がある。(俺は親孝行やないけど、「孝(コウ)」の字をこれからの自分の名前にして生きていけるんやったら)と思い、「たかし」と名付けてみたが、これもしっくりこなかった。「牛若」という男性的なイメージの姓に加え、「孝(たかし)」の字がますます堅い。そこで、思い切って発想を転換し、パソコンの詳細読み機能で「治(おさむ)」と「孝(たかし)」が一緒に使われている名前があるのかどうかを調べてみると、「孝治(こうじ)」という名前が出てきた。最初は二字の名前にあまり乗り気ではなかったし、(親孝行に治めるか、なんか堅いなあ)と思い、いったん「孝治」という名前を回避してしまった。
しかし、いったん回避してしまった「孝治」という名前がどうにも気になって仕方がなかった。そこで、またしても発想転換し、(ここはひとつ、ゲーム感覚)というように、友人や知人に、まずは今まで体の性別と心の性別が一致せずに悩んでいたこと、思い切って男性名に「戻すこと」について話した。その上で、「治(おさむ)」、「孝(たかし)」、「孝治(こうじ)」の三つの名前の中からひとつ選んで、会話やメールをしてもらうことで、「自分が呼ばれたい名前」が決まるだろうと思った。私はこれを、「友人投票」と名付けた。友人たちは、私の話に困惑しながらも理解してくれ、「友人投票」に参加してくれた。
投票期間は約二週間。友人たちと三つの名前で会話やメールをしているとき、あまり乗り気ではない「孝治」という名前を点字の漢字の辞書で調べてみた。その辞書は、点字の解説とともに、普通の文字(墨字)が点線で示してあったので、触って文字の形を確かめることができた。「孝(たかし)」という字のページと、「治(おさむ)」という字のページを同時に触って頭の中で組み合わせてみると、女性名の「治子」の字を「子治(こ・はる)」と逆にして、その「子(こ)」の上に老冠を付けて完成させたシンプルな名前であることがわかり、ぱっと電流が走ったようなショックを覚えてびっくりした。
(確かに「治子」という名前は嫌やけど、この名前なら、今まで「治子」として生きてきた人生を全否定する必要は無い。それに、父の名前が「寛治」やから、この名前やったら家族を納得させることができるやろう。「子」の上の老冠の書き順だけ覚えたらええ簡単な名前や)と確信した私は、「友人投票」の結果を気にしながらも、「孝治」という名前を通称名として使用することに決めた。そして、「友人投票」の結果、「孝治」がダントツの一位だった。「孝治」の名前を選んでくれた盲学校の同級生はこう言ってくれた。
「あんたの名前からは、『孝(コウ)』も『治(ジ)』も外したらあかん。もし、あんたが違う名前になったり、違う字の『こうじ』になったら、それはあんたではない」
私は、このときほど、友人のありがたさを感じたことは無かった。
「孝治」という名前を通称名として使用することに決めてから、私は家族にそのことを話した。私と父の関係は、何かといさかいが起こりやすく、私がたまに帰省すると、些細(ささい)な事で喧嘩(けんか)が絶えない。まして、このような体の性別違和感による通院と、男性名への改名必要性という大問題を持っていきなり帰省するということは、父を始め、当時母を亡くしたばかりの牛若家にとっては、あまりにもショックが大きい。また、私がこれまでにしてきた数々の決定や決断に対して、視覚障碍を理由にまともに取り合ってくれないことが多かったので、この問題を話し合うためだけに帰省しても無駄、と思った。そこで、最初は電話で父と兄に、子どものころから体の性別に違和感があって、現在通院していること、近いうちに男性名(このときは、「孝治」という具体的な名前を出すことを控えた)にすること、したがって、今までの「治子」という名前は使わないということを手短に話した。すると父からは、
「そのような兆候があることは亡くなったお母さんから聞いて知っていたけど、あんたは目が見えてへんから、女としての誇りやよさがわからないだけ」
兄からは、
「好きなようにすればよい」
という投げやりの言葉で、話し合いにならなかった。そのように冷たく突き放され、何一つ重要な事柄が伝わらない無力感を覚えた私は、性同一性障碍の当事者が集う自助グループの一人(私と同じく、体の性別は女性・心の性別は男性)に、男性名への改名の必要性と、家族に何一つ伝わらなかったことについて相談した。すると、公的に男性名への改名には家裁での審判が必要で、その申し立て時に病院からの診断書と申立書を用意すること、さらには、電話や電気の請求書や学生証などの公的性格を持つもので、可能な限り改名すること、その改名した名前が記された書類を最低半年間は集めて家裁に提出すること、というアドバイスもいただいた。そして、次のように言われた。
「あなたの信念ひとつだ。家族に伝わらないとしても、生きていくのはあなただから。そのために決定するのもあなただから」
その言葉を受けて、早速電話や電気の請求書や学生証などの改名作業に取り掛(か)かった。
通称名として使用し始めた「孝治」という名前は、日を追うごとに、私の名前として馴染(なじ)んでいった。その一方で、「治子」という名前が精神的に使えなくなり、そのことが原因で、重要書類の提出が遅延して、あちこちに迷惑をかけてしまった。おまけに、重要書類の提出が遅延してしまった理由が、視覚障碍であることとみなされ、私はショックを覚えた。そのことをジェンダークリニックの先生に相談した二〇〇八年六月、「性同一性障碍」の診断が下った。続いて同年十月、病院から性同一性障碍による改名申し立てのための診断書が出たので、申立書とともに早速家裁に書類を提出した。そして翌月十一月、ついに公的に「孝治」という男性名への改名が認められた。
私は、父と兄宛に長い長い手紙を書いた。(私の生来の性別違和感というのは、単なる私の思い込みではなく、公的機関がこのように私の訴えを認めたのだ)と胸を張りたい気持ちで、今まで集めてきた数々の公的機関の書類と改名診断書のコピー、そして、今までこの性別違和感に対して、どれだけ苦しんできたかということを示す資料とともに送付した。父と兄に強調したのは次のようなことである。
「『孝治』という字は、親父の『寛治』という字を考慮したとき、ぜんぜん不自然ではないはずです。郵便物を送ってくれる際に、もしこの『孝治』という名前が気に入らないようであれば、『牛若様』と書き、決して女性名の『治子』という名前は使わないでください。また、『孝治』という名前で呼んでくれるのであれば電話をしてきてもよいですが、それが無理な場合は電話をしてこないでください」
数日後、兄から荷物が届いた。長い長い手紙を書いた際に頼んだものである。その荷物の宛先を友人に見てもらうと、「孝治」という名前になっていた。(やっと私の思いが伝わった)と胸がいっぱいになり、目頭が熱くなった。

五 終わりに

改名してからというもの、賃貸マンションの保証人の依頼などの重要な事柄以外、父と兄とは連絡を取っていない。賃貸マンションの保証人を依頼した際、兄から送られてくる郵便物の宛先の名前を友人に見てもらうと、確かに改名した「孝治」と記されているが、冷静に考えてみると、兄が本当にこの名前に対して納得しているかどうかはわからない。しかし、九年の月日が流れても、私は改名したことを後悔していない。そこには、「改名」以上の深い意味を持って自己決定したという充実感がある。一方的に名付けられた名前に違和感を持ちながら生きていくより、私によりふさわしい名前を「自ら名付け直す」ということそのものに深い意味を見出すことができる。そのことが周囲の友人たちとの関係を円滑にすることと深く関わるだろう。
最後に、「友人投票」に参加してくれた友人たち、「孝治」という名前への改名を承諾してくれた当時の大学の関係者らに、心から感謝している。

牛若 孝治プロフィール

一九七一年生まれ 鍼灸マッサージ師 京都府在住

受賞のことば

NHK障害福祉賞のことは、ずいぶん前から知っていましたので応募しようとしましたが、今までなかなか決心がつきませんでした。今回思い切って初めて応募した作品で賞を頂き、本当に嬉しいです。選考委員の先生方をはじめ、今まで私にかかわってくださった皆様方に、心から感謝申し上げます。私はこれからも、自分で名づけ直した名前に自信と誇りを持って生きていきたいです。本当にありがとうございました。

選評

性同一性障害をそもそも「障害」と呼ぶべきなのかどうかについては議論があります。わが国でもLGBTという言葉とともに急速に啓発が進み、かつての揶揄や嫌悪の対象ではなくなりつつあるようです。しかし、牛若さんの作品からは、それが確実に「障害」であった経験が語られています。名前の決定に込められた、牛若さんの「これが自分だ」という地平にたどりつきたいという痛切な思いには心を動かされました。(玉井 邦夫)

以上