第52回NHK障害福祉賞 優秀作品
〜第2部門〜
「私の話を聞いてください―うつ病の親を持つ子どもより―」

著者 : 菅野 春華 (かんの はるか)  岩手県

「父さん、うつ病なんだってよ」
父の一言から、私の生活は大きく変わり始めました。

私が中学二年生だった頃の話です。私の住んでいた地域で、数日降り続けた大雨により堤防が決壊し、水害が起こりました。夏を目前にした、まだ朝は肌寒い時期でした。早朝、慌てた様子の母に起こされ、眠い目を擦(こす)りつつ玄関の扉を開けると、私の家の前を土色の川が流れていました。自然の驚異を前に私たちはなすすべもなく、貴重品だけを抱えて、地域の避難所に逃げ込みました。地域の一部は濁流にのまれ、家や田畑のほとんどが汚泥の中に沈みました。大雨が止んだ翌日、避難所から帰宅した私たちを待っていたのは、変わり果てた姿になった自宅でした。地域で一番土地の低い場所にある私の家はそのほとんどが汚泥の中に沈み、家の中にあった家具も多くが流されてしまいました。この件で一番ショックを受けたのは父だと思います。当時自宅を改装したデイサービスセンターを営んでいた父は、自宅と共に職場も失ったのです。自宅が再建されるのを待ちながら、父と母、そして私の、家族三人での狭いコンテナ暮らしが続くなか、父の様子が次第におかしくなっていきました。
父が、些細(ささい)なことでもイライラして怒鳴(どな)るようになったのです。そうかと思えば、無気力にごろりと横になっている日もありました。水害が起きて最初の一か月はデイサービスセンターの再建と、コンテナ暮らしのストレスもあったので、無理もないかと考えていましたが、あまりにもその期間が続くので、不審に思い始めていました。そんなある日、父が学校から帰ってきた私に、
「父さん、うつ病なんだってよ」
と言いました。うつ病、聞いたことはありました。当時の私はうつ病のことを、あらゆることに対して無気力になる病気だと認識していました。正直、うつ病という病をよく知らなかったこともあり、きちんと治療すれば風邪のように短期間で治る病なのだろうと考えていた私は、
「そっか。じゃあ、一緒に治していこうね!」
と元気よく笑顔で答えました。しかし、ここから先の生活は、私にとって地獄としか言いようがありませんでした。

父はいつもイライラした様子でした。水害から一か月で自宅兼仕事場を取り戻し、デイサービスセンターに利用者が入るようになってからも、仕事をせずソファで無気力に横になっている生活が続きました。父は時折、母に、
「ここが汚れているから掃除機をかけろ!」
と命令し、母が掃除機をかけると、
「(掃除機の音が)うるさい!」
と怒鳴りました。母は、自分は何も悪くないのに、ごめんなさい、と父に平謝りしていました。父は母がむすりと黙り込むと、
「その態度はなんだ、俺が居なければろくに金も稼げないくせに」
と怒鳴りました。その度に母は弱く、
「はい、はい……」
と頷(うなず)きました。母はいつも口癖のように、
「私は父さんが居ないと何もできないから。父さんは病気だから仕方ないの」
と呟(つぶや)いていました。おそらく、私の両親は互いが互いに依存している、共依存(きょういぞん)状態だったのだと思います。
私も、はじめのうちは自分なりに状況を解決しようと試みました。母親へ怒鳴る父の怒りの矛先が私へ向くよう母を庇(かば)ったり、落ち込む母へ一緒にお風呂に入ろうと声をかけたりしました。しかし、私の精神も限界でした。中学生の私が一人で背負うには、うつ病と両親の共依存はあまりにも難しいものでした。次第に私の中には、両親に対する嫌悪感と、父への恨みが募っていきました。父がうつ病という診断を免罪符にして傍若無人に振る舞っているように見えたのです。父にうつ病という診断を下した名前も顔も知れぬ医師を憎みました。悪くもないのに父に屈して謝る母が嫌いでした。

そうして鬱々(うつうつ)とした生活は続き、ついに母の堪忍袋の緒が切れました。私が高校に進学し、次の日に高校入学後初めてのテストを控えていた日のことでした。湯船に浸(つ)かっていると、獣の声が聞こえたのです。当時私の住んでいたところは自然の豊かな場所でしたが、それでもまさか狼(おおかみ)なんて出ないだろうと不思議に思っていると、脱衣所に獣のように泣き叫ぶ母が転がりこんできました。母は驚く私を気にすることなく、
「母ちゃん、この家、出ていくう!」
と嗚咽(おえつ)を漏らしました。私が声を発する間もなく、父の怒鳴り声が聞こえます。
「さっさと出て来い!」
私は濡(ぬ)れた髪を乾かす暇もなく、脱衣所から引きずり出されました。動揺する私の横で父と母はしばらく怒鳴りあっていましたが、話の内容を聞く限り、デイサービスセンターの経営方針に母が意見したことで父の妄想が飛躍し、
「俺を馬鹿(ばか)にしているのか!」
と怒鳴ったことが分かりました。そこまでならいつものことで流せたのですが、
「出ていく!」
と泣き喚(わめ)いている母に対して父は、
「養育費ならいくらでも出してやるから、出ていくなら出ていけ!」
と言ったのです。今回ばかりは母も引きませんでした。
「ちょっと、訳分かんないよ!何言ってんの!」
そう動揺する私の声は無視され、私は引きずられるように母の車に乗り込まされました。
母の行き先は、古くからの友人であるAさんのアパートでした。母が運転している最中にも父から電話がかかってきましたが、母は泣いていてろくに言葉も話せない状態でした。私は呆気(あっけ)に取られている一方で、何となく「やはりこうなったか」という気持ちもありました。いきなり転がり込んだ母子を、Aさんは驚きつつ出迎えてくれました。
私はこの一時間の間に自分に起こった出来事に対して、ある意味では無関心でした。家庭が崩壊する様子を目の前で見せつけられて、意外と呆気ないものだなとぼんやり考え込んでいました。そう思わなければ耐えられなかったのかもしれません。ドラマでよく見る愛憎劇を思い出しながら、両親が感情をぶつけ合う様と比較して、ドラマの演技は思ったよりもリアリティのあるものだったのだと場違いに感心していました。
Aさんが机を貸してくれたので、何とか持ってきた勉強道具で明日のテストに向けて勉強を始めました。正直、この先どうなるかということは考えたくありませんでした。父のことも母のこともどうでもよかったのです。ただただ迷惑だなという気持ちしかありませんでした。そんな私の様子に気が付いたのでしょう、Aさんは私に対して、
「あなたが頑張らなくちゃいけないのよ」
と声をかけました。恐らく、Aさんなりの激励のつもりだったのでしょう。Aさんは一度配偶者と離婚しており、その離婚を決意したきっかけになったのが、彼女の一人息子の後押しだったそうです。Aさんは、その息子と同じ努力を私に要求したのです。今となってはかなり酷なことを言われたと思います。しかし、私はAさんに昔からお世話になっており、Aさんという人物を人間的に尊敬していたこともあったので、その時のAさんの言葉をそのまま飲み込み、「そうか、私が頑張らなくちゃいけないのか、私の努力が足りないから、こういうことになっているんだ」と自分を責めることになりました。

私と母は一日Aさんの家に泊まり、その後父の待つ自宅へ戻りました。相変わらず父は踏ん反り返って、一言も謝らず、母はそんな父に対して深々と二度頭を下げました。
「ごめんなさい、もうしません」
私は、またあのふつふつとした嫌悪感がせりあがってくるのを感じていました。母は、父が立ち去って、私と二人きりになると、涙ぐみながらこう言いました。
「あなたのために、あなたが卒業するまで私頑張るからね」
はっとしました。私は今まで頑張って両親の仲を取り持とうとしてきましたが、その努力を打ち砕く発言でした。私が努力してきたことは全部無駄で、この人達(たち)は私さえ居なければ幸せになれるのではないかと、一瞬そう感じてしまったのです。はじめは「いや、そんなことはない」と自分の考えを打ち消すことができました。
しかし、次第にその考えが頭をもたげる頻度が高くなっていきました。私が居なければ、から、私は居てはいけないのだ、となり、最終的に一人になると常に「死にたい」と考えるようになりました。私が全ての元凶で、私さえ居なければ皆が幸せになれる、悲しむ人などいないと、そう思っていました。そう思った理由の一つには、過去に、うつ状態の父に、
「私を愛している?」
と聞いた際に、
「お前なんか愛していない」
と即答されたこともあったのでしょう。私には自分の存在している意味が分かりませんでした。家族を助けたつもりが、勝手に空回りをして結果的に家族を不幸にしてしまいました。私は罰せられなければならないと考えていました。自分の周囲で悪いことが起こると、全て私が悪いからだ、私は罰せられるべきなのだと結論付けるようになりました。授業中に先生に当てられた時に、うまく回答できず周囲の笑い声が聞こえると、気が遠くなっていき、「こんなものもできないのか、死ね、死ね」と自分で自分を責め、気が付くと自分の首を絞めていました。いつももう少しというところで息が苦しくなって、はっと視界が開けるのです。その度に、一思いに死ぬことのできない臆病な自分が嫌になりました。放課後、友人と笑って話しながら学校前の坂を下っていても、友人と手を振って分かれた途端に死ぬ方法を探りだす自分が居ました。高いところに登れば「ここから落ちたら死ねるかな」と下を見下ろし、車通りの多い道をじっと見ては「ここから子どもが飛び出してきて、子どもを助ける代わりに死んだら、せめて皆に褒められて死ねるかな」と思いました。一日の最後には、このまま目を閉じたら全てが終わっているように、もう二度と目を開けることのないように、祈りながら寝ました。毎朝、日の光が部屋に差し込むたびに「また死ねなかった」と自分を責めながらやっとの思いで起き上がりました。死ねないならせめて心が壊れてしまえばよい、何も感じなくなれば苦しみから解放されると、毎晩悲しみで涙を流す自分を、呆(あき)れつつ客観的に見ている自分が居ましたが、もうあの時点で十分すぎるほど、私の心は壊れていたように思います。
父は精神科に通い続けていたこともあり、うつ病の症状は改善していきました。その一方で、私の精神状態は擦り切れていましたが、決して両親には相談しませんでした。心配をかけてしまうから、というよりは、両親に対する嫌悪感のほうが強く、両親に相談したいとは思えませんでした。それに、万が一専門の医療機関を受診し、うつ病という診断でもついてしまえば、私は父と同じ免罪符を手に入れることになります。私は父と同じようにはなりたくありませんでした。精神病だと公表するどころか、診断を付けられることすら甘えだと感じていました。

高校卒業後、私は父の希望で、家業のデイサービスセンターを継ぐ勉強をするために、本格的に福祉の勉強を行うことができる隣県の大学に進学しました。本音を言えば、私自身は福祉の勉強をしたいと強く思っていた訳ではありません。私の中には、父がそう言ったからという義務感と、せめて人のためになることをして死にたいという一種の諦めのような気持ちしかありませんでした。
そんな私に、大きな転機となる出来事が訪れました。
大学に進学すると同時に、私ははじめて異性と付き合うことになったのです。彼は高校時代の同級生で、誰もが優しいと評する男性でした。鬱々とした日常で、癒しをくれる彼の存在は非常にありがたかったのですが、その反面、「せいぜい三か月で飽きられるだろう」と考えている私が居ました。不幸な家族を差し置いて自分が幸せになることへの恐怖感が強かったのです。本当は、「飽きられるだろう」ではなく、「飽きてほしかった」のだと思います。彼と居る時間は本当に幸せでしたが、それが私を窮屈な思いにさせました。何としてでも、彼との関係を破綻させて、「ああやはり、私は幸せになってはいけないのだな」という安心感を得たかったのです。歪(ゆが)んだ私の願望が、彼に酷(ひど)い言葉を浴びせました。仏の顔も三度までと言いますが、いくら優しいと評されている人間でも、理不尽な八つ当たりを日常的に続けられればいずれ限界が来ます。付き合い始めて一年経った頃、酷い喧嘩(けんか)をして別れ話にまで発展しました。その時、気が緩んでつい私は、
「どうせもう会わないだろうから話す」
と自分の過去を一から十まで語りました。一年付き合った恋人に、一時間もかけて初めて過去の出来事を話したのです。父がうつ病であったこと、両親の不和から家庭が崩壊しかけたこと、それを誰にも打ち明けられず辛(つら)かったこと、そして、高校時代ずっと死にたいと考えていたことを話しました。話し終えた時、彼はぽかんとした顔をしていました。私は逆にすっきりして、もうこれで彼の腹は決まっただろうと踏んでいました。私は父の姿を間近に見ていて、父のように精神的に病んだ人間は、家族ですら付き合いきれないのに、同じく精神を病んでいるとしか言いようがない私に他人の彼がそこまで温情をかけることはないと考えていました。ですから、「だからどうした」とか、「別れよう」などと言われることを期待していました。しかし、彼はしばらくの沈黙の後、
「よく頑張ったね」
と言いました。次にぽかんとするのは私の方でした。次の瞬間、自分でも気が付かないうちに目頭がかっと熱くなるのを感じ、ぼたぼたと涙を流していました。その時直感的に理解しました。私がずっと望んでいたのに誰にもかけてもらえなかった言葉が、「頑張ったね」であることに。とめどなく溢(あふ)れてくる涙に自分の感情が追い付かず、言葉を出そうとして唸(うな)っている私に対し、彼は次のように続けました。
「誰も悪くないのだから、もう自分を許してあげてほしい」
私も分かってはいました。私はただ運が悪かっただけで、誰も悪くない。憎む人は、私の人生に誰一人いませんでした。しかし、私の歪んだ自己認識がそうはさせませんでした。父、母、自分、医師など、誰かを憎んで、感情を逃避させることでしか、私に逃げ道はありませんでした。その現実を見ないよう、わざと自らの眼前に暗幕を垂らし、自分の中に閉じこもっていた私の前で、彼はその暗幕を剥ぎ取ってみせました。今度は声を上げてわんわんと泣きました。気が済むまで泣いた後、私の初めて発した言葉は
「あの、別れるの?」
という情けないものでしたが、彼は、
「はるちゃんはどうしたい?」
といつもの優しい顔で笑いました。私の中の躊躇(ためら)いはもう消えていました。
「私は、別れたくない」
それは、私が他人に対し、初めてはっきりと意思表示をした瞬間でした。

それからの私のリカバリーは非常に早いものでした。自分が心の傷を抱えていることを自覚するまでに時間がかかり、彼と何回か衝突しましたが、自分でうつ病に関する文献を読み、大学の心理相談専門員の方と何度かお会いして面接を行い、自分の心の傷と向き合う機会を持つことができました。リカバリーが始まってから一年後、大学三年生になる直前、両親と過去のことに関して話し合うこともできました。今まで家族の中でもタブーのような存在であり、特に父のうつ病のことに関しては誰も話を切りだすことはありませんでしたが、私が勇気を持ち、その話題に触れました。父のうつ病は娘の私にとっても辛いものであったこと、私がずっと死にたいと思っていたことなど、長年抱えてきた想(おも)いを一気に話しました。私一人では不安で、彼にもついてきてもらいましたが、案の定、話の途中で言葉に詰まって、涙がこぼれた時、隣に座っていた彼が私の左手を引き寄せて、彼の膝でぎゅっと握ってくれました。言葉にはしませんでしたが、握ってくれた手の力の強さと、彼の優しい眼差(まなざ)しから、彼が「頑張って」と応援してくれていることが分かりました。彼のおかげで、私は全てを話し終えることができました。両親も涙を流しながら、
「今まで辛い思いをさせて、申し訳なかった」
と、心からの言葉で謝ってくれました。

大学に入学し、福祉の勉強を本格的に始めてから悔しいと感じたことがあります。それは、自助会や家族会、保健所の相談窓口などの存在を、大学の学びの中で初めて知ったことです。もし私が苦しんでいる時に、「頑張れ」ではなく、「苦しいときは頼れる場所がある」と教えてくれる存在が居たら、私も死にたいと考えることは無かったかもしれません。当時の私にはそのような存在が居ませんでした。私が家庭の不和で苦しんでいることをこぼしても、周囲の大人からは、「そんなこと言わないで」「家族なんだから」というありきたりな答えが返ってきます。そして最後には「頑張れ」と言うのです。
私の生活は、父がうつ病を患ってしまったことで大きく変わりました。家では両親の機嫌をうかがい、神経を擦り切らしながら波風が立たないようにし、学校ではそれを悟られないよう明るく振る舞うことに徹しました。一人になると暗い海の底に沈められたように、どんよりと暗い息苦しい気持ちに支配され、何度死んだ方がましだと思ったか分かりません。
子どもは、周囲の大人が考えているより、親の精神疾患でダメージを受けています。「頑張れ」と励ましていけないのは、患者だけでなく、家族も一緒です。精神的にぼろぼろになりながら、これ以上何を頑張れば良いのか、アドバイスという名の押し付けを行う人は具体的な方法を教えてくれません。父の通っていた精神科の医師に、「うつ病とはこういう病気で、こういう症状が出た時はこう対処すれば良いんだよ」と一言教えて欲しかった。辛いとこぼした時に、「辛かったんだね、よく頑張ったね」と声をかけてくれる大人の存在が欲しかった。涙を流しても、「一番辛いのはお父さんなんだから」と叱責されない環境が欲しかった。子どもだから知る権利がない訳ではありません。子どもだからこそ、どんなに幼くとも親の精神疾患に対してきちんとした知識を得る必要があります。苦しい時には頼れる場所を作る必要があります。大学で福祉を学んだことで、己の無知に気が付くと同時に、同じくらい私の周囲が無知であったことにも気が付きました。
私は、精神疾患がこのような無知によって連鎖するものだと考えています。私の考える無知とは、疾患そのものに対する知識不足と、当事者を支える人の気持ちに対する鈍感さのことです。疾患を持つ当事者だけでなく、それを支える家族の声にも耳を傾けてください。家族が「辛い」とこぼし、涙を流すようなことがあっても、それは自然なことです。否定せずに、「頑張ったね」と受け止めてほしい。それが、うつ病当事者の子どもであった私からの願いです。

今も私は福祉の勉強を続けており、現在大学三年生です。将来は精神保健福祉士になりたいと考えています。もし私のように、家族の精神疾患で苦しんでいる人が居るのなら、その人にとって頼れる存在になりたいと思い、精神保健福祉士という進路を選びました。精神疾患で苦しむのは、本人だけでなく家族も同じです。周囲の理解と、適切な情報がなければ、途端に家族は逃げ道を失い、壊れていきます。精神疾患は、家族という閉鎖空間で抱え込むにはあまりにも重すぎるのです。私は、父がうつ病になったことで、それを実感として学ぶことができました。当時は辛いことばかりでしたが、今では、貴重な体験をすることができて良かったと考えています。
私は、昔のように死にたいと考えることも、下を向いて歩くこともなくなりました。周りを見渡せば、自分を愛してくれる人が温かい眼差しを向けています。空を見上げれば、感嘆するような夕焼けのグラデーションが視界いっぱいに広がります。それだけで、私は生きたいと願うことができるのです。

菅野 春華プロフィール

一九九六年生まれ 大学生 岩手県在住

受賞のことば

生きるか死ぬかの問答を毎日のように自分の中で続け、ようやく今日この時まで生き抜いてきました。大学に入学してから自分を支えてくれる人々と多く出会い、過去を振り返ることができる状況になったので、自分に起こったことを整理する目的で今回作文を書きました。精神疾患を持つ当事者だけでなく、家族にも寛容な社会が実現されることを夢見て、これから日々勉強を重ねていきたいと思います。このたびは、素敵な賞をありがとうございました。

選評

障害者の家族には、さまざまな社会的圧力がかかり、家族はそれを自分の至らなさだと感じてしまいます。それこそが圧力なのですが。菅野さんが、「よく頑張ったね」という、「うつ病の父の娘」ではなく「菅野春華」に向けて語られた言葉に涙する場面には言葉がありません。これから、菅野さんは「妻」「母」という立場に進んでいくでしょう。そこで何度でもお父様と向き合うことになると思います。これからの菅野さんの人生にエールを送りたくて、この作品を選びました。(玉井 邦夫)

以上