第52回NHK障害福祉賞 優秀作品
〜第1部門〜
「今日も新しい人生が始まる……高次脳機能障害からの再起」

著者 : 田端 浩一 (たばた こういち)  福岡県

人生が変わった日

私は事故に遭った記憶が残っていない。
二〇〇八年四月五日、当時二十七歳だった私は仕事からの帰り道、バイクで走行中に右折車と衝突する事故に遭っていた。救急搬送された病院で家族が医師に告げられたのは、脳の中心部分が出血しており、手術はせずに内服で様子を見るということ。そして、今夜が峠になるだろうという衝撃的な内容だった。
家族は急にそんなことを言われても実感が湧かなかったようだが、意識がなくベッドに横たわったままの私が、ICU(集中治療室)へ運ばれていく様子を見ながら現実なのだと悟ったそうだ。
なんとか峠を越えて命の危機を脱したものの、まだ意識ははっきりとせずにICUでは眠っていることの方が多かったようだ。その後、四月十二日にNCU(脳神経外科集中治療室)へ移り、覚醒している時間が少しずつ増え、食事も食べられるようになっていたが、家族が私の食べている物を指差して「これは何?」と尋ねると、意味のわからない単語で返答することもあったそうだ。四月十四日に理学・作業療法のリハビリが始まったが、私の記憶がすぐに抜け落ちていたため、当時のカルテには、中〜重度記憶障害や病識欠如と記載されていた。そして、四月十五日には一般病棟へ移った。カルテには、脳挫傷・脳室内出血・肺挫傷・両片麻痺(まひ)・高次脳機能障害・右鎖骨骨折・複視などと記載されていた。
両親は医師から、高次脳機能障害の説明を受けたようだがよくわからず、単なる物忘れだろうと軽く捉えていたそうで、お見舞いに持ってきたお菓子を食べた直後に食べたことを忘れていた私を見ても、最初は冗談かと思ったそうだ。
しかし、家族の名前を尋ねても誰だかわからない名前を答えたり、知人がお見舞いに来てくれたことなどもすぐに忘れてしまっていたのを見ているうちに、これが高次脳機能障害なのだと認識すると同時に、自分たちが死ぬまで面倒を見ると覚悟したそうだ。
事故から一か月程して転院を勧められたが、同じ先生にリハビリを担当してもらいたいという私の希望を受けて、退院してからも同じ病院にリハビリで通うことが決まった。
退院するときの私は喜んでいたはずだったのに、自宅での生活は困難の連続だった。右半身の麻痺は軽度と診断されてはいたが、日常のあらゆる動作は利き手である右手がうまく動いてくれないので極端に疲れてしまった。特に食事に関しては右手で箸を持つため、途中で何度も休憩してしまうし、入浴中の動作も途中で休憩が必要だし、階段の上り下りですらも負担に感じていた。
左耳の耳鳴りが取れず、不意に大きな声や物音がすると頭に響いて頭痛がしていたので、左耳に耳栓をして過ごしていた。排泄(はいせつ)の感覚もわからなくなり私がトイレに長時間籠ってしまい、家族は近くの公園やお店のトイレに行っていたようで、かなり迷惑をかけていた。満腹空腹がわからなくなっていたため食事やお菓子をひたすら食べ続けて体重が増え、ストレスから肌も荒れていた。家族と他愛(たあい)ない会話をするだけでも疲れてしまい、途中から自分で何を言っているのかわからなくなっていた。
退院するときに、通院は誰かと一緒に来るようにと医師から言われていたので、母が毎回付き添ってくれていたが、二十七歳にもなって通院に母の付き添いがあることを恥ずかしく感じていた。「通院は一人で行かせて欲しい」と、伝えたいだけだった。いざ言葉にしようとすると恥ずかしさがいらだちに変わり、怒りが暴走して両親にきつくあたってしまった。感情が暴走した後、気付いたら右手・右足が鉛を付けたように重くなり、何も考えることができず部屋で休んだ。
気付いたら寝ていて、目が覚めると寝る前の自分の言動をすっかり忘れていた。私が忘れていても、覚えている両親に冷たい対応をされてまたいらだち、怒りを暴走させて両親へあたることを繰り返した。
部屋で休んでいたら、両親が私のことを話している声が聞こえてきた。退院してから私の感情の起伏が激しくなり、どう扱えばいいのかもうわからないという内容だった。私も自分自身をどう扱えばいいのかわからない状態だったので、余計に頭が混乱して、もう何が何だかわからなくなっていた。
感情のコントロールができないまま、怒りの暴走を繰り返していると、時々は自分の言動が記憶に残っていることもあり、そのときは何であんなことを言ってしまったのかとひたすら後悔した。後悔したことを忘れて同じことを繰り返して、また後悔する。そんな自分のことがわからなくて困っていたとき、自分から連絡をしないと友達からは連絡がないことに気付き、余計に落ち込んだ。
「俺は今まで何をやってたんだろう?」
そう思った瞬間、自分が生きていく必要がない気がして、死のうと思った。死んだら楽になれると思った。自分が家族に負担をかけているから、いなくなって楽にさせたいとも思った。テレビで自殺のニュースが流れたとき、どんな方法があるのか観(み)ていたが、なかなかいい方法を思い付かない。ところが、あるとき自殺のニュースを観ていると、気付いたら文句を言っている自分がいた。
「死ぬのは勝手だけど、他人に迷惑かけんなよ!」
自分でもびっくりしたが、考えれば考える程、どんな方法をとっても誰かに迷惑をかけてしまうと気付いた。しかも自分の場合は、命が助かって家族が喜んでくれたのに、自殺してしまったら余計に悲しませてしまう。どうすればいいのかわからなかった。
生きていく意味がないのに死ねない。何かをしていなければ不安に押し潰されそうで、筋トレやマンガ本を読んだり、ゲームなどをして疲れて寝る生活を送っていた。両親に心配をかけたくなかったので、通院だけはきちんとしていた。自宅では、自主的なリハビリとして筋トレをしていたので、自分では回復しているつもりだった。しかし通院の日、病院の近くを歩いていると、周囲を歩いている人にどんどん追い抜かれてしまい、私から見ても歩くのが遅いお年寄りにまでも追い抜かれて驚いた。それからは、歩くトレーニングを自宅近くの道で誰にも見られないよう、夜に人通りのない道を選んでやっていた。身体を動かすと疲れて寝る時間が増え、余計なことを考えなくてすんだので、好都合だった。
自宅にいるときは筋トレや散歩以外でも時間を潰す必要があり、ゲームやマンガ本に時間を使っていた。マンガ本は同じ本を一巻から当時の最新巻まで読み終えると、最初の内容を忘れていたので、また一巻から読み始めることを繰り返していた。あるとき、マンガ本を読んでいて不意に先の展開が予想できた。ワクワクしながら読み進めると、予想していた内容とほとんど同じでびっくりした。
「こんな俺でも覚えることができるんだ!」
何でもすぐに忘れてしまっていたので、記憶できたこと嬉(うれ)しくてたまらなかった。
事故当時は美容師として働いていたが、右半身に残った麻痺と高次脳機能障害の影響で、手足を動かしながら会話をするといったように、複数のことを同時にできなくなっていたため、仕事を続けることはできなくなっていた。このままずっと両親の世話になるわけにもいかないと思い、これからの自分のことを考えた。右半身には軽度とはいえ麻痺が残っているので、身体を使う仕事はできそうに思えなかった。時間はかかったけれど覚えていくことはできたので、頭を使う仕事の方ができそうだと思えた。そこで何か資格を取ろうと思い、資格の本で探した。最終学歴が高卒だったので、選択肢は少なかったが、目に付いたのは「行政書士」という資格だった。まずは両親を安心させるために、行政書士の資格取得を目指していくと伝えた。私は両親が、喜んでくれても合格なんてできるわけないと思っているのを感じていた。
勉強を始めてすぐ、大きな壁が待ち受けていた。前日に勉強したページに戻ると、太字に蛍光ペンで線は引いているけれど、勉強した内容が全く記憶に残っていない。そのまま最初のページまで戻っても、勉強した形跡はあっても記憶には一切残っていない。
「はぁ!?覚えれるんじゃなかったっけ?」
「何も覚えてなかったら、勉強する意味ないやん!」
マンガ本はかなりの時間と回数を重ねて内容を覚えることができたということを、いつの間にか忘れてしまい、普通に覚えることができるんだと思い込んでいた。
それからは現実逃避をして、マンガ本などで時間を潰す生活を続けていた。そんな生活を送っていたときの病院での断片的な記憶がある。病院にいたとき、お母さんが押す車椅子に乗った子供が私の目の前を通り過ぎようとしていた。その子供には重度の障害があるとすぐわかり、母親からは必死な様子が伝わってきた。他人事(ひとごと)なので軽く大変なんだなと思い、子供に目を向けると目が合った。その瞬間、私の中に大きな衝撃が走った。子供の目はとてもとても力強く必死に生きているのを感じ、現在の私を怒られたような気がした。自分の障害なんてあの子に比べたらちっぽけなんだと感じ、現実逃避することを止めて、勉強の再開を決意した。
勉強した内容を覚えていくには、マンガ本のように繰り返しやることしか思い付かなかったので、繰り返し参考書を読んでいくと決めた。けれども参考書には、初めて目にする法律用語がたくさんあり、理解しながら読むことができず、本を開いて眺めるだけで勉強した気になっており、記憶に残らないのは当然だった。
何とか自分を変えようと考え方について書かれている本を読み始めたが、変わりたいという気持ちが強く、本を何日もかけて読み終える頃には、変わることができたと思い込み、両親にも同じやり方で変わることを強制するようになっていた。
しかし、両親は私の言葉を聞き流して、やろうともしてくれない。両親に対する怒りが湧いてくると同時に、通院で外出したときの自分を見る周囲の憐(あわ)れんだ視線や言葉が思い出された。
「そんな目で見るんじゃねぇよ!」
「そんな風に言うなよ!」
両親や周囲の人に対して、何で自分の思っていることがわからないのかと思い、もっと考え方を変えて欲しいと願った。しかし周りの人全員の考えを変えることはできないと絶望しかけたとき、ふと思い付いたのは、自分一人の考え方を変える方が簡単だということだった。相手に変化を求めてイライラするのではなく、自分一人が考え方を変えて成長すればいいだけなんだと気付けた。

気付き始める

自分の考えを変えるためにも、まずは、自分自身をしっかり知る必要があると感じたが、何をどうしたらいいのかわからず途方に暮れていたとき、目の前に全く別の世界が現れた。その世界は自分の頭の中の世界だった。薄暗くて何も見えないけど、少し離れた所に大きなうねりを感じて近付いてみた。
うねりの正体は、ハリケーンのように何かが集まって大きな渦を造っていた。ハリケーンの中に手を入れて、手に当たるものを取り出してみたら、頭の中で断片的な映像が流れた。最初は何が起こったのかわからなかったけど、何度かやるうちに、流れた映像は自分の過去の記憶だとわかった。気付けたことが嬉しくて、病院でリハビリの先生に伝えたが、数日後に違う先生から、上手い例えだったと褒めてもらえたときには忘れてしまっていた。
忘れてもまた同じ体験を繰り返すことで徐々に記憶に残っていき、気が付いたら頭の中にハリケーンがあることが当然になっていた。
通院リハビリで三つの単語を覚えて、数分後に思い出すということをやっていた。たった三つで数分前のことなのに、思い出そうとしても思い出せなかった。どうにかしたいと考えていたら、記憶に残っているマンガ本の内容に関連させると覚えやすいことに気付き、嬉しかった。だが、勉強では同じようにはいかず、落ち込んで自分自身を責めていた。
「勉強したのを覚えられないのなら、過去の記憶なんていらない!」
本当にそう強く思った。過去の記憶をなくしてでも、勉強した内容を覚えていきたかった。するといつの間にか寝ていて、目が覚めてから過去のことを思い出そうとすると、断片的にしか思い出せない。記憶が減った?と感じた瞬間、願いが叶(かな)ったと思った。実際は過去の記憶がなくなったのではなく、精神的な負担から記憶のハリケーンが大きくなったのと、過去の自分に対する興味がなくなったことが影響したのだと思う。
それからは、身体の動きや記憶に関しても、どう成長させていくかと前向きに考えていけるようになり、自分自身の状態にいろいろと気付き始めた。
ある時、気が付いたら目の前に誰かいて、自分を見ている。なぜここにいるのか?なぜ目の前に相手がいるのか?わからないで混乱していると、相手が喋(しゃべ)り始めた。こんなことを何度も体験しているうちに、気付いたらこの現象に名前を付けていた。「記憶がショートする」と。ショートは、会話をしているときに起こると気付いたが、なぜ記憶がショートしてしまうのか原因はわからない。会話をしているとき、自分が発言するタイミングで頭の中の世界を探ってみた。すると、相手の発言に対して、理解できた範囲でどう答えるのか迷っている小さい自分がいて、言葉が詰まったいろんな袋があり、どの袋を組み合わせて発言しようかと考えていた。
記憶がショートしてしまうことに気付き、会話が脳にどれだけ負荷をかけているのか知ることができた。また誰かと会話をしているとき、頭の中の世界で小さい自分が発言する言葉の組み合わせを選んでいたら、二人の声が聞こえてきた。ひとりは小さい子供のような感じで思ったことをズバズバと言い、もうひとりは老人のように落ち着いていて全てを受け入れてくれるようなおおらかな性格の持ち主だった。それからは、私が発言するときは、いつも頭の中の三人で話し合いをしていたので、これまた名前を付けて「三者会議」と呼んでいた。二人の意見があまりにも両極端過ぎて、私が間に入って仲裁をすることもあった。いつの間にか、二人にも名前を付けており、子供が浩二(こうじ)くんで、老人を浩三(こうぞう)さんと呼んでいた。

吹っ切れてからの成長

行政書士試験に合格したいと思っていても、すぐ忘れてしまうからと勉強から逃げてしまいそうになっていたとき、脳について知りたいと思うようになり、脳に関してわかりやすく書かれている本を読んでみた。その本の中で紹介されていた記憶力の相乗作用を表した図には、希望を感じることができた。勉強し始めは成長しているのかわからない時期が続いても、諦めないで続けると飛躍的に成長できるようになるという説明だった。
「俺の出発地点はこの図の出発地点よりももっと下の方だけど、続けたらいつかきっと成長を実感できるときが来るよね!」
そんな希望を持ちながら勉強しても、勉強を進めるペースは遅く、やっぱりすぐに忘れてしまう。落ち込みながらも、何か対策はないかと別の本を読んでいたら、記憶力を競う大会で優勝した人物が紹介されていた。興味を持ってその人物を調べると、記憶力がたけており何でも鮮明に記憶してしまう代わりに、忘れることができずに苦しんだという説明があった。
「記憶し過ぎて苦しむのなら、忘れることはいいことなんじゃないか?」
そう思えた瞬間、忘れることの捉え方が真逆に変わった。それからは、すぐに忘れてしまうことを自分の長所だと思えるようになり、忘れたらまた覚えていけばいいと気楽に思えるようになれた。
何回も覚える機会を作るためには、本を読むスピードを上げる必要があると思い、速読トレーニングと、音声を二倍速や三倍速などで聴き取る速聴トレーニングをし始めた。速聴トレーニングでは、録音されていた文章が短かったので、何回も繰り返していくうちに文章そのものを覚えていた。どうせ覚えるのなら、自分で法律条文の音読をレコーダーで録音し、速さを調節して聴いていこうと考えた。けれど、録音した自分の声は滑舌が悪く、そのままの速さでも聴き取ることができなくてビックリした。事故後の私は、話す速さが遅くなり滑舌も悪くなっていたことに、この時初めて気付いたのだ。はっきりと発言するために、滑舌を良くするトレーニングも始めた。速読、速聴、滑舌トレーニングを続けていくと、自分の話す速さが以前よりも速くなっていると家族から言ってもらえて嬉しかった。
やり続けたトレーニングの成果だと実感し、勉強にも励んだ。いくら勉強しても忘れてしまい、何度も落ち込んだが、試験に合格した自分を常にイメージしながら努力を続けることで、少しずつ成長することができた。
二〇一五年、七回目の行政書士試験で残り五分となったとき、わからなかった記述式のキーワードを思い出せた。思い出すと同時に、試験に対する緊張を抑えるために自分の記憶も一緒に抑え込んでいたのだと気付き、手の震えが止まらなかった。震える手で記述式のキーワードを書き、今年も不合格だと確信した。
二〇一六年一月の合格発表日、結果を確認する前にトイレに行き、心を落ち着かせていた。トイレから出てきた瞬間、妻からいきなり合格していたと喜びながら伝えられても、最初は信じられなかった。自分で何度も受験番号を確認して、「ほっ」と一息付けたような感じだった。

振り返って

事故からの成長を振り返ってみると、ただひたすらに自分自身を変えようと試行錯誤を繰り返してきたんだなと思う。そして、自分に希望を持たせるために、やり始めたことができるようになった自分自身の姿をよりリアルにイメージしていた。
事故に遭って、自分自身と向き合うようになってからは気付きの連続だった。
身体については、歩き方がおかしいことに気付き、靴底を見たのが始まりだった。右足のつま先部分と左足の踵(かかと)部分の靴底が変なこすれ方をしていたので、ビックリした。自然な歩き方をイメージしながら、少しでも近づけるように今でも日々改良を重ねている。右手に関しては、何か考えたりするだけで疲れて重くなることに気付けたのが始まりだった。右手の負担を減らすために左手を使う練習を始めて、今では利き手が左手になった。
脳については、最初は自分が忘れてしまうことすら気付いていなかった。何でもすぐに忘れてしまうことに気付き、気付いたと思ったらまた忘れて……。何度も同じような体験をしながら、少しずつ記憶に残るようになってきた。覚え方に関しては、読んだ文字をそのまま覚えようとしていたが、勉強を続けていくと、そのやり方では限界があると気付いた。試行錯誤した結果、書いてある内容をしっかりと理解することで、記憶に定着してくれるのだと気付けた。
感情については、怒りが暴走してしまうことに気付き、苦しんだことが始まりだった。もがきながら気付けたのは、相手の発言の一部を拡大して受け取ってしまい、自分が怒っていることだった。相手の発言を自分の中にどう受け入れていくのかは、自分次第だと気付けたことで、精神的に楽になれた。頭の中での三者会議は、合格した頃から開かれなくなった。私がひとりででも色んな考え方をできるようになれたからかもしれないが、頭の中で二人の声がしなくなったのは少し寂しい。
考え方については、自分の将来を悲観して絶望することから始まった。しかし、頭の中は誰にも強制されることはなく自由なんだと気付けたことで、これでもかと言うくらい前向きに物事を考えることができるようになれた。
いつ死ぬのかはわからないのなら、一日を一生と捉えて、一日を真剣に一生懸命生きる。そう思えたのは、事故に遭ってからなので、今となっては自分を大きく成長させるきっかけになった事故にも感謝している。
全ては自分の捉え方次第。「一日一生」、今日も新しい人生が始まる。

田端 浩一プロフィール

一九八一年生まれ 行政書士 福岡県在住

受賞のことば

高次脳機能障害を負い、色んなことで悩み苦しんだおかげで今があるんだと実感しています。
自分の体験を、障害などで苦しんでおられる方に少しでも伝えることができ、何か行動を起こすきっかけになってもらえればという気持ちで書きました。
このような素晴らしい賞をいただきありがとうございます。
福岡県久留米市に「たばた行政書士事務所」を開設しました。
これまでの自分の経験を活かして、困っている方の力になれるよう更に努力をしていきたいと思います。

選評

交通事故で高次脳機能障害に陥った人の脳機能再生への道程は様々で、その一例一例の現実がとても貴重です。本を読んでも勉強をしても、すぐに忘れる苦しみ。世の中に記憶したことを忘れることができずに苦しんでいる人がいるのを知り、忘れることは自分の長所と思うように考え方を逆転させて心を解放し、行政書士資格取得の学びに挑戦。その壁の一つ一つを乗り越えていく歩みは、同じ障害に苦しむ人々に光をもたらすでしょう。(柳田 邦男)

以上