第51回NHK障害福祉賞 佳作
〜第1部門〜
「脳梗塞、失語症の社会復帰」

著者 : 郡司 真弓 (ぐんじ まゆみ)  茨城県

「サンドイッチに淹れたてのコーヒーはいかがでございますか?」
病気前の私は、列車の車内販売員をしており、お客様との会話から、その人の求めるものを推察するのが好きでした。暗算も得意だったし、臨機応変に対応できたことで充実感も得られました。何よりお喋りすることが大好きでした。そんな私が、障害により言葉を話せなくなりました。
二〇一三年九月の猛暑日、私が三十歳の時でした。下り列車の乗務を終え、次に乗る上り列車の準備中に起こりました。ジュースを冷蔵庫から取り出そうとした瞬間、突然右手の感覚がなくなってしまい、力が入らなくなってしまったのです。今までに体験したことのない感覚に不安を抱き、咄嗟に冷えたジュースを右腕に押し当てました。「冷たさは感じる。でも、力は入らない」異常事態と判断した私は、車掌に連絡をしました。そこで初めて、呂律が回らないことに気付きました。
すぐに救急搬送してもらいました。病院のMRI検査で、脳梗塞と分かりました。その時の私は、眠くて眠くて仕方がなかったし、「今は呂律が回らないけど、朝になったら、また話せるだろう」と楽天的に思っていました。一夜明けて、喋ろうとすると、全く言葉が出てきません。看護師さんに聞かれたことは、理解できるけど、喋れませんでした。看護師さんに
「字に書ける?」
と言われて、右手は脱力していて、仕方なく左手で書こうとしました。鉛筆を手にしたら、言葉が浮かばないことに気付きました。それは、経験したことがない不思議な感覚でした。言いたいことのイメージはあるのに、その単語が浮かんでこないのです。まるで、ある日、突然、巨大津波が私の頭の中を襲ったかのように、言葉が跡形もなく消えてなくなってしまったみたいでした。質問には頷くか首を横に振るかで答えました。
しかし、両親が面会に来て、心では「昨日はびっくりしたよ。心配かけてごめんね」と言いたかったけれど、喋ろうとした途端、出たのは「あ……、あ……、あ……」と言葉になりませんでした。そこで初めて事態の深刻さに気付いて、急に悲しくなりました。十人部屋くらいはあったでしょうか。ICUいっぱいに響き渡る声で、「わぁー」と泣きました。母もおいおいと泣いていました。でも、父は泣きませんでした。「父は強いな」と思ったことが、印象に残っています。
両親が医師から、今回の脳梗塞は、心臓で作られた血栓が血管を通って脳に運ばれたもの。後遺症としては、右半身麻痺と言葉に重い障害が残るかもしれないという説明を受けたそうです。両親も私も、昨日まで元気だったのに、その瞬間で全てが変わってしまったことに強い衝撃を受けました。今、思うと、それが「障害」というものなんだと思います。
この時の私は、言葉と右手が全く使えませんでした。言葉が使えないというのは、発音の仕方も単語も忘れている状態でした。物のイメージは頭の中に浮かんでいるのに、それを表す単語が見つかりませんでした。
例えば、化粧水が言いたくて、その物の画像は頭の中にあるのに、「化粧水」という単語が見つからない。「えっと……、顔を洗って、そのあとに乾燥しないように、それをつける、確か『水』という文字が付いたような……」私の場合、発音もできなかったので、それを人に聞くこともできずに、ひたすら頭の中で自問自答を繰り返していました。不安に思うことがあっても、それを人に伝えることもできず、孤独な毎日でした。
言葉のリハビリは、すぐに始まりました。ひらがなもカタカナも数字も忘れていたので、自宅の住所や電話番号を聞かれても答えられませんでした。簡単な質問にも答えられない自分が嫌になり、悲しくなって、その頃はリハビリの度に泣きました。そんな私を言語聴覚士の先生は、単語を愛嬌のあるイラストで描いてくれたり、時には散歩に出かけ、話そうとする機会を作ってくれました。でも、全く喋れない自分にショックを受けて、話そうとする気力がありませんでした。「話しても、どうせ伝わらないし、喋れない」と諦めていました。そんな状態がしばらく続き、転院した頃に、一人の看護師さんが言いました。
「私は、言葉のリハビリの勉強はしてないけどね、経験でね、話そうとする患者さんの方が回復が早いと思うの。だから、なんでもいいから話そう!」
その言葉を聞いて、なんとなく諦めてはいけない、話す努力をしようと思い、まず「おはよう」の挨拶をすることを目標にしました。発音もすっかり忘れていたので、「口を大きく開けて『あ』」というように、一つひとつの発音を覚えていきました。「おはよう」のたった四文字の言葉を言うのに、時間もかかるし、何度も間違えました。私が、
「お……、あ……お……は、よ……お……う」
と言うと、みんなは私が言い終わるのをじっと待ってくれ、
「おはよう」
と笑顔で返してくれました。看護師さんだけではなく、同じ病室の患者さん達も私に挨拶をする機会をくれました。「おはよう」の次は「ありがとう」少しずつ目標は変わっていきました。気の遠くなるような言葉のリハビリですが、コツコツ続けることが好きなので、回復する過程を楽しみながら、忍耐強くできました。十一月から始めた一行日記も、年末頃には三行も書けるようになりました。ちょうどその頃に、右手で食事ができるようになって、リハビリでどんどん良くなっていくのが分かりました。将来の不安もありましたが、今は日々、成長していく自分だけを見つめていこう、そしていつか、「必ず、社会復帰する」という強い想いで必死に過ごしていました。不安を埋めるように、毎日、病室で書いた言葉の練習用ノートも、退院する頃には、六冊目になりました。
七か月の入院生活を経て退院しました。その時には、右手は日常の動作に支障がないくらいに回復しました。ですが、失語症はまだまだ残っていました。特に、私は言葉を話すことに時間がかかります。入院中は病院のスタッフとしか接していなかったので、失語症がある私でも、会話が成り立ちました。退院後は、「失語症」を知らない人達と接しなければなりません。「手足に麻痺のない私はどう映るのだろう?」、「どういう反応を示すのだろう?」好奇心もありましたが不安でした。「障害」というものを「不幸だ」と思っていた自分がいて、不自然なほど、ゆっくり大きな声で話しをされ、複雑な気分になりました。「そんなに大きな声じゃなくても、理解できるのに……」と悔しくなりました。悔しい思いを経験する一方で、発見もありました。
それは、コミュニケーションを取る上で、言葉はほんの一部に過ぎないということを学びました。考え方次第で、プラスにもマイナスにもなるということも思いました。私は「普通の人と同じように話せないから、自分はダメ」と、言葉にこだわっていました。
でも、日常生活を行うなかで、いろいろな人と様々な場面で関わり合いを持つことで、発音がスムーズではなくても、イントネーションに問題があっても、単語がすぐに出てこなくても、受け取り手が聴こうとすれば、意思は伝わることが分かりました。それは、健常者も変わらないことです。そう思ってからは、私がこだわっていたことは、ちっぽけだったように思えました。
自分が「障害」を重く捉えて、消極的になっていたんだと気付きました。私は「この先も、この障害で生きていく、だったら、失ったものを探すより、出来ることを発見した方が楽しい」と思ったのです。
それからは、注意深く自己観察をしました。自分が出来ること、出来ないこと、工夫次第で出来ること。県立のリハビリテーションセンターに通うなかで、それを見つけていったと思います。
そして、ついに失語症での就職活動を始めました。失語症はコミュニケーション障害と言われ、一般の就職が厳しいと言われています。でも、私はそれに挑戦してみたかったのです。苦戦することを覚悟して、ハローワーク主催の障害者就職面接会に臨みました。その会場は六十社近くの企業が参加しますが、私の障害に合う求人は、たった一社でした。私の失語症は、言葉が出るまでに時間がかかるため、事務は不向きだと思いました。こんなに求人はあるのに、応募できそうなものは、たった一社……。現実の厳しさに愕然としました。その一社に望みをかけて、面接スタート。面接官は私の障害者手帳と履歴書を見ると、
「電話対応は出来ますか?」
と、質問しました。面接は三分ほどで終了し、これまで面接の練習を積み重ねてきた私には、呆気なく終わりました。その質問は、私には断る理由にしか思えませんでした。福祉を受けている時間が長かったのでしょうか。病院のスタッフや福祉施設の職員さんは、私に出来そうなことを見つけようとしてくれます。
しかし、面接官は限られた時間のなかで判断しなければならず、その人が出来ることを探す時間はないのです。就職の現実を知り、一般の企業で健常者と共に働く自信がなくなりました。「どうして一般企業で働きたいのか」「作業所で障害者に理解のあるスタッフがいる環境で働く方が良いのではないか」、面接会は「働く」ということについて、もう一度考える機会になりました。考えた結果、生活のために働くことが前提にあって、失語症でも働いて税金を納めて、それで一人前として認められたい、健常者と共に働きたいのは、自分のコミュニケーションの力がどこまで通じるか試したい、失語症を知ってもらいたい……、自分の気持ちを整理して、やっぱり企業で働きたいという結論になりました。
それから縁あって、現在は四時間の契約社員として、郵便物を配達順に並べ替えをする業務をしています。業務中は会話をすることはなく、一つのことに集中できるので、私の障害に負担がありません。採用の連絡をもらった頃、障害は私の個性になっていて、涙もろい事や、カタコトでゆっくりな日本語も、普段の生活では、問題を感じません。しかし、働く上では、高次脳機能障害でのコミュニケーションの問題や咄嗟の判断ができないこと、瞬時にメモを取れないなどの不安がありました。採用になったものの、果たして自分にできるだろうか――。二日間の企業研修に参加すると、季節も春だったからか、多くの新規雇用の社員がいて、不安よりも新たなことに挑戦できる喜びの方が大きかったです。研修では、理解度テストがありました。テキストにメモを取り、テストでは時間内に解けて、合格点も取れました。大きな自信になりました。
仕事をしてから、もうすぐ半年です。私の担当する道順組立は、配達員達と班で仕事をします。班の人は、長くこの仕事に携わっているので、私が言いたい質問を汲み取ってくれ、指示は一つひとつくれるので、あまり混乱しません。でも、朝の忙しい時間帯には混乱することもあります。主に、午後の配達までに仕事を終わらせなければなりません。そして、朝にやる午前中の方が、特に大変です。午前の配達が差し迫っているので、多くの情報が飛び交い、配達の人も時間に追われて、忙しく動きます。そのため、私のゆっくりな日本語に耳を傾けている余裕はありません。こんな場面では、「もっと普通に話せれば……」、「もっと数字に反応できれば……」という思いに駆られます。そんな時に、班の人が言ってくれます。
「最初は誰も同じで、できないのが当たり前。慣れだから、ゆっくり覚えていってね」
と。その言葉に救われます。私の話に耳を傾け、時には注意してくれます。まるで、病気になる前の私に戻ったような感覚がして、居心地の良さを感じます。仕事を始めたばかりなので、ゆっくり、私流のコミュニケーションと人間関係を築いていきたいです。
ふとした時に、就職が決まって父とリハビリテーションセンターに挨拶に行った時のことを思い出します。父が担当の職員さんに、
「おかげ様で、就職できました」
と言って泣きました。この時、初めて父の涙を見ました。驚きました。父は家では口数の少ない人で、不安を口にしません。手足に麻痺のない、コミュニケーション障害では障害年金は下りず、収入はなくても、生活をしなければならない娘の将来をどんなに心配していたのだろうと思うと、心が傷みました。
この時の父の涙と、両親への感謝の心を忘れずに生きていきたいです。今は短時間の労働だけど、五年後、十年後にはフルタイムで働けることを目標にして、両親を安心させてあげたいです。
三年前は「おはよう」も「ありがとう」も言えませんでした。言える幸せを噛みしめて、明日も職場の人に向かい笑顔で、朝の挨拶から一日をスタートさせたいです。

郡司 真弓プロフィール

一九八三年生まれ パート社員 茨城県水戸市在住

受賞のことば

第五十回障害福祉賞を知り、障害を受け入れ、立ち向かう人達の姿を知りました。私も失語症に挑もうと作文を書きました。私は会話ではすぐに文章を組み立てられませんが、手紙にして思いを伝えることができます。残された能力をフル活用して、私に関わって下さった方々への感謝を込めた作文です。そして、私の拙い文章だけれど、失語症というコミュニケーション障害を知ってもらえたら嬉しいです。
素敵な賞をいただき、心から感謝しています。

選評(北岡 賢剛)

脳梗塞発症時の様子や後遺症として言葉を失っていく様と再び獲得していくプロセス、そして、新たな目標を見つけて歩んでいく姿が、分かりやすく描写されている。出来ることを発見しながら社会復帰を目指す姿と「失ったものを探すより、できることを発見した方が楽しい」という言葉には、こうしたプロセスを経たからこその生なリアリティが伴う。何故、人は働きたいという願いを持つのか、この文章は、私たちに素直に教えてくれる。「幸せ」って、こういうことだと思う。

以上